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空白の天下

1573年5月18日。

美濃、岐阜城。


その日の岐阜城には、妙な熱気が満ちていた。


まだ夏にも届かぬ時期であるにもかかわらず、城内を行き交う人足たちの額には汗が浮かび、厩では絶え間なく馬が嘶き、鍛冶場からは昼過ぎより途切れることなく鉄を打つ音が響いている。長良川から吹き上げる湿った風が城壁を撫でるたび、空気には雨前の土の匂いが混じった。


しかし、その喧騒の中心にいるはずの織田信長だけは、奇妙なほど静かであった。


信長は天守近くの一室で一人、開け放たれた障子の向こうを眺めていた。西へ傾き始めた陽が、細長く畳の上へ差し込んでいる。文机の上には未整理の書状が積まれていたが、信長はそれに手を付けようとしない。


その背後には丹羽長秀が控え、少し離れた場所には佐久間信盛、林秀貞、森長可ら家臣たちが並んでいた。


部屋の空気は重く、誰もが信長が何を待っているのかを察しきれずにいた。


長秀だけは違った。

いや、正確には、長秀だけが薄々理解していた。


甲斐へ渡った桃慧からの報せである。


桃慧は武田領へ入って以来、決まった周期で必ず連絡を寄越していた。


京の大鷹原(おおたかはら)胤貞(たねさだ)を介し、曲直瀬道三へ、道三より薬売りに化けた明智の配下を経て、美濃へ届く密かな報告。


その内容は簡潔で薬草の名や処方した組み合わせに偽装されていたが、信長には十分であった。


その報せが、今日に限って来ない。

昼を過ぎても、陽が傾いても、城門が閉じられようとしても。


いっこうに来ない。


信長は朝から何度も窓の外へ視線を向けていた。しかし、催促の言葉は一度も発していない。ただ黙って待っていた。


やがて、不意に信長が口を開いた。


「……来ぬな」


低い声だった。


誰へ向けたわけでもない独り言に近い声であったが、その場にいた者たちは思わず顔を上げた。


佐久間信盛が慎重に言葉を選ぶ。

「な、なにが?」


「明智殿から来る書でございますかな?」

長秀が静かに発する。

信長はなおも外を見たまま、静かに続ける。


「慌てたからと言って来るものではない」


一瞬の沈黙が落ちた。

障子の外で風が鳴る。

信長はゆっくりと目を細めた。


「これは……終わったのよ」


部屋の空気が凍りつく。

林秀貞が怪訝そうに眉を寄せた。


「……何がにございます」


だが信長は答えなかった。


代わりに立ち上がると、障子際まで歩み寄り、東の空を見上げた。


その目には、長年追い続けた宿敵の影が浮かんでいた。


武田信玄。

甲斐の虎。


信長にとって、最も恐るべき敵であった男である。

だが、もうその男はいない。

信長はそれを理解していた。


なぜなら桃慧は、生きている限り報せを絶やさぬ娘だったからだ。

逆に言えば、報せが不要になる時は一つしかない。


報告する相手そのものが消えた時だけ。

信長は小さく息を吐き、ふっと笑った。


それは勝利に酔う笑みではなかった。

長く渡り合った敵への、僅かな敬意と憎しみを含んだ笑みだった。


「見事よ、晴信」


ぽつりと呟く。

だが次の瞬間、信長の目から感傷は消えた。

振り返った信長は、すでに次の戦を見据える覇者の顔になっていた。


「長可」


「はっ」


「猿を呼べ」


「はっ!」


森長可が慌ただしく駆け出していく。


信長は続けざまに長秀を見た。


「長秀、近江方面へ兵糧を回せ。北伊勢の荷駄も動かせ。二十日で整えよ」


長秀の瞳が僅かに揺れる。


「……浅井、朝倉攻めにございますか」


「無論」


信長は即答した。

だがその瞬間、佐久間信盛が思わず一歩前へ出た。


「お待ちくだされ上様!」

声に焦りが滲む。


「今、北や西へ兵を向ければ東が空になりますぞ!武田は撤退したとはいえ未だ健在、その軍が再び尾張へ向けば如何なさるおつもりか!」


林秀貞もすぐに続いた。


「浅井朝倉に加え、武田まで動けば織田は挟撃されます!ここは守りを固めるべき時にございます!」


その主張は、極めて正しかった。

むしろ常識であった、だが信長だけが違う。


信長は苛立ちも見せず、静かに地図を広げた。

その指が、甲斐、越後、安芸、そして近江を順に辿る。


「信玄は冬季間に無理な攻勢や長き戦の疲労にて物資が滞り兵は疲れ切っている。今直ぐに動けるものではない。」

信長の低い声が響く。


「冬を越え、甲斐は疲弊しておる。越後の謙信は未だ深い雪に閉ざされ南下はできぬ。毛利は遠い、風に荒れる春では船で来れない。」


そして近江を強く叩いた。


「今、動けるのは織田だけよ」


誰も反論できなかった。

理屈としては通っている。


しかし、それでも危険すぎる。


佐久間はなおも食い下がる。


「されど武田が再編を終えればっ」


「今、時を待てばを5年の時を無駄にしたに等しい!」


 信長が静かに断ち切った。


「今、天下は空いておる」


その言葉に、部屋が完全に沈黙した。

誰も理解できない。


だが信長だけが知っている。


武田信玄という巨大な楔が、この世から消えたことを、そしてその死により大きな隙が出来ていることを。


また、その空白が長くは続かぬことも。

だからこそ、今攻めに出るしかない。


信長はゆっくりと立ち上がった。

「義昭を京より蹴散らす」


重臣たちが息を呑む。


「次に朝倉を落とす、朝倉に迎えは自ずと出てくる浅井を叩ける、秋までに……いや、一気に終わらせるぞ」


その声には、もはや迷いがなかった。


天下の流れそのものが、自らへ傾いたことを悟った男の声だった。



やがて城下で陣太鼓が鳴り始める。


使者たちが走り出し、兵糧蔵が開かれ、馬が次々と引き出されていく。


岐阜城全体が、巨大な龍のようにゆっくりと戦へ動き始めていた。




一方その頃。




甲斐と美濃を結ぶ険しい山道を、一人の少女が黙々と歩いていた。


京風の出立ちとはかけ離れた泥に汚れた僧衣。


旅塵にまみれた草履。

疲労に疲労を重ね痩せた頬。


腰には使い込まれた薬箱。


桃慧である。


桃慧はまだ知らない。


自らが見届けた一人の死によって、すでに天下が動き始めていることを。


 甲斐を発ってより十日余り、岡崎で倍部弦明や京の一行と別れ、険しい山路を越え、ようやく織田領へ入った頃には、桃慧も流石に疲労を隠し切れなくなっていた。


 初夏の日差しは既に強く、山を抜ける風にはじっとりと湿り気が混じっている。僧衣には旅塵が積もり、草履の鼻緒も擦り切れかけていた。隣を歩く柚も肩から提げた薬籠を持ち直しながら、深く息を吐いている。


「……ようやく美濃ですねぇ」


柚が空を見上げながら呟いた。


桃慧は小さく頷く。


「城へ着けば、まず治長たちや一綱たちの記録を確認しませんと」


「桃慧様、まず寝てください」


「まだ元気です」


「その台詞、もう三日前にも聞きました」


「ですが……。」


「ですがではありません!なんで宿を借りる為に立ち寄る村村の病人や怪我人を寝ずに助けるのです!」


「だって放っておけないでは無いですか」


「そのせいで寝れてないのでしょう?」


「うぅ…」


そんなやり取りをしていた、その時だった。


前方の街道に土煙が上がる。


木瓜紋の旗。


さらにその周囲を囲む赤母衣。


桃慧と柚は同時に足を止めた。


「……え?」


騎馬武者たちは整然と街道へ並び、その中央から一騎の男が進み出る。


大柄な体格。


派手な出立。


槍を背負い、赤母衣を揺らしながら馬を下りたその男を見て、柚が目を丸くした。



「ま、前田様……?」


そこに立っていたのは前田利家である。


利家は桃慧の姿を見るなり、安堵したように大きく息を吐いた。


「おお……居た居た!」


その声がやたら大きい。


桃慧はぱちぱちと瞬きを繰り返した。


「……前田様?」


「桃慧殿!柚殿!ようやく見つけたわ!」


利家は豪快に笑いながら近づいてくる。


その後ろでは赤母衣衆たちも露骨にほっとした顔をしていた。


桃慧は困惑したまま頭を下げた。


「何故赤母衣衆の方々がここへ?」


「おう!上様の命でな!」


「……何故でしょう」


利家がぴたりと止まった。


「何故?」


「はい」


「……分からんのか?」


「……?」


 本当に分かっていない顔だった。


「殿の命で迎えに来たのよ」


「私共をですか?何故に?」


利家は思わず赤母衣衆たちを振り返る。


「おい、聞いたか今の」


「聞きました」


「やっぱこの御方すげぇな……」


「武田にその身一つで入り込んでおいてこの言葉よ。」


「いいなー、俺も武田の山県殿に手合わせ願いてぇよ」


「いやまて、そこじゃないだろ」


赤母衣衆の一人が呆れた声で突っ込む。


柚は既に肩を震わせ始めていた。


「ふふっ……」


「柚?」


「いえ、何がともあれ、これで城までの道中は安心ですね。」


利家は頭を掻きながら大きく溜息を吐いた。


「殿からはな、“桃慧を見つけ次第、岐阜へ連れて戻れ”って厳命されてんだわ」


「私を……?」


「おう」


「だから何故なのです……?」


利家は数秒黙った。


そして真顔で言う。


「それを俺が知りたい」


桃慧がきょとんとする。

「はぁ?」

利家は腕を組んだ。


「殿は、ここ数日ずっと機嫌が変でな。急に軍議始めるわ、兵糧動かすわ、近江へ兵集めるわで城中大騒ぎよ」


「戦の準備……ですか」


「おう。しかも一昨日の夕ごろに、“赤母衣衆、即刻三河へ向かい桃慧殿を連れ帰れ”って話になってな」


「はぁ……」


「んで、“桃慧を見つけたらそのまま引っ捕まえて連れて帰れ”と」


「引っ捕まえる」


桃慧の眉がぴくりと動いた。


「別に逃げませんけど」


「俺もそう言った」


 利家は即答した。


「だが殿がな、“あやつは放っとくと道中の焼けた村で人を救って回る道草を食うので帰ってこぬ”って」


柚が勢いよく頷く。


「それは本当にそうです」


「柚?」


「甲斐出てから、まともに寝たの二回ですよね?昨晩も矢傷が酷い方を救うのが先って」


桃慧が黙る。


利家は「ほら見ろ」という顔をした。


「な?」


「……寝ました」


「気絶みたいに座ったまま落ちてただけだでしょ!しかも朝お日様が出た後に!」


「……」


反論できない。


赤母衣衆たちがぼーっと天を仰ぐ。戦馬鹿の赤母衣ですら戦でも寝る時は寝る。


桃慧は不服そうに視線を逸らす。


すると利家が改めて桃慧を見下ろした。


「しかしまぁ……」


「?」


「殿がここまで急かすたぁ思わなんだ」


「そんなに急ぐ事でしょうか」


利家は笑う。


「知らん!」


やたら気持ちの良い即答だった。


「だが上様が急げって言う時は急ぐんだよ!」


柚が吹き出す。


「前田様らしいですねぇ」


「細けぇ事考えるのは長秀様とか明智様の仕事だ! 俺ぁ殿の言われた命令通り連れて帰るだけよ!」


利家はそう言うと、部下へ手を振った。


「馬だ!桃慧殿と柚殿を乗せろ!」


桃慧はまだ少し抵抗する。


「……歩けますが」


「駄目だ」


「まだ元気です」


「顔色が死人みてぇだぞ」


「そこまででは」


「鏡見せてやろうか?」


桃慧が黙り込む。


柚は完全に笑っていた。


利家は豪快に笑いながら馬を引いてくる。


「ほれ、利家様直々の迎えだ!諦めろ!」


桃慧は困ったように小さく溜息を吐いた。


「……大袈裟です」


「殿がな、お前さんの事になると時々妙に大袈裟なんだわ」


その言葉に、桃慧は少しだけ目を瞬かせる。


だが利家は気づかぬまま続けた。


「さ、岐阜へ戻るぞ!殿は首をながーーーーくしてお待ちだ!!」



そんなやり取りをしつつ、三河国岡崎を発ってより半日余り。


一同は、途中ほとんど馬を緩める事なく岐阜を目指していた。


初夏の日は既に傾き始めている。


しかし前田利家には休む気配がまるで無かった。


「前田様ぁ……」


後ろから柚の気の抜けた声が飛ぶ。


「そろそろ休みませんかぁ……」


「駄目だ!」


利家は即答した。


「殿が急げって言ってんだ!」


「でも桃慧様が限界です」


その言葉に赤母衣衆たちが一斉に振り返る。


桃慧は馬上の揺れと寝不足から死人のような顔をしている。


それを見た利家がぎょっとした。


「おい桃慧殿!?」


「……起きてます」


「起きてるどうこうでは無いでないか!?」


返事と同時に頭が落ちた。


柚が深い溜息を吐く。


「だから言ったじゃないですかぁ……」


「何でこうなるまで放っといた!?」


「放ってませんよぉ。何回も言いました、少し休みましょうと」


「だからってなんでこんな顔色してんだ!?」


柚は呆れた顔で桃慧を指差した。


「甲斐からの帰り道に立ち寄った村全部で診療始めたからです」


赤母衣衆たちが固まる。


「……全部?」


「怪我人も熱病も腹下しも咳も」


「夜通しです」


利家が思わず天を仰ぐ。


「殿のお見立て大当たりじゃねぇか……」


 桃慧はぼんやりしたまま、小さく反論した。


「寝ました……」


「桃慧様、それ一昨日です」


「納屋で座ったまま一刻落ちただけですよね?」


桃慧が黙る。


赤母衣衆たちが一斉に「うわぁ……」という顔になった。


利家は桃慧を覗き込みながら言う。


「岐阜着いたらすぐ寝ろ。いいな?」


「……はい」


「絶対だぞ?」


「はい……」


「布団敷かせるからな!」


その言葉に桃慧は少し安心したように、小さく息を吐いた。


「……良かったです」


柚もほっとした顔で頷く。


「流石に今日は寝れますねぇ」


赤母衣衆たちも口々に言った。


「ここまで働いたんだ、殿だって休ませるだろ」


「むしろ倒れられた方が困る」


「医務衆総出で怒鳴り込んできそうだしな。桃慧殿の事になると柴田勢よりタチが悪いからな医務衆は。」


桃慧はうつらうつらしながら、小さく頷いていた。


そして数刻後。


岐阜城。


大手門を潜った瞬間だった。


「よくぞお戻りになられました前田様!!」


使番が血相を変えて駆け寄ってくる。


「上様より!桃慧様が到着次第、即刻軍議へ連れて参れとの事!」


桃慧がゆっくり顔を上げた。


「……軍議?」


利家が固まる。


「いや待て待て待て」


使番は容赦なく続ける。


「“一刻も待たせるな、一刻も早く”との仰せです!」


赤母衣衆たちが一斉に桃慧を見る。


桃慧も赤母衣衆を見る。


沈黙。


そして利家が頭を抱えた。


「殿ぉぉぉ!!!!」


柚が遠い目をする。


「ですよねぇ……」


桃慧は数秒考えた後、静かに呟いた。


「……布団」


「悪りぃ!布団無くなったな!」


利家が即答した。


桃慧は本気で少し悲しそうな顔をした。


だが使番は待ってくれない。


「桃慧様!至急!」


「分かった分かった!」


利家は大きく溜息を吐くと、桃慧を見た。


「歩けるか?」


「……はい」


一歩踏み出す。


ふらつく。


柚が即座に支えた。


「駄目ですこれ」


「だよなぁ!仕方ねぇ!」


利家は再び桃慧をひょいと担ぎ上げた。


「きゃっ」


「ほれ行くぞ!」


「前田様!だから荷物では」


「殿が待ってんだ!」


「せめて下ろして」


「暴れるな!」


「暴れてません!」


赤母衣衆たちがどっと笑う。


「前田様、それ本当に米俵みたいです!」


「大事な荷物だからな!」


「荷物ではありません!!」


「そういうことじゃないだろ!」


桃慧の抗議と赤母衣衆のツッコミ大手門に響く。


だが利家は全く意に介さず、そのまま城内をずんずん進んでいった。


廊下では武士たちが慌ただしく行き交っている。


地図を抱えた使番、兵糧の帳簿を持った奉行、槍を運ぶ足軽。

岐阜城そのものが戦へ向けて動いていた。


桃慧は担がれながら、その騒がしさをぼんやり見つめる。


「……本当に戦なのですね」


「おう」


利家が前を向いたまま答える。


「しかも殿、めちゃくちゃ急いでるようだしな」


「何故でしょう……」


「だから知らん!」


利家が笑う。


「だが殿が急ぐ時は天下が動く時だ!その見立てに狂いはない!」


そしてそのまま、大広間の前へ辿り着く。


中ではまだ軍議が続いているらしい。


そのまま利家は軍議の間の前で立ち止まった。

障子の向こうからは複数の男たちの声が聞こえる。


地図を叩く音、低く唸るような議論。

張り詰めた空気が、障子越しにも伝わってきた。


だが利家はそんな事など気にしない。



「殿!!」



勢いよく障子を開け放つ。

「桃慧殿を拾って参りました!!」

その瞬間、広間の空気が完全に止まった。

畳の上には近江から京へ至る地図が大きく広げられ、その周囲に重臣たちが並んでいる。


柴田勝家や丹羽長秀、佐久間信盛、林秀貞。


皆、一斉に入口を見た。


前田利家の肩へ担がれている桃慧を見た瞬間だった。


上座に座していた織田信長の目が大きく見開かれる。


その視線が、旅塵に汚れた桃慧の顔から、利家の肩に垂れ下がる細い腕へ移り、さらに米俵のような担ぎ方へ辿り着いた。

次の瞬間だった。


「ははははははははッ!!」


腹の底から響くような豪快な笑い声が広間を揺らした。


信長は堪えきれぬというように片膝を叩き、肩を震わせながら笑っている。

 

あまりにも突然の大笑いに、重臣たちが呆気に取られる。



「何だその姿は利家!!」

笑い過ぎて息まで乱れている。


「貴様、桃慧を何だと思っておる!」


利家はきょとんとしていた。

「え?」


「え?ではないわ馬鹿者!!」


信長はさらに笑う。

「だからといって米俵みたいに担ぐ奴があるか!!」

勝家がついに吹き出した。

佐久間信盛など顔を背けて肩を震わせている。

長秀だけが頭を抱え深々と溜息を吐いた。


だがその長秀ですら、口元は僅かに緩んでいた。

桃慧だけが真顔である。


「……だから荷物ではありませんと言ったのです」


「暴れるから担ぐしかなかったんだ!」


利家が即座に反論した。


「暴れてません」


「三歩でふらついただろうが!」


「二歩目です」


「だからそういうことじゃないだろ」

後ろから赤母衣集の面々が冷静に訂正する。

その瞬間、広間の笑いがさらに大きくなった。


信長はとうとう腹を押さえた。

「くくっ……! はははっ……!」

そして涙を拭いながら桃慧を見る。


「私の前に、そのような姿で運ばれてきた直臣は初めてだぞ」


広間がどっと沸く。

桃慧は本気で不服そうに眉を寄せた。


「……好きで運ばれてきた訳ではありません」


「だが実に似合っておるわ!」


「似合ってません」


「見事な米俵であったぞ!」


「上様まで……」


信長はまだ笑っていた。


だがその目は、同時に桃慧の顔色をしっかり見ていた。


痩せた頬。

薄い唇。

眠気で半ば閉じかけた目。

それでも無理に立とうとしている姿。

信長はふっと笑みを弱める。


「……随分苦労をかけたようだな。」


その声音だけ、少し静かだった。

柚が即座に頷く。


「いえ、上様。この疲れは帰り道の村全部で夜通し診療始めたからにございます。」


「全部?」


勝家が呆れたように聞き返す。


「怪我人も病人も熱病も腹下しも夜通しです」


信長が小さく鼻で笑う。

「やはりな」


まるで予想通りだと言わんばかりだった。

「だから迎えを出したのだ。放っておけば、そのまま道端で倒れるまで診て回りおる」


桃慧は少し視線を逸らした。


「……必要でしたので」


「ほれ見よ」


信長が面白そうに笑う。だが次の瞬間、その表情が少しだけ変わった。

信長は改めて桃慧を見る。

甲斐から戻った、生きて戻った。

その事実を、まるで今ようやく実感したような目だった。


「よう戻った」

短い言葉だった。

だが先程までの笑いとは違う。

重みのある声だった。

 

広間の空気が静まり桃慧はゆっくり頭を下げた。


「……只今戻りました」


信長はしばらく何も言わなかった。

ただ静かに桃慧を見ていた。


待っていたのである。

甲斐からの報せが途絶えたあの日から、この娘が戻る事を、この娘の口から真実を聞く事を。


だがその空気を再び壊したのは利家だった。


「で、上様」


「何だ」


「流石にこの後は寝かせますよな?」


その瞬間、桃慧の目が僅かに輝く。

しかし信長は真顔で答えた。



「半刻だ」



広間が静まり返った。



「短ぇぇぇぇ!!」

利家の叫びが岐阜城中へ響いた。

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