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動静

浜松城の評定の間には、冬の冷気が静かに満ちていた。

冬場の乾燥し冷たい風が障子の隙間から忍び込み、わずかに灯る燭の炎を揺らしている。


三方ヶ原の敗戦から数日、城内には未だ重苦しい気配が残っていた。

だが、今この場に集う者たちの胸を占めているのは、敗北そのものではなかった。


優勢である武田が、なぜか動かない。

その一点である。


信玄は三方ヶ原で徳川織田連合軍を敗走させた勢いそのまま三河の野田城へ攻めかかった。


野田城は水手を攻められ呆気なく陥落。援軍の要請が来るも、準備する間もなく陥落の報が入り、城主菅沼定盈(すがぬまさだみつ)以下城兵約450名は二俣の例に漏れず帰陣を許された。


徳川方の要地が一つ崩された以上、武田はその勢いのままに西方の岡崎城、渥美半島の田原城へとさらにと圧をかけてくるはずであった。


だが、実際にはそうならない。


別働の隊が街道を押さえ、周辺を脅かす動きこそ見せているものの、野田城を攻略後なぜか長篠城に入った肝心の信玄本隊は沈黙を守ったままであった。


「……おかしい」


石川数正が低く呟いた。


「勝った軍が、なぜ止まる」


その問いは、誰の胸にも同じ形で宿っている。だが、答えを持つ者はいない。


忠勝が腕を組み、わずかに前へと身を乗り出す。


「今攻めるべきか。いや、待つべきか」


酒井忠次が静かに首を振る。

「動かぬこと自体が策ということもある。こちらが動き、隙が出たわき腹を突く。武田が得意とするところだ。だがそれにしても動きが薄い」


「長篠城に籠るとは何か策でもあるのか?」


「いや、このまま設楽方面へ抜け信濃へ帰るのでは?」


「それはあるまい、ここまで我らを追い詰めているのだぞ?」


議論は交わされるが、どれも決め手を欠いていた。

守るにも理由が足りず、攻めかかるにしろ確信がない。


ただ一つ確かなのは、この沈黙が不自然であるということだけであった。


その時である。


「徳川様」


静かな声が、場の空気を切った。

桃慧であった。


家康が視線を向ける。

「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」


家康はピンッと背筋を伸ばし膝をパンッと叩く。

「遠慮なくお聞きしましょう」


桃慧は一歩進み出ると、わずかに間を置いて口を開いた。


「もし、家康様が武田信玄の立場にあったとして、軍を止める理由は何が考えられますか」


問いは簡潔であったが、その内には鋭い意図があった。


家康はすぐには答えず、しばし思案するように目を伏せた。やがて、静かに言葉を紡ぐ。


「まずは兵站だ。物資、食糧が尽きれば軍は動かぬ。物が滞れば、それだけで兵の足は止まる」

腕を組み家康は淡々と語る。


「次に天候。雪や寒気が進軍を遅らせることもある。しかし三河の冬は雪が少ない、寒気も甲斐などに比べても穏やかだ。今回の動きの説明にはならぬであろう。」


さらに続ける。


「あるいは補給線が伸びすぎた場合。無理をすれば兵の士気や統制が崩れる」


桃慧は黙して頷き、それらを受け止める。否定はしない。すべて正しい。

だが、その上で、もう一歩踏み込む。


「では」


声の調子がわずかに変わる。

「敵が戦に敗れ、反撃の恐れがない状況において、なお軍を動かせないとすれば、その理由は如何に」


場が、わずかに揺れた。

問いの質が変わったのである。

家康はゆっくりと顔を上げた。


「……兵ではないな」


「はい」


「食料でもなかろう。」


数正が補うように言う。

「捉えた武田の兵の様子を見るに、飢えも渇きもありません。」


家康は頷いた。

「ならば、兵站は理由にならぬ」


一拍置き、言葉を落とす。

「軍を止められるのは、総大将の命のみだ」


沈黙が満ちる。

「あるいは」


さらに低く。

「その総大将が、指揮を取れぬ状態にあるか」


その言葉は重く、だが明確であった。

場の誰もが、その意味を理解する。


「では信玄に何があった」


数正の問いに、酒井忠次が静かに答える。


「まず、負傷の線は薄いでしょうな。」



「三方ヶ原以降、信玄の陣に迫るような戦は起きておらぬ。討ち取ったという報も、深手を負わせたという話もない」



「野田城の戦においても水を絶たれた上での降伏との事では直接信玄に手をかけるような戦況もありません」

石川数正も頭を抱える。


忠勝も頷く。

「武田ほどの軍であれば、大将が傷を負えば必ず何らかの動きが出る。」


「それならば軍の停止と一致するのでは?」

佐久間信盛が口を出す。


「信玄に深手を負わせたとなれば手柄は誰だ?申し出るはずだ。」

本田忠勝が食い気味に話す。


「先ほども申した通り野田城から落ち延びた兵からそのような話は出ておらぬ。少なくとも野田城の兵は関わっていないだろう。」

石川数正は項垂れる。


「負傷の線は薄いな。」

家康が断定する。

一同の意見は、そこで一致した。


「では病でしょうか。」

丹羽長秀が呟く。


だが、それにもすぐ疑義が出る。



「三方ヶ原では、信玄は自ら軍を率いていた」

忠勝の声が低く響く。

「あの布陣、あの指揮、あれが病人にできるものか」



確かにその通りであった。

堂々と軍配を振るい、騎馬を動かし、戦場を掌握した姿は、衰えを感じさせるものではなかった。


「ならば、病でもないのではないか」


その言葉に、場は一度まとまりかけた。


だが。


「いいえ」


桃慧の声が、それを止めた。


「病の可能性は、残ります」


視線が一斉に集まる。

桃慧は静かに言葉を重ねた。


「ただし、常に動けぬような軽い病ではありません」


数正が眉をひそめる。

「どういうことだ」



「動ける時と、動けぬ時という波があるということです」

そして続ける。

「二俣城の後、信玄本隊は数日動かず、別働のみが動いていおりました。三方ヶ原では動き、今また止まりました。」

ゆっくりと。


「これは、病の波と考えるなら少し心当たりがあります。」


その言葉が、静かに場に落ちた。


「波……か」

家康が呟く。


「はい。動ける時と動けぬ時がある。すなわち、波のある病」


誰もすぐには否定できなかった。むしろ、それまで散らばっていた事実が、一つの線で結ばれていく。


桃慧はさらに続ける。


「長期の戦により食事は偏ります。ゆえに消化器の病も考えられます。しかし、それで急に軍が止まることは少ない。また、頭や心の病のような突発的、重症化しやすい様なものは一度起これば回復が難しく、三方ヶ原での指揮と合いません」


そして。


「冬であるため、風邪などの可能性もございますが、これほど長く軍の動きを左右するものではないでしょう」


一拍。


「残るは、強い熱を伴い、発作的に動けなくなる病。そして、時に回復するもの」


静かに結ぶ。


熱病(マラリア)の類。その可能性が高いと私は見ます」


沈黙が落ちる。

それは恐れではなく、理解であった。


稲葉一鉄が桃慧に疑問を投げる。

「熱病は夏場が多いと聞く、この冬場に熱病とは考えにくいのでは?」


桃慧は少し驚いたようにそして饒舌に語る。

「さすが稲葉様、その通りでございます。しかしそれは新たに発症する場合の話です。夏場に病にかかり今の時期にも症状が波のように現れる。症状自体は一致しています。」


稲葉一鉄がさらに

「なるほど過ぎた地にて受けた病が今こうして現れているという事か。聞くだけでは面白い病よの。」


家康が、ゆっくりと口を開く。

「……信玄は、動けぬほどの状態にあると見るか」



「はい」

桃慧ははっきりと答えた。

「指示を出せぬほど重い時がある。命に関わるほどに」

重い言葉であった。だが、それ以外に説明のつかぬ動きであることも、また事実であった。



「という事は病の波が鎮まれば

必ず来るということか。」

家康は爪を噛みながら苦しそうに話す。


一言で、場の空気が張り詰める。

止まっているのではない。

ただ、止まらざるを得ぬだけだ。

そしてそれは、いずれ解ける。


数正が静かに言った。


「攻めぬ。備える。動けぬ敵を追うより、動けるようになった敵に備える。今は体制を整えるべきということか。」


異論は出なかった。


桃慧の推理は場の誰もが否定できぬ形で収まったが、それでもなお、確証には至らぬ。

戦において推測は刃であるが、同時に毒にもなる。家康はその危うさを知っていた。


家康はやがて、ゆっくりと顔を上げる。


「半蔵を呼べ」


短い一言であった。

呼び出された服部半蔵は、いつものように音もなく現れた。影のように控え、主の言葉を待つ。


「長篠城方面へ行き、武田の内を探れ」


家康の声は低く、だが揺るぎない。

「信玄の様子、真偽を見極めよ。どのような些細なことでもよい。見て、聞いて、持ち帰れ」


半蔵は深く頭を下げる。


「は」


それだけを残し、急ぎ広間を出て行った。




それから数日が過ぎた。

武田は依然として動かない。

浜松の周囲には不気味な静けさが漂い、時折、遠くで起こる小競り合いの報だけが届く。

だが本隊は沈黙したまま。


城内では負傷兵の手当てが続き、医務衆の足は止まらぬが、評定の間にはじわじわと焦燥が溜まっていった。


「……遅いな」

数正が呟く。

「半蔵ほどの者が戻らぬというのは、それだけで嫌な兆しだ」


忠次も頷く。

「深く潜っているか、あるいはそれだけ武田の警戒が厳しいか」


いずれにせよ、時だけが過ぎていく。

その時間こそが、最も重い。


桃慧は何も言わず、ただ静かに座していた。

推理はすでに示した。

だがそれを裏付けるものがなければ、ただの理に過ぎない。

推理ばかりに耽るのは医者ではない。


今、目の前にある命を救うだけとその使命を実直にこなしていた。



そして。


ある夕刻。

城門がわずかに騒いだ。


「……戻ったか」


数正が顔を上げる。


ほどなくして、半蔵が評定の間へと通された。姿はいつもと変わらぬが、衣の裾には遠路の塵が薄く積もっている。


家康が問う。


「如何であった」


半蔵は膝をつき、頭を下げたまま口を開いた。

「信玄の姿、前線、その後方の陣などで確認できず」


一同の空気が引き締まる。

「ここ数週間、公の場に一度も現れておりませぬ」


わずかなざわめき。

「軍議にも出ず、命令は重臣を通して伝えられていた様子。しかし」


そこで言葉を切る。

「ここ数日、その命も途絶えております」


数正が眉をひそめる。

「……途絶えた、だと」


「は」


半蔵は続ける。

「信玄のもとへ近づけるのは、武田の重臣のみ。山県昌景、馬場信春ら限られた者と医者に限られております」


「他の兵は?」


「姿すら見ておりませぬ」

その報は、重かった。


だが、それだけでは終わらない。

半蔵はさらに言葉を重ねた。


「加えて」


一瞬、間を置く。


「酒、食事ともに取れておらぬ様子」

場が、静まり返る。


「……確かか」


家康の声が低くなる。

「側仕えの者の動きより推察。運び込まれる食事が、そのまま下げられております」


誰も言葉を発しない。

それは、あまりに明確な異常であった。


数正がゆっくりと息を吐く。

「……飯すら食えぬ、か」


忠勝が低く唸る。


「戦場にあって、飯を食えぬとはそ致命的だ。病で間違いないだろう。」


家康は黙したまま、わずかに目を閉じた。


そして、ゆっくりと開く。

その視線が、桃慧へと向けられる。


言葉はなかった。

だが、問いはそこにあった。


「これで、どう見る。」


桃慧は静かに答える。

「……先日の推測通りで大方間違いないかと思われますが、食にも手を付けられないという点が気になります。よほどの重症か....もしくは....」


一同の視線が集まる。


(おこり)の可能性も.....」

※瘧=癌

沈黙。


それはもはや推測ではなかった。

いくつもの断片が、一つの像を結んでいた。


「……では」


家康が言う。


「信玄は既に死にかけているとみるべきか?」




その問いに、桃慧は首を横に振った。

「その見方で正しいと思われます。しかし断定はできません。」


一拍。

「わかった、しかし油断をせず対策を考えよう。」

その言葉は、静かに、しかし確かに場の奥へと沈んでいった。


軍議は捗ったものの対策が決まらずその日は解散となった。


桃慧は一人、静かに歩を進めていた。

向かう先は、丹羽長秀の詰所である。


障子の前に立ち、控えの者に名を告げる。

ほどなくして中へ通されると、長秀は深夜にもかかわらず起きていた。

机の上には書状が広げられ、いくつもの報が積まれている。

戦の合間といえど、休まる時はない。


「……桃慧殿か」


顔を上げると、わずかに目を細めた。


「まだ休んでおらぬのか」


「はい」


短く答え、一礼する。


「申し上げたきことがございます」


長秀は手を止め、静かに向き直る。その仕草だけで、話を聞く姿勢が整う。


「申せ」


桃慧は顔を上げた。


「武田信玄の病についてにございます」


その名に、長秀の目がわずかに鋭くなる。


「……続けよ」


「現状このまま武田が動かず何もしなければ良いのですが何をするにしても信玄の容態を確認せねば此方も対応のしようがありません。」


そして。


「ゆえにご提案があり参りました。」

そこで初めて、桃慧は言葉を変えた。


「信玄のもとへ、参りとうございます」


長秀の眉がわずかに動く。


「はぁ!?敵中だぞ」


「承知しております」


何故(なにゆえ)だ!?」

長秀が慌てるのも無理はない。


「信玄の死を見極めに参ります。」

その一言に長秀はまた胃が痛む気がしてきた。桃慧はそんなことも気にせずに話を続ける。

「武田家は信玄を中心にした大きな個です、信玄の死を見極められれば信長様の軍略にも影響しましょう。」


「なるほどな」

長秀は腑に落ちる様で催眠か何か騙されているような気もしながら頷く。

「ならば、どう入る」


その問いこそが本質であった。

忍びであれば潜ることもできよう。だが、桃慧が望んでいるのはそれではない。


桃慧は静かに答える。

「朝廷からの見舞いとして、参る形を取れぬかと」

一瞬、空気が止まる。


長秀の視線が、わずかに深くなる。

「…なるほど…朝廷、か」


「はい」


桃慧は続ける。

「信玄は朝廷との繋がりもございます。朝廷との繋がりは私がこの目で確認しております。それに病とあらば、見舞いの名目は立ちます」


「また」


一歩踏み込む。


「医として入ることも、不自然ではございませぬ」


長秀はしばし黙した。

軽い策ではない。だが、荒唐無稽でもない。

むしろ、理に適っている。


「…また豪胆な策を…...ふざけた意見だが面白い」


ぽつりと呟く。

「敵の大将を、朝廷の名で診るか」


そして、ゆっくりと顔を上げる。

「だが、この場で決める話ではないな」


「はい」


「信盛殿の領分だ」


浜松における軍の指揮は佐久間信盛にある。

その許しなくして動けば、統制が崩れる。


長秀は立ち上がった。


「行くぞ、共に参る」


その一言で、話は次の段へ進んだ。

やがて二人は、佐久間信盛の詰所へと向かう。


朝の気配が城に満ち始め、兵たちが動き出す中、長秀と桃慧は並んで歩いた。その姿に気づいた者たちは、自然と道を開ける。


詰所に通されると、信盛はすでに座していた。


「……長秀殿か」


視線が移る。


「それに、桃慧殿まで」


「深夜に珍しい取り合わせだな」

その言葉には、わずかな含みがあった。


長秀は軽く一礼する。


「少々、面白い話を持って参った」


「面白い、とな」


信盛の口元がわずかに歪む。


「申してみよ」


長秀は、ためらいなく言った。

「武田信玄のもとへ、医を送る」


「っ!?!?!?」


信盛は目を見開き、持っていた盃を思わずその場に落とした。


「……何だと?まさかその医とは....」


信盛の声が低く落ち桃慧の方を見る。

長秀は続ける。


「名目は朝廷からの見舞い、そして医として、桃慧を遣わす」


視線が桃慧へと移る。

信盛はしばし黙したまま、その顔を見つめた。


「……正気か?」

短い問いであった。


長秀は静かに答える。

「正気だ」


そして、わずかに笑みを含む。

「むしろ、この上なく理に適っている」


信盛は鼻で笑うように息を吐いた。

「敵の大将のもとへ、自ら医を送り込むか?危ういにも程がある」


その言葉はもっともであった。


だが。

桃慧が口を開く。


「信玄は、この戦の要にございます」


信盛の視線が向く。


「その身一つで軍が止まり、また動くならば」


静かに言う。

「その命のありようを知ることは、戦そのものを知ることに等しい」


桃慧は続ける。


「そして医の将として参った次第、ここで私が信玄の病を見極められれば信長様の役に立つではありませんか。信玄の寿命を正確にみられるのは織田、徳川の将の中で私しかおりません。」


わずかに声を落とす。

信盛の目が、わずかに細まる。


長秀が横から言葉を添える。

「朝廷の名を借りれば、門前払いはしにくい、武田とて無碍には扱えぬ。そして」


視線を信盛に向ける。


「これはただの医療ではない、敵情をこの目で見る機でもある」


その言葉に、場の空気が変わる。


ただの無謀ではない。

利がある。


信盛は腕を組み、しばし考え込んだ。


やがて、ゆっくりと口を開く。


「……上様の裁可がいるな」


「無論だ」


長秀が即答する。


「だが、信盛殿の許しなくしては話にもならぬ」


再び沈黙。


そして。


信盛は、わずかに口角を上げた。


「……面白い」


低く呟く。

「敵の懐へ、堂々と入るか」


視線を桃慧へ向ける。

「行く気か」


「はい」

即答であった。


一切の迷いがない。

信盛はしばしその目を見つめ、やがて短く息を吐いた。


「よかろう、桃慧殿が京を巡ってくれたおかげで徳川への援軍は3000から7000へとなった。某は大役を得ることができた。その恩の返しとするか。信長様には私が頭を下げる。急ぎ支度いたせ。」

その一言が、場を決めた。


「ただし」


声を低くする。


「生きて帰れ」


重い言葉であった。


桃慧は深く頭を下げる。


「は」


その瞬間、止まっていたはずの戦は、また一つ動き出していた。


ただし今度は、刃ではなく。

一人の医の足によって



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