入れない者達
5月25日
京の空は、朝から重たく曇っていた。
雨こそ落ちてはいない。だが湿り気を帯びた空気が都全体へ垂れ込め、まるで誰もが息を潜めているかのような静けさが町を覆っていた。
通りに人の行き来は少ない。
店の戸は半ば閉ざされ、行き交う町人たちも皆、どこか落ち着かぬ様子で足早に通り過ぎていく。
京は既に包囲されていた。
だが、まだ戦は始まっていない。
だからこそ余計に、人々は恐れていたのである。
何かが始まる、それだけが誰の胸にも重く沈んでいた。
その日の正午前、二条御所では将軍足利義昭と織田信長の会談が行われようとしていた。
信長の呼び掛けによるものである。
御所の広間には奉公衆たちが緊張した面持ちで並び、真木島昭光、三淵藤英、伊勢貞興らが周囲を固めていた。
義昭は上座に座している。
その姿勢はなお将軍としての威厳を保っていたが、その顔色には疲労と焦燥が隠し切れず浮かんでいた。
昨夜から悪い報せばかりが届いている。
浅井朝倉は動けない。
羽柴秀吉と柴田勝家の軍勢が北近江へ猛烈な攻勢を掛け、浅井は救援どころではなく、朝倉もまた浅井支援へ兵を割かざるを得ない状況だという。
さらに本願寺。
石山本願寺へ送った急使は、南方街道を押さえた滝川一益勢によって途中で止められた。
よってそもそも文すら届いていない。
そして武田。
義昭は未だ武田信玄を頼みにしていた。
三方ヶ原にて徳川を打ち破った甲斐の虎。
あの男が西へ動けば、信長とて無傷では済まぬ。
そう信じていた。
だが返書は来ない。
いや、そもそもまだ確認すら取れていない。
信長の侵攻が早過ぎたのである。
使者を送り、返書を待ち、軍を動かす。
本来ならば戦とはそういう時間の上に成り立つものだった。
だが今回、信長はその全てを踏み潰すように京へ現れた。
義昭は扇を握る手へ力を込めた。
「……武田は何をしておる」
誰へ向けたとも知れぬ呟きだった。
三淵藤英は黙ったまま視線を伏せる。
返せる言葉など無い。
やがて襖の向こうで声が響く。
「織田上総介様、御着にございます」
広間の空気が凍りつく。
静かな足音が近づいてきた。
襖が開く。
織田信長が姿を現した。
後ろには村井貞勝、佐久間信盛らが従っている。
だが義昭は、まず信長自身を見た。
信長は驚くほど静かだった。
大軍を率いて京を包囲している男とは思えぬほど穏やかで、その眼差しには激情も焦りも無い。
それが逆に不気味だった。
信長は座し、深く頭を下げた。
「公方様」
「上総介」
短い沈黙。
誰も動かない。やがて義昭が先に口を開く。
「本題に入ろうか」
その声音には、まだ将軍としての威厳があった。
「此度の軍勢、如何なるつもりか」
信長は静かに答える。
「京を乱さぬためにございます」
義昭の眉がぴくりと動いた。
「乱さぬ、と申すか」
義昭は低く笑った。
「二万を超える兵で都を囲み、街道を閉ざし、将軍家へ圧を掛けながら、そのような事を申すか」
信長は表情を変えない。
「囲まねば、より大きく乱れる故にございます」
「誰が乱しておる」
義昭の声が鋭くなる。
「武田、浅井、朝倉、本願寺……天下の諸勢力が立ち上がったのは、そなたがあまりにも専横であるからだ!」
広間の空気が張り詰める。
だが信長は静かだった。
「公方様」
その声は低く落ち着いていた。
「諸勢力が立つのは、公方様が呼ばれるからにございます」
義昭の目が細くなる。
「……何」
「武田も、浅井も、朝倉も、本願寺も」
信長はゆっくりと言葉を重ねた。
「皆、公方様の御内書を旗として動いております」
「将軍として当然の事」
「ですが、その度に天下は乱れる」
義昭は扇を握り締めた。
「天下を乱しておるのはそなたであろう!」
その声には怒りだけではない。
焦りが混じっていた。
「そなたは比叡山を焼き、寺社を脅かし、武家の秩序を崩しておる!将軍家を軽んじ、朝廷すら己が力の下へ置こうとしておるではないか!」
信長は僅かに目を伏せた。
「……私は、天下を静めたいだけにございます」
「静める、だと?」
義昭は嘲るように笑った。
「そのために将軍を京から追い出すのか」
信長はそこで初めて真っ直ぐ義昭を見た。
「公方様には、京を離れて頂きたい」
その言葉は静かだった。
だが、あまりにも決定的だった。
広間の空気が凍る。
三淵藤英が顔を上げる。
真木島昭光の視線が鋭くなる。
義昭はゆっくりと立ち上がった。
「……離れよ、と申したか」
「左様」
「将軍家へ都を捨てろと?」
「今ならば、まだ穏便に済みます」
義昭の目が怒りに燃え上がる。
「穏便だと?」
義昭は信長を睨みつけた。
「上総介。そなたは己を何と心得る」
信長は答えない。
義昭は続ける。
「そなたは将軍家を奉じて上洛した。足利を支える臣として京へ入ったのではないか」
その声には、怒りと共に別の感情が混じっていた。
失望。
裏切られたという思い。
「それが今や、将軍へ京を去れと言う」
義昭は吐き捨てるように言った。
「そなたは幕府を潰すつもりか」
信長はしばらく沈黙した。
やがて静かに口を開く。
「……私は、公方様を討ちたい訳ではございませぬ」
「ならば何故だ!」
「このままでは、天下での戦が終わらぬからにございます」
義昭の眉が動く。
信長は続けた。
「武田、浅井、朝倉、本願寺、皆公方様の名の下に集う。公方様が京に居られる限り、この戦は終わりませぬ」
義昭は強く扇を打ち鳴らした。
「終わらせぬ!」
その声が広間へ響く。
「信玄公は必ず来る!」
その瞬間だった。
広間が静まり返る。
信長だけは表情を変えなかった。
ただ静かに義昭を見つめている。
その沈黙が、逆に義昭を苛立たせた。
「浅井も朝倉も、本願寺も立つ! 天下はまだそなたを認めてはおらぬ!」
義昭は言い切った。
「将軍家は退かぬ。京も去らぬ、将軍家に仇なす不義者はそなただ!信長!」
信長は小さく息を吐いた。
その顔には怒りは無い。
あるのは、どうしようもない隔たりを見つめる静けさだけだった。
「……左様にございますか」
やがて信長はゆっくり立ち上がる。
「残念にございます」
それだけ言い残し、膝を立て、立ち上がる。
その瞬間交渉は決裂した。
信長と家臣団はその場を離れた。
「将軍様、いかが致しますか。」
「この戦力差致し方ない、増援が来るまで籠城するぞ!」
「はっ!」
足利義昭は二条御所を離れ、宇治の槇島城へ入る。
将軍家最後の籠城であった。
宇治川に守られた槇島は、決して大城ではない。
だが義昭にとっては、なお将軍家再起の望みを繋ぐ最後の砦だった。
浅井朝倉が動く。
本願寺が立つ。
毛利もやがて応じる。
そして武田――。
義昭はなお、そう信じていた。
一方、信長は妙覚寺へ本陣を置いた。
京の町は緊張が張り詰めている。
街道は閉ざされ、橋は押さえられ、木瓜紋の旗が都の各所へ翻っていた。
だが信長は、まだ京へ火を放ってはいない。
兵たちは静かに配置され、佐久間勢が市中を巡回し、村井貞勝ら奉行衆が町人の混乱を抑えている。
まるで巨大な獣が、獲物の息が止まるのを静かに待っているかのようだった。
その頃、禁裏。
すなわち天皇御所周辺では、明智勢と共に医務衆が陣を敷いていた。
御所近辺は、京の中でも異様な静けさに包まれている。
戦の気配は近い。
だが同時に、ここだけは絶対に乱してはならぬという空気が、織田方全体に徹底されていた。
明智勢の兵たちは礼儀正しく、道を通る公家衆へ深々と頭を下げる。
その姿に、朝廷側の人間たちは幾分安堵していた。
明智光秀という男は、禁裏に仕える者たちにとって既に馴染み深い存在だったのである。
元より公家との結び付きも強く、和歌や茶の湯にも通じ、京での折衝も多い。
侍従や奉公衆たちは、光秀の姿を見ると自然に肩の力を抜いていた。
「光秀殿がおられるならばここは安心」
そう口にする者すら居る。
実際、この日だけでも光秀の陣には多くの公家方の使者や侍従が出入りしていた。
水や兵糧の確認。
御所周辺の警備状況。
万一の避難経路。
光秀はそれらへ一つ一つ丁寧に応じていく。
その姿には、単なる武将ではなく“京を扱う者”としての顔があった。
御所と光秀の陣より少し離れた寺院には、もう一つ別の集団が静かに陣を構えていた。
医務衆である。
寺院の境内には牛車が並び、荷駄が下ろされ、薬草を煎じる独特の匂いが漂っていた。
白布を掛けた担架。
見慣れぬ木箱。
水桶。
布を煮沸する大鍋。
そして僧形や女たちを含む、異様に統率された集団。
朝廷側の者たちは、その光景を遠巻きに見ていた。
「……あれが医務衆」
若い侍従が小声で呟く、名前だけは知っている。
坂本の疱瘡を抑えた集団。戦場へ赴き、負傷兵を拾い、織田軍を支えているという謎の軍勢。
だが、それ以上は分からない。
率いる将の名は桃慧。
しかし、その素性を知る者は朝廷側にはほとんど居なかった。男とも女とも知れぬ。僧だとも、南蛮医師だとも、曲直瀬道三の弟子だとも噂されている。
ただ一つ確かなのは、信長がその集団を極めて重く扱っているという事だけだった。
侍従長は、寺院の境内を眺めながら眉を寄せた。
医務衆たちは妙に静かだった、兵の集団であるはずなのに殺気が薄い。だが、だからこそ逆に不気味だった。
彼らは武器ではなく薬箱を整え、矢弾ではなく包帯を運んでいる。
しかし光秀の話によると織田軍二万余のこの短期間での行軍を成立させているのは、まさにこの集団だという。
侍従長は視線を明智光秀へ向けた。
「光秀殿」
「は」
「あの者たちは……何者なのです」
光秀は少しだけ目を細めた。
その問いは、この数日で何度も受けていた。
光秀は寺院の境内へ視線を向ける。
そこでは、まだ年若い少女が荷駄の確認をしていた。
粗末な僧衣。
小柄な身体。
だが周囲の者たちは、誰一人として彼女へ逆らわない。
柚が薬草の確認をし、宗次が搬送路を調整し、琴が負傷兵の寝床を整えている。
その全てが、あの少女を中心に動いていた。
光秀は静かに口を開く。
「医務衆は、信長様直属の医療衆にございます」
「医療衆……」
「元は坂本疱瘡の折に編成された集団です」
侍従長は再び境内を見た。
「あの者たちが、疱瘡を」
「左様」
光秀は頷く。
「坂本にて疱瘡の蔓延を抑え、焼き討ち後の町を立て直し、多くの民を救いました」
侍従長の顔に僅かな驚きが浮かぶ。
噂では聞いていた。
だが、目の前の集団はあまりにも若く、そして奇妙だったのである。
光秀は続けた。
「今では戦場へも同行しております」
「負傷兵の搬送、治療、疫病対策、補給補佐……その役目は多岐に渡ります」
「……それほどまでに」
「ええ」
光秀は小さく笑った。
「正直、私も最初は半信半疑でした、いや正直に申しますと不愉快な存在でした。」
侍従長が視線を向ける。
光秀は少し間を置いてから言った。
「ですが、今では織田軍に欠かせぬ存在です。かの者達が無ければ軍の進軍速度も、継戦能力も大きく落ちましょう」
侍従長は驚いたように目を見開く。
それはつまり、単なる医者集団ではない。
軍そのものを支えているという事だ。
しかし、どこをどう見ても武家の軍勢には見えない。
侍従長は小さく眉を寄せた。
「……しかし、不思議なものですな」
光秀が視線を向ける。
「何がにございます」
「医者衆でありながら、坊主姿の者も多い。されど祈祷をしている様子は無い」
実際そうだった。
寺院を借り受けているにも関わらず、医務衆の者たちは護摩を焚くでもなく、祈祷札を並べるでもない。
薬草を煎じ、布を洗い、湯を沸かし、負傷兵の脈を測り、傷を洗っている。
まるで病や怪我を“理”として扱っているようだった。
光秀は僅かに笑みを浮かべた。
「ええ。あれらは、祈祷や呪詛の類をあまり致しませぬ」
「ほう」
「病を病として見、怪我を怪我として見る」
光秀は静かに言った。
「熱が出れば身体を冷やし、水を与える。傷が膿めば洗い清める。疫病が広がれば人を隔てる」
「まるで目に見える摂理を、一つずつ読み解くように治療を行うのです」
侍従長は少し驚いたように目を細めた。
「では仏も神も頼らぬと」
「いえ」
光秀はそこで首を横へ振った。
「あれらは、神仏を蔑ろにしている訳ではございませぬ」
光秀の視線が境内の隅へ向く。
「死者へは必ず弔いを行います」
光秀は低く続けた。
「戦場で命を落とした者を、そのまま放置する事をあれらは酷く嫌う」
「敵味方も問わず、せめて名を残し、清め整え、土を掛け、手を合わせる」
「……妙な連中です」
侍従長は再び医務衆を見つめた。
確かに奇妙だった。
坊主姿でありながら祈祷へ頼らず。
だが神仏を否定する訳でもない。
怪我人へ向き合う姿勢には、むしろ強い敬意すら感じられる。
光秀は静かに笑った。
「桃慧殿は、よく申されます」
『祈るだけで命が救えるならば、それほど良い事は無い。されど祈るだけで救えぬ命があるならば、人が手を伸ばさねばならぬ』
侍従長は少し黙った。
風が吹き、寺院の軒先で干されていた白布が揺れる。
光秀はその光景を見つめながら続けた。
「ですが同時に、あれらは人命を軽んじる事を何より嫌います」
「戦場にて、傷付いた者を見捨てる事を良しとせぬ、病を“穢れ”として追い払う事も嫌う。命をあまりにも真正面から見過ぎるのです」
その言葉には、僅かな苦笑が混じっていた。
「……故に異質なのです」
侍従長は小さく呟いた。
「神仏へ縋らず、されど神仏を否定せぬ……か」
「ええ」
光秀は頷く。
「恐らくあれらは、“祈り”を否定している訳ではないのでしょう」
「ただ、祈るだけでは足りぬと知っているのです」
侍従長は再び境内を見る。
そこでは若い女僧が、傷付いた足軽の包帯を静かに巻き直していた。
その横で、若い女が薬草を煎じ、そのものと同い年くらいの若い女が寝床を整えている。
誰も大声を出さない。
誰も武功を誇らない。
だが、その場には妙な静けさと秩序があった。
侍従長はしばらくその光景を見つめた後、ようやく小さく息を吐いた。
「……成る程。確かに、不思議な連中ですな」
光秀は静かに笑う。
「ええ。私も未だに、完全には理解出来ませぬ」
侍従長は、なおもしばらく医務衆の陣を眺めていた。
寺院の境内には、不思議な静けさがあった。
外では二万を超える軍勢が将軍家を包囲し、槇島では戦支度が進み、都全体が張り詰めているというのに、この場所だけはまるで別の空気で動いている。
湯を沸かす音。
薬草を刻む音。
水を運ぶ音。
足を怪我している兵へ掛けられる静かな声。
そこには戦場特有の殺気が薄かった。
だが、それ故に逆に異質だった。
侍従長は境内の中央へ視線を向ける。
小柄な僧衣姿が、荷駄の確認をしていた。
周囲の者たちは自然に道を空け、その者の指示へ従っている。
(もしや、あれが桃慧。)
噂の医務衆を率いる者。
だが侍従長には、とても軍勢を束ねる将には見えなかった。
しばし黙っていた侍従長は、やがて静かに口を開く。
「……光秀殿」
「は」
「もし差し支えなければ、この軍を率いる桃慧殿とやらへ挨拶は出来ぬものか」
その瞬間だった。
光秀の表情が、僅かに変わる。
本当に僅かだった。
だが、先程までの柔らかな空気が少しだけ引いた。
光秀は静かに視線を伏せる。
「……申し訳ございませぬ」
その返答は穏やかだった。
しかし明確な拒絶だった。
侍従長は少し驚いたように目を細める。
「難しい、と」
「ええ」
光秀は短く頷く。
「これは信長様のお考えにございます」
侍従長は黙って続きを待った。
光秀はゆっくりと言葉を選ぶ。
「桃慧殿は確かに医務衆を率いる者です。されど同時に、傷を洗い、膿を扱い、血を浴び、死者へ触れる者でもございます」
光秀は静かな声で続けた。
「信長様は、そのような者を禁裏へ近付け過ぎる事を良しとはされませぬ、故に今も御所と私の陣からも離れた位置にこうしてこの者たちが陣を張っているのです。」
侍従長は少し眉をひそめた。
「穢れ、という事ですか」
だが光秀は、即座に首を横へ振った。
「いいえ」
その声には迷いが無かった。
「信長様は、桃慧殿を穢れとして扱っておられる訳ではございませぬ」
光秀は医務衆の陣を見つめる。
「むしろ逆に、極めて重く扱っておられます、まるでご身内かと見えるほど」
「それはこの軍を見れば分かります」
侍従長は小さく頷いた。
信長が医務衆へ与えている裁量は異常だった。
軍勢の中にありながら独立性が高く、将たちすら軽々しく口を挟めない。
その扱いは、もはや一軍に近い。
光秀は静かに続ける。
「ですが朝廷には朝廷の理がございます。穢れを避け、清浄を保つそれもまた、京を支える大切な秩序」
侍従長は黙って聞いていた。
「信長様は、その秩序を無闇に乱したくは無いのでしょう」
光秀は少し苦笑した。
「信長様は、時折誤解されますが……あの御方は案外、その辺りをよく見ておられます」
「比叡山はお焼きになられたのに」
「あの山の事は利権と欲に溺れたもの達を成敗しただけに過ぎませぬ。」
「これは失礼いたしました。」
侍従長は意外そうに目を細める。
光秀は小さく息を吐いた。
「桃慧殿は将でありながら、同時に戦場の穢れそのものへ触れる者です。血を洗い、腐敗を扱い、死へ最も近い場所に居る。故に必要以上に朝廷との面識を持たせぬ」
光秀はゆっくりと侍従長を見る。
「それは桃慧殿を下に見るためではございませぬ、むしろ朝廷側への配慮にございます」
侍従長は静かに目を伏せた。
京には古くから積み上げられてきた“理”がある。
穢れと清浄。
血と死。
それらを遠ざける事で保たれてきた秩序。
そして一方で、医務衆はその穢れへ真正面から手を突っ込む集団だった。
なるほど、と侍従長は思う。
確かに禁裏へ近付けるには異質過ぎる。
だが同時に、その異質さが今の織田軍を支えているのだという事も理解出来てしまう。
侍従長は再び境内を見る。
桃慧は、負傷兵の脈を静かに取っていた。
白く細い指先。
幼さの残る横顔。
凛とした立ち振る舞い。
だが、その周囲だけ空気が妙に張り詰めている。
あれが噂の神医。
あれが坂本を救った者。
侍従長はしばらく無言でその姿を見つめ、やがて小さく息を吐いた。
「……成る程、では一目お目通りだけでも。」
「それも……難しいでしょう」
光秀はちらりとほんの一瞬、大将らしくなく負傷者の面倒を見るのに走り回る桃慧の姿を見る。
「そうですか。」
侍従長はそれ以上は問わなかった。
光秀もまた、静かに頭を下げる。
遠くでは、京を包囲する織田軍の陣太鼓が低く響いていた。




