電光石火
1573年5月23日
桃慧が岐阜城に到着して幾日も経たぬ頃、未明まで岐阜城を包んでいた薄雨は、夜が明ける頃には静かに止み、湿り気を帯びた初夏の風だけが金華山の麓を吹き抜けていた。濡れた土の匂いと、夥しい馬の汗の匂いが城下へ重く漂っている。
その朝、織田信長は二万四千の軍勢を率い、京へ向けて出陣した。目的は京に居る将軍、足利義昭追放である。
大手門の外には、夜明け前から既に無数の旗が立ち並んでいた。木瓜紋を染め抜いた陣旗が幾重にも連なり、槍隊、鉄砲隊、騎馬武者、荷駄隊が絶え間なく街道へ流れ出していく。その様は、まるで巨大な濁流が西へ向けて一斉に流れ始めたかのようであった。
信長は馬上からその流れを静かに見下ろしていた。
周囲には丹羽長秀、佐久間信盛、明智光秀等の重臣たちが付き従っている。しかし誰もが、その異様な速度に言葉少なだった。
二万を超える軍勢というものは、本来もっと鈍重なものだった。兵糧の荷駄が詰まり、道幅の狭い場所では列が止まり、疲労した兵が次々に脱落する。まして六月の行軍である。湿気を含んだ熱気は兵の体力を奪い、熱病や腹下しを引き起こし、ただ歩くだけで人は潰れていく。
だが、この日の織田軍は違った。
先頭から最後尾まで、軍勢がほとんど淀まず動き続けている。
その理由を最も理解していたのは、信長自身だった。
軍列の後方では、医務衆が行軍と共に動いている。
その存在がこの行軍を支えていることを。
改装され、軽量化された牛車が幾台も連なり、その周囲を他とは一線を画す武具を身につけた医務衆たちが駆け回っている。通常の荷駄車より軽く作られ、荷台には藁と布が敷かれていた。本来なら兵糧や武具を積むべき牛車を2頭の馬で引き、人を運ぶためだけに作り替えた異様な代物である。
しかもその牛車は、単に重傷者を運ぶためだけのものではなかった。
熱中症で倒れた者。
足を挫いた者。
発熱した者。
脱水で歩けなくなった者。
そうした“今すぐには死なぬが、行軍を続けられぬ兵”を回収し、水を飲ませ、休ませ、再び軍列へ戻すためのものであった。
それは戦国の軍としては、あまりにも異質な仕組みだった。
やがて街道脇で、一人の若い足軽が膝をついた。
まだ年若い兵である。汗で髪を額へ張り付かせながら、肩で荒く息をしていた。
「す、すみません……っ」
足軽は槍を支えに立ち上がろうとしたが、脚が震え、再びその場へ崩れ落ちる。
「立てぬか」
横を進んでいた年嵩の兵が足を止めた。
「も、申し訳ありませ……」
「謝るな馬鹿」
年嵩の兵は周囲を見回し、それから静かに言った。
「そのまま座ってろ」
「お待ちください!で置いて行かないでください!まだ歩けます!」
「慌てるな」
その兵は、どこか当然のような口調で続けた。
「桃慧様の軍が来る」
若い足軽は、半信半疑のまま顔を上げた。
その時だった。
後方から、笛の音が響く。
すると人の合間を縫うように駆けつける兵がいる。
救走班だった。
負傷人床へ素早く載せ、症状確認後を済ませると最も近い位置に配置されている牛車へ向け駆ける。
すると直ぐに竹の柱に白布を幌として掛けた軽量牛車の元へたどり着く。兵たちと共に街道を進み、その周囲を医務衆が忙しなく走っている。
「熱射病だ!」
「保護水を飲ませろ!」
保護水とは現代で言う経口補水液、水に塩と蜜、乾燥した仙草煎じられ混ぜられた飲み物である。
仙草は高い解熱効果を持ちつつ、体の水分を保つ役割がある。
「こっちは足を捻ってるだけだ、固定して車へ!」
治癒班が竹筒の水を配り、救走班が兵を担ぎ上げる。さらに別の者が濡れ布で兵の首筋を冷やし、熱を測るように額へ手を当てていた。
若い足軽は呆然と呟いた。
「……本当に来た」
「だから言ったろうが」
年嵩の兵が笑う。
「今の織田軍は、倒れても拾われる」
その言葉には、不思議な安心感があった。
そしてその安心感こそが、織田軍の異様な速度を支えていたのである。
兵たちは知っていた。
倒れても見捨てられない。
脱落しても回収される。
それが兵たちにどれ程の安心感をもたらすのかを。
熱射病だけではない。行軍中に最も厄介な物は足元から来る。
琴は荷台へ腰を下ろしたまま、次々に運ばれてくる兵の足を診ていた。
擦り傷や捻挫よりも“足潰れ”の兵の方が増え始めている。
長距離行軍では珍しくない。
むしろ当然だった。
「次の人、足見せてください」
琴が声を掛けると、一人の足軽が申し訳なさそうに草履を脱いだ。
途端、周囲の医務衆が顔をしかめる。
「うわぁ……」
あやめが思わず声を漏らした。
足裏の皮膚が白くふやけている。
親指の付け根から踵にかけて、大きな水膨れが幾つも浮かび、そのうち一つは既に破れて赤黒い肉が覗いていた。
泥と汗が入り込み、じっとりと湿っている。
琴は眉を寄せながらそっと指で触れた。
「痛みます?」
「……歩くと焼けるみてぇに」
「でしょうねぇ」
琴は静かに息を吐く。
「かなり蒸れて居たのでしょうね。」
その時、荷台の後ろから桃慧が顔を覗かせた。
馬上から周囲を見ていたが、負傷兵が増え始めたのを見て自ら牛車へ来たのである。
相変わらず顔色は悪い。
甲斐帰りの疲労はまだ抜け切っておらず、目の下には薄く隈が残っている。だが兵の傷を見る時だけは、その目が不思議なほど冴えていた。
桃慧は足軽の足裏を見ると、小さく頷いた。
「典型的な水膨れですね」
琴が頭を下げる。
「はい。湿気でかなりふやけてます」
桃慧は馬上から素早く牛車に乗り移ると琴の向かい側にしゃがみ込み、傷を近くで見た。
「長く濡れたまま歩きましたね」
「……昨日の川渡りで」
足軽が気まずそうに答える。
「草履が乾かず、そのまま歩いてたらこのザマです。」
「それが原因ですね」
桃慧は静かに言った。
「湿った皮は脆くなります。そこへ擦れが加わると、皮が浮いて水が溜まる」
周囲の若い医務衆たちも、その説明を聞きながら手を止める。
桃慧は水膨れを指差した。
「小さいものは潰しません」
「なぜ?」
足軽が不思議そうに顔を顰める。
「それはですね、皮が蓋になるからです」
琴が頷き、布で周囲の汗を拭き取る。
「ですがこれは大き過ぎます」
桃慧はそう言うと、小刀を火で軽く炙った。
「大きい水膨れは中の水を抜きます」
足軽が僅かに身を強張らせる。
「だ、大丈夫ですか……」
「そのまま歩く方が酷くなりますよ、安心してください。」
桃慧は落ち着いた声で答えた。
そして水膨れの端へ小さく刃を入れる。
透明な液が滲み出た。
琴がすぐ布で押さえる。
「皮は剥がしません」
桃慧は説明を続けた。
「皮を残しておけばそれが盾になり傷を守れます」
あやめが横から薬草籠を覗き込んだ。
「桃慧様、ヨモギ使います?」
「はい、使います」
桃慧は頷いた。
「それとドクダミも」
あやめが嬉しそうに薬草を取り出す。
摘みたての葉だった。
行軍中、道端で見つけて採集したものである。
桃慧はそれを見て小さく笑った。
「良い葉ですね」
「でしょう!」
さっきまで疲れていたあやめが妙に元気になる。
琴は擂鉢へ葉を入れながら苦笑した。
「薬草見ると二人とも元気になりますよね」
「……まぁそうですね。」
桃慧は素直に認めた。
やがて擂り潰されたヨモギとドクダミから、青臭い香りが立ち上る。
桃慧はそれを指先で取り、傷周囲へ丁寧に塗っていく。
「ヨモギは熱を抑えます。ドクダミは膿み防ぎです」
若い医務衆たちが真剣な顔で聞いている。
「水膨れは軽傷に見えますが、化膿すると歩けなくなる」
桃慧は静かに言った。
「歩けなくなれば兵は遅れる」
その目が街道を流れる大軍へ向く。
「大軍は、一人の足から崩れます」
宗次が荷台の横を歩きながら笑った。
「桃慧様、本当に足潰れ嫌いますね」
「嫌います」
桃慧は即答した。
「槍傷は皆痛みで倒れます」
「足潰れは皆無理をして歩く、その無理が原因で命を落とします。」
宗次は「確かにな」と頷いた。
琴は薬草布を傷へ当て、新しい布で足を丁寧に巻き直していく。
「痛みが引くまで牛車で休んでください、思ったより重症です。宗次赤札を。」
「はい、桃慧様」
宗次は桃慧に赤札を渡し、その札を足軽の胸元に藁で結ぶ
「……すみません」
「謝らなくていいです、よく耐えました。」
琴は少し笑った。
「勝手に行軍に戻らないでくださいね?ウチの大将は怖いですから」
足軽は深く頭を下げた。
牛車は進み続ける。
医務衆の地道な働きが二万を超える織田軍がなお止まる事なく西へ流れを支えている。
そしてその巨大な軍勢を支えているのは、誰にも顧みられぬ兵の足裏と、その傷へ静かに貼られた薬草布だった。
信長は、その事を誰よりも理解している。
信長は馬上から軍列を見渡したまま、静かに口を開いた。
「桃慧の率いる軍はまたも練度を上げたな」
隣を進む丹羽長秀が頷く。
「三河からの撤退も強行軍でしたので。その時の経験が医務衆に力をつけたようです。2月に美濃へ帰城以降牛車の必要性が身に染みたようで改装牛車の数も増やしましたようですな。」
「しかし漆も塗られていなく木と竹を組み上げただけのあれが牛車とはな、雅さの一点もない実用性しか見えぬ代物だ。」
「たしかに、負傷人を運ぶだけでなく脇に物資を共に運べる工夫はさすがです。設計は御用畑お抱えの大工らしいです。」
信長は小さく笑った。
「桃慧め、抜け目ないな。そしめ妙な物を作りおる」
その時、後方から佐久間信盛が馬を寄せてくる。
信盛は険しい顔をしていた。
「上様」
「何だ」
「この速度、兵が持ちませぬ」
信長は前を向いたまま答えた。
「構わぬ」
信盛が眉を寄せる。
「道中、必ず脱落者が出ますぞ」
「出るだろうな」
信長の声には迷いが無い。
そして静かに続けた。
「倒れた兵はその場へ捨ておけ。」
周囲の将たちが僅かにざわついた。
だが信長は表情を変えない。
「医務衆が後ろに居る限り、見捨てられることはない」
その言葉に、信盛は黙り込んだ。
信長は知っている。
今は止まる時ではない。
武田信玄という巨大な脅威が消えた今、この“空白”が埋まる前に全てを決めねばならなかった。
足利義昭に募兵の時間を与えてはならぬ。
浅井朝倉に軍を整える暇を与えてはならぬ。
本願寺に挙兵の機を与えてはならぬ。
だから速度が必要だった。
その時、後方から土煙を上げ一騎の伝令が馬を飛ばして来たのである。
「申し上げます!」
伝令は馬上から大声を張り上げた。
「羽柴・柴田勢、北近江へ侵入!浅井方の境目砦二つ城一つ、須川山砦、清滝山砦、須川城を既に陥落させたとの事!さらに油里山砦へ向け進撃中」
長秀が目を細める。
「もう始めましたか」
信長の口元が僅かに吊り上がった。
「猿め……食らいつくのが早い」
その頃、羽柴秀吉が燃え上がる砦を見上げていた。
砦の木壁は炎を上げ、黒煙が空へ昇っている。
秀吉はその炎を眺めながら、静かに笑った。
「止まる暇は与えませんぞ」
その隣では、柴田勝家が巨大な槍を肩へ担ぎ直していた。
「次はどこだ」
秀吉は既に次の街道を見ている。
「次は、その後は西山城、伊吹山砦ですな!」
「腕がなるわい。」
「親父殿!その武勇まさに天下一ですな!次もよろしくお頼み申す!」
信長は今、空白となった天下へ誰より早く牙を立てようとしていた。




