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虎の巣穴

1573年1月12日 京


冷たい風が町家の軒を鳴らし、白く曇る息が通りを行き交う人々の口元に浮かんでは消えていく。その冷えの中を、一人の男が足早に進んでいた。


明智家臣 藤田景盛である。


彼は迷うことなく一つの屋敷へと向かった。質素でありながら、どこか凛とした気配を帯びたその屋敷こそ、当代随一の名医と謳われる名医、曲直瀬道三の居所であった。


取り次ぎを受け、通された室内は静かである。

薬の匂いがわずかに漂い、整然と並べられた器具や書物が、この場の主の気質をそのまま映している。


やがて、奥から道三が現れた。


年齢を重ねた顔には厳しさが刻まれているが、その眼光は未だ衰えを知らぬ。


「……これはこれは何時ぞやの、また使いとはご苦労なことで。」


低く言う。


「藤田景盛にございます」


景盛は頭を下げる。


道三は無駄な言葉を省いた。


「用件は何だ」


単刀直入である。

景盛もまた、回りくどい言い方はしなかった。


「武田信玄のもとへ、医者を送りたく存じます」


その一言に、室の空気がわずかに変わった。


道三の眉が、ぴくりと動く。


「……誰の差し金だ」


「信長様にございます」


「……戦の最中の信長がそんな気の利く事を言うなんて有り得なかろう、どこよりの話か」


少し渋った顔で藤田景盛は話す。

「……浜松に居られます桃慧様にございます。」


短い応酬であった。だが、その裏にあるものを、道三はすでに察していた。


「信玄が病と透かし見たか。」


「左様にございます」


「なんとまぁ察しの良い娘だ。」

道三は鼻で小さく息を吐いた。


「だからといって、すぐに武田へ赴ける腕の立つ医者など、そうそうおらぬぞ。少なくとも儂は行かぬからな。」

名医は京に集まるとはいえ、大名の深くまで入り、なおかつ診療を許される者となれば、話は別である。


だが景盛は、そこで退かなかった。


「医者は、おります」


道三の視線が鋭くなる。


「そんな器用なものが居るか。……誰だ?…………まさか…?」

呆れたように道三は察する。

その問いに、景盛は一切のためらいなく答えた。


「桃慧様にございます」


その名が落ちた瞬間。


道三の表情が変わった。


「……何だと……いや、やはりと言うべきか。」


声が低く沈む。


次の瞬間、机に置かれていた手が強く握られた。

「またか」


押し殺したような声。


「また、あの娘を危うい橋に立たせるつもりか、桃慧をなんと考える、医の未来、医の希望だぞ!それを馬がごとく戦場に連れおって!」


その言葉には、明らかな怒りがあった。

景盛は静かに頭を下げたまま、言葉を待つ。


道三は続ける。

「しかも相手は武田信玄、そんじょそこらの間抜けな国衆ではない!それを知ってあの娘を送り出すつもりか!」


一歩、踏み出す。


「のこのことあの娘を武田の家に入れてみろ!食い物にされて終わりだ!織田家中の者と知れてみろ!即刻首がはねなられ終わりだぞ?」


その声音は鋭かった。


医者としての理ではない。

それは明らかに、桃慧という一人の人間を案じる声であった。


景盛は、そこでようやく口を開く。

「桃慧殿は自ら赴くと申しております」



淡々と語る景盛に道三の動きが止まる。


「……あやつが、か」


「はい」


「丹羽長秀様も佐久間信盛様も同意しておりす。先に止めはしたものの本人が乗り気だと。既に信長様も許可を出し、後は送る口実を作るばかりとなっています。」


景盛は続ける。


「ですが」


わずかに顔を上げる。


「赴く意味としましては医の本懐として、救うべき命があるならば赴くと。そう、申されました」


長く、重い沈黙でが部屋の雰囲気をもかえた。。

道三はしばし動かず、やがてゆっくりと顔を背けた。


「……馬鹿め、敵の大将を見る御医頭がいるか。」


小さく、吐き捨てるように言う。


だがその声音には、怒りだけではないものが混じっていた。


「しかし医は人を救うものだ」


ぽつりと続ける。


「だが、誰を救うかで世が動く」


その言葉は、重かった。


しばしの後、道三は深く息を吐き、額を押さえた。

「……あやつらしい。馬鹿げた事だ。」

観念したように言う。

「止めても行くのだろう」


「はい」


「ならば」

ゆっくりと立ち上がり顔を上げる。

「最大限の保護を与え、道を通すしかあるまい。それが出来るのが私だということなのだろ?」

その言葉で、場の空気が変わった。



景盛は深く頭を下げる。

「恐れ入ります」

道三はすぐに言った。


「胤貞殿のもとへ行く。朝廷の名が必要だ、それなくしては門前払いだ」


「承知しております」


「ついて来い」


短く言い、道三はすでに歩き出していた。




ほどなくして、二人は大鷹原胤貞の屋敷へと赴いた。


公家の邸らしく、雅な佇まいを見せるその屋敷は、外の寒気とは別の静けさを湛えている。取り次ぎを経て通された座敷にて、胤貞は穏やかな表情で二人を迎えた。


「これは道三殿。良くおいでくださいました。」


柔らかな声で言う。


「腹の調子はすこぶる良いですぞ。琳殿の薬は素晴らしい。」


「それは良いですな。」

道三はニコニコと手を捏ねつつ応じる。

「所で、お一人では無いとは何事でしょう?」


「急な訪問にも関わらずお時間を頂き誠、感謝致します。」


「気なさらず、琳殿は息災か?」


「えぇ、医の道の修行にて今は浜松の戦場にて命を救い回っている様子。」


胤貞の目がわずかに細まる。


「ほう、それは大義な。女子の身で大変であろうな。それに徳川殿は信玄公に大敗したと書が届いておった。」

悲しげに胤貞は眉をしゅんっとさせる。


「おや徳川様が、なんとそれはそれは。」


「しかしなぁ、その信玄公も体の気の巡りが良くないと聞く。」


「ほぉ、大鷹原様のお耳にも入っておりましたか。」


一拍置く。


「それでは話が早いですな、武田信玄公へ医者を遣わしたく存じます」


急な話で説き伏せるのになんとしようかと思案を巡らせる道三であったが、胤貞の反応は意外なものだった。


「おぉ、渡りに船とはこのことか!」

胤貞が目を見開き微笑みながら道三に話す。


「こちらも、信玄公から書が届き思い悩んでいた所。将軍様も信玄公の上洛を楽しみにしておる用で、折を見て見舞いを送ろうと考えていたところでした。」


その言葉に、景盛の胸の内で何かが静かに定まる。


「して」


胤貞が続ける。


「誰を遣わすのですかな?」


道三は、わずかに視線を落とし、そして言った。


「琳を遣わそうかと思い立った所存であります。」


その名に、胤貞の表情がさらに明るいものに変わる。


「おぉ、琳殿を!」


「はい」


「浜松ならば目と鼻の先。良いと思います、天下一の名医、曲直瀬道三様の自慢の弟子となれば信も置ける。それに長く苦しんだ私の腹患いを半月で癒したその腕は宮中、公家達の中でも今や話題となっております。」


胤貞はゆっくりと頷いた。


「琳殿とは良いことを聞いた。琳殿ならば私も安心して主上様にご報告できまする。琳殿は誠に良い腕の医者です。」


一拍。


「琳殿となれば将軍家だけに非ず公家、宮中からも太鼓判で送り出しましょう。」


はっきりとした声で言う。


「信玄公も、曲直瀬道三様の御弟子で将軍と宮廷お墨付きとなれば快く受けてくれるでしょう。」


その言葉は、重みを持っていた。


「では、すぐに書をまとめましょう。」


筆が取られる。


さらさらと紙の上を走る音が、静かな室内に響く。

朝廷の名のもと見舞いの意を記し、医の派遣を添える。


それは一通の書でありながら、武田家へと繋がる道を開く鍵であった。


やがて筆が止まる。

「これでよい、将軍様、主上様、上達部にご報告致し、直ぐに武田信玄様の元へ送ります。上達部は特に信玄様を心配しておられ、曲直瀬様を遣わそうと話が出ておりましたので直ぐに承諾してくださることでしょう。」


「私のような老人には荷が重すぎます、ご容赦を。」


胤貞は道三の発言に笑いながら書き出した書を使いの者に差し出した。

まだ墨に濡れた書を丁寧に両手で受け取り、足音を立てず滑るようにして持ち出す使用人。


胤貞はさらに一筆をとり、もう一枚書状を仕上げる。

まるでその所は恋文かのようにサラサラと書き出され二十行程の書となった。


近くの火鉢で軽く火で煽り最後に柑橘の皮を絞り甘酸っぱい香りを書が纏う。

「これで良し。」


胤貞は墨が乾いたことを確認するとすらすらと書を巻き木箱に詰める。


「曲直瀬様、これは浜松の琳殿へお渡しください。」


「は」


道三が受け取る。


「浜松は遠いですな、今一度琳殿に体の気の巡りを見ていただきたいものです。志條家(しじょうけ)秀兼(ひでかね)殿も琳殿に診て貰いたいとお話がありましたので道三様、よろしくお願いします。」


「ほほ、志條秀兼(しじょうひでかね)様といえば権大納言(ごんだいなごん)の位。これは師として畏れ多くも嬉しい限り。かしこまりました、琳にはしっかりと働いてもらわねばな」


その口ぶりは静かであったが、その意味は決して軽くはない。

スーッと、流れるように横目で藤田景盛を圧力のある冷ややかな視線で刺す。


その視線に気が付いた景盛は冷や汗を流しながら目線をそらす。

恐ろしい権力の暴風雨のような話が世間話のように決まりだす。


「そ、そういたしましょう。しっかりと働いてもらわねばなりません。」

背筋をピンと伸ばし背中に冷たいものを感じた。

(桃慧様お許しくださいっ、某には何の反論もできませぬっ)


無茶な要求であったものの、この会談の場で桃慧の策略は一つの形となり道は開かれた。

だが、その先にあるものがいかなるものであるかは、誰にも分からぬ。




それから数日の時が流れ朝廷、将軍家を通り一通の書が長篠城の一室へと流れつく。

時は1月17日のことである。


書を受け取った室内は静かであった。

外では兵の足音や馬のいななきが絶えず響いているが、この一室だけはまるで別の世界のように時が緩やかである。


信玄は立ち上がれず床に伏していた。

幾重にも重ねられた布の上、身体はわずかに沈み込み、かつて戦場で見せた威容は影を潜めている。


それでもなお、その眼だけは鋭さを失ってはいなかった。

差し出された書をゆっくりと受け取る、白く整えられた料紙に認められた文は簡潔にしてその示す意味は重いものだった。


・武田信玄公の身を案じ、朝廷より腕利きの医者を遣わす。

・気の巡りを整え、快復ののち、上洛を心待ちにするものなり。


それは単なる見舞いの知らせではない。


朝廷の名を以て、信玄の生を前提とし、その先の上洛を期待する。

すなわち、まだ乱世、戦の主役として在り続けよという遠回しな言葉でもあった。


何度も何度も文を読んでは天井を見上げる。書に添える指先をかすかに震わせながら。

やがてふっと、息が漏れた。


「……そうか」


声はかすれている。

だが、その目の奥にあるものは消えていない。


「都は...この無様な余を見捨てないでいてくれるのか。」

また書を読んではわずかに目を閉じる、そのまましばし動かない。


やがて、抑えきれなかった涙が頬を一筋、頬を伝い、書を握る手にタツタツと流れ落ちる。

声を荒げることもなく、ただ一人の将としてまだ見ぬ都から差し伸べられた意を受け止める涙である。


「……ありがたい」


かすかな声で言う。

傍らに控えていた重臣たちは、その様を黙して見守るしかなかった。


山県昌景がわずかに顔を伏せる。

馬場信春もまた、何も言わぬ。


誰もが理解していた。

この書が、ただの見舞いではないことを。


そして、それに応じるだけの力がいま信玄に残っているのかということも。


「医を遣わす、とあるな」

堪えきれないばかりに歓喜と感激に声を震わせ信玄が言う。


「は」


昌景が応じる。

「京より、腕利きの医者が参るとのこと。昨今宮中に名だたる名医、曲直瀬流の皆伝者との事。」


信玄はゆっくりと頷いた。

「嬉しいな、なんという計らい。」


短く言う。


「丁重に迎え入れよ」

涙で潤む視線で家臣たちの方へ顔を向ける。

「余は……」

わずかに言葉を探すように間を置き

「その医を心待ちにしておる。」

その言葉に、昌景は頭を下げた。


「はっ」


だが、その“待つ”という時間は、信玄の身にとって、あまりに過酷であった。

日を追うごとに、食は細る。

運ばれてきた膳は、ほとんど手をつけられることなく下げられる。


水すら、口にする量が減っていく。

時折、熱に浮かされるように目を閉じ、長く眠に沈む。

かと思えば、ふと覚醒し短く鋭い言葉を発する。


その“波”は確かにあった。

だが、その振れ幅は次第に深く重く、深刻なものになっていく。


その夜、軍議の場にて重臣たち、そして多くの取り纏めの兵が顔を揃えていた。

だが、その中心に座るべき人物が不在である、軍議と名を取るが実態は進に進めぬ家臣たちの悲痛な会談であった。


「……命が尽きかけておられる。」

一人が、低く言った。


「三日だ」

別の者が応じる。

「ここ三日、御館様はあのような調子だ。」


ため息交じりの沈黙、それは恐れに近い沈黙であった。


「山県様」

若い将が口を開く。


「このままでは、軍の意味を成しませぬ。家老の皆さまのご判断で戦事(いくさごと)を進めるべきでは。」


「いや、御館様がこのような状態では戦になりませぬ、一度退くべきでは。」


様々な意見が一度に静まり返った議場の雰囲気を過熱させる。


「分かっておる、その気持ちはよくわかる」

山県昌景が場を鎮める様に短く返す。

だが、その声にもかすかな焦りが混じる。


さらに別の声。

「……このままでは万が一、ということも」

続きの言葉を言いかけて思わず唾を飲み込む。

何を言おうとしているかその場の誰もが理解していた。


“万が一”とは何か。


信玄がこのまま....。

そこまで思考が至った時、空気が一段と重くなる。


「軽々しく口にするな」


馬場信春が低く言う。


「御館様はまだ生きておられる」


「その通りだ」

昌景も続ける。


だが、その言葉がどこか自らに言い聞かせるように響いたこと、誰も否定できなかった。

そして、誰も口には出さぬまま、だが確かに心の奥底で考え始めている者がいた。


信玄亡き後を。

跡取りを。

武田の行く末を。


「直ぐに都より腕の立つ医者が来る、その者がきっと.....きっと御館様を助け、御館様は徳川、織田を食い破り、錦の御旗を掲げ京へ我らを導いてくださるのだ。」


冬の夜は深い。

外では風が鳴り、松明の炎を揺らしている。

その中心にある一室で、一人の将が静かに横たわっている。

その命一つが、軍を止め、そして天下の行方すら左右している。


医が到着するまであと、わずか。

信玄が期待するその医者の正体を知るものはこの場に居る者はこの場には誰一人として居ない。

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