送り狼
1573年2月上旬
治療の開始より二週目の終わりには、粥は小碗の半分ほどまで進む日があった。
水も、むせずに喉を通った。
夜の痛みの波は落ち着き、阿片はここ数日遠くに置かれていた。
阿片など用いなくとも、温めた布と芍薬甘草の薬で眠れる時が増えた。
家臣たちの態度も変わった。
はじめは、琳の手元を疑いの目で見ていた者が多かった。
薬の量を削るたびに、もっと使えばよいのではないかという顔をした。
粥を止めさせれば、なぜ食べられる時に食べさせぬのかという目をした。
だが、数日後の崩れを見て、彼らは学んだ。
増やせば戻す。
急がせれば疲れる。
痛みを消し過ぎれば眠り、眠らせ過ぎれば言葉が失われる。
琳は常に、その手前で止めた。
それを見て、武田の家臣たちは、この医が臆病なのではないと知った。
欲張らぬのだ。
勝てぬ場所で勝とうとせず、崩れる前に支え、退くべきところで退く。
その手は、戦を知る者たちにも理解できるものだった。
ある夜、廓を離れた小部屋に馬場、山県、内藤が集まった。
灯は低く、外は静かである。
最初に口を開いたのは内藤だった。
「ここ数日御館様の食がよく通っておる」
「一時のことだ、まだ決めつけるものでは無い。」
山県が即座に言った。
その言葉は否定ではなく、戒めに近い。
馬場が頷く。
「根は変わらぬ」
内藤は火を見つめながら言った。
「されど、御館様は話せるようになり、軍の備えも命じられる。考えもはっきりとなさってきておる」
山県は黙った。
内藤は続ける。
「だがしかしあの医は、病を治してはおりませぬ。そこを見誤れば危うい」
「では何をしている」
山県が問う。
内藤は少し考える。
「御館様から、余計に奪われるものを防いでおられる。痛み、吐き気、眠れぬ夜、食えぬ苦しみ。そうしたものが御館様の力を削る。その削りを止めておる」
馬場が静かに言った。
「時を保っておるのだな」
山県の拳が膝の上で握られた。
「……それで、足りるのか」
誰もすぐには答えなかった。
やがて馬場が言った。
「御館様が決められるだけの時があれば、今は事足りる」
山県は顔を上げた。
馬場の声は穏やかであったが、深かった。
「我らが欲しいのは、ただ一日でも長く御館様が生きることではない。御館様が御館様としておられる時だ」
内藤が目を伏せる。
「その時を、あの医が保っている」
「そうだ」
馬場は短く答えた。
山県は黙った。
長い沈黙の後、低く言った。
「……ならば、守らねばならんな」
「守る?いったい何を?」
山県は吐き捨てるように言った。
「御館様の残りの時と、それを支えるあの娘も含めて」
それきり、誰も異を唱えなかった。
三週目に入る頃、廓の空気は明らかに変わった。
信玄は朝に座るようになった。
短い時間ではあるが、背を預けず、目を上げ、家臣の報告を聞く。
声は乾いたようにか細くなる時もあるが、言葉が示す意味は軍神の名に違わぬ明瞭さであった。
ある朝、信玄は碗を自ら受け取った。
小姓が驚き、手を出しかける。
「自らでやる、今日はよい」
信玄はそう言って、粥を口へ運んだ。
一口、二口、三口。
目元を緩めながら鰹節と梅干が混ぜられた粥を頬張る。
「美味いな」
琳が止めるかと思ったが、その日は止めなかった。
四口目。
五口目。
椀の内にある粥は椀の底に少し残るばかりになってそこで琳が言った。
「今は、ここまでにございます」
信玄は碗を見た。
「もう一口は」
「一度に摂られては夜に響きます」
信玄は琳を見た。
しばらくして、碗を返した。
「堅いな」
「今決めごとを柔らかくしては、御身が崩れます。無駄になさるおつもりですか?」
信玄は笑った。
「言うようになったわ」
小姓たちは目を伏せたまま、口元を緩めた。
その翌日、信玄は立った。
小姓が支えようとした手を、信玄は軽く払った。
「待て」
片膝を立てる。息が深くなる。肩に力が入り、腰が上がる。
立った。
誰も声を出さない。
信玄は一歩、踏み出した。
足は、わずかに震えた。だが、背筋は崩れない。
二歩目。
三歩目。
信玄は止まり、息を整えた。
「……体が軽い」
低い声に、久しく失われていた張りがあった。
「この城はずいぶん天井が近いな、これまで思わなんだ。」
琳は少し離れた場所から見ていた。
喜ぶべき場面であった。
家臣たちの顔にも、隠し切れぬ安堵が浮かんでいる。山県ですら、唇を強く結び、目を伏せた。
内藤は即座に周囲へ合図し、余計な者を下げさせた。
馬場は静かに信玄を見守っていた。
真田昌幸は、琳の顔を見た。
琳だけは、笑っていなかった。
昌幸はその琳の表情に背筋を抜ける冷たいものを感じた。
治ったのではない、そう見極めた医者の姿を。
痛みが遠のき、食が少し通り、眠りが戻り、体力の消耗が抑えられた。その結果として、信玄の中に残っていた力が一時的に表へ出てきたに過ぎない。
だが、その一時こそが、今は何より重かった。
信玄は歩みを止め、琳へ視線を向けた。
「どれほど歩ける」
「この場を三往復までにございます」
「少ないな、もっと歩けそうなのだが。」
「多く歩けば、明日また寝たきりになるやもしれませんよ」
信玄は、しばし琳を見た。
そして笑った。
「ならば三往復で足りるように力を使う事にしよう。」
その言葉に、馬場が目を伏せた。
信玄はすでに、何に使うべきかを決め始めていた。
それから数日のうちに、信玄の言葉はさらに明瞭になった。
報告を聞き、問い返し、軍の状況を整理する。長くは続けられない。
琳は必ず途中で止めた。
「これ以上はまたお疲れが体に溜まります。」
山県が一度、口を挟もうとした。
「まだ御館様は....」
信玄が手を上げた。
「よい。医の軍配に従う」
その言い方に、家臣たちはわずかに息を呑んだ。
信玄は続けた。
「わしが長く話したいからといって、身がついて来るとは限らぬ」
そして琳を見た。
「そうであろう」
「はい」
琳は短く答えた。
「御身の力は、使う先を選ばねばなりませぬ」
信玄は頷いた。
「ならば、選ぶとしよう」
その日の夕刻、信玄は重臣たちを呼んだ。
火は低く、外はまだ寒い。だが、廓の内に漂う空気は、初診の日とは違っていた。病に押し潰される空気ではない。決断の前の静けさであった。
信玄は座していた。
背を伸ばし、視線を上げている。
「甲斐へ退くぞ」
その一言で、場が決まった。
山県は顔を上げた。
内藤は目を伏せた。
馬場は動かなかった。
昌幸は、ほんのわずかに息を吐いた。
信玄は続ける。
「徳川征伐は、ここまでよ」
誰も言葉を発しない。
「今の儂にこれ以上、軍を進める程身はない。無理に進めば、勝ちを拾う前に武田が崩れる」
声は弱くない。
病人の撤退ではない。大将の撤退であった。
「春になる前に甲斐へ戻る」
馬場が深く頭を下げた。
「御意」
山県も続く。
「御意」
内藤がすぐに言う。
「撤退の支度、直ちに整えます」
昌幸は静かに頭を垂れた。
「道中の負担を抑えるならば、行程は刻みましょう」
信玄は頷く。
「任せる」
その時、信玄の視線が琳へ向いた。
「お医者様よ」
「はい」
「もう少し余のそばに居てくれぬか。」
問いではなかった。
琳は深く頭を下げた。
「最後まで御供いたします。京よりの務めにございます」
信玄はその言葉を聞き、わずかに目を細めた。
「そうか」
それだけであった。
だが、場にいた者たちは理解した。
この医は、まだ役目を終えていない。
信玄の苦しみを軽くし、言葉を保ち、歩みを支えた。
けれど、それで終わりではない。甲斐へ戻るまで、そしてその先まで、同じ手を保ち続けねばならぬ。
山県は、初めて琳へ頭を下げた。
深くはない。だが、確かに下げた。
「御館様を頼む」
琳はそれを受け、静かに言った。
「はっ、承知致しました。」
山県は一瞬だけ目を細めた。
「崩さぬ、か……それでよい」
言葉は短い。
しかし、そこには初診の日のような疑いはなかった。
廓の外では、すでに人が動き始めていた。
荷が整えられ、馬が用意され、道が調べられる。撤退は敗走ではない。武田の軍は、乱れず、静かに、甲斐へ向かうために動き出す。
その夜、琳は一人、薬包を確かめた。
生姜。陳皮。芍薬。甘草。蜂蜜。阿片。
どれも多くはない。
足りるかどうかではない。
足らせねばならない。
彼女は包みを閉じ、手を洗った。
水は冷たい。
指先の感覚が戻るまで、しばらく待つ。
「柚」
「はい、琳様」
「もう少し私を手伝ってください」
「もちろんです」
「ありがとう。」
柚は琳の手を取りひび割れの多い琳の手を撫で温めた。
「私は琳様の従順な家来にございます。私も最後まで琳様の元でお勤めいたします。」
「えぇ、お便りしております。」
障子の向こうに、信玄の静かな呼吸がある。
それは穏やかに聞こえた。
けれど琳は知っている。
これは治癒ではない。
これは、ただの保たれた時間である。
その時間の先に何があるかも、知っている。
琳は目を伏せた。
(上様へ、お伝えする日まで)
その思いだけは、決して揺らがない。
信玄に寄り添う医として手を尽くす。
そして織田の家臣として、最後を見届ける。
二つは交わらない。
だが、この夜だけは、同じ一つの手の中にあった。
薬を整える手。
命の終わりへ向かう時間を、少しでも乱さぬように支える手。
武田の軍は主の命に従い引き際を見極めた、波が引くように整えられた退却が始まった。
時は戻り1573年1月の8日頃———岐阜城。
天守の一室には火鉢が置かれていたが、それでも空気は冷たい。静まり返った部屋の中、信長は一通の書を読んでいた。
浜松より届いた急書。
差出人は桃慧。
読み始めた時、信長の眉はわずかに寄っていた。
「……何を申すか」
小さく漏れた声。
武田家へ潜る。
信玄を診る。
そして、その死を見極める。
常ならば退ける話である。
敵将の懐へ、自ら入るなど正気の沙汰ではない。
だが、読み進めるうちに信長の指が止まった。
もう一度、最初から読む。
食の衰えの報告。
長き軍行による消耗。
姿すら見せない信玄の動き。
そして、武田軍の消極的過ぎる攻勢と城への籠り具合からみて考えられる事。
“信玄の寿命尽きかけている”
そこへ至る理が、簡潔に積まれている。
信長はしばし動かなかった。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
「……そういうことか」
目の色が変わる。
武田信玄。
あの男が三河へ侵攻した時、信長は初めて、天下が己の手から滑り落ちる感覚を知った。
徳川は潰れかけた。
東は崩れかけた。
織田包囲網は、完成寸前まで来ていた。
真綿で首をじりじりと絞められるあの感覚。
それほどのの敵。
その信玄が、尽きる。
もしそれが真ならば、信長は思わず立ち上がった。
(今の行き詰った情勢が簡単に割れる)
武田が動くからこそ、周囲は結ぶ。
武田が止まれば、その結びは緩む。
さらに。
(信玄の死を掴めば、他の大名より一足先に動ける、圧倒的有利に先手を打てる。)
他の敵すら知らぬ間に、その柱が折れる。
その瞬間を、誰より早く知ることが出来る。
浅井、朝倉、上杉、毛利、それに将軍家や朝廷、本願寺勢力、この戦況より一足先に抜け出し頭から叩く事が出来るようになるのはこの上ない。
敵より有利な先手を確約されるとなればそれは戦の大勝よりも一つ勝る大きな利。
信長は障子の外へ目を向けた。
庭は暗く沈み、冬の風だけが木々を揺らしている。
「藤吉郎と光秀を呼べ」
控えていた小姓がすぐに頭を下げた。
「はっ」
足音が遠ざかる。
ほどなくして、廊下の向こうから慌ただしい足音が近づいてきた。
襖が開く。
「失礼仕る。」
「お呼びでございましょうか!」
光秀は落ち着きながら、木下藤吉郎は勢いよく頭を下げた。
だが、顔を上げた瞬間、両者は信長の様子を見て表情を引き締める。
ただ事ではない。
それを察したのである。
信長は書を放った。
「読め」
光秀と藤吉郎は受け取り、目を走らせた。
最初は軽く読んでいた顔が、次第に変わる。
最後まで読む頃には、額に汗が浮いていた。
「……これは」
言葉が止まる。
信長は黙っている。
光秀は恐る恐る顔を上げた。
「桃慧殿を……武田へ?」
「そうだ」
即答だった。
光秀と藤吉郎は息を呑む。
「し、しかし! 敵の本陣にござりますぞ!? しかも信玄公の傍など……!」
藤吉郎の声が上ずる。
「危うすぎます、いくらあの娘だろうと信玄公の元となれば京の偵察とは勝手が違いすぎまする。」
流石の光秀も目が泳ぎながら書を何度も見返し、その同様振りを隠せていない。
信長は火鉢の炭を見つめたまま言った。
「危うくなければ意味がない」
静かな声だった。
だが、冷たい。
藤吉郎はなお食い下がる。
「されど、何故そこまで……!」
信長はそこで初めて藤吉郎を見た。
「藤吉郎」
「はっ」
「武田が恐ろしいのは何故だ」
問いは唐突だった。
藤吉郎は言葉に詰まる。
だが、すぐに答える。
「……信玄公がおるからにござります」
「そうだ」
信長は頷いた。
「武田の軍が強いのではない。信玄という頭がおるから武田の手足は鋭く動く」
その声には確信があった。
「ならば、その信玄が尽きるならどうなる」
藤吉郎の目が、わずかに見開かれる。
信長は続けた。
「この包囲網は割れる、信玄という男一人の死で」
一歩、踏み出す。
「敵は歩みが乱れる、自然に崩れる」
さらに。
「そして、この信長が不埒な輩共より先に動ける」
部屋の空気が張る。
光秀と藤吉郎はようやく理解した。
これは単なる密偵となる旨の進言ではない。
今、目前にある戦そのものを変える話なのだ。
「……ですが」
それでもなお、光秀は低く言った。
「あの娘に、そのような役を……」
信長は、ふっと笑った。
「他では務まらぬ」
短く言い放った一言だが、紛れもなく瞬時に出された断言であった。
「只の密偵では病だけならまだしも、その死を見通せる者がおらぬ」
信長は書を軽く叩く。
「そして病による死は、噂では正しき情報が掴めぬ」
声が低くなる。
「人が“終わる刻”は、桃慧にしか見えぬ」
藤吉郎は黙った。
信長はさらに言う。
「あの娘はやり遂げるぞ、完璧に、……完璧にな。」
その言葉には、一切の迷いがなかった。
少し間を置き一息ついたのち再び信長は思いふけるように話を続ける。
「恐れようと、迷おうと、信玄の死を最後まで見届ける。それができるのは桃慧のみだ。」
藤吉郎は信長を見る、光秀は信長ではなく書の最後に書かれた桃慧の名を見る。
信長が自信気に語るその姿にあるのは桃慧への信頼であった。
信長は障子の向こうへ目を向ける。
「憎き信玄の死を」
静かに言う。
「誰より先に知るのは、あの娘と」
一拍。
「この信長よ!」
藤吉郎と光秀は息を呑んだ。
信長の目は、すでに武田のその先を見ていた。
信玄が倒れた後の世。
崩れる包囲網。
空く東、その全てを。
やがて信長は振り返る。
「光秀」
「はっ」
「曲直瀬道三へ通じる道を整えよ」
「朝廷の医として送り込む」
光秀は深く頭を下げた。
「承知仕りました。」
「藤吉郎、信玄の死の後必ず敵は乱れる、そうなれば浅井朝倉へ決着をつける。」
「はっ!」
「今のうちに支度せよ、時を見て烈火の如く攻め立てる。その中心は貴様ぞ!」
「ははっ!!!」
返事をしながらも、両者のその胸中にはなお重いものが残っていた。
敵陣に潜り、病を慰めるふりをし、その死を見届ける。
それは、あまりにも過酷な役目に思えた。
だが信長は、迷わなかった。
あの娘ならばやる。
そう信じ切っていた。
部屋には再び静けさが戻る。
外では冬の風が天守の屋根を吹き付け鳴っていた。
遠く甲斐へ続く空を、まるで撫でるように。




