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終焉のにおい

1573年5月31日


槇島城には、朝から重い沈黙が流れていた。

数日前まで聞こえていた「武田が来る」「朝倉が動く」という声は、もはや誰の口からも出ない。

浅井朝倉は織田軍に押さえ込まれ、本願寺は動かず、そして武田から届いた返書には援軍を約する言葉は無かった。


いや、むしろその曖昧な文面こそが全てを語っていた。


武田は来ない。


それを理解した時点で、槇島籠城に意味は無くなっていたのである。


城内の兵たちも既に疲弊していた。

武による抵抗は失敗し、負傷者は増え、織田軍の包囲は日ごとに狭まっていく。


何より。


信長は焦っていなかった。

2月の挙兵のおり抵抗できるという自信は今は全くなく。

信長の"今回は見逃さない"という意識が現れており敵陣から離れた城の中でも余裕を感じ取れる。

それが絶望的だった。


足利義昭は静かに立ち上がる。

広間に居た奉公衆たちも、誰一人として引き止めなかった。


もう戦は終わったのだ。

「……無駄に血を流す必要もあるまい」


義昭は小さくそう呟いた。

そしてその日のうちに、降伏の使者が信長の陣へ送られる。


さらに義昭自身も、京を去る条件を定めるため、織田方との話し合いへ向かった。

信長はこれを受け入れる。


将軍を討つ必要は無い。

京から退かせれば、それで十分だった。


こうして足利義昭は京を去る。

室町幕府はなお名目としては続く。


だが。


将軍を失った幕府は、もはや幕府では無かった。

この日をもって、二百年以上続いた足利幕府は事実上の終焉を迎えたのである。

 



槇島城の開城が決まる頃には、宇治川沿いへ幾重にも並んでいた織田軍の陣も、少しずつ解かれ始めていた。


この日は梅雨には入ったもの雨は降っておらず、湿った風がなお川面を渡り、野営地に残る焚火の煙を低く流していた。


兵たちはようやく具足を緩め、濡れた足袋を干し、荷駄へ縄を掛け直している。槍を地へ立て、その場へ座り込む者も多い。


将軍家追放。

後世に残るであろう大事の直後とは思えぬほど、陣中には奇妙な静けさがあった。


戦そのものが、あまりにもあっけなく終わったのである。


その頃。


医務衆だけは、妙に忙しかった。


兵を診ている訳ではない。

負傷者の搬送でもない。

桃慧を先頭に、治長、宗次、あやめ、柚らが宇治川沿いの各陣を歩き回っているのである。


川辺や野営地、炊事場。

時には地面へしゃがみ込み、何かを確かめるように泥を掘り返してすらいた。


その様子を見ていた兵たちも、流石に不思議そうな顔をしていた。


「……何をしておるのだ、あれは」


「さぁな。医務衆の考える事は分からん」


「また妙な薬でも作るのではないか」


そんな声が、帰陣支度の合間にあちこちで囁かれている。

そしてその話は、やがて信長の耳にも入った。


柳山本陣。


陣幕の中では、信長が帰陣後の兵配置について長秀や信盛と話していた。

そこへ若い近習が入ってくる。


「申し上げます」


「医務衆、未だ各陣を巡っております」


信長が顔を上げた。


「まだやっておるのか」


「は。佐久間殿の陣、丹羽殿の野営地、更には宇治川沿いまで見て回っておるとか」


「何を見ておる」


近習は少し言いづらそうに口を開く。

「……厠にございます」


一瞬、場が静まった。


「厠ともうしたか?」


「はっ」


信長は数瞬黙った後、ふっと鼻で笑った。


「また何か嗅ぎつけたか、戻って来たらここに呼べ」


「はっ」


しばらくして。

陣幕の外より複数の足音が近付いてくる。


「失礼致します」


桃慧は僧衣の裾は泥に汚れ、草履には湿った土がこびり付いている。

後ろの宗次などは露骨に顔をしかめており、あやめは袖口へ香草を忍ばせていた。


かなり臭かったらしい。


信長は早速問う。


「何をしておった」


桃慧は一礼した。

「各陣の厠事情を確認しておりました」


「……本当に厠か」


「はい」


あまりにも真顔だったので、逆に場が静まる。

信長は呆れ半分で続けた。


「将軍を京より追い出した戦の直後に、お前は厠を見て回っておったのか」


「左様にございます」

桃慧は即答した。


長秀が堪えきれず苦笑する。

「相変わらずだな、お前は」


だが桃慧は笑わない。


「此度の戦、幸い短期間にて終結致しました。ですが……あと半月も続けば、必ず病が出ておりました」


信盛が眉を寄せる。

「病だと?」


「はい、赤痢にございます」


その言葉に、空気が少し変わった。

若い武将たちはまだ怪訝そうだったが、長秀と信盛は黙って桃慧を見る。


桃慧はゆっくりと言葉を続けた。

「宇治川沿いは湿地が多うございます。それに水場も近く、兵は同じ川で顔を洗い、鍋を洗い、馬にも水を飲ませております。」


一同は思い当たる節があるのかハッとしたように顔を見合わせる者もいる。

桃慧は一同をちらりと見渡した後話を続ける。

「調べましたところ、陣のすぐ近くへ厠があり、さらに雨が降れば汚染された水が流れます」


宗次が腕を組みながら苦笑した。

「下流など、かなり臭っておりました、兵が勝手に草陰で済ませておる場所も多うございました」


 あやめが鼻を押さえながらぼやく。

「昨晩の小雨で流れた所なんて最悪でしたよ……」


若い武将の一人が首を傾げる。

「だが厠など、昔より皆そうしておるではないか」


桃慧はその言葉へ静かに頷いた。

「はい、そのため昔より大軍というものは皆腹を壊しております」


場が静まる。


桃慧は続けた。

「今はまだ良いのです、此度は短期に終わりこのまま撤退となれば人数も動き始めれば自然と散ります。ですが長陣となれば違います」


そして若い武将がしょぼんと顔を下げる。しかし桃慧は話をやめない。

「最初は一人が腹を下すだけです。次に看病した者が倒れる。」

皆の視線が医務衆の陣へ注がれる。


「水場が汚れ、気付けば陣全体へ病いは広がり、やがて兵は立てなくなります」


若い武将がまだ半信半疑の顔で言った。

「そこまで大事になりますか」


その時だった。


「……なる」

低い声でそう言ったのは丹羽長秀だった。


皆が長秀を見る。

長秀は苦々しい顔で続けた。


「一度赤痢が出れば止まらぬ、腹を下した兵は水を求める。だが水を飲めばさらに悪くなる、なぜならその水も糞便により穢れている水だからだ。」


若い武将はぞっとした表情になる。


長秀は目を瞑り昔見た光景を思い出すように語る。

「そうなれば兵は飯を食えず、歩くこともできず、力も入らず寝たきりとなる。最後は箸すら持てなくなる」


佐久間信盛も静かに頷く。

「城攻めでは特にな」


信盛は遠くを見るような目になった。

「昔、糞尿を投げ込まれた城攻めがあった。最初は皆笑っておったよ。“臭いだけだ”とな。だが雨が続き、水が腐り始めると変わった」


信盛はゆっくり息を吐く。

「腹を壊す者が次々出た。看病した者まで倒れた。最後には、戦う前に兵が座り込み始めた」


陣幕の中が静まり返る。

「……あれは酷かった」


長秀がぽつりと言った。

「力で落としたのか、病で落ちたのか分からぬ城もある。昔からある城攻めの方法だが禁忌ともいわれる外道な方法よ。」


若い武将たちの顔色が変わっていく。


桃慧は静かに周囲を見渡した。


「病は目に見えませぬ、故に気付いた時には広がっております。戦場では、槍より静かに兵を殺します」


外では、宇治川の水音が聞こえていた。

兵たちは勝ち戦の後始末に追われている。


だが桃慧たちは、その足元に別の脅威を見ていた。


長秀が深く息を吐く。

「……今回は短かったから助かった、か」


「はい」


桃慧は頷いた。


「此度は運が良うございました。ですが今後、数万の軍を長く動かすならば、必ず問題になります」


信盛が苦笑した。


「将軍を追い出した後に厠の話とはな」


場に小さな笑いが漏れる。


だが桃慧だけは真面目だった。

「兵は腹を壊せば戦えませぬ」


その言葉に、老練な武将たちは誰一人反論しなかった。


信長はしばらく黙っていた。

陣幕の外では、帰陣支度を進める兵たちの声が遠く聞こえている。濡れた縄を締め直す音。荷駄馬の嘶き。宇治川を渡る風。


その静かな空気の中で、信長だけが桃慧をじっと見ていた。


やがて低く口を開く。


「……では」


その声に、場の空気が自然と締まる。


「今、医務衆ではどのような対策をしておる」


信長は続けた。


「糞便ごときと笑う事も出来よう。だが兵を預かる身としては見過ごせぬ」


その言葉に、長秀と信盛も静かに頷いた。

老練な将ほど分かっている。

戦場では、兵が“戦えなくなる”事そのものが致命傷なのだ。


桃慧は一礼し、静かに答えた。


「まず、水場を分けております」


「分ける?」


「はい」


桃慧は治長へ目配せした。


治長は携えていた板へ簡単な図を書き始める。

「飲水用、炊事用、洗い場を分けます。特に飲水は必ず上流。下流では鍋洗い、洗濯、馬洗いを禁じます」


信盛が腕を組む。


「……なるほどな」


「今までは皆、同じ場所で済ませておりました」


桃慧は続けた。


「次に厠です。厠は必ず陣の下風へ、さらに雨で流れ込まぬ場所を選びます。穴は深く掘り、使用後は土を被せる」


「あやめ」


「はい」


呼ばれたあやめが前へ出る。


「使用後には灰を撒きます」


「灰?」


若い武将が怪訝そうな顔をする。

あやめは頷いた。

「臭いを抑えますし、虫も減ります。湿り気も抑えられますので」


宗次が苦笑した。

「実際、臭いがかなり違いましたな。医務衆の野営地では以前より使っております」


桃慧はさらに続ける。

「そして手を洗わせます」


その言葉に、場の何人かが顔を上げた。


「手を?」


「はい」


桃慧は真面目な顔で頷く。

「厠の後、水で手を洗う。出来れば灰や塩も用います、また水の代用といたしまして清創水も効果的という事で使う者もおります。」


若い武将の一人が首を傾げる。

「そこまで必要か」


桃慧は即座に答えた。

「必要です」


その声は静かだったが、妙な重みがあった。


「兵は手で飯を食べます。汚れた手のまま食べれば、病も口へ入ります」


場が静まり各々が自身の手を眺めた。

信長は黙って聞いていた。


桃慧は言葉を続ける。

「病は穢れではございませぬ。生き物のように広がるのです。人から人へ、水から人へ、手から口へ」


長秀が低く唸る。

「……理屈で聞くと、嫌な話だな」


「ですが事実にございます」

桃慧は静かに頷いた。


「医務衆では既に、厠番も置いております」


「厠番?」


信盛が思わず聞き返した。


「はい」


宗次が肩を竦める。

「掘る場所を決め、埋めさせ、汚れが酷ければ場所を変える役目です」


信盛が苦笑した。

「まるで築城奉行だな」


「長陣では同じようなものです」

桃慧は即答した。


「陣は一つの町にございます。町が汚れれば病が出る、病が出れば兵が減る、ならば、最初から汚さぬ方が良いと考えます。」


陣幕の中が静まり返る。

外では勝ち戦の後始末が進んでいる。


だが桃慧だけは、もっと先を見ていた。


信長はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。

「厠番か、我が陣には将軍より必要な役職が出来たな。」


周囲からも苦笑が漏れる。


だが信長の目は笑っていなかった。

むしろ興味深そうに細められている。


陣幕の中には、しばし静かな空気が流れていた。

外では帰陣支度の音が絶え間なく続いている。


槍を束ねる音や荷駄馬の嘶き

湿った地面を踏み締める兵たちの足音。

信長はゆっくりと長秀を見る。

「長秀」


「は」


「急ぎ桃慧と協力せよ」


長秀が顔を上げる。

信長は続けた。


「各陣へ厠についての取り決めを出す。水場の扱い、厠の設置、灰撒き、手洗い等まずは出来る所から始めよ」


長秀は静かに頷いた。

「承知致しました」


桃慧も深く頭を下げる。


「ありがとうございます」


「清創水を各陣へ配布せよ、手洗いを行わせよ」


「承知致しました。」


信長は小さく鼻で笑った。

「礼を言うな、兵が腹を壊して動けぬなど笑えぬからな」

その言葉に、信盛も苦笑する。


「織田軍も変わったものだ、戦後の祝宴の前に厠会議。殿は本当に面白き女子を迎えたものだ。」

周囲から小さな笑いが漏れた。


「浜松での働きぶりも目を引くものがあったが勝ち戦のあともここまで軍のために働くとは実に結構」

だが老練な武将たちは、誰一人として桃慧の話を軽く扱わなかった。


彼らは知っている。

戦場で最も恐ろしいものが、必ずしも槍や矢ではない事を。


信長は立ち上がった。


「良し、まずは祝宴じゃ、明日の朝岐阜へ戻る。飲み過ぎぬように」


その一言で場の空気が切り替わる。

京は落ち着いた。将軍は去った。


だが天下はまだ動き続けている。



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