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躑躅ヶ崎の春

躑躅ヶ崎館へ帰り着いてから、数日が過ぎた。


甲斐の春は、信濃の山道で見たそれよりも幾分か穏やかであった。風は乾き、空は高く、庭の木々には若葉が芽吹き始めている。長く冷たい山道を越えてきた者たちにとって、その景色は何よりも深く胸へ染みた。


(あるじ)、武田信玄が甲斐へ戻って来た。。


その事実だけで、領民、家臣たちは胸を撫で下ろした。

だが、琳だけは知っていた。


帰れたことと、治ったことは違う。余命は確実に近づいていることを。


信玄の食は日に日に細くなり、粥は三口、よくて五口。湯を飲むにも時間がかかり、夜半には背の奥へ沈む鈍痛が戻ることが増えていた。阿智で一度崩れた身体は、確かに持ち直した。けれど、それは崩れた堤を辛うじて塞いだに過ぎず、水はなお内側から押していた。


それでも信玄は、日中になると床几へ腰を下ろし、短い時間だが家臣たちと共に軍議を共にした。


長くは話せない。

しかし、言葉には歴戦の武士の鋭さが冴えていた。


「勝頼を呼べ」


その日、信玄はそう命じた。


小姓が静かに立ち、やがて勝頼が部屋へ入る。

続いて、馬場信春、山県昌景、内藤昌豊、穴山梅雪、小山田信茂、春日虎綱ら重臣たちが呼ばれた。


琳や陪部、柚などは席を外し家臣たちのみの軍議である。


障子の外では、若葉が風に揺れている。


館の内は静かだった。

静かすぎるほどであった。


信玄はゆっくりと顔を上げ、一同を見渡した。


「よく集まってくれた。」


最初にそう言った。

信玄はわずかに笑う。


「何をそのような湿気った顔をしておる。儂はまだ、こうして口が利ける」


山県昌景が深く頭を下げた。


「御館様」


その声には、押し殺した感情が滲んでいた。

信玄は山県を見て、少しだけ目を細めた。


「昌景、泣くな。おぬしの涙など、見たくも無い。いつも通り豪快に笑うが良い」


山県は顔を上げなかった。

信玄はそれ以上言わず、視線を勝頼へ移した。


「勝頼」


「は」


勝頼は深く頭を下げた。


信玄は息を整えるため、しばし目を閉じた。春日虎綱が白湯を差し出すと、信玄はそれを受け取り、一口だけ含む。喉が動くまで少し時間がかかったが、信玄は顔を歪めなかった。


「織田、徳川を討ち滅ぼす戦は終わった、悔しきことに上洛は夢のまた夢であった。」


信玄は静かに言った。


「しかし儂は甲斐へ戻った。ならば次は武田を残すことを考えねばならぬ」

その言葉で、部屋の空気がさらに重くなる。


勝頼の肩がわずかに震えた。

信玄はそれを見逃さなかった。


「勝頼。おぬしは、儂になる必要はない」


勝頼が顔を上げる。


信玄は続けた。

「儂の真似をしてはならぬ。儂が歩いた道をそのまま歩こうとすればおぬしは必ず(つまず)く」


勝頼は唇を結んだ。

「されど、私は……」


勝頼の言葉を遮るように信玄が語る。

「武田を継ぐ、それは儂の影になることではない。武田の家を、次の時代へ渡すことだ」


勝頼は何も言えなかった。


馬場信春は目を伏せ、内藤昌豊は静かに拳を握っている。

山県昌景は頭を下げたまま動かない。

真田昌幸だけは、信玄の言葉と勝頼の顔を交互に見ていた。


信玄はさらに言う。


「どっしりと構えよ、そなたは甲斐武田の当主になる男だ。」


その声は弱いが、力強く明瞭であった。


「勝ちを急ぐな。勝たねばならぬと思うな。まずは負けぬことを考えよ、負けるにしても良い負けをせよ。」



「負けぬこと…良い負けを…」

勝頼が小さく繰り返す。



「そうだ」

信玄は頷いた。


「武田は武の強さで立っているように見える。だが本当は、人で立っておる。家臣が割れれば国は割れる。国が割れれば、どれほど兵が多くとも負ける」


信玄はそこで一度息を吐き勝頼を見つめた。


「お主は武田を継ぐ。だが、継いだその日から武田になるのではない。皆に認められ、皆を率い、皆を守り、そうして少しずつ武田になるのだ。譜代も外様も皆武田の腹の子、家族と思え。」


勝頼の顔が歪んだ。

「父上……」


その呼び方に、信玄の目がわずかに和らいだ。

この場では、将の姿ではなく、紛れもなく父の姿であった。


「よいか、勝頼。お主一人で背負おうとするな」


信玄は重臣たちへ視線を移す。


「信春」


「は」


馬場信春が深く頭を下げる。


「勝頼を支えよ。武田の古き骨は、新たな武田の背骨と成れ」


「命に代えましても」


「昌景」


「は」


「血気で押すな。おぬしが先へ出過ぎれば、若い者は皆ついていく。故にこそ、退くべき時を覚えよ」


山県の肩が震えた。


「……承知、仕りました」


「昌豊」


「は」


「家の内を見よ。外の敵より、内のほころびを恐れよ」


「は」


「梅雪」


穴山梅雪が静かに頭を下げた。


「武田の頭脳は任せたぞ、勝頼は猪武者じゃ、良く律し導け」


梅雪は薄く笑った。


「見えすぎる者は、人を信じるのが遅い。だが、勝頼には必要だ。見えぬところを補え」


梅雪は深く頭を垂れた。


「心得ました」

信玄はしばらく沈黙した。



そして、低く告げた。

「儂の死は、三年伏せよ」


部屋の空気が変わった。


勝頼が息を呑む。

山県が顔を上げかける。

内藤の目がわずかに鋭くなる。


だが誰も口を挟まない。

信玄の声は続いた。


「三年だ」


静かな、しかし決して揺るがぬ声であった。


「三年の間に、勝頼が武田を継ぐ場を整えよ。急に儂が死んだと知れれば、国の外は動く。内も揺れる。上杉も、織田も、徳川も、皆こちらを見る」


家臣一同が背筋を伸ばす。


「三年は無理やもしれぬが、隠せるだけ隠せ。儂は病にて籠もる、そう見せよ。書状は儂の名で出せ。だが、その三年をただの偽りに使うな」


信玄は勝頼を見る。


「その三年で、おぬしは武田の主になるのだ」


勝頼は、畳へ額が触れるほど深く頭を下げた。

「必ずや」


声は震えていた。

しかし、その震えの奥に、覚悟があった。


信玄は満足したように目を細めた。


「よい、あとは任せた。」


そういうと信玄はその場から立ち上がり小姓の支えの元、廊下を歩き琳や柚子が待機する一室へ動く。

信玄は倍部弦明(ばいべげんめい)の方へ顔を向けた。


「弦明」


「は」


倍部弦明は静かに進み出る。


初診の日と同じように、その動きには無駄がなかった。彼は医ではない。薬を選ぶ者でも、脈を診る者でもない。だがこの場において、彼にしか担えぬ役があった。


「祈ってくれ」


信玄は言った。


「儂のためではない」


弦明は顔を上げた。

「武田の行く末が、良きものとなるように」


その声は、静かだった。

「勝頼が迷わぬように。家臣が割れぬように。民が苦しまぬように。わしがこの世を去った後も、武田が武田であるように」


倍部弦明は深く頭を下げた。

「承りました」


信玄は少しだけ笑った。

「そなたの祈りで戦に勝てるなら、とうに天下を取っておったな」


弦明の口元にも、わずかな笑みが浮かぶ。

「祈りは、戦を勝たせるものではございませぬ」


「では何だ」


「残された者の心を、迷わせぬためのものにございます」

信玄はしばらく弦明を見つめた。


やがて、静かに頷く。

「ならば、今の武田には要る」


その言葉で、弦明は再び頭を下げた。

やがて香が焚かれた。

白檀と沈香の香りが静かに部屋へ広がっていく。

初診の日にも同じ香が焚かれたことを、琳は思い出していた。

あの時は、これから病と向き合うための祈りであった。今は違う。これは、残される者たちへ向けられた祈りである。


弦明の声が、低く落ちた。

祝詞は静かに始まる。


馬場信春は深く頭を垂れ、山県昌景は拳を握ったまま目を閉じている。内藤昌豊は微動だにせず、勝頼は父の前で額を伏せたまま動かない。真田昌幸は、香の煙越しに信玄と琳を見ていた。


(やはりおかしい、いや御館様のみを...この娘やはり...)

琳は、祝詞を聞き流しながら信玄の一挙手一投足を見測り不足時の事態に備えているように見える。


信玄は目を閉じ祝詞の一言、一文を胸に刻むように祈り続ける。

痛みはあるはずだった。背の奥に沈む重さも、腹の内の硬い痛みも、消えてはいない。

だが、その顔は穏やかであった。


弦明の祈りが終わると、長い沈黙が落ちた。


信玄はゆっくりと目を開ける。

「……よい、穏やかな時であった。」


それだけを言った。


やがて重臣たちは一人ずつ下がった。

勝頼は最後まで動かなかったが、信玄が小さく手を上げると、ようやく深く頭を下げて部屋を出た。


残されたのは、信玄と琳、それから少し離れたところに控える小姓だけである。

信玄は静かに息を吐いた。


「疲れた」


初めて、弱音のような言葉を漏らした。


琳は薬湯を差し出す。

「お休みください」


「.....まだ持つか?」


琳は信玄を見た。

嘘をつかず、しかし突き放さずに答える。


「当分は持ちます」


信玄は小さく笑った。


「当分か」


「はい」


「正直な医よ、もう少し老人に優しくしてくれ」


「信玄様にお優しくすると逝ってしまわれるので医者としてはそれで困ります。」


「なかなか手厳しいものよ」

信玄は薬湯を受け取り、一口だけ飲んだ。


「ううん?今日のは苦いな」


「甘すぎるとお体に障ります」


その答えに、信玄は喉の奥で笑った。


「最後までそれか」


「最後まで診よと申されましたので。」


信玄は目を閉じた。

しばらくして、静かに言う。


「……甲斐に帰れたな」

信玄は続けた。


「阿智で尽きてもおかしくはなかった。信濃の山で終わっても不思議ではなかった」


そして、わずかに目を開ける。


「そなたが、帰してくれた。我が故郷に。」


琳は低く頭を垂れた。


「御身が耐えられたからにございます」


「違うな」


信玄は静かに言った。


「儂一人なら、途中で意地を張って死んでおった」

その言葉に、琳は何も返せなかった。


信玄は薄く笑う。

「そなたは、儂を生き延びさせたのではない」


その声は穏やかだった。


「無事に我が城へ退かせた」


琳は顔を上げる。

信玄は天井を見ていた。


「見事な殿(しんがり)であった」

それきり、信玄は目を閉じた。

琳はしばらくその横顔を見ていた。


この人は敵である。

信長の敵であり、織田の前に立ちはだかった大敵である。


そして同時に、今は自分の手の内にある命であった。


琳は柚へ温布を替えるよう指示し、薬包を整え、夜の記録をしたためた。


本日、信玄様、重臣へ遺言。

勝頼殿へ継承を明示。

三年秘匿を命ず。

意識明瞭。

疼痛あり。

食少。

”芍薬多し、陳皮多し、甘草少なし"


筆を置いた時、外では甲斐の風が若葉を揺らしていた。

躑躅ヶ崎館の夜は、深く、静かであった。

そしてその静けさの中で、武田信玄の残された時は確かに終わりへ近づいていた。



時はやや流れて5月9日。

その朝、躑躅ヶ崎館には不思議な静けさがあった。

空は高く晴れ、庭の若葉は夜露を受けて淡く光っている。風は柔らかく、障子の向こうからは鳥の声が聞こえていた。


琳が部屋へ入った時、まず気づいたのは信玄が起きていたことであった。

ここ数日は、目を覚ましている時間の方が短い。


食も細く、会話も途切れがちで、呼吸は浅い。

夜半には疼痛が戻り、琳や柚、小姓たちが温布を替える回数も増えていた。


だが、その朝の信玄は違った。

床から半身を起こし、自ら外を見ていたのである。


小姓たちの顔にも、隠しきれぬ明るさが浮かんでいた。


「御館様、今朝はようお休みになられました」

若い小姓が嬉しそうに言う。


信玄は笑った。

「久方ぶりによく眠った」


声にも張りがある。

琳は近づき、静かに脈を取った。


明らかに弱い。

細く、地に沈むような脈。


だが意識は明瞭で、目にも力がある。

琳はその感触を知っていた。


終末の直前、稀に現れる最後の灯。

表へ出る力と、内側の命の残りが釣り合わなくなる瞬間。


だが琳は、それを口にはしなかった。


信玄は琳を見ると、どこか楽しげに笑った。


「琳よ」


「はい。」


「昨夜、客が来た」


琳は黙って信玄を見つめた。

小姓たちは顔を見合わせる。


信玄は、まるで昔話をするように穏やかな顔をしていた。

「夜更けにな。部屋が妙に騒がしいと思うて目を開けたら、勘助がおった」


その名に、小姓たちが息を呑む。


山本勘助(やまもとかんすけ)


川中島に散った武田の軍師。

信玄は小さく笑った。

「相変わらず細く、うるさい男でな」


その目は、もうこの部屋を見ていない。

遠い昔を見ていた。

「まだあの陣形がどうだ、この地形がどうだと申しておる。あやつは戦の話ばかりよ。何がキツツキじゃ、あれで苦労したのはこちらだった。」


信玄は喉の奥で笑った。

その笑い方は、不思議なほど若かった。


「信繁もおった」

その名が出た瞬間、部屋の空気が変わる。


武田信繁(たけだのぶしげ)


信玄が最も深く愛した弟。

川中島で失った半身ともいえる存在。

ともに武田の歴史を作った戦友であり、同志であり、支え合う弟だった。

信玄の目が、ふっと細くなる。


「変わらぬ頼もしき顔をしておった。」


小さな声。


そこには、大将ではなく兄の顔があった。


「兄上、よう戻られましたな、と申してな」

信玄はしばし沈黙した。


「……この度の戦の件、また酷く叱られるかと思うたわ。」


その言葉に、小姓たちは顔を伏せる。

信玄は続けた。


「だが、笑っておった」


琳は静かに信玄の呼吸を見ていた。


「京に武田の旗が靡くのが見たかったそうじゃ」


少し浅く肩で息を吸うように見えるが、しかし穏やかだ。

息をするたびの苦痛も少ないように見える。


痛み緩和の阿片は昨夜は使っていない。

それでも信玄の意識は、もう半ばこちらから離れ始めている。


信玄はさらに低く笑いながら語る。

「板垣と甘利もおったぞ、まだ儂を小僧扱いしおるだ。」


板垣信方(いたがきのぶかた)甘利虎泰(あまりとらやす)

武田草創の柱、若き日の信玄を支え見事に育てた宿将。


「上田原の陣にて酒を飲んでおった。相変わらず口うるさい奴よ。ねちねちと小言で酒を飲んで居ったわ」


「虎胤までおったわ。皆して儂をいったい何と思っておるのやら。ガキには酒は早いと飲ませくれなんだ。」

信玄は静かに天井を見上げた。


「……賑やかなものよ」


その声には、不思議な安堵があった。


死を恐れる者の声ではない。

長い戦を終え、ようやく帰る場所を見つけた者の声であった。


その時、障子が静かに開いた。

馬場信春と山県昌景である。


二人は部屋へ入り、信玄の顔を見るなり動きを止めた。


明らかに顔色が違い声にも力がある信玄の姿を見て山県の顔に、わずかに希望と涙が浮かぶ。

「御館様……本日はずいぶんお体が軽く見えまするな」


信玄は山県を見て笑った。

「そのような顔をするな、今日は気分が良い」


山県は深く頭を下げた。

だが馬場信春だけは、琳を見た。


琳は何も言わない。

ただ静かに目を伏せる。



馬場は、それだけですべてを理解した。



信玄は二人へ顔を向けた。

「昌景、信春」


「は」


「勘助がまだ川中島の話をしておる」


山県は返す言葉を失った。


信玄は続ける。

「信繁もおった。皆、変わらぬ」


ふと笑う。


「儂だけ老けた」


その言葉に、誰も笑えなかった。

部屋へ沈黙が落ちる。


外では風が若葉を揺らしていた。


信玄はその音を聞くように、しばらく目を閉じた。

やがて、静かに言う。


「……不思議よな」


「何がにございます?」


琳が問うと信玄はゆっくりと目を開けた。


「昔は、死ぬことなど考えもしなかった」


その声は穏やかだった。

「ただ戦に勝つことだけを考えておった、負ける戦も多かったが」


遠くを見る目。


「だが、最後に残るのは城でも国でもない」


小さく息を吐く。

「人よ」


馬場信春が深く頭を下げた。

山県昌景は拳を握ったまま俯いている。


信玄は笑った。

「皆、先に行きおってな」


そして、少しだけ目を細める。

「待っておったのであろう」


不思議なほど穏やかだった。

それはまるで、長く張り詰めていた糸がようやく静かに緩み始めたような柔らかな表情であった。


琳は目を伏せる、理解していたからだ。

この穏やかさは回復ではない。


終わりへ向かう静かな灯である。


だが、それでも良いと、少しだけ思った。

武田信玄(この御方)は、死を恐れていない。


ならば医者として、この静けさを崩すべきではない。


信玄は再び外を見る。

初夏を感じる風に揺れる若葉を見ながら。


「……良い朝よな、空気が美味い」


誰も答えられなかった。

ただその部屋だけが、不思議なほど穏やかな時間の中にあった。



そして5月13日未明。


躑躅ヶ崎館は、まだ夜と朝の狭間にあった。

空はわずかに白み始めている。だが山々には薄く靄がかかり、庭木の若葉には夜露が重たげに残っていた。風はほとんどない。静かな夜明けの頃であった。


あまりにも静かで、その静けさが、かえって人の胸をざわつかせるほどであった。


館の廊下には、夜を通して焚かれていた香の匂いが薄く漂っている。

遠くで湯を沸かす音がかすかに聞こえ、小姓たちの足音すら、どこか忍ぶようであった。


琳は、その静かな廊下を柚と共に歩いていた。


柚は両手で薬包と湯を抱えている。


琳は歩きながら、昨夜の信玄の呼吸を思い返していた。


夜半、痛みは強くなかった。阿片を使うまでもなく、「痛くない」と言葉を受けていた。

呼吸も、ここ数日では穏やかな方である。


だがその穏やかさが、琳には逆に胸へ引っかかっていた。


人は、尽きる直前に静かになることがある。

激しく燃え続けていた火が、最後の最後に不気味なほど安定するように。


その感覚を琳は知っていた、母遵慧(じゅんけい)の最後を知っていたからだ。

廊下を折れると、信玄の部屋の前に内藤昌豊が座していた。


夜番であった。


一晩中おきて写経をしていたのであろう。

しかし背は伸び、膝の置き方にも乱れがない。

その姿には、長く武田を支えてきた武将の威厳と忠義を感じずにはいられぬ見事な構え。


内藤は二人の姿を見ると、静かに頭を下げる。

「琳殿、このような朝早くよりかたじけない」


琳も一礼した。

「御様子はいかがでしたか」


内藤は少しだけ考えるように目を伏せる。


「夜半に一度、お目覚めになられました」


「お痛みは」


「……いや」


内藤はゆっくり首を横へ振った。


「痛みを訴えられることもなく、ただ庭をご覧になっておられた」


そう言ってから、内藤は小さく息を吐く。

「夜風が心地よいようで庭木が見える戸を開けて外を眺められながら寝ておりました。」


琳はその言葉を聞き、胸の奥で何かが騒めくのを感じた。


柚もまた、不安げに琳を見る。


だが琳は表情を変えず、信玄が休む寝所の障子へ手をかけた。

「琳にございます。失礼いたします」


障子が、かすかに音を立てて開く。

部屋の中には、薄い朝の光が差し込んでいた。


火鉢の炭は小さく赤みを残し、白檀の香が静かに漂っている。


信玄は、いつものように横になっていた。

掛布の上へ置かれた両手は細く、肩は痩せている。


だが、琳は部屋へ一歩入った瞬間に気づいた。


”違う”


空気が違う。

呼吸の気配がない。

琳の足がすぐに動く。


「信玄様!」


信玄の傍へ膝をつき、呼びかける。


返事はない。


「信玄様!信玄様!」


もう一度。


それでも反応はない。


柚の顔から血の気が引いた。

琳はすぐに信玄の肩へ触れる。


冷たい。


脈を取る。


跳ね返しが細い。

そして極めて弱い。


呼吸は、かろうじてある。


だがその間隔は長く、今にも途切れそうなほど浅い。


瞳孔反応も鈍い。


意識は、ほとんど深い闇へ沈みかけていた。

琳の目が鋭く変わる。


「柚っ!」


「はいっ」


「今すぐ勝頼様をお呼びに!」


柚が即座に立ち上がる。


「直ぐに皆さまをお呼びして。奥方様にもお知らせを!」


柚は顔を強張らせたまま、深く頷いた。


「はい……!」


そして廊下へ駆け出していく。


その背を見送りながら、内藤昌豊はゆっくりと目を閉じた。

理解したのだ、とうとう来たのだと。


琳はすでに処置へ入っていた。


呼吸を少しでも楽にするため信玄の身体をわずかに起こす。

「湯を」


小姓が震える手で差し出す。

琳は布へ湯を含ませ、乾いた唇を湿らせる。


「信玄様!信玄様!」


静かに呼ぶ。


「琳にございます、目を明けて下さい。」

返事はない。


だが、呼吸がわずかに揺れた。


琳はそれを見逃さなかった。

「聞こえますか?信玄様!」

その時、廊下から慌ただしい足音が響いた。


勝頼である。


その後ろから、馬場信春、山県昌景、春日虎綱。

さらに奥方や近親の者たちも続いていた。


部屋へ入った瞬間、皆の顔色が変わる。

信玄は、目を閉じたまま動かない。


ただ、かろうじて呼吸だけが続いている。


勝頼は信玄の傍へ崩れるように膝をついた。


「父上!」


声が掠れる。


「父上……!」


その声にも、信玄は反応しない。


山県昌景が拳を握る。

馬場信春は静かに目を伏せた。

奥方は口元を押さえ、小さく息を呑む。


琳は振り返り、静かに言った。


「まだ、お聞こえになっております」


皆が顔を上げる。


琳は続けた。


「お声を、お掛けください」


勝頼は震える手で信玄の手を握った。


その手は、驚くほど軽かった。


「父上」


勝頼の声は震えている。


「勝頼にございます」


その瞬間。

信玄の指先が、わずかに動いた。


ほんの僅か、だが確かに動いた。


奥方が堪えきれず涙を零す。

山県は顔を背け、内藤は唇を強く結んだ。


琳は脈を見続ける。


遅い、深く間を置き沈む、水がしみ出すように、トン.....トン.....と。


だがまだ、完全には切れていない。


時間は静かに流れていった。

朝日が高くなる。


障子越しの光が、少しずつ強くなる。

庭の若葉が風に揺れ、その影が畳の上へ落ちていた。


その間も琳は、絶えず信玄へ触れていた。


乾いた唇を湿らせ、呼吸を整え、温布を替える。

ほんの少量の薬湯を口へ含ませる。


だが、それはもう命を繋ぐための処置ではない。

苦痛を減らし、穏やかに終わらせるための処置であった。


信玄の呼吸は、時折大きく乱れた。


そのたびに部屋の空気が凍る。

勝頼は手を握ったまま動かない。

馬場信春は背を正し、山県昌景は俯いたまま肩を震わせている。

近い家臣たちも鼻をすすりその時が来るのを拒むように祈り続けている。


阿智で崩れた夜から、山間の道を抜け、信玄と共に山を眺めながら命を繋ぎ、桜を見ながら諏訪を抜け、そして甲斐へ戻り一日ずつ、一刻ずつ、崩れぬよう支え続けた。


その命が、今まさに終わろうとしている。


琳は最後まで、医としてそこに居た、最後の力を振り絞るように懸命に信玄の命を繋ぐ。


やがて昼が近づく。陽は高く昇り、空は雲一つなく晴れていた。

信玄の呼吸は、さらに長く間を空けるようになっていた。


琳は脈を取る。


弱い、消え入りそうなほど細い。


勝頼が、信玄へ顔を寄せる。

「父上」


声は涙で掠れていた。

「……武田家の事は心配なさりますな、勝頼が必ず守って見せます。」


その言葉に信玄の呼吸がわずかに揺れた。

閉じられていた目が、ほんの少しだけ開く。


視線は定まっていない。


だが、その口元が、かすかに緩んだ。


勝頼はそれを見た。

そして静かに目を伏せる。



陽はゆっくりと昇り、やがて正午を迎える。


日が躑躅ヶ崎館の真上へ差しかかった頃。

武田信玄は、長く、静かな息を吐いた。


まるで長い旅路を終えた者のように。


そして、次の息は来なかった。


部屋から、音が消える。

誰もすぐには動けなかった。


琳は静かに信玄の手を取り脈をみる。

そして視線を胸に落とし呼吸をみる。

瞳を開き、光を確かめる。



光が届かなくなってしまった。



鳶が外で1回、2回と高らかに鳴く。

少し強い風が若葉を騒めかせ庭を抜ける。

蝋燭の火が隙間風に揺られるも、やがてピタリと揺らぎを止める。


辺りが静まり返り琳は、そっと信玄の手を胸の上へ戻した。


「……武田信玄様、見事にお役目を......」


その場に居る者たちが息を呑んだ。


「全うされました」

琳の声は、驚くほど穏やかであった。


その瞬間。


奥方の嗚咽が響いた。

勝頼は信玄の手を握ったまま深く俯き、山県昌景含め、多くの家臣、小姓達は大粒涙を溢し畳へ額を擦りつけるように頭を下げた。


馬場信春は静かに目を閉じる。


真田昌幸は、ただ琳を見ていた。

琳は泣くことも嗚咽することもなく呆然と糸が切れたように深く虚脱している、そのような様子だった。


長い冬であった。

雪山を越え。

春を越え。


ようやく帰り着いた故郷で武田信玄は、その生涯を終えた。


享年五十三。

死因、胃癌による多臓器不全。


だがその最期は、戦場でも、はたまた寺や宿場でもなかった。


故郷の甲斐、躑躅ヶ崎館。


愛しい故郷にて、愛しい家臣と家族に見守られながら。

武田信玄は静かに歴史の舞台より、その役を降りたのであった。

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