気道
1573年5月25日。
琵琶湖の湖面には薄靄が漂い、朝の光はまだ水の上で鈍く滲んでいた。湖西から吹き下ろす風は春の名残をわずかに残していたが、その冷たさも、坂本へ押し寄せる織田軍の熱気の前では意味を成さなかった。
街道は軍勢で埋め尽くされていた。
槍足軽が進む。
その後ろを鉄砲隊が続く。
荷駄が軋みを上げ、馬廻衆がその周囲を駆ける。さらにその後方では、医務衆が牛車と牛車の間を絶え間なく行き交い、強行軍によって倒れた兵を次々と収容していた。
二万四千のそ軍勢が一斉に動くという事は、もはや“軍”ではなく、一つの巨大な生き物が大地を這っているに等しかった。
その先頭近く、黒塗りの鞍へ静かに腰を下ろしていた織田信長は、湖面へ視線を向けたまま何も言わなかった。
坂本城。
明智光秀の居城であり、比叡山の麓を押さえる湖西最大の要衝。
信長はこの地で一時軍を休めた。
だが、それは疲弊した兵を労わるためではない。
京へ入る前に、最後の手を打つためであった。
坂本城下では、織田軍到着と同時に、光秀の家臣たちが慌ただしく動き始めていた。馬が駆け、伝令が山科方面へ飛び、街道筋へ物見が散る。
その喧騒の中で、光秀だけは妙に静かだった。
光秀は城の櫓から、延々と続く軍列を見下ろしていた。
「……恐ろしいまでの速さですな」
背後に立つ斎藤利三が小さく呟く。
光秀は静かに頷いた。
「これほどの軍を、この速度で京へ運ぶなど、本来は無理なのです」
利三の視線が、後方を進む医務衆の牛車へ向いた。
「しかし、あれが居る」
荷台には負傷兵が横たわり、医務衆たちが水を配り、薬草を煎じ、足潰れを起こした兵の処置を続けている。
普通なら行軍途中で脱落していく者たちを、織田軍は回収しながら進んでいるのである。
光秀は薄く笑った。
「信長様は、戦そのものを変え始めておられる」
その言葉には感嘆と、僅かな畏れが混じっていた。
坂本に着き程無くして町人たちが突然ざわめきだす、町人達は軍列の後方へ現れた一団を一見した。
「あれ……」
軒先から覗いていた老婆が目を見開いた。
「おい!医務衆じゃ」
誰かが呟く。
「桃慧様だ!」
その瞬間だった。
閉ざされていた戸が一斉に開いた。
「え?桃慧様?」
子供たちが飛び出し、女たちが桶を抱えたまま走り出し、老人たちが杖を突きながら街道へ集まり始める。
織田兵たちは一瞬何事かと身構えた。
だが坂本の民たちは兵へ向かったのではない。
真っ直ぐ、医務衆の牛車へ駆け寄っていったのである。
「桃慧様ーっ!」
「お帰りなさいませ!」
「琴ちゃん! 琴ちゃんも居るか!」
突然の大騒ぎに、救走班の宗次が思わず目を丸くした。
「うおっ……何だ何だ」
牛車の横を歩いていた柚が苦笑する。
「まぁ、坂本ですからねぇ」
そしてその中心で、一番困った顔をしているのは桃慧だった。
桃慧は馬上から町人たちを見下ろしながら、完全に固まっていた。
「……え」
次の瞬間、老婆が拝む。
「ありがたや……」
さらに別の町人も拝む。その後ろでも拝む、何故か次々拝む。
完全に変な宗教家のように続々と町人たちが参拝を始めたのである。
「ちょ、ちょっと待ってください」
桃慧は流石に狼狽えた。
「何故拝むのですか」
「だって桃慧様ですもの!」
町娘が真顔で答える。
「疱瘡の時、うちの子助けてもらいました!」
「うちなんぞ焼けた後、粥まで貰ったんじゃ!」
「桃慧様の薬飲んだら本当に熱下がったんだぞ!」
次々声が飛ぶ。
坂本の民にとって、医務衆は単なる織田の医者ではなかった。
比叡山焼き討ち。
あの地獄最中、危険を顧みず真っ先に撫で斬りの阿鼻叫喚の中へ入り、怪我人を拾い集めたのが桃慧達だったのである。
焼け跡で泣く子供へ粥を配り、火傷を負った者へ薬を塗り全員が快復するまで手をかけた。
疱瘡が流行れば症状ごとに隔離し、対処療法を徹底し疱瘡を退けた。
凍える人々に栄養価の高い食事を提供し、焼き討ち後の流行病という悲惨な状況の立て直し、復興の根幹を作ったのが桃慧が率いた医務衆なのである。
坂本の民にとっては、もはや“医者”というより“救い主”に近かった。
「琴ちゃーん!」
突然、人混みの後ろから女の声が飛ぶ。
琴が「あっ」と声を上げた。
「お母さん!?」
人混みを掻き分けて現れた中年女は、涙目で琴へ飛びついた。
「あんたまた痩せたんじゃないの!?」
「いや、痩せてませんって!」
「顔色悪い!」
「私より桃慧様の方が顔色悪いです!」
「えっ」
全員の視線が桃慧へ向いた。
桃慧は無表情で視線を逸らした。
「……大丈夫です」
「ほんとだ、全然大丈夫そうに見えませんが!?」
さらに町人たちがざわつく。
「桃慧様、お疲れなんじゃ……!」
「水を! 誰か水!」
「座布団持ってこい!」
突然始まる大騒ぎ。
宗次は吹き出しそうになりながら頭を掻いた。
「坂本だと本当に人気だな……」
「というかこれではまるで信仰ですねぇ」
柚が呆れ半分で笑う。
その時、道の向こうから馬が近づいてきた。
明智光秀である。
供回りを連れた光秀は、人だかりを見た瞬間、小さく目を細めた。
「……またですか」
利三が苦笑する。
「城下の者ら、完全に桃慧様目当てですな」
実際その通りだった。
誰一人、「光秀様だ!」とは言わない。
全員、「桃慧様ー!」である。
光秀は小さく溜息を吐いた。
「私も頑張って善政に努めてると思うのですが。」
その声には僅かに疲労が滲んでいた。
だが利三は真顔で頷く。
「しかし光秀様、坂本で桃慧様より人気を取るのは無理かと」
「……否定できぬのが辛いところです」
その頃には、桃慧は完全に包囲され人の渦の中に孤立していた。。
子供に袖を引かれ、老婆に手を握られ、何故か野菜まで渡され始めている。
「これうちで採れた胡瓜です!」
「いや受け取れません」
「では茄子を」
「そういう問題ではっ。」
「桃慧様!」
溌溂とした声がその場に響く。
桃慧は視線をその声の主へ向ける。
「桃慧様!梅です!お久しゅうございます。」
「梅ちゃん!お元気でしたか!」
そして桃慧の前まで来ると、深く頭を下げた。
「あ、あの時は……ありがとうございました」
桃慧は少し困ったように瞬きをした。
「……元気そうですね」
梅は顔を上げる。
その頬には、うっすらと疱瘡痕が残っていた。
だが、その目はしっかりと生を宿している。
「はい!今では元気に母様と畑仕事頑張ってます!」
「そうですか、すっかり大きくなりましたね」
桃慧は静かに頷いた。
「良かった」
梅は少し躊躇ってから、小さく笑った。
「私、お薬苦かったの覚えてます」
その瞬間、周囲の医務衆が吹き出した。
柚や琴が堪えきれず笑う。
「桃慧様が作る薬ですもんね、苦いに決まってますよ」
あやめが暢気に笑っている。
「あの時の調薬はあやめ殿だったような」
治長がポツリと囁くとあやめはギクッとしたような表情で桃慧の陰に隠れる。
「苦かったですか、確か甘草や蜂蜜も混ぜて甘くしたような記憶が....」
不思議そうに桃慧が首をかしげる。
「でも本当に苦ったです」
梅は満面の笑みで笑顔を咲かせた。
死ぬかもしれないと思っていた自分へ、何度も水を飲ませ、夜通し看病し続けてくれた人。
だから梅にとって桃慧は、織田の医者ではない。
生きる事を繋いでくれた人だった。
梅は懐から小さな包みを取り出した。
「あの、これ……」
中には、不格好なナスやキュウリ、芋などの野菜が幾つか入っている。
「お母さんと作ったんです」
桃慧は少し戸惑った。
「……私に?」
「はい!」
梅は嬉しそうに頷く。
桃慧はしばらくその包みを見つめ、それから静かに受け取った。
「……ありがとうございます」
その言葉を聞いた瞬間、梅はぱっと顔を明るくした。
その笑顔を見ながら、桃慧はほんの僅かに目を細める。
その横で琴が小さく笑った。
「良かったですね、桃慧様」
「……何がですか」
「また会えて。」
桃慧は「そうですね、医者の冥利に尽きます。」そう囁くと、ただ手の中の小さな飴を見つめながら、少しだけ、その指先の力を緩めていた。
そしてその日の夕刻。
坂本へ信長着陣の報せは、早馬によって京へ届けられた。
使者が将軍御所へ駆け込んだ時には、既に陽は傾き始めていた。
御所の廊下には重苦しい空気が流れている。
近頃の京は、どこか息苦しかった。
二月の挙兵以来、将軍足利義昭は再び反織田勢力の結集を図っていたが、未だ誰も決定的には動いていない。反織田の盟主となる武田は徳川への侵攻後甲斐にて沈黙を保っており、共に歩みを進める浅井や朝倉は夏場の戦に向けて力を溜めている。
誰もが、将軍家が号令を出す“次”を待っていた。
だが、その空想を破るように使者は叫んだ。
「申し上げます!織田信長、坂本へ入城!」
義昭は思わず顔を上げた。
「……織田が坂本にだと?」
「はっ。軍勢は二万を超える由!当初浅井への牽制と思われていましたが進路は京にございます!」
部屋の空気が変わった。
奉公衆たちがざわめく。
伊勢貞興が顔色を変え、三淵藤英は無言のまま唇を引き結んだ。
義昭はしばらく動かなかった。
その表情から、ゆっくりと血の気が失われていく。
「早すぎる……なぜ気が付かなかった!」
「はっ、それが、23日頃に岐阜を出立し、わずかな期間で坂本まで達しており....」
「そんな話があるか!もうよい!下がれ!」
「はっ!」
「そのようなバカげた話があるか...」
義昭は低く呟いた。
信長が動く事自体は予想していた。
だが、まだ早いはずだったのである。
浅井朝倉も、本願寺も、武田も、まだ完全には動いていない。将軍家側もなお募兵の途中であり、京近郊の寺社や浪人衆への呼び掛けも終わってはいなかった。
それなのに、信長はもう坂本へ来ている。
義昭は扇を握る手へ力を込めた。
「真木島を呼べ」
その声は徐々に鋭さを増していく。
「奉公衆を集めよ。戦支度を急がせろ」
「はっ!」
「浅井朝倉へ急ぎ書状を出せ!将軍家危急と伝えよ!本願寺にもだ!六角殿にも至急伝えよ!」
近習たちが慌ただしく動き始める。
夜の京を、無数の早馬が駆け抜けていった。
その夜、京の町には奇妙な熱気が漂っていた。
武具屋には浪人たちが押しかけ、寺社では僧兵たちが古びた薙刀を引っ張り出し、奉公衆たちは急ぎ兵を集め始める。町でも信長が攻めてくると荷をまとめて出ようとするものすら居るほどだった。
比叡山焼き討ちを生き延びた僧兵たちもまた、将軍家の檄へ応じていた。
彼らの多くは既に行き場を失っている。
寺は焼かれ、僧房は崩れ、仲間は散った。
それでも彼らはなお、“将軍家”という古き権威へ最後の望みを見ていたのである。
「信長を討つ」
疲れた目をした老僧が呟く。
「比叡山の恨み、今こそ晴らす時ぞ」
5月26日。
だが、集まった兵は少なかった。
夜が明ける頃には、義昭側がかき集めた兵はわずか1200。
しかもその大半は、僧兵、浪人、寺社衆といった寄せ集めだった。
奉公衆の兵も決して多くはない。
真木島昭光、三淵藤英、伊勢貞興らが必死に陣を整えていたが、その顔には隠し切れぬ焦りが浮かんでいた。
一方その頃、織田軍は静かに動き始めていた。
まだ空が白み始めたばかりの刻限。
黒母衣衆の河尻秀隆が、先陣として丹波方面へ抜ける街道へ進出する。
黒母衣を背負った騎馬武者たちは、朝靄の中を音もなく駆け、橋を押さえ、辻を封鎖し、関所を占拠していった。
「ここより先、一切通すな」
河尻秀隆が短く命じる。
兵たちは無言で槍を立てた。
それだけだった、だがそれだけで京の呼吸は止まり始める。
山科への道、宇治へ抜ける街道、丹波口。
それらが次々と織田軍によって閉ざされていった。
火は上がらず、叫び声も無い。
ただ静かに、だが確実に、京は包囲されていく。
昼前になる頃には、悪い報せが義昭のもとへ雪崩れ込んでいた。
「丹波口封鎖!」
「山科街道、明智勢が押さえております!」
「宇治方面にも丹羽長秀軍が居ります!」
義昭は立ち上がった。
「浅井はどうした!」
返答は無い。
「朝倉は!」
三淵藤英が苦い顔で頭を垂れる。
「北近江にて柴田勢が猛烈な攻勢を掛けております。浅井方は救援どころではなく、朝倉もまた浅井支援へ兵を割かれております」
義昭の顔が歪んだ。
「本願寺は!」
「南は滝川一益が押さえております。石山には未だ織田侵攻の詳報すら届いておらぬ様子にございます」
その瞬間、義昭は扇を床へ叩きつけた。
「武田は何をしておる!!」
怒声が御所へ響き渡る。
「信玄はどうした!三方ヶ原で徳川を打ち破った男が、何故動かぬ!!」
誰も答えられなかった。
「なぜ甲斐へ引き返した、信玄が上洛出来て居たら信長なぞ今頃......!」
義昭はまだ知らない。
その名を叫んだ“甲斐の虎”が、既にこの世にいない事を。
そして織田信長だけが、その死を知った上で、この京へ向けて万全の拳を振り下ろしている事を。




