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最後の行脚 ―ラストラリー―

1573年3月9日

武田軍の撤退が始まった。

その動きは驚くほどに静かに、粛々と撤退が始まった。



兵の列は乱れず、荷駄は整い、槍も旗も沈まず堂々と進む。長篠を離れ、山間を通り信濃へ抜ける長い道を、赤備えの武士たちが、武田菱入りの鎧兜を誇らしげに纏う足軽や騎馬諸共、まるで最初から帰路であったかのように淡々と東へ向かっていた。


だが、その静けさの裏で、軍全体がある一人の呼吸に合わせて動いていることを、古参の将、或いは兵たちは理解していた。


その歩みが止まればこの撤退は崩れる。

だからこそ撤退日の朝、信玄が馬の前へ立った時多くの者が安堵した。


朝靄の中、黒鹿毛の馬が鼻を鳴らす。

信玄はその首筋を撫で、鐙へ足を掛けた。

冬の光を浴びたその姿には、確かに往年の威が残っていた。


「御館様……」


小姓の声にも、思わず明るさが混じる。


二月より続いた治療は、確かに信玄を持ち直させていた。食は少しずつ通り、眠れる夜も増え、背を起こせる時間も長くなっている。短い距離ならば自ら歩くことも出来る。


それは武田の者たちにとって、何より大きな希望であった。


だが、その場でただ一人、表情を変えぬ者がいた。


琳である。


信玄が(あぶみ)へ足を掛け、体を持ち上げようとした瞬間、琳は静かに前へ出た。


「お待ちください」


冬の空気が止まる。


山県昌景が眉を寄せた。


信玄は鐙に足を掛けたまま振り返る。


「何だ」


「馬はなりませぬ」


琳は即座に言った。


山県が口を開く。


「何故だ」


「揺れが強すぎます」


琳は信玄から目を逸らさぬまま続けた。


「些細な揺れでも臓腑に響きます。無論腹にも障ります。今の御身には、一刻の騎乗が幾日の消耗になります」


山県の顔色が変わる。


「武田家は由緒正しき武家であるぞ、公家のように牛車に乗れと申すか」


その声には、抑えきれぬ感情があった。


武田信玄ほどの男を牛車に乗せる。武士として考えれば、屈辱にも等しい。


だが琳は、微塵も怯まなかった。


「はい」


短い返答。


「揺れを減らし、休みながら進めば、御身の消耗を大きく抑えられます。今は、速さではございませぬ。"信玄様"のお命、お身体が優先にございます。」


信玄はしばらく琳を見ていた。


その視線は厳しかったが、怒ってはいない。見ているのは、この娘がどこまで己の身体を理解しているかであった。


やがて信玄は、ゆっくりと鐙から足を下ろした。


「……牛車を使おう。輿もいかぬよな?」


「はい。」


静かな声であった。


山県が顔を上げる。


「しかし御館様」


信玄はわずかに笑った。


「ここで意地を張り、道中で倒れては後世の笑い話にもならぬ、それにお主ら家臣たちにも手間をかけてしまう。儂は甲斐へ帰りたいのだ。」


その一言で、場の空気が変わる。


琳は深く頭を下げた。


「ありがとうございます。」


信玄はその言葉に小さく目を細め、牛車へ向かった。


それは公家の乗るような重い牛車ではない。車重を軽くするため工夫された準備された簡素な車で、床には厚く布が敷かれ、その下には畳や蘆草が重ねられている。少しでも揺れを減らすための工夫であった。

これは医務衆で運用する牛車と同じ工夫である。


琳は車輪を確認し、軋みを聞き、布の重なりを自ら整えた。


「もう一枚」


柚へ言う。


「腰の下へ」


「はい」


「隙間を減らし熱を閉じ込めて、寒さは体の力を奪うものです。」


小姓たちは慌ただしく動く。

信玄はその様子を見ながら、低く笑った。


「まるで壊れ物よな」


琳は答える。


「信玄様はそれだけ価値のある存在なのですよ。美術品にございます。」


その返答に、一瞬だけ静寂が落ちた。


だが次の瞬間、信玄は笑った。


「ならば丁寧に運べ、揺らしたら打ち首ぞ」


「シャレになっておりませぬ」


思わず馬場信春が口を出す、周囲の者たちもようやく息を吐いた。



撤退は、想像以上に遅かった。


琳が半日の行軍ごとに必ず長い休息を取らせたからである。


昼過ぎには止まり、日が落ちる前には宿へ入る。


寺、城、豪族の館。風を避けられる場所を優先し、信玄を冷やさぬよう整える。

宿へ入るや否や、琳はまず体温や部屋の空気を見た。


「すこし湿気くさいですね。」


「酒で拭いてください」


「火鉢の扱いは注意してください。」


最初の頃、小姓たちはその細かさに驚いていた。


だが数日もすると理解する。

この医は、信玄の体力を“一刻ずつ”守っているのだと。


夜の処置はさらに細かかった。

その日の歩行距離、会話時間、食の量、疲れ方。すべてを見て、薬の配分を変える。


ある夜は吐き気が強い。


「生姜を増やしますが胃に負担が掛かりますのでヨモギも入れましょう。」


陳皮を減らし、温めを優先する。


別の日は背の痛みが勝つ。

「今日は芍薬を」


甘草を少し増やし、痙攣を抑える。

夜半、どうしても痛みが引かぬ時だけ、阿片を用いる。


だが、それもほんのわずかであった。


「もっと入れれば、楽になるのでは」


ある夜、小姓が恐る恐る問うた。

琳は首を横に振る。


「眠り過ぎれば、今後の時が削れます」


そう言って、爪先ほど削った阿片をさらに半分に分けた。


「痛みを消すのではございませぬ、痛みを遠ざけ、お休みになれるように分量を合わせるのです。」


信玄は横たわったまま、それを聞いていた。


「そなたは、いつも削る話ばかりよな」


「命の火を削らせぬためにございます」


琳は静かに答える。

その声に飾りはない。


信玄は薄く笑い、薬を飲み下した。


やがて呼吸が落ち着く。


額の皺が、ほんの少しだけ薄くなる。


それを見た山県は、黙って火鉢へ炭を足した。




琳は毎夜、書をしたためていた。

その記録は異様なほど整然としている。


朝になれば、それを朝廷の大鷹原(おおたかはら)胤貞(たねさだ)宛として送り出す。


名目は、朝廷医官としての経過報告。

だが真田昌幸だけがその書に違和を覚えていた。


最初は気にも留めなかった。

医師が記録を残すこと自体は当然である。


しかし、毎日、毎日、毎日。

しかも、あまりにもその内容が細かい。


・本日参加の軍議半刻

・歩行の有無

・食量増加

・薬の効き目具合

・持参した薬の量と使用料と残数、"その種類と組み合わせ"

・意識はっきりと、言葉の意味も理解するなどの体調


昌幸はある晩、廊下の端で風に揺れる灯を見ながら考えていた。


何故そこまで書く。


病だけを見ている書ではない。


まるで…


(戦場、戦局を見ているようだ)


昌幸は静かに目を閉じた。


疑念はある、だが確証はない。


何より厄介なのは、その疑念より先に理解が来てしまうことであった。


琳という医者が居なければ、恐らく御館様はここまで保っていない。


それは誰より昌幸が理解している。

吐き気が強い日は食を削り、良い日は少しだけ増やす。


眠れぬ夜は阿片を使うが、決して深く眠らせぬ。


一日ごと、一刻ごと、なるべく信玄自身の体力の消耗を減らしている。


あれは、ただの医術ではない。

人が尽きるまでの流れを、見切っている。

人の命を操っているかのように。


昌幸は低く息を吐いた。


(何者だ、この娘は)


朝廷より遣わされた医師としては申し分なく信玄の病と向き合い手を尽くしている。


しかしどこかこの娘の見る景色は医者のものではない所がある。まるで一軍の将であるかのように達観してその流れを見ている。


味方として全てを信用して良いのか?

実は武田の内部を見るように遣わされた何処ぞの大名の間者なのか。

そのどちらとも言い切れぬ。


だが少なくとも。


(医の技は見事だ、武田の従医にはこの者に並ぶ者は1人としていない。)


その技だけは、本物であった。




信玄の状態も、表向きは保たれていた。


日によっては自ら軍議へ口を出し、勝頼へ指示を与え新たな大将としての経験を積ませる。馬場や山県と短く言葉を交わし、地図を眺めることもある。



その姿に、兵たちは安堵した。



だが琳だけは知っている。

その呼吸は浅くなっている。


食後の疲れも増えた。

脈は細い。

確実にその命は削れて死の道を進んでいる。


時は1573年4月8日、信濃国下伊那郡の阿智村にある長岳寺へ入る頃、寒さはさらに厳しくなった。

山道は長く、風は鋭い刃のように身を削る。


ここに来て信玄の体調についに大きな崩れが来た。


宿として使われた寺の一室。


信玄は突然、深く咳き込んだ。

そのまま息を吐き、身を前のめりにして布団に倒れ込む。


小姓や重臣たちが駆け寄る。


「御館様!」

「御館様っ!医者を早く!」



信玄からの返事はない。

呼吸が乱れ、額に汗が浮かんでいる。


琳はすかさず駆け寄り即座に脈を取った。


心音は早く

息は細い。

腹へ触れる。

体が細かく震え熱は低い。


(……来た)


琳の目が変わる。


山県昌景と穴山梅雪が部屋へ飛び込んできた。

遅れて来たのは武田勝頼。

「どうだ!」


琳は答えない。

まず指示を飛ばす。


「湯を沸かしてください!火を弱めて。暖める為の布を替えます」


「清潔な水も用意してください」


小姓たちが走る。


「柚、消毒薬を。それと気付け薬をお願いします。」


「はい!」


信玄は薄く目を開けた。


「……」


「信玄様、聞こえますか!信玄様!」


琳は肩を叩きながらその意識を確認する。

信玄は焦点を合わせず天井を眺める。


「琳殿、御館様は!」

琳は答えない。


「琳様、気付け薬です!」


「ありがとう柚」


この気付け薬は麻黄(まおう)を煮出し蜂蜜と合わせたもので興奮物質を強制的に分泌させる薬である。

体力が衰弱した者には逆効果となる可能性があるものの信玄の体力はまだ持つと思っての処方である。


琳は急ぎ気付け薬を手に取り水に含ませかき混ぜる。

いつもより、薬の量はほんのわずかに多い。


だが、それでも最低限。


「三口で」


柚へ渡す。


「急がせぬよう」

その夜は長かった。


何度も呼吸が乱れ、息は止まりかけ、熱が下がる。


山県は壁際で腕を組んだまま動かない。

馬場もまた座したまま沈黙している。


その他の重臣たちは廊下にいた。

木曽、真田、穴山に原などいずれも武田を支えるもの達。


静かな寺の中、聞こえるのは時折響く琳の声だけ。


「信玄様、聞こえますか?手を握ってください」


その声は澄み、空気を切り裂くように寺に響く。



誰もが思った。


”ここまでかもしれぬ”


夜が明け、また夜が来る。

琳は一睡もせず、ひたすら信玄の元でその容態を見極め適切に投薬し、効果を記す。

その繰り返しで、一日を繋ぐ。


まるで崩れ落ちる堤を、両手で支え続けるような治療であった。



そして六日目の朝。


信玄は、自ら目を開けた。

「……我ながらしぶといものよ。」


掠れた声だが芯が戻りはっきりとした発音で述べられた一言。。


だが、その一言に部屋の空気が変わった。


山県が深く息を吐き、馬場は静かに目を閉じる。

琳は脈を見た。

弱く細い、だが戻っている。

倒れた日に比べればそれは誰でもわかるほど大きな違い。


眼にも光が戻り力強く家臣たちを見据えた。


「よく戻られました。」

信玄は、ゆっくりと琳を見る。


「琳殿」

苦しげな息の合間に、かすかに笑った。

「なぜ私は死なぬ」



琳はひび割れが目立つ手を動かし、ただ静かに温布を替える。


山県が口を開きその問いに答える。

「御館様、まだその時ではございませぬ。帰りましょう、甲斐へ」



阿智を発ってから、景色は少しずつ変わり始めた。

険しかった山道の雪は薄くなり、谷の水音が増える。


昼間の陽差しには、わずかな温かさが混じるようになっていた。


武田軍は急がなかった。


いや、急げなかった。


最初こそ山県は苛立った。

馬場も沈黙を守っていた。

だが阿智を越えてからは、誰も口を挟まなくなった。


理解したのである。


ここまで来られたのは、あの医が一刻ずつ命を繋いだからだと。

ある日、牛車が山道の途中で止まった。



雪解け水が岩を打ち、遠くには白い峰々が見える。

春霞の向こう、日本アルプスの山並みが静かに連なっていた。


琳は湯を用意していたが、ふと気配を感じて顔を上げた。

信玄が(すだれ)を上げて外を見ている。

「……良い山よな」


ぽつりと言う。

その声は穏やかだった。


琳は少し黙り、やがて答える。

「はい、この山の向こうが甲斐にございます。」


信玄は目を細めた。

「若い頃は、山など見ても何とも思わなんだ」


冷えるような温かみを纏う風が吹く、肌を撫でる様に。

明らかに冬の名残を残す風であったがその中に確かに春の匂いが混じっていた。


「儂は国の動き、戦ばかり見ておった」


信玄が小さく笑う。

「ようやく、見えるようになったかもしれぬな」


しみじみと語る信玄の呼吸を見る。

力強く生き生きとした呼吸。

大地に根を張るように安定した心拍。


穏やかであった。

やがて、道沿いに桜が見え始めた。


最初は一枝。

次には山裾。

さらに進めば、川沿いに淡い色が連なっていく。


信玄は牛車の簾を少し上げたまま、その景色を見ていた。

「……桜か」

山県が横へ並ぶ。


「今年は遅うございましたな」


「そうか」

信玄は笑った。


「待っておったのやもしれぬ」

その言葉に、山県は返せなかった。

信玄はしばらく黙って桜を見ていた。


風が吹く。花びらが一枚、牛車へ舞い込んだ。

信玄はそれを指先で拾う。


その手は痩せていた。

骨ばり、血色も薄い。


だが、その動きは不思議なほど静かで、美しかった。

「……春よな」


小さな声。

琳はその横顔を見ていた。

この男は、もう長くない。


それを知っているのは自分だけであるような気がした。

周囲は、戻った、保った、持ち直したと口にする。


だが違う。

これは咲き誇る桜、桜は散る頃が一番美しい。


琳は目を伏せた。

諏訪へ入る頃には、桜は満開であった。


湖面には春の光が揺れ、風は柔らかく、山々の雪も少しずつ薄れている。

武田の兵たちも、どこか安堵した顔をしていた。


帰ってきた、その実感があった。

信玄もまたその空気を感じていた。


「……諏訪か。勝頼、戻ってきたな」


傍に控えている勝頼が静かに頷く。

「はい」

信玄は目を閉じる。


その顔には、長い戦を終えた男の静けさがあった。

諏訪湖に水面が目に刺さる。煌びやかで、穏やかな光。

土の匂いが濃く広がる。



そして。


桜が散り、山々へ若葉が芽吹き始める頃。

武田軍はついに甲斐へ帰り着いた。


時は1573年4月24日

一月半(ひとつきはん)の長き行軍の末についにたどり着いたのだ。

風は乾き、空は高い。

鳶が鳴き、農民たちは田んぼ仕事に勤しんでいた。

遥か遠くに躑躅ヶ崎館の見える丘で、信玄はゆっくりと目を開けた。


目前に広がる故郷を見つめ、長く息を吐く。

「……戻ったか」

その声は、小さかった。


だが、そこには確かな安堵があった。

この日、当主武田信玄は生きて再び甲斐の地に自らの足で立つことが出来たのだ。

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― 新着の感想 ―
船月先生 こんばんは。 引き込まれる様に読んでしまいました。 先生の文章は情景が頭で描く事が出来ます。 本当に良い作品をありがとうございます。 今後も楽しみにずっと応援しています。 頑張ってください!
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