殿
廓の内に、香が焚かれた。
その香はビャクダンをわずかに沈香を混ぜた香であった。
甘さの奥に、乾いた苦みがある。
煙は細く、途切れず、まっすぐに立ち上る。
倍部弦明は、その前に膝をついた。
動きは静かだが、迷いがなく清流のように滑らかに大麻が揺れる。
額の前で奉り一度、息を整える。
吸い、止め、吐く。
その呼吸に合わせて、澄んだ声が落ちる。
空気を震わす声だが決して張り上げない。
だが、腹の底に響く山から降りてくる風のような心地の良い声。
病気平癒の祝詞は、川のせせらぎのように聴きながれ、言葉の一音ずつ丁寧に空中に添えられるようだ。
祝詞が捧げられる度空気が変わる。
先ほどまでの張り詰めた緊張が、病で澱んでいた部屋の空気が、まるで別の形へと組み替えられていく。
それは乱れていたものが、静かに揃えられていくような感覚。
そして弦明の指がわずかに動き、印を結ぶ。
親指と人差し指を合わせ、残る指を折り、形を作る。
それはただの形ではなく、長年の修行で刻まれた神への近い、気の巡りを整える為の“手順”である。
引き続き声が続く。
一定ではなく、わずかに強弱をつけ節を変え、流れを作る、まるで他者の呼吸そのものを導くように。
信玄の呼吸が、わずかに整う。
浅く乱れてい胸の動きが、ほんの少しだけ揃う。
弦明はそれを見ていない、見ずとも分かっている。
そして祝詞はさらに続く。
香の煙がわずかに揺れる、外から入る風ではなく室内の気配が動いているのだと感じる。
やがて声が落ち、最後の一節だけほんの僅かに深く天に捧げるように言い放ち、部屋に静寂が戻る。
だがそれは、先ほどの静けさとは違う、林のように整えられた後の静けさである。
弦明はゆっくりと大麻を祭壇に捧げ、一礼する。
その所作に一切の無駄はない。
足を滑らせるように畳に這わせ脇へ退く。
視線を上げることなく、ただ場を譲る。
次は医の領分であると、理解し退く。
その直後、琳が前へ出る。
香の残り香と、祈りの余韻の中に竹の水筒に入れられた水の音が重なった。
小姓も、控える家臣も、誰ひとり動かない。
やがて準備を終え、琳は寝台へ向き直った。
琳は何も言わず、手を清める。
清創水を含ませた布で指を拭い、爪の間まで確かめるように擦る。
器具にも同じ処置を施す。
その一つ一つが、無駄なく、速い。
やがて動きを止め、寝台へと向き直る。
信玄は横たわっていた。
小姓に体を支えられ、わずかに右へ傾いている。
その姿勢ですら安定せず、呼吸のたびに微かに揺れる。
「……背が、痛い……苦しく重い」
低く、押し出すような声だった。
琳は頷き、近づく。
まず顔を観る。
皮膚はくすみ、血の気が薄い。
唇は乾き、色を失っている。
目は異様に澄んでいる。
(意識は明瞭、しかし……)
次に呼吸。
浅い。
吸うよりも、吐くほうが長い。
その間に、ごくわずかな詰まり。
琳は手を取る。
脈は細く、やや速い。
打つたびに、指先へ届く力が弱い。
長く血を失い、養いを欠いた脈。
指を離した瞬間、わずかに漂う口臭。
(食をとっていないはずなのに……それにこの臭いは…)
胃の内に滞り、腐り始めたものの匂い。
琳の視線が、ほんの僅かに落ちる。
すぐに動く。
「すこし強く腹に触れます」
短く告げるが返答はない。
だが拒む気配もない。
袖を整え、みぞおち付近へ手を当てる。
指先が触れた瞬間、信玄の腹筋がわずかに強張る。
浅くではない、ゆっくりと深く、さらに深くじりじりと奥へ沈める。
そして止める。
指先に当たるコリコリとした感覚。
しかしそれは皮膚や筋の張りではない。
内側から押し返してくる異物の感覚。
さらにゆっくりと圧をかけると信玄の呼吸が乱れ呻く。
小さく、呻きを上げながら体を預ける。
琳は圧を緩めない。
指先の感覚だけで形を確かめる。
丸くはない、歪で境が曖昧、だが確かに“そこにある”という確かなもの。
(……瘤)
指をわずかにずらす。
その周囲にも鈍い抵抗、一箇所に収まっていない。
もう一度押す。
今度は信玄の眉が僅かに動いた。
「……澱みはそこか」
吐息に混じる声。
琳は額に皺を寄せたまま答えない。
さらに下へ、側腹へ。
押し込むたびに、呼吸がわずかに崩れる。
そして背、直接触れずとも分かる。
腹に圧をかけた瞬間、背の筋が反応する。
(澱みが背まで抜けている)
前から後ろへ一点ではない痛み。
琳の指先が、ほんの一瞬だけ止まる。
その間に、記憶が過る。
痩せていく体。
食を受けぬ胃。
内から腐り崩れていく臓。
(間違いない、これは母と同じ……。)
だが、表には出さない。
何事もなかったように手を離す。
次に腹全体を軽く撫でるように触れる。
臍よりやや上、みぞおちの辺りの張りとわずかな水気。腹腔に滞り始めている兆し。
さらに、胸元、喉へと視線を移す。
呼吸の動き、声のかすれ。そして、首筋から鎖骨へ。
指を当てると小さな硬結。
力を込めなければ動かぬ程の。
琳はそこから手を離した。
再び脈を取る。
変わらない。
いや、先程よりわずかに弱い。
室内は静かだった。
誰も口を開かない。
ただ、診る者だけが知っている。
(これは、局所だけの病ではない)
琳はゆっくりと手を引いた。
その動きは、最初と変わらず正確で、揺れがない。
だが心の内側では、すでにその病正体は定まっている。
(……このままでは幾ばくで命が尽きる。)
確かな確信、それでもその言葉は外へ出さない。
ただ一歩下がり、静かに息を整えた。
香の残りと、水の匂い。
その奥に、消えぬ腐りの気配がわずかに残る。
誰も口を開かない。
小姓は息を殺し、重臣たちは視線を落としたまま動かぬ。
ただ一人、信玄だけが琳を見ている。
その眼差しは力強く揺れない。
なにかを問うている。
言葉を待っているのではない。
どのような判断を下すか見極めている。
琳はわずかに息を整えた。
そして、口を開いた。
「……胃の働きが、著しく損なわれております」
静かな声だった。
だが、偽りも濁りもない、真っ直ぐに伝える。
そして誰にでも分かる、そして曲解を与えぬ言葉。
しかし、それだけでは足りぬこともこの場の者は理解している。
琳は続ける。
「胃の内に、腫れ物がございます、しかしそれは一所には留まらず、広がりを見せております」
空気が、わずかに揺れた。
小さな擦過音がした。誰かの指先が畳に触れた音か、それとも呼吸が乱れたか。
琳は視線を落とさない。
そのまま、言葉を選ぶ。
「食が進まぬのも、吐き気も、すべてそのためにございます」
説明は簡潔に。
余計な感情は挟まない。
信玄はしばし黙し、呼吸だけがわずかに上下する。
呼吸を整えやがて、短く問う。
「……この病は治るのか?」
声に力はない。あきらめを感じるような悲愴がつたわるこえだが、その問いは鋭い。
琳は一拍、置いた。
逃げを考えるためではない。
言葉を正しく置くための間。
「甲斐守様の胃を元の通りに戻すことは、もはや叶いませぬ」
はっきりと告げる。
しかし声は変わらない。
冷たくもなく、強くもない。
ただ、事実として置かれる。
室内の空気がさらに重くなる、家臣たち馬場信春や小性立は目線を下げ信玄を哀れむように視界の端に止める。
だが琳は続ける。
「されど」
その一言で、わずかに流れが変わる。
陽が差し込み家臣たちと信玄を照らす。
しかし琳の背後には柱があり琳のみがその光に包まれることなく一人暗がりに居り、続けて言葉を発する。
「痛みを和らげ、食を通し、身の苦しみを軽くすることは出来ます。」
信玄の目が、ほんのわずかに細まる。
「今よりも楽にお過ごしになれるよう整えます」
言い切る。
そこには一切の迷いがない。
治せぬと知りながら、手を尽くす者の声。
信玄はその言葉を受け、静かに息を吐いた。
その呼吸は、先ほどよりもわずかに深い。
「……どれほど、持つ」
琳は直ぐには答えなかった。
わずかに視線を下げ、そして戻す。
一息ついてゆっくりと話し始める。
「この病は急に容態が変わることもございます。それは明日とも、今日とも1年とも見極めできませぬ。日々身体を整え、無理なくお過ごし頂くことが肝要にございます」
時間を示さない。
だが、意味は伝わる。
信玄はそれ以上は問わなかった。
「……そうか」
ぽつりと儚げに、寂しそうに呟く。
その声音に焦りはない。
ただ、受け入れている。
やがて、武田の重臣たちも診察が終わると直ぐに信玄のもとへと馳せ参じてきた。
診察の結果を知るために。
琳と弦明の治療の様子、そして信玄の命は既に尽き欠けていると知ると家臣一同は悔しさを滲ませていた。
今後は治すのではなく痛みを抑え、命を長引かせるための治療に入る旨を馬場信春の口より説明された。
誰もが悔しさを口にせず胸の奥でしまっている中、控えていた一人の武将が膝を進める。
年の頃は四十に届くか、戦場を知る顔であった。
「……待たれよ」
低くはっきりとした声がその場に落ちた。
だが、その背には強いものが宿っている。
「御館様の御身、ただの病にあらずと見受けまする」
視線を上げる。
その先は、琳。
「されど...」
わずかに言葉を選ぶ間。
「処置を尽くす前より、戻らぬと定めるは、いささか早計に過ぎましょう」
室内の空気が、わずかに張る。
誰も声を上げない。
だが、同じ思いを抱く者は他にもいる。
「いかなる京の名医とて手を尽くさずして見切るなど!」
そこまで言いかけたとき。
「……見切ってはおりませぬ」
琳の声が、それを遮った。
叫ぶような声ではなく、だが明確にはっきりとした声が部屋中に響く。
武将の言葉が止まる。
琳は一歩も退かない。
「手は、尽くします。」
視線は逸らさない。
「私は甲斐守様のお体に触れ、確かめ、見極めました」
その言葉に、わずかな重みが乗る。
「その上で申し上げております」
静かに、しかし確かに言い切る。
武将の眉が、わずかに動いた。
「……ではなおさらその手腕をもって、治す術を探るべきにございましょう!御館様はっ」
食い下がる。
一瞬、言葉が詰まる。
だが、涙をにじませながら声を押し出す。
「武田の柱にございます、このような所で終わるお方にはございませぬ!」
その一言に、場の空気が変わる。
その気持ちを誰もが知っている、誰が言われなくてもこの場に居る者すべてが理解している。
そして涙ながらにその武将は語り続ける。
「いかに望み薄とて、捨て置くことは叶いませぬ」
涙声で必死に訴え続ける。その中にあるのは紛れもない覚悟。
一心同体、信玄を頭脳とし兵や将が手足となって戦う、決して頭を見捨てない。
それが武田の兵であり武田の将の姿である。
琳は、その言葉を受け止める。
否定せず、意見を逸らさない。まっすぐに受け止める。
そして、静かに返す。
「私は一言も、一瞬たりとも見捨てようなどとは思っても居りませぬ、そして希望も捨ててはおりませぬ」
一言。それだけで、場が止まる。
「ゆえに、今できる手を選んでおります」
続ける。
「はっきりと申し上げます所、甲斐守様の内臓を戻す術はこの天下、どこを探してもございませぬ。体丸ごと入れ替える他ない。しかしそのようなこと誰が出来ましょうか。神仏に頼ってもできませぬ。」
だが、声は変わらない。
「されど」
わずかに間を置く。
「苦しみを減らし、意識を保ち、言葉を交わせるよう整えることが今できる最善の策でございます。畏れ多くも甲斐守様の命が現世に降伏するまで、私は生かし続けるつもりにございます。」
武将の視線が、揺れる。
「それが、今この甲斐守様に施せる最善にございます。」
言い切る、そこに一切の迷いはない。
「……最善、だと」
低く、反芻するように。
琳は頷かない、ただただ見返す。
「命を引き戻すことは出来ませぬ。ですが命を削らせぬことは出来ます」
その言葉は、静かに落ちた。
重く、武将の拳が膝の上でわずかに握られる。
この者も本心では理解している、ただ受け入れ難いだけで。
「……よい」
琳と男の会話を治める様に信玄の声が落ちる。
場は、即座に静まった。
進み出ていた武将も、深く頭を下げる。
「……は」
信玄はゆっくりと息を吐いた。
その間にある苦しみを、押し隠すように。
「お前がいう事はもっともよ」
静かに言う。
「あいも変わらず忠誠心は誇るべきものよ、儂は良い家臣をもったと嬉しく思う。」
武将の肩が、わずかに震える。
だが、信玄は続ける。
「されどな」
視線が、ゆっくりと琳へ移る。
「戦に例えよう」
その一言で、場の空気が変わる。
誰もが、その言葉を待つ。
「余の身は、すでに崩れておる。川中島の第四戦を思い出す。」
淡々と。
「陣は破れ、兵は散り、もはや立て直す力もない」
一つ一つ、積み上げるように。
「このままでは、いずれ討たれる」
否定はなく、誇張もない。ただ、事実を述べる。
「当家の医師もよく戦うた。薬を替え、術を尽くし、退かずに抗うた」
その声に、わずかな温かみが混じる。
「……されど、この敵は強すぎた」
誰も顔を上げられない。
「もはや本陣は支えきれぬ」
静かに言い切る。
その上で信玄の目が、琳を捉える。
「その中で、この娘は申した。殿を務めると」
一瞬、空気が止まる。
琳は一瞬三方ヶ原の戦で殿より帰還した、血まみれで泥で汚れた丹羽長秀の姿が脳裏に浮かんだ。
そんな琳を知ることもなく信玄は話し続ける。
「敗走は避けられぬと知りながら、それでも退き際を整え、時を稼ぐと」
誰も言葉を発さない、ただその意味を理解する。
「己の手をもって、儂の崩れゆく陣を支えようとしておる」
信玄はゆっくりと息を吸う。
「討たれるばかりの軍にあって、なお前に立つ者を、退けるか」
問いではない、断じている。
武将の拳がわずかに震えた。
「……そのような者を、認めぬのであれば武田の名が廃る」
信玄の声がわずかに低くなる。
静かに、しかし決定的な沈黙が落ちる。
やがて武将が、深く、深く頭を下げた。
「……浅慮にございました」
絞り出すような声、信玄はそれ以上責めない。
「よい」
短く。そして、言葉を継ぐ。
「儂の体はこの者に任せる。儂の戦はすでに終わりへ向かっておる。ならばその終わりを見事に整えよ」
ゆっくりと信玄の視線は琳へと向けられる。
「我が家臣団にこのままでは示しがつかぬ、最後の足掻きをする時を稼いでくれ。」
琳は一礼する。
「はっ、お任せください」
その声は静かで揺れがなく信玄はわずかに目を細めた。
それは、満足でも安堵でもない。
ただ任せた者に対する、確かな認めであった。




