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病疫守

6月10日

岐阜城下にある治療所では医務衆と織田家の奉行衆と丹羽長秀達は会議に明け暮れていた。

空は重く曇り、湿った風が畑を渡っている。


医務衆詰所の広間では、長机の上へ幾枚もの記録板が並べられている。


丹羽長秀は腕を組み、その板を睨むように見ていた。


そこには既に、先日定められた「病疫守」の名が書かれている。


だが、名だけでは制度は動かぬ。

役割を定めねばならない。

誰の命を聞き、何処まで権限を持ち、何を見て回るのか。


それを曖昧にすれば、現場で必ず崩れる。

長秀は静かに口を開いた。

「……まずは権限だ」


向かいに座る桃慧が顔を上げる。


「病疫守へ、どこまで命を出させる」


そこは極めて重要だった。

戦場では指揮系統が乱れれば死人が出る。

病を防ぐ為とはいえ、兵へ好き勝手命じさせる訳にはいかなかった。


桃慧はしばらく考え。

やがて静かに答えた。


「病疫守は勿論ですが戦事には一切の口を出しません。戦働きの指図もしません、ですが」


桃慧は記録板へ指を置く。


「病を防ぐ為の命は出せるようにします」


長秀が眉を寄せる。


「具体的には?」


「厠の使い方や水周りのや水場の制限、人の体調管理や汚染衣服の洗浄命令、死骸や汚物の処理指示です」


宗庵が静かに頷いた。


「つまり“野営陣での生活”に限り権限を持たせる訳だな」


「はい」

桃慧は頷く。


「でなければ現場で誰も従いません」


長秀は腕を組んだまま黙る。

確かにその通りだった。

厠を移せと言われても、水を使うなと言われても兵は面倒がれば従わぬ。


だからこそ、ある程度強い権限が必要になる。


だが、強過ぎれば今度は軍が混乱する。

長秀は静かに問う。


「病疫守は誰の指揮下へ置く」


桃慧は即答した。


軍奉行(いくさぶぎょう)戦目付(いくさめつけ)の方です」


「病疫守は衛生と病を扱います。故に医務衆指揮下が適切ですが……。」


桃慧の次の言葉を待たず、長秀が繋げる。

「では現状で軍奉行(いくさぶぎょう)の一員でもある桃慧殿の指揮下でも問題ないのだな?」


「はい、私が管理出来るなら適切な指導ができると思いますが、私にのみ権限を与えると些か反発されるのでと思われますので、あくまで軍奉行指揮下という事にした方が良いかと思います。」


「承知した。ではそういうことにしよう。」


宗次が補足する。


「各陣へ配属はされますが、軍奉行の指揮下ということであれば確かに皆様納得なさるでしょう。」


「はい」


桃慧は頷いた。


「各陣の武将へ報告しつつ、病の兆しがあれば医務衆へ伝達します」


治長が記録を書きながら言う。

「つまり病疫守は、各陣と医務衆を繋ぐ役目ですね。名目上は軍奉行の指揮下ですが実質的には医務衆の傘下に近いもの達になりますね。」


「はい」


桃慧は静かに答える。


「病は早く見つけねばなりません。広がってからでは遅いのです」


長秀はそこで深く息を吐いた。


「……役割は分かった、この程度なら誰も文句は言うまい。それでは、その任を誰に置く」


広間が静まる。

ここが最も重要だった。


病疫守はただ陣を見回り、厠の穴を掘れば良い訳ではない。

病を軽く見ぬ者でなければ務まらない。


桃慧は静かに言う。


「日頃より衛生を理解している者が必要です。厠、水、清潔に維持管理する、それらを“面倒”と思わぬ者でなければなりません」


長秀が頷く。


「ならば兵では難しいな」


「はい」


兵はどうしても戦働きを優先する、そのような細かいところまで気にしている余裕はない。

疲れれば近場で用を足す、濡れた衣服もそのまま着る。


それが当たり前の世界だ。


だから一から覚えさせるには時間が足りぬ。

桃慧は続けた。


「故に、稗野や岐阜城下の御用畑で働く者達から選びます」


宗庵が静かに頷いた。

「うむ、その者達なら既に教育されておるからな」


「はい」


桃慧は答える。

「包帯洗浄、清創水、煮沸洗浄、排水管理に水場管理。皆、日頃より行いその大切さに触れています」


長秀もそこで納得したように頷いた。

「確かに御用畑の者達ならば話が早い」


そこには戦や病で居場所を失った者達が活躍の場を求め多く居る。

老兵、傷病兵、流民、元下人、病を理由に追われた者達。彼らは既に医務衆の下で働き、生きている。



桃慧の理を知っている。

長秀は静かに口を開いた。


「ならば急ぐぞ、病と戦は待ってくれぬ」

一同は急ぎその場を立ちまとめあげた書状を抱え城下の御用畑、稗野の御用畑へと別れて走った。





御用畑に着くと宗庵が静かに口を開く。


「皆皆方、集まっていただき申し訳ない、急な話だが話を聞いてくれ。」


集められた御用畑で働く労働者達は久々に顔を見せた桃慧に手を振ったり拝んだりと少しざわついた様子だった。それもそのはず、冬の剃髪より武田潜入と髪を短くしている桃慧を見るのは初めて故に物珍しそうに桃慧を見ている。


「ごほん。よろしいかな?新たな役割として病疫守を募る」


ざわめきが広がる。

一綱が続けた。

「役目は戦場、いや野営陣の管理だ。厠、水場、病人、衣服の管理、どれも病をを防ぎ、兵を守る役割だ。」


あやめも前へ出る。

「これは雑役じゃないよ、病を防ぐ大事な役目」


宗庵の説明が終わった後も、広場にはざわめきが残っていた。


病疫守、それが何をする役目なのかは皆理解し始めている。

厠を見回り、水場を守り、病を広げぬよう陣と人を保つ、戦場で病を防ぐ役。

 

それ自体は分かった。


だが、まだ人々の顔には、どこか遠慮があった。


自分達のような者が、本当にそのような役目へ就いて良いのか。

 

半信半疑なのである。

その空気を見た宗次が、一度周囲を見回し。

静かに言った。


「……言い忘れていたな」


人々が顔を上げる。

宗次は腕を組み、落ち着いた声で続けた。


「病疫守は軍奉公の指揮下だ、つまり」


 一瞬間を置く。


「実質的だが桃慧様直下の役目となる」

その瞬間だった。


「は?」

「……え?」

「桃慧様直属!?」


空気が一変した。

先程まで遠慮がちだった者達が、一斉に前へ身を乗り出す。


痘痕顔の若者が目を見開く。

「お、俺らが!?」桃慧様の元で働けるのか!?」


一綱が嫌な予感を覚えた。

案の定である。


「やります!!」

「俺も!!」

「厠番でも何でもするぞ!」

「水運びでも何でもします!!」

「俺、字は書けねぇけどそれぐらいなら頑張ります!!」


広場が一気に騒がしくなる。

宗次が思わず眉を押さえた。

「落ち着け、順番に話せ」


だがもう遅い。

元流民の男が前へ出る。


「俺、昔村で疫病出た時、家族全員死んだんです。でも桃慧様は、俺みてぇなのでも診てくれた!だからやります」

 

片腕の老兵も片方の腕をめいいっぱい高く伸ばしながら前へ出た。

「槍はもう持てん、だが病を防ぐ役なら出来る!桃慧様の役に立てるなら儂は行く」


威勢の良い若い女が周囲を押し退ける。

「服の洗濯場なら任せな!男衆より綺麗にやれる!」


まだ幼さを残す少年は完全に興奮していた。

「俺も!俺も行く!ようやく力がついてきたんだ!なんだってできる!だから連れてってくれ!


一綱が頭を抱える。


「うわぁ……思った以上だねぇ……」

あやめが引きつった顔で宗次をみる。


宗庵は静かに周囲を眺めていた。

皆の顔が違う。そこにあるのは、金欲しさではない、出世欲でもない。


ただ“必要とされたい”という顔だった。


かつて、穢れと呼ばれた者達、病や容姿を理由に追われた者達、傷を負い、戦えぬと捨てられた者達へ桃慧は役目を与えた、生きる場所を与えた。

 


だから今。「桃慧様直属」その言葉だけで、これほど人が動く。


宗次は小さく笑った。

「……これは思ったより集まりそうだな」


一綱が呆れた顔で答える。

「いや、集まり過ぎになりますよ、これ」


その時だった。後ろの方から、疥癬跡の残る松吉が腕を組んだまま前へ出る。


周囲が自然と静かになる。松吉はゆっくり口を開いた。


「俺ぁ昔、村じゃ“触るな”って石投げられてた」


静かな声だった。

「だが桃慧様は違った。薬湯を作り入れてくれた。薬塗って、飯食わせて、“働けるなら十分だ”って言った」

 

松吉は真っ直ぐ宗次を見る。

「なら今度は俺らの番だ!病を防げってんなら、幾らでも便所の穴だろうが水路だろうが掘ってやる。桃慧様が手を貸してくれというのなら何だってしてやる!」


広場が静まり返る。

そして。

「おう!!」

「やってやろうじゃねぇか!」

「病で兵を死なせるな!!」

「俺を使ってくれ!」

「アタシだって役に立ちたい!」


気付けば、歓声のような声まで上がり始めていた。


一綱は遂に顔を覆う。

「……何で医務衆って毎回こうなんだ」


広場は最早、募集というより出陣前のような熱気に包まれていた。


元流民も。

老兵も。

未亡人も。

孤児も。

皆が我先にと前へ出ようとしている。


一綱は額を押さえながら呻いた。


「……いや、ちょっと待て!落ち着け!全員行ったら御用畑回らなくなるだろうが」


「交代で行きます!!」


「俺夜番でも平気です!!」


「桃慧様のためなら徹夜で働ける!!!」


「だから落ち着けって!!」

一綱が苦笑しながら列を整理している横で、あやめは半ば呆れた顔でその様子を眺めていた。


「ほんと人気あるよねぇ桃慧様」


その隣で宗庵が深々と息を吐く。


「……まったく」


皆がそちらを見る。

宗庵は腕を組み、騒ぎ続ける人々を眺めながら言った。


「御恩と奉公そのものではないか」


一綱が顔を上げる。

宗庵は苦笑していた。


「飯を与えて、病を治し、居場所を与え役目を与える。その恩へ命を懸けて応えようとする」


宗庵はゆっくり周囲を見回した。

皆、自分から役目を求めている。


「皆桃慧様に受けた恩を返そうと必死なのだな。」


「当の本人はそんな恩を与えたと思って無さそうですけどね。」

桃慧は熱心に手を挙げる人々よりも桃慧の手を握る老婆たちの相手をするので手一杯だ。


一綱は頭を掻きながら苦笑する。

「まぁ……気持ちは分かるけどな」


宗次が静かに頷いた。

「ここに居る者達は、一度死んだようなものだ、桃慧様が拾わねば今頃どうなっていたか分からん」


その言葉に、広場の空気が少し静まる。

痘痕の若者がぽつりと言った。

「俺ぁ顔見ただけで子供泣かれてたからな。御用畑来るまで、まともに人と飯食った事も無かった」


威勢のいい若い女も話す

「主人に死なれた女一人で生きるなんざ地獄だからねぇ、けどここじゃ普通に働かせてくれる。桃慧様居なきゃ今頃夜鷹にでもなって野垂れ死んでたよ。」


疥癬跡の松吉は腕を組みながら言った。

「しかも桃慧様、病治した後の方が怖ぇ」


一綱が嫌な顔をする。


「……何したんですか」


「癒えたなら“働けますね?”って笑顔で....でもまぁおかげでここまで元気になれたんだがな」


周囲から笑いが起こった。


あやめが肩を震わせる。

「あー、目が笑ってないやつね」


「あやめ?」

桃慧が急に会話に入る。

「ひぇっ」

あやめはとっさに柚の陰に逃げる。


「医務衆は人手足りないからね」

柚も笑いながら話す。


宗庵はそんな光景を見ながら静かに目を細める。

戦国の世において人は恩で動く、武士は主君へ命を預ける。それが御恩と奉公だ。


だが今、ここに居る者達は武士ではない。

この者達は確かに桃慧へ忠義を尽くそうとしている。


宗庵は呆れたように笑った。


「……桃慧様は、知らぬ内にとんでもない集団を作っておるな」


一綱がぼそりと呟く。


「下手な国衆より結束固いですよこれ、謀反の"む"のも字もありません。」


宗次が静かに頷いた。

「でもまぁ飯と命を救われた恩は深い」


「わかった、わかった、希望者は私の所へ来い!いいか!事は急ぎだ!まずは桃慧様が定める人数を集める、それを次の戦で確かめ判断し有用と認められればさらに人を増やす、良いか!」

一綱が困ったように落ち着かせる。

その言葉に反応して歓声が上がる。


「一綱も大変だねぇ」

あやめは柚の腕に抱き着きながらその様子を見守る。


もみくしゃにされる一綱はまるで武功を競う足軽達の餌食にされる武士のようになっている。

「桃慧様!お助け下さい!桃慧様!」


桃慧はそんな一綱を横目に暴走する民たちの話を一人一人聞いて意見を募るのだった。

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