槇島城の戦い
1573年5月26日
京を覆っていた曇天はなお晴れず、宇治川から立ち上る湿気が周囲の山野を白く霞ませていた。
二条御所を退いた足利義昭は、宇治の槇島城へ入る。
城と言っても、巨大な山城ではない。
宇治川と巨椋池に囲まれた水城に近く、低湿地を利用した防御に優れる一方、長期籠城に耐えうるほどの規模は持たなかった。
だが義昭には、そこしか残されていなかった。
将軍家最後の拠点。
義昭にとって足利幕府の栄光はこの城と、甲斐の地の虎に賭けられていた。
一方、織田信長は滞在していた妙覚寺を発ち、宇治近郊の五ヶ庄柳山へ本陣を移した。
木瓜紋の旗が次々と立ち並び、丘陵地帯には無数の陣幕が張られていく。
二万を超える軍勢が宇治周辺へ展開すると、大地そのものが揺れているようだった。
兵たちは静かに動いている。
だが、その静けさの中には逃げ場の無い圧迫感があった。
槇島城は、完全に包囲されつつあった。
総指揮を任されたのは佐久間信盛である。
信盛は宇治川沿いへ兵を配置し、渡河点を押さえ、逃走路を一つずつ塞いでいった。
さらに荒木、林が北方を固め、丹羽が後詰を整え、合流した滝川勢が南方街道を監視する。
包囲は着実だった。
まるで巨大な網が静かに閉じていくようだった。
明智勢は万が一に備え御所を守り、医務衆は信長と共に本陣へ移動している。
そして翌27日。
朝から宇治一帯には濃い霧が立ち込めていた。
川面から立ち上る冷気が低地を覆い、敵味方とも数十間先すら見通せない。
兵たちは湿った具足を軋ませながら配置に付いていた。
その霧の中で、前田利家は騎上から静かに前方を見据えていた。
「今回は親父殿が藤吉郎の方に行ってるから俺が気張らないとな!」
「利家様、敵とはいえ将軍様に刃を向けるのは些か。」
「んまぁ殿も決して命を奪うなとの厳命だし、小競り合いで済むと思うがね」
「そうなるとよろしいのですが。」
「でもまぁ殿から先鋒を任されたからにはここ一番の槍働き、腕が鳴る」
利家の後ろには三百ほどの騎馬武者と足軽が並んでいる。
皆、既に槍を構えていた。
「……出るな」
利家が小さく呟く。
「こうも濃い霧ですと敵も晴れるまでは動けないのでは?」
「いや、相手にとっちゃ大軍を打ち負かすのは奇襲しかない、ってことはこの霧に紛れての奇襲ってのが....!」
霧の向こうで、微かに地面が震えた。
「うつけの軍など一捻りだ!ゆけえええええええええええ!」
「公方様の御為ッ!!」
「「「「おぉぉぉぉ!」」」」」
霧を裂くようにして現れたのは伊勢貞興隊だった。
奉公衆を中心とした将軍家方の兵である。その数は決して多くはない。
だが、その顔には鬼気迫るものがあった。
この戦に敗れれば室町幕府そのものが終わる、まさに決死の覚悟での突撃である。
無謀な賭けだと誰もがそれを理解していた。
伊勢貞興自身も馬上で槍を掲げ、真正面から織田勢へ突っ込んでくる。
「来たな!」
利家が兜の首紐を締め槍を掲げる。もはや退けぬ。
「申し上げます!伊勢貞興隊の切り込みにございます。その数約300!」
「あいわかった!」
霧が晴れる。
まるで合図のようだった。
朝日が一気に戦場へ差し込み、宇治川沿いの湿地帯が白く光る。
「お前らぁ!敵は将軍家の先鋒伊勢貞興!前田勢の強さここで殿に見せつけるぞ!!」
「応!」
「鉄砲隊前へ!」
槍足軽の間より鉄砲を担った足軽たちが前へ出る。
火蓋を開け、火ばさみを完全に上げ、構える。
「先頭の騎馬だ!狙えぇっ!」
一瞬の静寂が戦場を満たす。男たちの絶叫にも似た叫びが両軍より湧き出る。
「放てぇぇぇ!」
バン!ババババンッ!バンッ!
銃声と共に伊勢隊の先頭を駆ける騎馬が一瞬体勢を崩すも再び槍を掲げ突撃を続ける。
後ろの足軽たちが何人か倒れるもその勢いは止まらない。
「鉄砲下がれ!」
鉄砲足軽が下がると後ろに控えていた弓兵が矢を射かける。
放たれた矢は空を斬り一瞬で伊勢隊の正面の武者共の鎧兜の合間を貫いてゆく。
1人、また1人と矢が首筋から胴に吸い込まれ、もがきながら倒れてる。
カンッと矢が兜にあたり一瞬ふらつく伊勢貞興。
体勢を立て直し首を振る。
「怯んでたまるか!怖気づくな!義は我らにあり!続け!」
伊勢隊は高い士気のまま将軍家への忠誠を形にしたかのような一糸乱れぬ突撃を敢行し続ける。
利家もその心意気を感じたのか大きく深呼吸をし、胸を張る。
「武士の心意気、正面で受け止めねば無粋じゃ!」
利家は自ら最前線の騎馬隊の前へ出る。
「旗を掲げろ!」前田家の家紋の入った大旗が空へ向け仰ぎ立つ。
「行くぞぉぉぉぉ!」
その中を、前田利家隊300も一斉に駆け出した。
馬蹄が地面を叩く。
前田家の家紋が靡き風を裂く。
「かかれぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
伊勢隊も即座に横隊を作る。
騎乗の兵たちが槍を前に構え突撃していく。
長槍が何重にも突き出され、槍の大波が形成されてていく。
伊勢隊も利家は速度を落とさなかった。
お互いにむしろ笑っていた。
「退くなよッ!!」
利家は片手で手綱を引き絞り、もう片方の長槍を大きく振りかぶる。
次の瞬間。
双方の槍が、凄まじい勢いでぶつかる。中には火花を立てぶつかるもの達も居る。
槍と槍がぶつかり合い、鉄鎧が裂ける音が響く。
数本の槍がまとめて弾き飛ばされた。
伊勢隊の波が僅かに乱れる。
その“一点”を、利家は見逃さなかった。
「割れろぉッ!!」
利家の騎馬が、その隙間へ真正面から突っ込む。
馬が槍を踏み砕き、騎馬武者が人を跳ね飛ばし、もつれた槍隊の中へ利家自身がねじ込まれる。
伊勢隊の前列が崩れた。
ほんの一瞬。
だが戦場ではそれで十分だった。
「続けぇぇぇ!!」
後続の騎馬武者たちが一気に雪崩れ込む。
崩れた槍衾へ騎馬が突入し、人馬が折り重なる。
「ぐあああああああああああああっ」
「腕が!俺の腕!」
「ぎゃあああっ!」
「引くなあああああああああ!」
人の大波は相互にぶつかり揉み合い、崩れ、打ち潰される。
そこへ前田勢が容赦なく食い込む。
利家はその中心を駆け抜ける。
血飛沫が頬へ掛かる、だが利家は止まらない。
槍を振るい、敵を薙ぎ払い、笑うように戦場を駆けていく。
土煙。
砕けた刃。
僅かな時間のその喧噪、そして前田家の旗がその人の波を貫いた。
湿地へ転がる兵。
伊勢隊は耐えきれなかった。
一箇所崩れたその亀裂は瞬く間に広がり、隊列そのものが裂け始める。
荒々しく、そして何より止まらない。
伊勢貞興隊は総崩れとなった。
「貞興様、お引きを!殿は我らが務めます!お早く!」
「前田利家、織田には勿体なき勇ましさよ、者共引け!城へ引けぇ!」
組織的に退いてゆく伊勢隊を利家は追わなかった。
「利家様」
「おう、追わんで良い。」
利家はその場で槍を掲げた。
「伊勢貞興、見事なり!また手合わせ願おうぞ!」
伊勢貞興の背中を見つめながら声高らかに叫ぶ。
「よし、初戦は我らの勝ちじゃ!鬨の声!」
「えいっ!」
「「「「「おぉぉっ!」」」」
「えいっ!」
「「「「「おぉぉっ!」」」」
戦の初戦は織田の勝利となった。
その後伊勢隊は槇島城へボロボロの状態で城へ辿り着いた。
城の庭へ敗走した兵たちが次々となだれ込んでくる。
泥に塗れた足軽、槍を失った奉公衆、傷を押さえながら呻く兵。
中には味方へ支えられねば歩けぬ者すら居た。
城門が慌ただしく開かれ、負傷兵が運び込まれる。
その空気は既に“敗軍”のものだった。
城門を潜った伊勢貞興は、血に濡れた槍を乱暴に捨てた。
肩で荒く息をしている。
具足の袖は裂け、頬には泥と血が混じっていた。
「申し訳ございませぬ……!」
貞興はそのまま義昭の前へ膝を突いた。
「霧に乗じ敵陣を崩そうと致しましたが、織田の先鋒は鬼のような強さにございました。」
広間には重苦しい沈黙が落ちていた。
義昭は上座に座している。
だが、その顔色は明らかに悪かった。
既に誰も理解していた、槇島城は完全に包囲されつつある、そして主力での朝霧に紛れた奇襲は失敗に終わった今、残る選択肢は籠城の選択しか残っていないのだ。
城外では佐久間信盛が着実に陣を狭め、宇治川沿いには木瓜紋の旗が幾重にも並んでいる。
三淵藤英が低い声で言った。
「……織田勢の損害は」
貞興は悔しげに唇を噛む。
「軽微にございます」
広間がさらに静まり返った。
義昭は黙ったまま俯いている。
奇襲は、単なる嫌がらせではなかった。
あれは“まだ戦える”と示すための戦だったのである。
将軍家はなお健在。
そう内外へ示す必要があった。
だが、その最後の意地すら、織田勢は容易く踏み潰した。
広間の隅では、負傷した奉公衆たちが静かに手当を受けている。
血の匂い。
湿った空気。
誰も口数が少ない。
義昭はしばらく黙っていたが、やがて顔を上げた。
「……武田からは」
その声は掠れていた。
「未だ、返書は来ぬのか」
「今頃甲斐へ着いたもの思われます。返書までは....。」
家臣たちが顔を見合わせる。
誰もすぐには答えられなかった。
義昭の苛立ちが滲み始める。
「なぜ武田へ赴いた使者たちは戻らないのか!陪部やその一行はどうした?武田家からの書が来なくなり久しいぞ!取次役は何をしている。」
「確認したところいまだ書は来ていないと、恐らく織田が街道を早々に閉鎖したためのせいかと。」
「おのれ信長め!!」
その声が広間へ響いた。
空気が震える。
奉公衆たちが息を呑む。
義昭の脳裏には、最後の希望がなお残っていた。
武田信玄。
三方ヶ原で徳川を打ち破った甲斐の虎。
あの男が西へ動けば、信長とて無傷では済まぬ。
だからこそ義昭は耐えていた。
浅井朝倉が動けぬ今も。
本願寺が沈黙している今も。
なお槇島へ籠もっているのはすべてその男の到着を待つ為である。
そして籠城を始め3日程経った5月29日の事である。
廊下の向こうで慌ただしい足音が響く。
「ご注進……!」
一人の使番が広間へ駆け込み、その場へ平伏した。
「甲斐より、書にございます!」
空気が変わった。
義昭が顔を上げる。
三淵藤英も、伊勢貞興も、一斉に使番を見る。
使番は震える手で文箱を差し出した。
義昭はほとんど奪うようにそれを受け取る。
広間には誰一人声を出す者が居ない。
義昭は急ぐように封を切った。
だが、読み進めるうちにその表情がゆっくりと変わっていく。
書の内容は
・今は病による静養中にて参上できかねる。
・織田の動きは認知しており国境の警戒で手一杯。
・德川の動きも収まっていないので京までの軍勢移動困難。
・時期を待たれたし。
援軍を約する言葉は、どこにも無かった。それどころか信玄の押し印もなく淡々とした文字のみ記されている。
義昭の手が震え、紙がかすかに揺れた。
「……武田は」
義昭は呆然と呟くも広間の誰も動けない。
義昭はゆっくりと文を見つめたまま、力無く続けた。
「……信玄公は、来てくださらないのか……」
その声はか細く小さかった。とても将軍の声とは思えぬ程、希望を失った一人の男の声だった。
広間へ絶望と沈黙が落ちる。
外では雨が降り始めていた。
しとしとと静かな雨だった。
花を開き始めたアジサイが雨粒を迎え入れる様に葉を揺らす。
宇治川を満たし、槇島の城壁を濡らし、包囲する織田軍の陣幕を淡く霞ませていく。
誰も口を開けなかった。
だが、その場の全員が理解していた。
もう頼みの援軍は来ない。
そして室町幕府は、今まさに終わろうとしているのだという事を。
【陪部達の奇妙な接待】
1573年5月26日
岡崎城の庭は、若葉の色に満ちていた。
昨夜降った雨の名残が庭石を濡らし、朝日に照らされた青紅葉が淡く光っている。風が吹くたび葉が揺れ、その隙間から初夏の陽光が細かく庭へ落ちていた。
戦乱の世とは思えぬほど穏やかな景色だった。
「いやぁ、実に良い季節ですな」
徳川家康は上機嫌だった。
庭へ面した広間には茶席が設けられ、香が焚かれ、涼しげな水音まで聞こえる。
そこへ招かれていたのは、甲斐より戻った朝廷・幕府方の使者一行、倍部弦明たちである。
家康は自ら茶を勧めながら、満足そうに庭を眺めていた。
「三河の若葉は美しい。特に雨上がりは格別にござる」
「……左様にございますな」
弦明は愛想よく頷いた。
頷いたが、内心は穏やかではない。
帰れないのである。
いや、正確には“帰してもらえない”訳ではない。
徳川方は誰一人として「帰るな」とは言わない。
むしろ逆だった。
「どうかごゆるりと、何やら美濃へ抜ける街道には怪しげな武者たちが待ち構えているとの報告もあります故、街道が落ち着くまで当家で皆皆様をもてなすのは勤めというもの。」
実に丁寧、実に親切。
だが、気付けばもう数日が経っていた。
弦明としては一刻も早く京へ戻らねばならない。
武田で見聞きした事を報告する義務がある。
朝廷への復命もある。
何より今の京は不穏極まりない。
信長が動く可能性は高く、義昭との関係も悪化している。
このまま岡崎でのんびり茶など飲んでいる場合ではないのだ。
だが、徳川方にはその緊張感が妙に薄かった。
「ささ、本日は浜松より良き鰻が届いております」
酒井忠次が穏やかに笑う。
続いて運ばれてきたのは見事な白焼きだった。
炭火で焼かれた香ばしい匂いが広間へ広がる。
さらに鯛の焼き物、白魚の吸物、海老の酢漬けまで並ぶ。
もはや宴である。
弦明の隣に座る侍従が小声で呟いた。
「……我らは、何故ここまで歓待されておるのだ」
「知らぬ」
弦明も本気で分からなかった。
ただ一つ分かるのは徳川方は本気で“もてなしている”つもりなのだ。
そこに悪意が無い。
家康など、完全に善意である。
「京へは今少し待たれた方が宜しい」
家康は鰻を食べながら穏やかに言った。
「信長殿も、どうやら大軍を動かしておる様子。今街道へ出れば、軍勢に巻き込まれるやもしれませぬ」
「されど我らには報告が」
弦明が言うと、家康は即座に頷いた。
「勿論、勿論」
「されどまずは御身の安全が大事にござる」
実に真っ当な事を言う。
正論である。
しかも態度が柔らかい。
だから困る。
「野盗や浪人が潜んでおるやもしれませぬしな」
横から本多忠勝が真顔で付け加えた。
「左様にございます」
酒井忠次まで頷く。
「何かあっては我らが困りまする」
困るの意味が違う気がする。
弦明は薄々そう思い始めていた。
この者たち。
どうも本気で“保護”しているつもりらしい。
つまり彼らの中では
京へ向かわせぬ事=安全確保”
もてなし=礼儀。
滞在=配慮
なのである、そのに悪気が全く無い。
家康など完全に「危険だから今は止めておこう」くらいの感覚でいる。
だが弦明たちからすればたまったものではない。
京では何が起きているか分からぬのだ。
しかも甲斐での出来事は、一刻も早く朝廷へ伝えねばならない。
なのに目の前では家康が実に穏やかな顔で茶を飲んでいる。
「いやぁ、平和が一番ですな」
その一言に、弦明はとうとう箸を止めた。
平和。
この男は今、平和と言った。
確かに三河、岡崎は平和だった。
若葉は美しく風は穏やかで朝採れたばかりという魚や海老は新鮮で美味い。
だが京では、恐らく今まさに軍が動いている。
将軍家と信長が対峙しようとしている、天下が揺れようとしている。
なのに徳川家康は実に穏やかだった。
まるで長年胸へ乗っていた重石が消えたかのように。
家康は庭を眺めながら、ふと呟く。
「……今年の夏は、静かになるやもしれませぬな」
「そうだとよろしいですね。」
「獣退治はもう嫌じゃ、二度と、二度とあのような目に会いたくない。」
弦明はその横顔を見た、そこでようやく理解する。
この男何かを知っている。
そして、その“何か”を、自分たちへ絶対に言うつもりが無いのだと。




