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穢れを整える兵

翌朝。


昨夜まで降っていた雨は止み、粟野御用畑には湿った土の匂いが立ち込めていた。

畑の脇へ設けられた広場には、病疫守へ志願した者達が既に集められている。


老兵、元流民、未亡人、下人上がりに乞食、病人にはぐれ者。


かつてそう呼ばれていたもの達皆、どこか緊張した面持ちだった。


その前へ、丹羽長秀と桃慧が並んで立つ。

一綱、宗次、あやめ、治長、宗庵らも後ろへ控えていた。


昨夜、長秀と桃慧は灯明が消えるまで記録板を並べ、立候補者一人一人を見直した。


誰が適任か。

病を軽く見ぬか。

命令を守れるか。

水を扱えるか。

衛生というまだ確立していない知識を桃慧の教えとして理解しているか。


そして何より、“人を守る”という考えを持てるか。

長秀は静かに一歩前へ出る。

「昨夜、桃慧殿と共に人選を行った」


広場が静まる。

「病疫守は雑役ではない、兵を病から守る重要な役だ。故に、ただ力ある者ではなく桃慧殿の理を理解する者を選ぶ」


その言葉に皆が背筋を伸ばした。

長秀は記録板を開く。


「まず一人目」


静かな声が広場へ響く。


田原茂吉(たはらもきち)


ざわめきの中、一人の老人がゆっくり前へ出た。


白髪混じりの髷。

日に焼けた顔。

節くれだった手。

年老いてはいるが、その目には鋭さが残っている。


 

長秀は続けた。


「近江宇佐山城の築城や数々の築城へ関わった大工だ。現在は御用畑の普請、開墾を取り仕切ってもらっているが是非、その知識をまた貸してほしい。」


周囲がどよめく。

築城経験者、それは戦国では極めて価値の高い技術者だった。


茂次は静かに頭を下げる。

「老骨ではありますが、穴掘りと水の扱いならまだ若い衆には負けませぬ。なにより桃慧様には折れた腕を治してもらった、恩には報いたく思います。」


長秀が頷く。


「その知識を買った、病疫守頭として部下たちの面倒を見てもらう。頼めるか?」


茂次の背筋が僅かに伸びた。

「ありがたいお言葉、老体に鞭を打って務めさせていただきます。」


次の名が呼ばれる。

川本松吉(かわもとしょうきち)


広場後方から、「おっ」と声が上がる。

前へ出てきたのは、日に焼けた初老の男だった。


顔にはかつて疥癬で掻き壊した痕が薄く残っている。

だが今の松吉は、明るく快活な顔をしていた。


宗庵が小さく苦笑する。

「おぉやはり選ばれたか、松吉。」

松吉は頭を掻いた。


「いやぁ、桃慧様に拾われなきゃ今頃とっくに道草の肥やしでした、恩に報いれるならなんでもやりますぜ!」


この男は医務衆発足以前、まだ桃慧が岐阜へ来たばかりの頃に疥癬で村を追われ、道端で乞食、死にかけの生きた屍同然になっていた。


桃慧が自ら治療し、今では御用畑でモリモリと働く男である。

長秀は静かに言う。


「お前は御用畑での働きも真面目だ、病の恐ろしさを知る者として病疫守へ加わってもらう」

松吉は深く頭を下げた。


「桃慧様に救われた命、文字通り命懸けで働きます。」

群衆の中歓声が立つ。頼んだぞ、皆が松吉の肩を叩く。



「次、藤木園(ふじき その)


「はい!」


威勢の良い声と共に、一人の女が前へ出る。

腕まくり姿のまま立つその姿には、働き慣れた強さがあった。


長秀が読み上げる。


「夫は観音寺城攻めで討死。その後困窮するも御用畑へ入り、洗濯場をまとめているそうだな。その真面目な働きと統率力をかった。よろしく頼む」


園は豊満な胸を張って応える。

「洗い物なら任せてください。臭ぇ着物に臭ぇ陣なんざ真っ平ですからね、見事にお役わりを努めますよ!」


周囲から笑いが起こる。

だが桃慧は真面目に頷いた。


「洗濯は重要です。衣服管理を病疫守の重要な仕事です。もっとも軽視される点の一つですのでどうか、ひとつお力をお貸しください。」


「ありがたいお言葉!あたしにできる事なら!」

園の顔が誇らしげになる。


「次、石倉廉一(いしくら やすいち)


大柄な男が静かに前へ出る。

顔には深い痘痕が残っていた。


長秀はその名を見ながら言う。


「元は街道整備と治水工事の人足頭、疱瘡を患い仕事を失う、しかしその土木技術は陣の管理に役に立つ。知恵を貸してくれ。」


廉一は静かに頭を下げた。

「桃慧様のおかげでこの痘痕面でも分け隔てなく働ける。まだ俺の力が役に立つなら使ってくれ。」


長秀は頷く。

「私は以前お前の働きぶりを見た事がある。雇い衆の中でも目を引く働きがあった。それにお前は人をまとめる力がある。病疫守として陣を整備する下働き達を束ねろ」

廉一は驚いた顔をした後、深く頭を下げる。


「…丹羽様に言われたら断れねぇ…承知しました。」

最後、長秀は少し苦笑した。

「疱瘡を患って追い出されていたなんて知らなかった、すまない。もう一度力を貸してくれ。」


「ははっ!」


「次は、菅原勘七(すがわらかんしち)


「はいっ!」


勢いよく飛び出してきたのは、小柄な少年だった。

まだ十三、だが目だけは妙に真っ直ぐである。


一綱が呆れ顔になる。

「お前本当に選ばれたのか……」


勘七は胸を張る。

「当然です!俺、今ではちゃんと働いてます!」


宗次がぼそりと言う。

「最初はただの盗人のガキだったのにな。よく医務所へ忍び込んで患者に食わす飯を盗んでいたガキが選ばれるとは」


「うるせぇやい!今は桃慧様のおかげで飯が食えてるから良いんだよ!」

広場に笑いが起こった。

勘七は元々、戦災孤児だった。


盗みを繰り返し生きていた所を、医務衆発足時に医務所に忍び込み、患者用の飯を食っていた所を巡回中の桃慧に捕まった。


盗人とはいえ、桃慧に捕まってしまえば労働力だ。ましてや行き場のない孤児など言い方は悪いが、労働力として使い道は沢山ある。今では御用畑で働き、最近では茂次の後ろを付いて回り土木仕事を覚えている。


長秀は静かに言った。


「まだ若い、だがお前はよく働く。そして覚えが早い」


勘七の顔がぱっと明るくなる。


「はい!桃慧様の役に立ちます!」


その声に、周囲から小さな笑いが漏れる。

だが、長秀は改めて選ばれた者達を見回した。


老いた大工、元乞食、未亡人、痘痕者、孤児。


普通の軍ならば、まず表へ出て来ぬ顔ぶれだった。

だが桃慧は、そうした者達へ役目を与える。


病を防ぎ、軍を支える役目を。


長秀は静かに息を吐いた。

「……まったく、医務衆らしい顔触れだ」


宗庵が小さく笑う。

「だが、案外こういう者達が軍を支えるものですぞ」


湿った風が御用畑を吹き抜ける。

選抜が終わったその日の正午。


稗野御用畑の一角では、早くも病疫守達への教育が始められていた。


湿った夕風が吹く中、広場へ並べられた木桶、水甕、灰壺、鍬、縄、そして簡素な図面。

その前へ、選ばれた者達が並んでいる。


そして補助として選ばれた下働き達十名。


この者たちも当然であるが元流民や戦傷兵が多く、皆桃慧に拾われ命を繋いだもの達が大半を占める。

 

皆、どこか緊張した顔をしていた。

その者たちの前へ立つのは桃慧である。

後ろには丹羽長秀を始め、軍奉行衆や宗庵、一綱、治長、宗次らも控えていた。


長秀が静かに周囲を見回す。

既に北近江では、羽柴秀吉、柴田勝家、前田利家、佐久間信盛らの軍勢が半月以上戦を続けている。


すでに病が出始めるには十分な時間だった。


故に急がねばならない。

医務衆へも既に、「いつでも出陣出来るよう備えよ」との信長より命が下っている。


桃慧は病疫守達を見回し、静かに口を開いた。

「これより皆さんへ、病疫守としての役目を教えます」


広場が静まる。


「まず覚えてください。病は目に見えてからでは遅いのです」


桃慧は足元の図面を指差した。

「これは槇島の戦での陣内情を現した図です。ここが水場、ここが炊事場、そしてここが厠」


勘七が真剣な顔で覗き込む。

桃慧は続けた。


「病疫守は、この位置関係を見ます。厠が近過ぎれば移設を進言します。備蓄している水が濁れば使用を止めます。厠より臭いが強くなる前に用を足したら灰を撒かせることを徹底させます。」


藤木園が腕を組みながら頷く。


「洗濯場は下流側だね」


「はい」


桃慧は頷く。


「飲み水より上流で洗ってはいけません。まして汚れた衣服は絶対に」


宗庵が静かに補足した。

「病は水を通じて広がる。覚えておけ」


続いて桃慧は木桶を持ち上げた。


「衣服は湿ったまま放置してはいけません。洗い、干し、乾かします。乾かぬなら火へ近付ける。臭い始めた頃には、既に病の素が広がり始めています。もし水が少なく洗えなくても、この清創水と薬草を混ぜた液体で湿らせた布を使い衣服を拭き、しっかりと日光で乾燥させる、それが疫病を防ぐ一歩となります。」


松吉が真面目な顔で頷く。

「総じて臭ぇ陣は危ねぇって事ですな」


「はい、臭気を感じたら病の素があると思ってください。」

桃慧は静かに答える。


松吉は頷きながらも質問する。

「陣で疥癬(かいせん)や熱病など流行病(はやりやまい)が起きる前にはどうすれば?」


「日々の兵たちの体調管理も皆さんの役目です。血が滲むほど体を搔きむしるものが居たら増える前に医務衆へ報告してください。薬湯を準備します。」


「なるほど、ぐったりしている者や様子が変な奴が居ても医務衆へ報告すればその対処をしてくれるってことか。」


「はい、その通りです。病疫守は臭いや人の動きをよく観察して見なければいけません」


長秀はその様子を黙って見ていた。

不思議な光景だった。

役立たずと言われて追われたもの達に対して現代で言う戦場衛生という概念を教えている。


しかもそれをともに参加している軍奉行(いくさぶぎょう)達も真剣に聞いているのである。


これまでの常識とはかけ離れている。

だが、長秀にはもう理解出来ていた。


これが必要なのだ。


病で兵が倒れれば、どれ程勇ましい軍でも崩れる。


だからこそ今、織田軍は病と戦おうとしている。

夜まで教育は続いた。


病疫守達は必死に学んだ。

全てが順調に進むかと思ったが現実は厳しかった。



人は間に合っても物資だけは直ぐにどうこうできるものでは無く水も布も足りぬ。戦場に悠長なことは言っていられない。


水や布は医務衆だけでも膨大な量を運搬している。

それに追加で防疫用となると途方もない。


よって今はまず新たな知恵と仕組み、今できる技を武器として扱うことにした。


理想と現実がせめぎ合う最中、信長の命が下ったのは1573年6月18日のことだった。


梅雨の雲が垂れ込める北近江の大地を、岐阜を威風堂々出立した織田信長自ら率いる二万の軍勢が進んでいた。



既に北近江では羽柴秀吉、柴田勝家、前田利家ら三万の軍勢が浅井・朝倉勢と対峙している。


そこへ岐阜より出立した信長本隊二万の軍勢が加わった。織田軍総勢五万。


かつてない規模の軍勢が北近江へ集結したのである。


だが、軍勢が増えれば増えるほど、人も物も増える。

人が増えれば、食が必要になる。水が必要になる。


そして、病もまた増える。


それは戦場の常であった。

戦の最前線に到着した日の夕刻。


早速、信長本陣では軍議が開かれていた。


巨大な陣幕の内には、信長を中心として柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、佐久間信盛、前田利家ら重臣達が顔を揃えている。


軍議の空気は重苦しいものではなかった。

むしろ皆の表情には余裕がある。


それもそのはずだった。

数日前。


山本山城(やまもとやまじょう)城主・阿閉貞征(あつじ さだゆき)が織田方へ降った。

浅井家重臣の離反である。


これにより北近江戦線は大きく織田方へ傾いた。

軍議の中央で秀吉が説明を終える。


「――という訳でございます。阿閉殿の離反により山本山城は既に我らの手中にございます。これで浅井方の連絡線は大きく断たれました」


秀吉は地図へ指を置く。

その顔には自信があった。


「今後は小谷城周辺への圧力をさらに強める事が出来ましょう」


信長は静かに頷く。


「良いではないか」

短い言葉だったがそれで十分だった。


秀吉は満足そうに頭を下げる。

信長は地図から目を離し、周囲を見回した。


「戦の流れは分かった」


そう言ってから。

ふと声色を変える。


「他に何かあるか」


それは軍議ではよくある問いだった。


補給、兵糧、馬や兵の不足。

そうした話が出る事が多い。


だが、真っ先に口を開いたのは柴田勝家だった。


「ありますな」


勝家は重々しく口を開く。

そんな勝家に目線を合わせるように信長が目を向ける。


「何だ」

勝家は腕を組んだまま答えた。


「いささか妙な事を言わせていただきますと、すてに陣中にて肥溜めが臭うて適いませぬ」


軍議が静まった。

利家が瞬きをする。

秀吉も一瞬だけ固まった。


一同が何を言っているんだかとこめかみを爪でかくが勝家は至って真面目である。


その一言に信長も真剣に次の発言を待つ。

「今年は6月にして暑くてかないませぬ。それに湿気が多い。ただでさえ戦のために人が多く集まっておる。そして長陣となれば酷い有様じゃ」


勝家は周囲を見回した。


「厠は臭う、水も濁る、突然の夕立ちで兵の衣服も湿ったままです。最近では腹を下す者も増えております」


先程まで笑いかけていた者達の表情が少し変わる。

それは決して笑い話ではなかった。


長陣ではよくある事だったからだ。

秀吉も静かに頷いた。


「柴田殿の申される通りですな。私の陣でも最近は腹を下す者が増えております、幸い大事には至っておりませんが確実に兵の士気は確かに落ちます」


佐久間信盛も腕を組む。


「暑さもあるし臭いもある、北近江の夜は蚊が多い」


前田利家が苦笑する。


「それは戦だから仕方ないじゃないか親父殿。」


だが、勝家は首を振った。


「そうとも言い切れん」


その声には妙な確信があった。

信長が興味深そうに眉を上げる。


「ほう」


勝家は続けた。


「儂は知っております。桃慧殿の陣を」


軍議の空気が少し変わった。

勝家は最初に桃慧へ命を救われた男である。

そして伊勢長島以来、医務衆の活動を最も近くで見てきた。


「医務衆の陣は違う」


勝家は断言した。


「夏場の陣でも負傷兵を何百と抱えておるにも関わらず臭わぬ、病も少ない、行く日過ごしても水も汚れておらぬ、昨年の伊勢長島の戦が良い手本じゃ。」


利家が首を傾げる。

「それは医務衆だからではないのか?女子が多ければそれでだけで....」


「違う違う」


勝家は即答した。


「違うから言っておるのだ」


その言葉に利家も黙る。

勝家は決して軽々しく人を褒める男ではない。

だからこそ重みがある。


信長はゆっくりと頷いた。

そして、陣幕の端に控えていた一人の少女へ視線を向ける。


「桃慧」


「はい」

桃慧は静かに頭を下げた。


「今の話、聞いておったな」


「はい」

桃慧は答える。


「病が出始める頃合いです。このまま長陣となれば更に増えるでしょう」


信長は僅かに笑った。


「ならば良い機会だ」

軍議の空気が引き締まる。


信長は地図へ視線を戻しながら言った。

「お前が岐阜で考えておった新たな仕組み、病疫守と言ったか」


「はい」


「それをやれ」

信長は迷いなく命じた。


「羽柴と柴田軍で試せ。病を減らせるというならこの機会に見せてみよ」


桃慧は深く頭を下げた。

「承知いたしました」


 信長は続ける。

「兵が病で減るのは面白くない、であるな?」


「その通りにございます。」


その言葉のに長秀が苦笑した。

いかにも信長らしい。


勝家も満足そうに頷く。

一方で秀吉は興味深そうに桃慧を見ていた。


病を防ぐ。


それは戦場では誰もが重要と知りながら、誰も手を付けて来なかった分野だった。


だからこそ面白い。

秀吉は笑みを浮かべた。

「これは楽しみですな。桃慧様の病を防ぐ軍というものを某もこの眼で見てみたい」



信長がパンッと扇子で膝を叩く。

「医務衆に命ずる、羽柴、柴田、それぞれの軍を新たな理とその技にて支援を行え、よいか?」


桃慧は深々と頭を下げる。

「承知致しました、必ずやお支え致します。」


「いやぁ遂に噂の桃慧様と同じ戦場かぁ、腕がなりますなぁ」

秀吉は桃慧を足の先から頭の先までゆっくりと眺める。美術品を値踏みをする商人のように。


「ところで上様」


「どうした?」

信長が桃慧を見つめる。


桃慧は真剣な目つきで信長の瞳を見つめる。

「羽柴様とはどなたでしょうか?」


その場が凍り付いた。

そして一同が思わず同じ言葉を口にした。


「「「「「は?」」」」」

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― 新着の感想 ―
「羽柴様とはどなたでしょうか?」 可愛いが過ぎます!桃慧さま。 今日もあっという間に読んでしまいました! 衛生概念が戦国にあれば、時代は変わっていたでしょうね。 更新応援しています。
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