保たれた時
廓の内は、静かであった。
南に面した障子より、冬の終わりの光が差し込んでいる。柔らかく見えるその光に反して、室内の空気はひどく澄み、冷えていた。香炉から立つ煙が、細く、まっすぐに昇る。乱れるものを許さぬような静けさであった。
柚が傍らの薬櫃より、いくつかの包みを取り出す。
一つ一つ、雅な漆塗りの台の上に並べる。
乾いた根。刻まれた皮。粉末。
色も、香りも、それぞれ異なる。
琳はその中から三つを選び、指先で分けた。
「まず、胃の働きを整えます」
生姜を細かく砕く。
刃を使わず、石で押し潰すように。
目が覚めるような香りが立つ。
「これは生姜。胃や身体を温め、動きを促します」
さらに陳皮を加える。
陳皮とは乾いた柑橘の皮。
指で揉むと、スッキリとした香りが立ち、指先にわずかに油が滲む。
「こちらは陳皮。滞りを散らし、食を通します」
陳皮を椀に入れ、お湯を注ぐ。
そのままでは用いない。
軽く温めるのがコツである。
椀に張られたお湯が柑橘の香りをまとった湯気を立たせる。
「冷えた飲み物では、かえって身体に負担となります。身体を内から温める事が必須、それに生姜や陳皮は加熱した方が良く効きます」
次に、別の包みを開く。
細かく刻まれた芍薬と、甘草。
「痛みには、これを」
指で量を測る。
「芍薬は筋の緊りを緩め、痛みを和らげます。甘草はそれを助け、胃の内を守ります」
様々な薬を混ぜた湯の中に酒を数滴落とす。酒が入ると香りが柔らかなものへと変わる。
「少量の酒は血の巡りを助け、薬を内へ運びます。多すぎると逆に体を弱らす毒となりますので。」
酒は過ぎれば害となることを、治療の姿を見守る馬場信春は酒の取り過ぎは毒になるとよく知っているのか頷きながらその姿を見守る。
さらに、小さな壺から蜂蜜をひと匙。
とろりポトリと水面に落ちる。
「これにて、力を補います。食が通らぬ間これが身体を助けるわずかな支えとなります」
すべてを丁寧に混ぜる、するとやや粘りを帯びた液が出来上がる。
琳はそれを見つめ、指先で確かめる。
(……ちょうど良い塩梅、弱った体にはこれほどがちょうど良いでしょう)
「御毒見の方は何処に?」
琳が周囲を見渡すと武田家家臣の者たちがそれぞれ顔を見合わせる。
「朝廷よりおいで下さいましたお医者様のお薬を疑う事は致しませぬ。」
信春が頭を下げつつ笑顔で話す。
「は、はぁ、然し万が一がございますので....。」
すこし驚きと呆れたように琳は出来た薬を小姓へ差し出す。
小姓はその薬を恐る恐る口にする。
甘さと少し苦味があるその薬は柑橘の香りを纏い鼻に抜ける香りも華やかで薬とは思えない一品であった。
「これは、安心かと思います。」
小姓はこの甘く華やかな薬に頬を綻ばせて満足したように重臣たちへ報告する。
「これでよろしいでしょうか?」
信春が琳へ向かいやり取りをしかと報告する。
琳もしっかりとその言葉を受け止める。
「これで私も安心してお薬をお渡しできます。」
先程薬を渡した小姓とは別の小姓へ薬を渡し、薬の説明を始める。
「一度に飲ませぬこと、三口に分け、間を置いて飲んでください。喉が拒むなら、無理に飲ませず、少しづつ口に馴染む程度に飲ませてください。」
小姓は深く頷き、信玄のもとへ寄る。
「……失礼いたします」
椀が口元へ運ばれる。
信玄は、わずかに顎を引く。
一口。
ゆっくりと流し込まれる。
喉が動くまで、時間がかかる。
だが吐かずに少し頬を綻ばせながら薬とは思えないような表情で飲み込む。
二口目。
先ほどより、わずかに早い。
三口目。
飲み終えた後、信玄の胸がゆっくりと上下する。
すると大きく息を吸い、ゆったりとした表情で息を吐く。
琳はそれを見逃さない。
「すぐには効きませんが、必ず体に良い巡りをもたらします。」
静かに告げる。
「半刻ほどで、胃の重さが軽くなります。その後、痛みも和らぎましょう」
言葉に誇張はない。
ただ、経過を示す。
それからしばしの後、強ばっていた信玄の肩から、わずかに力が抜けた。
眉間の皺が、薄くなる。
呼吸が、先ほどより深い。
「それでは甲斐守様、薬が効き始めるまで少し横になられてください。起きっぱなしですとお体が休まりませぬ」
琳は信玄の体を支えながら床に就かす。
それから傍らで呼吸をみて、脈を測り、その推移を書に書き記す。
「柚、こちらへ」
「はい、琳様」
柚は喜々として琳の側へより膝をつく。
「今は波が落ち着いている状態です、しかしこの病は一瞬で命を脅かすところまで手を伸ばすものです。油断せずに向かい合いましょう。」
「はい、承知いたしました、琳様」
少し頬に赤みを滲ませながら琳の話を聞く柚。
30分程経った頃、信玄はいつものように小姓へ寝返りを所望し始めた。
小姓が割れ物を扱うようにゆっくりと信玄の体に触れ、寝返りを補助する。
しかし先程までと違うことに気が付いた信玄が目を開きながら囁く。
「……おぉ、痛みが和らいだように感じる」
ぽつりと漏れる。
その一言で、場が変わる。
そのひとことに誰も声を上げぬ。
だが、確かに理解する。
怪しいと思っていた医者の薬が効いている。
琳はすでに次を見ている。
「以後は、同じ薬を三刻ごとに、食は粥を三口ずつ。間を置いて水も同様に口を潤す程度に食む様に飲ませてください。」
視線を小姓へ。
「体の向きは、半刻ごとに変えてください。同じ姿勢を続ければ、痛みが増すでしょう。」
さらに付け加える。
「腹は冷やさず布を温め、常に当てておくこと」
一つ一つが、分かりやすく誤解ないようにそれぞれの耳に落ちてゆく。
その指示に誰も逆らわない。
信玄は静かにそれを聞いている。
「もし痛みが辛く眠りにつけぬほどのものでしたら此方を……。」
琳は次の包みを開いた。
金で飾られた朝廷の紋に漆塗りの豪華な箱の中には、黒褐色のごく小さな塊。
指先で削るほどの量を、慎重に取り分ける。
小姓が息を呑む。
「……それは」
琳は手を止めない。
「どのような強く痛みをも抑える薬草にございます」
淡々と答える。
「ただし」
指先で量をさらに削る。
「分量を誤り過ぎた量を使えば、息を奪い、狂わせるものです」
室内が、わずかに張る。
「ゆえに、これをつかう際は私か、助手の柚へ一言お声がけ下さい」
先程の椀とは別の椀にに落とす。
ほんの微量。甘草や蓬の粉末などの他の薬に溶け、形を失う。
「お医者様、これは一体なんというお薬なのでしょうか?」
琳は少し考えた上でしっかりとした口調で教える。
「今調薬致しました薬草は阿片にございます。量を誤れば狂い毒、的確な量をで飲めば痛みを緩和することができる、使い方次第で変わる危険な薬にございます」
その一言を聞いた信玄は、わずかに目を細めた。
先ほどまでの苦悶とは異なる色があった。
「病を診てくれる上に痛みを取ってくれるとは....嬉しい限りだ」
まだ終わっていない力強く生きようとする者の目。
琳はそれを見ている。
(……この御方は全く諦めてない)
信玄の命の輝きをあきらめない姿に琳も心を決めた。
この方の死をしっかりと看取らねばならないと。
そして琳は静かに言った。
「痛みを消し切れば御意識が鈍ります。御意識を鈍らせれば、御身は楽でも御心が働きませぬ」
信玄は、わずかに目を開けた。
「わしに、まだ考えろと申すか」
「ここにいる皆さまは甲斐守様の御考えをまだ聞きたいと願うもの達ばかりです。」
周囲の者たちが頷きながらその様子を伺う。
琳の返答は淡かった。
信玄は、低く笑った。
「まったく、死の間際まで手のかかる家臣たちだ。」
けれどその瞬間、廓の空気は柔らかなものに変わったのだ。
そしてその日より、治療の日々が始まった。
朝は、生姜と陳皮を薄く煎じる。
胃を起こし、吐き気を鎮めるためである。
粥は米をよく煮崩し、塩はわずか。時に韮を細かく刻んで加える。
信玄本人の希望で韮粥を所望されたが韮は香りが強すぎれば胃に障るため、よく火を通し、ほんの少しだけ用いた。
滋養の力ははあるが、弱った胃には決して良いものでは無いため琳は決して多くを許さなかった。
「三口」
小姓が碗を差し出した時、琳は必ずそう言った。
「今日は四口いけそうにございます」
小姓が嬉しそうに言った日もあった。
琳は首を横に振る。
「三口のみです。通ったからといって増やせば、せっかく整えた体調も夜に崩れてしまいます。」
小姓は不服そうにしたが、信玄が目だけで制した。
「よいよい、お医者様の言う通りにせよ」
そう言われれば、従わぬ者はいない。
昼は、芍薬と甘草を少量。痛みが出る前に用いる。
痛みに追われてからでは量が増える。量が増えれば意識が鈍る。
琳はその境を嫌った。
夕には、蜂蜜を湯で薄め、少しずつ含ませる。乾いた喉を潤し、わずかな力を補う。甘みは人の心を緩める。信玄がそれを口に含むと、小姓たちの顔も少しだけ和らいだ。
夜は、最も難しかった。
背の奥から痛みが戻り、腹に重さが居座る。
寝返りを打とうとしても力が足りない。
小姓が肩を支え、腰を寄せる。
温めた布を腹と背へ当てる。温罨法で痛みが半歩退く日もあった。
だが、痛みが退かぬ夜もある。
三日目の夜であった。
信玄は横たわったまま、静かに天井を見ていた。声を上げはしない。呻きもしない。
だが、額には汗が浮いている。
呼吸は浅く、間が詰まっていた。
琳は傍らに寄り、脈を取った。
「我慢なさらず、強い痛みが来ておりますね?」
信玄は目だけを動かす。
「お医者様、頼む。」
琳は阿片の包みを開いた。
山県がその場にいた。
腕を組み、壁際に座している。まるで敵の動きを見るように、琳の手を見ていた。
琳は黒褐色の塊を爪先で削る。粉ほどの量。それをさらに分け、半分だけを碗へ落とし軽く挽く。
傍で見ていた山県昌景が不服そうに言った。
「それだけか」
「それだけです」
「効くのか」
「効かせ過ぎぬためです」
山県の目が細くなる。
琳は振り返らずに続けた。
「痛みを遠ざけます。眠らせるためではございませぬ」
山県は黙ったまま疑い深くその動きを見る。
薬は三口で飲ませた。
一口ごとに、呼吸を見る。喉を見る。目の焦点を見る。
しばらくして、信玄の肩が少しだけ下りた。
「……ぉぉ、よいな」
信玄が言った。
「先ほどよりは楽になられましたか?」
「よい、すまぬな」
「いえ、これが医者の務めですので。」
「忙しいことよ」
「病は待ってくれませぬので。」
信玄はかすかに笑った。
その夜、信玄は数刻ほどゆっくりと眠った。
長い眠りではない。だが、苦痛に追い立てられぬ健やかな眠りだった。
翌朝、山県は廓を出た後、馬場信春に言った。
「あの薬、恐ろしいな」
馬場は静かに頷いた。
「薬がか」
「いや」
山県は少し間を置いた。
「本当に恐ろしいのはあの娘の手がだ」
馬場は山県を見た。
山県は眉を寄せたまま続ける。
「増やせばもっと楽に出来よう。だが、やらぬ。あれは唯々楽にすることだけを考えておらぬ」
庭の松を眺めながらしっかりとした口調で話す。
「あの娘が行う処置は、すべて御館様を保つためだ。朝廷の医というのは恐ろしいな。」
馬場が言った。
山県は答えなかった。
だが、否定もしなかった。
そんな日々が続き七日が過ぎた。
信玄は、粥を三口から四口、時には五口まで受けられるようになった。吐き気はまだあったが、戻す回数は減った。夜に眠れる時が増えた。座して話す時間も伸びた。
しかし悪い日は消えない。
朝から食が通らぬ日もあった。
背を重がり、昼を過ぎても目を閉じている日もあった。
そういう日に家臣たちは言葉を少なくした。
琳は良い日に喜び過ぎず、悪い日に慌てなかった。
それがかえって、家臣たちの心を鎮めた。
内藤昌豊は実務の者である。感情で医を測ることをしない。
ある日、彼は小姓たちを集め、琳の指示を復唱させた。
「粥は」
「三口より始め、医師の許しなく増やしませぬ」
「薬は」
「刻を守り、量を変えませぬ」
「阿片は」
小姓が一瞬詰まる。
内藤が静かに促す。
「痛み強き時のみ。日の体の具合、痛みの具合をうまく測り量を抑えたり、また微量を選び加えたりと。」
「なるほど、常に一定ではなくその場その場に適した量を用いるのか。」
真田昌幸は、さらに別の見方をしていた。
彼は治療そのものより、信玄がいつ話せるかを見ていた。
薬の後、信玄の目が澄む時間。痛みが遠ざかり、だが眠気が来ない時間。
粥を受けた後、疲れが出るまでの間。
昌幸はその刻を読む。
そしてある夕刻、馬場と内藤に言った。
「御館様へお伺いを立てるなら、薬の後、半刻を過ぎた頃がよろしい」
内藤が目を向ける。
「なぜだ」
「痛みが退き、眠りはまだ来ませぬ頃合いがそこです、その時こそが薬が体に効き渡り落ち着く頃です。」
昌幸は淡々と答える。
「その間だけ、御館様の言葉が最も澄む時と。」
馬場はしばらく黙り、やがて言った。
「お主はよく見ておるな」
昌幸は口元を薄く緩めた。
「見ておるのは、あの医でございます。私は、その後を読んでおるだけ」
それを聞いた山県は、面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「軍議を薬の効き都合に合わせるか」
昌幸は山県を見た。
「いや、御館様はまだ軍議に耐えるほどではないのでしょう。御館様が薬を受ける前に軍議を行い、その是非のみを御館様の伺う方が体にも障らぬでしょう。」
「あい、分かった、そうしよう。」
山県は言い返さなかった。
十日を過ぎる頃、信玄は自ら体を起こせる日が出てきた。
小姓が手を貸そうとすると、信玄はそれを制した。
「待て」
肩に力を入れ、息が少し速くなる。
だが、腰が上がった。
そして厚い座布団の上に座った。
ただ座っただけである。
それでも、その場にいた者の喉が鳴った。
信玄は息を整え、琳を見る。
「座しても、よいな」
琳は近づき、顔色と呼吸を確かめた。
「あまりお無理なさらず、半刻までにございます」
「短いな」
「整えた体を崩さぬためです」
信玄は目を細める。
「そなたは、いつも崩さぬと言う」
「崩れてからでは、すでに遅いことが多いので。」
信玄はしばらく琳を見ていた。
「戦と同じよな。」
琳は答えなかった、しかしゆっくりと頷く。
「朝廷の娘が戦を知ったように頷くではないか。」
信玄がとばした冗談に部屋に居た者たちの頬が思わず緩んだ。
張り詰まった空気が徐々に柔らんでいく、主の蘇るその姿と共に。




