清陣
1573年6月9日
美濃・岐阜城
将軍足利義昭を京より追放した信長を総大将とした織田軍本隊は、一度本拠へ帰還していた。
だが岐阜城下に漂う空気は、勝ち戦の後とは思えぬほど慌ただしい。
北近江ではなお浅井朝倉との戦が続いており、羽柴秀吉、柴田勝家、援軍へ向かった前田利家、佐久間信盛らの軍勢二万余が戦線を維持している。城下では絶え間なく荷駄が組まれ、兵糧が運ばれ、槍や矢束が積み直されていた。
まとわりつく様な薄い湿気が梅雨を感じさせる。
湿った南風が伊奈波山の麓を吹き抜けるたび、町には土と汗の匂いが混じった。
その頃、医務衆の本拠である大手門の前にある治癒所では奇妙な聞き取りが行われていた。
「……で、行軍中はどうしておった」
治長が記録板を片手に尋ねる。
相手をしているのは此度槇島へ従軍した足軽たちだった。
兵たちは最初こそ怪訝そうな顔をしていたが、相手が医務衆だと分かると徐々に口が軽くなる。
「どうも何も……」
年嵩の足軽が困ったように頭を掻いた。
「行軍中は道脇ですな、急ぎならそのまま木陰へ入って……」
宗次が横から聞く。
「穴は掘るのか」
「いや、急ぎならそのままです。真面目に穴を掘り埋める者もおりますが、大体はそのままで」
治長が無言で筆を走らせる。
別の若い兵が苦笑した。
「合戦中なんぞ、そんな余裕ありませんぜ、命が大事だ、そのまま垂れ流す事もあります」
広間の空気が少し重くなる。
だが桃慧は眉一つ動かさなかった。
「袴はどうしておる」
「しゃがめば股の所が割れてそのまま用を足せる様に出来ておりますからな」
兵は自分の袴を軽く叩いた。
「戦場じゃ気にしてられません」
あやめが露骨に嫌そうな顔をする。
「うわぁ……そうなんだ。」
琴も苦笑した。
「まぁ、そうなるわよねぇ……」
だが話はそこでは終わらない。
「戦が長引くとどうなる」
桃慧が静かに問う。
すると、先程まで笑っていた兵たちの顔が少し曇った。
「……まぁ仕方がないことでありますが、厠は臭いますな」
一人がぽつりと呟く。
「臭う?」
「ええ」
年嵩の兵が低い声で続けた。
「最初はまだ良いんです」
「だが十日、二十日と経つと、陣全体が臭い始める」
「特にこの時期は雨でも降れば酷ぇもんです。ぬかるみに混じるわ、水場は臭うわ……」
別の兵も頷く。
「川まで臭う頃があります」
「たしかに、下流なんぞ近寄りたくもねぇ」
宗次が腕を組んだ。
「穴は掘っておるのだろう」
「掘りますよ、だが埋め戻しなんざ、皆きっちりやりません。そもそも陣から厠が遠いと面倒でしてな。近場で済ます奴も増える。」
「夜は尚更です。暗ぇし、雨の日なんざ最悪です」
広間のあちこちから苦笑が漏れた。
どうやら兵たちにとっては、半ば当たり前の話らしい。
だが、桃慧と長秀だけは笑っていなかった。
聞けば聞くほど、状況が想像以上に悪いのである。
治長がまとめた記録板には、既に問題点が並び始めていた。
水場汚染。
放置排泄。
埋め戻し不足。
長陣での悪臭。
夏場の腐敗。
湿気に虫。
体を壊し、そして下痢。
桃慧は静かに記録板を見つめていた。
梅雨から夏にかけては病が最も増える季節である。
傷は膿みやすくなり、水は腐り、虫が湧き、人は腹を壊す。
戦場とは、それだけで巨大な汚染の塊だった。
長秀が深く息を吐く。
「……思った以上だな」
「はい」
桃慧も珍しく疲れた顔をしていた。
「このまま長陣となれば、病は必ず出ます」
宗次が苦笑する。
「むしろ今までよく大事にならなかったものです」
「なっておったよ」
長秀が低く言った。
その声に場が静まる。
桃慧が長秀を見る。
「長秀様」
「……これまではどうしておられたのですか」
長秀はしばらく黙っていた。
やがて腕を組み、重く口を開く。
「どうもしておらぬ」
広間が静まり返る。
「先程の兵たちの話、そのままだ。戦が長引けば臭いが立つし、川も汚れる。そうすれば飲水にも困り腹を壊す者が増える。よって熱を出して寝込む者も出る」
長秀は苦々しく続けた。
「病だけで軍が潰れたという経験までは無い、私はだがな。だが病が流行れば士気は落ちる、兵は苛立つ、すれば動きも鈍る。長陣になれば、必ず軍は弱る」
その言葉には実感があった。
長秀だけではない。
その場に居た古参の兵たちも、皆黙って頷いている。
この者たちは何度も経験してきたのである、夏の野営を。
腐った水を。
臭いの立つ陣を。
そして病で倒れる兵たちを。
桃慧は静かに俯いた。
「やはり戦場で最も恐ろしいものの一つは、目に見えぬ病ですね」
敵であれば見える、見える脅威には対処しやすい。
だが病は、目に見えず静かに軍を蝕む。
しかも誰も、それを“仕方ない事”として受け入れてしまっていた。
広間に重い沈黙が落ちていた。
病をいかに防ぐか、それは大軍を要する戦において後回しにされがちな守りのひとつであった。
そして厄介なのは、如何に病を防ごうとそれが誰の手柄にもならぬ事だった。
敵を討てば名が上がる。城を落とせば褒美も出る。
だが、病を防いだところで誰もそれを軍功とは見ない。
だからこそ今まで放置されてきた。
桃慧は静かに記録板を伏せると、周囲を見回した。
「……ですが」
しかし、その場にいた誰もが耳を傾ける。
「今すぐ全てを変えることは出来ずとも、仕組みや制度ですぐに改善出来る事はあるはずです」
長秀が頷いた。
「上様の前でも言いましたが、まずは厠の位置、これを水場から離します」
「どれほどだ」
「最低でも炊事と汲み水を取る場所の下流です」
宗次が腕を組む。
「当然と言えば当然だが……実際は近くへ作る者も多いな。野営陣は彼方此方に散る事もある。なるべく厠の位置や炊事場などは調整をした方がいいな。」
「はい」
桃慧は頷いた。
「特に夜間と雨天時です。遠ければ面倒になり、近場で済ませる者が出ます」
長秀が苦い顔をした。
「兵とはそういうものだ」
「故に」
桃慧は静かに言う。
「遠過ぎてもいけません」
治長が筆を止めた。
「遠過ぎれば使われず、近過ぎれば汚染される……か」
「はい」
「ならば適切な距離を定める必要があります」
宗次が口を開く。
「風向きも重要だな、風向きをよむのは難しいが。」
「はい」
桃慧は頷く。
「風上に置けば臭気が陣へ流れ込みます。湿気が多ければ尚更です」
長秀が低く唸った。
「臭いは士気を削る」
「それだけではありません」
桃慧は記録板へ視線を落とす。
「腐臭が立つ頃には、虫が寄ります。虫は汚れを運びます。汚れは病を呼びます。糞尿に集った虫が飛んで運んできた野菜や米に寄ればそれだけで汚染となります。」
広間が静かになる。
あやめがぽつりと言った。
「……やっぱり臭いって……清潔さって大事なんだね」
「はい」
桃慧は頷く。
「人は長く居るとその環境に慣れてしまいます。ですが、慣れた頃には既に環境が病んでいます」
長秀が腕を組み直した。
「穴はどうだ」
「従来通りで問題ないと思いますが、深さはしっかりと取り決めましょう。」
「どれ程だ」
「最低でも膝下ほどは」
宗次が感心したように眉を上げる。
「随分深いですな」
「浅ければ虫が湧きますし雨で溢れれば汚染は広がり臭いもます強くなります」
桃慧は迷いなく答えた。
「そして必ず埋め戻します」
長秀が苦笑した。
「そこが一番難しい」
「はい」
桃慧も珍しく少し疲れたように息を吐く。
「故に管理役が必要です」
「厠番か」
「はい」
その言葉に数人の兵が微妙な顔をした。
やはり“厠番”という響きには、どうしても雑役の印象がある。
だが桃慧は気にした様子もなく続けた。
「軍を病から守る役目です。重要でないはずがありません。むしろ陣の陣の統合的に環境を守るという役割にしましょう。病疫守と改め、新たな役割を持たせるのは?」
宗次が静かに笑った。
「なるほどな」
「病疫守には厠の管理もですが陣での健康管理と早期の疫病管理に務めてもらうというのは?」
「確かに病疫管理の内に厠管理を組み込むというのは良い案かと思う。戦場では脚気や皮膚病なども流行りやすい、その流行を見定める役というのは兵を維持する上で良いかもしれん。」
長秀は筆でさっと案を記して使いのものに手渡した。
「では厠の管理ですが、使用したら埋め戻し、臭いと汚染を封すると言うことは変わりません。」
長秀はまだ腕を組んだまま黙っていた。
桃慧はさらに続ける。
「埋め戻すだけでなく灰も使います」
「灰?」
治長が聞き返した。
「はい」
「灰。」
長秀が聞き返す。
「はい?」
「「「………。」」」
「……え?」
あやめがポカーンとしている。
桃慧は何事も無かったように話を進める。
「用を足した後に撒きます。すると灰は臭気を抑えてくれるのです。すれば必然的に虫も減ります。そうすれば土を被せるだけでも違います」
宗次が感心したように頷く。
「……確かに、焚火跡は臭わんな」
「火と灰は穢れを抑えます」
桃慧はそう言ってから少し考え込み、続けた。
「ん?え?」
あやめがなにかあったのかと左右の治長と長秀の顔を確認する。
「それと、手洗い用の水です」
桃慧は淡々と話を進めていく。
「水?」
「厠近くに手洗い場を設けるのですがその水を飲まないようにしなければなりません。」
長秀が即座に頷いた。
「それは分かる」
「ですが徹底されていません」
桃慧は静かに言う。
「喉が渇けば兵は近場の水を飲みます。まして夏場なら尚更です」
広間の空気が重くなる。
それは皆、心当たりがあったからだ。
長陣になればなるほど、水は乱雑に扱われる。
疲れた兵は、近い場所の水へ群がる。
「しかし、これでは水は莫大な量が欲しくなる。兵站への圧迫は避けれないな。」
「確かにそうですね、飲水だけでも相当な量です。医務衆ではそれに治療の為、器具の洗浄の為など多くの水を欲しますから現地で賄えるものならそれに越したことはないですね。」
「汚染されていても水を清く整える術が欲しい、もしくは治水を行い堰を張り巡らせるなども……」
長秀が頭を抱え低く息を吐いた。
そして続けざまに言葉を繋ぐ。
「……考えれば考えるほど恐ろしいな。よくよく考えてみればその通りだ。厠を改めなければ病に苦しむ者は増えるばかり、厠を改めるには水を改めると。」
「はい」
桃慧は素直に頷いた。
「ですが逆に言えば、ここを整えれば軍も町も病は減らせます」
「しかし大軍となれば完全には厠を改めるにしても一度に管理するのは無理ですよ。とくに男達は面倒くさがってやらぬ者ばかりです。」
琴が唇をとんがらせ文句を言う。
「ですがこれをやるだけで病は大きく減らせます。厠番改めて病疫守は直ぐにとは言いませんが実験的にでも導入すべきではないでしょうか。」
その言葉には妙な重みがあった。
長秀はしばらく黙っていたが、やがて苦笑した。
「……本当に、お前は戦より先に仕組みを見るのだな」
桃慧はきょとんとした顔をした。
「兵が腹を下せば戦えません。戦う前に負けます。そんな事武士の恥となりませんか?」
あまりにも当然のように言う。
長秀は遂に堪え切れず笑った。
「はは……武士の恥とは……。違いない。」
広間にも少し笑いが戻る。
だがその笑いの奥で、誰もが理解し始めていた。
これは決して馬鹿話ではない。
これから本格的にぶつかる浅井朝倉との戦において、恐らく避けては通れぬ問題なのだと。
桃慧には、そんな予感がしていた。




