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希望と現実

小谷城。

今、その堅城を覆っているのは安堵ではなかった。

重苦しい閉塞感である。

山上を吹き抜ける風だけが、静まり返った城内を通り過ぎていた。


本丸の一角、評定の間には浅井家の重臣たちが集められていた。

しかし誰も口を開こうとはしない。


灯明の火だけが揺れている。

その沈黙が、今の浅井家の状況を何より雄弁に物語っていた。


城主、浅井長政は上座に座りその場を見渡していた。

三十を過ぎたばかりの若き将である。

だがここ数日の間に、その顔には目に見えて疲労の色が刻まれていた。


阿閉貞征の離反、それに伴う山本山城の喪失。


その上、織田軍の五万にもなる兵による包囲。


そして朝倉軍との連絡断絶。

どれも一つだけで家を揺るがしかねない事態である。


それが一度に襲いかかってきた。

誰もが理解していた、浅井家は今、滅亡の淵に立たされている。

やがて重苦しい沈黙に耐えかねたように一人の家臣が口を開いた。


「殿……。」

その声には言うか言うまいかの迷いがあった。


長政は静かに家臣へ視線を向ける。

家臣は一瞬言葉に詰まった。


だが覚悟を決めたように続ける。

「このまま籠城を続けても、援軍が来なければ……。」


言葉は最後まで続かなかった。


誰も咎めない。


いや咎めることができない、それほどまでに現実は厳しかったのである。

兵力劣性での籠城とは援軍だ寄りの戦術である。


別の重臣が低く呟く。

「朝倉様は必ず来られる。」


しかしその声には力が無い。自らを納得させるために口にしているような響きだった。


「来られるはずだ。」


誰かが続くのだが部屋の空気は少しも軽くならない。


長政は黙ってそれを聞いていた。

誰も間違ったことは言っていない。


朝倉義景は同盟相手である。

援軍を出す義理はある、だが義理と現実は違う。


織田軍は既に五万。

朝倉軍が動くにしても容易ではない。


何より時間がない、その事を長政自身が最も理解していた。


やがて長政は静かに立ち上がった。

それにつられるように家臣たちが一斉に顔を上げる。


長政は何も言わず障子を開いた。

夏に近付き一層濃さを増した緑色の木々の葉が揺れ、夕暮れの風が評定の間へ流れ込む。


その先に見えるのは南の空。


そして、織田軍が着々と戦支度を進める虎御前山だった。


そこには無数の旗が翻っている。

右を見ても木瓜紋。

左を見ても木瓜紋。

夕日に映える村々の脇にまで木瓜紋。


地平を埋め尽くすように立ち並ぶ織田軍の旗。

まるで大地そのものが織田家へ変わってしまったかのようだった。


長政はしばらくその光景を見つめていた。


誰も言葉を発しない。

やがて長政がぽつりと呟く。


「見事なものだな。」


重臣たちは顔を見合わせた。

長政はなおも虎御前山を見つめている。


「信長殿らしい。敵ながら見事だ。」


その声に怒りは無かった。


嫉妬も無い。

ただ事実を認める一人の男の言葉だった。


長政は続ける。


「阿閉が裏切ったのも理解できる。」


評定の間に緊張が走るが長政は構わなかった。

「勝つ方へ付こうと考える者がいても不思議ではない。それほどの差がある。」


誰も反論できなかった。


兵の数だけでなく兵士の腹を満たす兵糧、それを運ぶ兵站能力。


財力。


そして持ち場に見事な陣を張り、いつでも戦う準備が出来ているその集中力と指揮系統。

全てにおいて織田軍が上回っている。


その現実を否定することは出来ない。


しばらく沈黙が続いた。

遠くから兵たちの声が聞こえる。


城内では今も守りを固める作業が続いていた。


矢を運ぶ者。

石を積む者。

槍を整える者。


皆必死だった、だがその必死さがかえって不安を煽る。

何かに追われるような慌ただしさが城全体を覆っていた。


「兵糧と水の貯えはどうだ」


「米は城下より買い占めたので一月、三月は余裕で過ごせるかと。水は湧き水と井戸水でなんとか。しかし井戸が枯れてしまうと厳しいでしょう」


「そうか、なるべく雨水も溜めるように務めよ。干からびるよりマシだ。これから暑くなる、水は命綱だ。」


「はっ。」


長政はゆっくりと視線を城下へ移した。

山麓には織田軍の陣が広がっている。


炊事の煙が立ち上り、兵たちが行き交う姿も見える。

不思議なことに、その動きには余裕があった。

包囲された側ではなく、包囲する側の余裕である。


長政は目を細めた。


「あれは何だ。」


その視線の先。


虎御前山の麓に白い旗が見える。他の織田の軍旗とは一線を画す白地に黒色の木瓜紋の下に大きく描かれた一文字。


距離があり詳しくは見えない。

だが見慣れぬ旗だった。


自身も元々は織田家に付き従う形であの中に居たのだ、それ故に見慣れない旗は一層興味を引いた。


織田軍の本陣を示す旗印に寄り添うように掲げられている。信長の信頼が目に見てわかるような配置、よほど信頼されている家臣なのに知らない旗。


すると家臣の一人が答える。


「どうやら医務衆と申す者たちにございます。信長配下の医僧が率いる集団とか。」


長政は少し驚いたように眉を上げた。


「医僧。」


「は。」


「民たちの噂話程度の話ですが、各地で名を聞く娘にございます。」


長政は再びその旗を見た。


戦場に医者が率いる一団が堂々と陣を張っている。


しかも規模を見るにかなり大所帯で。

そんな話は聞いたことがなかった。


「義兄上殿は相変わらず面白いことを考える。医者の軍勢とは。」


小さく笑う。だがその笑みはすぐに消えた。

朝倉家に対して浅井家は大恩を感じていた、結果としてその義理を切ることが出来ずに義理の兄である信長を裏切ってしまった浅井家。この土壇場でその行いを後悔しない訳もなく、自らの判断が過ちであったことを目の前の大軍をみて改めて感じていた。


長政は再び虎御前山を見上げた。


沈みゆく夕日が織田軍の旗を赤く染めている。

「まるで燃えているようだった」


やがて長政は静かに言った。


「今は朝倉殿を信じよう。」


その言葉に家臣たちが顔を上げる。


「この城はまだ落ちぬ。浅井家もまだ終わらぬ。」


後悔を跳ね除けるように自らに対してか、はたまた浅井家当主とてか。奮い立たせるような力強い声だった。

家臣たちの表情にも僅かな光が戻る。


だが、その場にいる誰もが心の奥では理解していた。


これは希望ではない、願いでしかないのだ。

朝倉軍が来なければ終わる。


その現実は何一つ変わっていない。

外では夜の帳が下り始めていた。


虎御前山には次々と篝火が灯る。

小谷城にもまた灯がともる、同じ夜を迎えながら片や勝利を確信しつつある軍勢、片や滅びを押し留めようとする軍勢。


その差は、日に日に大きくなっていた。




そして6月28日、小谷城を包囲してから数日が過ぎていた。


6月も終わりに近づき、北近江の山々は濃い緑に覆われている。朝には山霧が谷を埋め、昼には強い陽射しが平野を照りつける。虎御前山に広がる織田軍の陣営は、もはや野営地というより一つの城であった。


山頂には信長の本陣。


その周囲を諸将の陣が囲み、麓には荷駄や兵舎、厩、炊事場が整然と並ぶ。


数日前までただの山だった場所が、今では五万の軍勢を支える巨大な拠点へと姿を変えていた。


その日の昼過ぎ。


軍議を終えた信長は本陣を出た。


朝倉軍は浅井への援軍として1万3千の軍を集めているとの報告が入った。

しかし小谷城にも大きな動きは無い。


総攻撃にはまだ早い。

だからこそ信長は自ら陣の様子を見て回ろうと思ったのである。


供をするのは丹羽長秀と数名の近習だけだった。

信長は山道をゆっくりと下りながら周囲へ視線を巡らせる。


兵たちの顔はいまだ明るく、戦場においていまだ辛い声より笑い声が多く聞こえる。

荷駄の流れは良好で美濃からの物資も、徳川からの物資もしっかりと届いている。。

水場の様子は普段となんら変わりなく水の不足も心配なさそうだ。


どれも自らの足で実際に見て回らなければ見えぬものである。

やがて中腹近くまで下った時だった。


何やら人だかりが見えた。

足軽たちが集まり、その中央で誰かが大声を張り上げている。


喧嘩かと思ったが様子が違う。


兵たちは怒鳴られながらも逃げる様子はなく、むしろ神妙な顔で話を聞いていた。

信長は興味を引かれ、そのまま歩みを進める。


輪の中心にいたのは初老の男だった。

日に焼けた顔、節くれだった両手。

腰には縄と木札を提げている。


見るからに武士ではない。

世話役の下人とも少し違う。


だがその立ち姿には妙な自信があった。

男は地面へ棒を突き立てると、足軽たちへ向かって容赦なく言った。


「だから違うと言っておるだろう。飲み水を汲む場所で足を洗うなと言うておるのだ。」


若い足軽が不満そうに顔をしかめた。


「ここに水が有るんだどう使ったってよかろうに!」


その瞬間、男は深く溜息を吐いた。

「お前さんは井戸水と泥水の違いも分からんのか。」


周囲から笑いが漏れる。

足軽は顔を赤くした。


男は地面へ線を引きながら続けた。

「ここの水は飲み水だ。飯を炊く水もここの水だ。」


棒が少し下へ移る。


「体を洗うのは別の水瓶から汲むのだ。武具や体、馬を洗う水はもっと下だ。」

そう言って兵たちを見回した。


「飲み水と洗い水、全部を同じ場所にしたらどうなる。」


足軽たちは顔を見合わせた。

しばらくして一人が恐る恐る答える。


「……汚ねぇ水を飲むことになる。」


男は満足そうに頷いた。


「そういうことだ。汚ねぇ水を飲めばたちまち腹は下り病になるだろう。赤痢になったらそれは軍全体に広がる。俺はそういう話をしているんだ。」


その様子を見ていた信長は思わず口元を緩めた。

隣の長秀が小さく笑う。


「あれが病疫守頭領の田原茂吉にございます。」


「ほう。」


信長は再び男を見る。


「築城大工だった者です。水の扱いや土地を見る目は確かなもので。」

なるほど、と信長は思った。


確かにあの男は人を見ず、人の営みから起こる流れを見ている。


しばらく見ていると、茂吉は今度は兵たちを連れて別の場所へ移動していく。

新たに加わった足軽たちが寝床を作ろうとしている。その一団の前で足を止め、湿った窪地を指差しながら何やら説明を始めた。


兵たちは最初こそ渋い顔をしていたが、やがて荷物を担ぎ直し始める。


信長はそれを眺めながら歩き出した。

少し先では川辺が賑わっていた。


桶が並び、洗い上げられた衣服が風に揺れている。

女たちの話し声も聞こえる。

戦場とは思えぬ光景だった。


信長は思わず足を止めた。


「何だあれは。」


長秀が視線の先を追う。


「洗濯場にございます。」


「洗濯場?」


「兵の衣服を洗っております。」


信長は眉を上げた。

兵の衣服を洗う。


そんな事を戦場で考えた者など今まで居なかった。

よく見れば村人らしき女たちも大勢いる。


桶を運ぶ子供や衣を干す老人、水を汲む男たち。

皆忙しく動いていた。


その中央に見慣れた姿がある。


桃慧だった。

村の老婆と話しながら帳面へ何やら書き込んでいる。


時折頷き、近くの軍奉行達へ指示を出していた。

戦場の只中にあるとは思えぬ光景だった。


あの一角だけは不思議な穏やかさがあった。


村人たちの笑い声。

子供のはしゃぐ声。

洗濯物が風を受けて揺れる音。


平和な村の日常と戦場に立つ者の非日常が混じり合っている。

信長はしばらく黙ってその光景を眺めていた。


やがて隣の長秀へ視線を向ける。

「よく味方してくれるものだな、城下の村のもの達か。」


長秀は少し考えるように空を見上げた。


「私が集めた訳ではありませぬ。」


「ほう。」


「声を掛けたのは確かですが、来る来ないは村々の者たちに任せました。」


信長は再び川辺を見る。

長秀は続けた。


「米や酒、財により懐柔された者もおりますが桃慧殿が自ら病の治療を行いその恩に報いようとする者もおります。」


そう言って微かに笑った。


信長は何も言わなかった。

ただ静かに村人たちの働きを見ていた。


「おかげさまで一人あたり3日に一度は清潔な下着や衣類を受け取れるくらいには品位が保たれておるようです。」


「そうか、それは良い事だ。しかし....」

信長は背筋に冷たいものが走った。


村人たちの中心でニコニコと世話をするあの娘がこの軍を一人で変えてしまっている、そう思うと肌が騒ぎ立てるような感覚を得る。鉄砲を始めて放った時のような感覚。


現に飲み水は守られている。そのおかげで羽柴の兵たちから当初聞き及んでいた兵たちが腹を壊しているという報告は耳元に入らなくなった。


汚れた衣服は洗われている。そのためか肌の痒みで寝不足の兵をここ数日見ていない。


何よりこの数の人がいるのに厠から臭いが漂う事もなく不快な気分にならずに済んでいる。


それに陣に張り巡らされ細い水路は水を的確に排水し、汚染された水を処理されているためか蚊も少ない。


日々使う薪木の灰の山は見当たらず、すべて適切な使用用途にて処理され陣の内部が極めて整っている。

全てあの娘が整えた理であった。それらは決して目立つ働きではない。

五万の軍勢が一日でも長く戦うことができる。夏場の病に怯えず、戦力を維持できる。


数日でこれほどの力になるとは信長も感じていなかった成果である。


「医の理と土木の知識が軍を生かすか....。」

信長の脳裏に、ふと武田の金堀衆の姿が浮かんだ。


鉱山を掘り。

道を開き。

攻城にも使われたもの達。


表には出ないが、武田の烈火の如き進撃を支えたもの達。

陣で便所の穴を掘るもの達とそれを指示する病疫守たちの姿が金堀衆の姿と重なって見える。


信長は小さく息を吐いた。


そして洗濯場の向こうで村人たちと話す桃慧を見つめる。


「あやつは本当に妙なものばかり作りおる。」

その声には呆れと感心が半分ずつ混じっていた。


長秀は苦笑したが否定はしない。

二人の視線の先では、今日も病疫守たちが汗を流している。


誰も彼らを武功第一とは褒めないだろう。

歴史書にも名は残らぬかもしれない。

それでも確かに、彼らはこの五万の軍勢を支えていた。

虎御前山を吹き抜ける夏の風の中で、信長はしばらくその光景を眺め続けていた。

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