残りの戦
三方ヶ原の戦より数日、浜松城は静かであった。
戦の後とは思えぬほどに、音がない。
厳冬期前の陽の光は驚くほど緩やかに大地を照らし、優しく体を温めてくれる。しかし風は厳しく、遠くで木々が揺れ、風が石垣を撫で身を縮めさせる。
その中で、医務所と化した廓に数人の影があった。
徳川家康の近習たち。
そして、その前に立つ一人のは桃慧である。
戦後の慌ただしさも落ち着きを取り戻し、軽傷者たちは去り、重傷者たちへの看護が続くその中で。
「……上様のご様子がここ数日、おかしゅうございます」
近習の一人が、声を潜めて言った。
「夜になると、眠れぬご様子で……突然、叫ばれるのです。それも何もない空間を見て、何かを振り払うように……」
言葉が続かない。
桃慧は静かに頷いた。
「それはいつからですか」
「三方ヶ原での戦よりお戻りになって、すぐに」
「毎夜?」
「はい……」
「日中は?」
「何事もなかったように振る舞われます。政務も滞りなく」
「音に驚かれることは?」
「ございます。太鼓の音などや馬の鳴き声にも……」
そこまで聞いて、桃慧は顔を上げた。
「うーん……分かりました。失礼かと思いますが、実際に見せて頂いてもよろしいでしょうか?」
「……寝所にですか?」
近習が些か不満気な態度をとる。
当然であろう。いくら同盟を結ぶ織田の将とは言え、信頼がおけるとは言いきれない。その上出家している身分とはいえ若い娘が寝所にと言うこととなるとさらに面倒であろう。
「私は見ての通り、医僧でもありますので憑き物なのか病なのか判断できます。」
「それは……では……一度主に確認させてください。」
その夜、家康からの承諾を受けた桃慧は、近習たちとともに廊下に座していた。
障子一枚の向こうが、家康の寝所である。
冷えた空気。
穏やかな月の光。
澄んだ冷たい空気が緊張で熱を持つ首元に心地よい。
やがて。
「来るなっ!」
叫びが、障子を突き抜けた。
「構え………構えよっ…!」
「急げ、引けぇっ!」
そして。
「……広次…すまぬ。すまぬっ!」
「……正照」
家康は名を唱え続ける。
廊下の空気が揺れた。
近習の一人が、耐えきれずに囁く。
「……あの御二方の名ばかりを」
別の者が続ける。
「これは……もしや」
ためらいながら口を開く。
「……祟りではあるまいか?」
その一言で場の空気が凍りついた。
誰も、すぐには否定できない。
あの夜に主を守るべく自らの命を盾に散った者たちの名。
その名を呼び続ける主君。
あり得ぬと断じきれぬ。
だが。
「口を慎め」
低く、鋭い声が割り込んだ、それは年嵩の近習であった。
その目は怒りに燃えている。
「夏目様も中根様も、命を捨てて殿を逃がしたのだ」
一歩、踏み出す。
「その御方らが、死してなお殿を害するなど有り得るものか!侮辱も甚だしいぞ!」
言葉を噛みしめる。
沈黙が場を支配する。
誰も、顔を上げられない。
その時。
桃慧が、静かに口を開いた。
「その通りです。これは祟や憑き物ではなく、病です。間違いありません。」
「これが病?」
近習達は一同に顔を見合せ首をかしげた。
翌日。
城内に家康の病の噂がが広がる。
「祈祷する他なかろう。見えぬ死者を何度も叫ぶならば。」
「いや、気の乱れだ、狂ってしまわれたのだ。」
「ここ数ヶ月、戦の疲れが溜まっているのだ仕方なかろう。」
様々な声、その中で桃慧は言った。
「徳川様を侮辱なさるのはお止め下さい。あれは病です。」
はっきりと。
「祈祷など効きません、憑き物などではないのです。」
桃慧は何時になく真剣に険しい態度で適当な噂をするものたちを叱る。
「これは、心霊などの憑き物などのようなものではなく、徳川様自身の内から来る病なのです。」
周囲が静まる。
桃慧は続ける。
「まだ体の内に残っているものです。戦の最中に働いた身体の記憶が、戦が終わった今でも止まらぬ状態です。」
誰かが言う。
「だが、死した者の名を呼んでいると言うではないか!」
桃慧は頷いた。
「ええ」
そして。
はっきりと。
「見ているのではありません」
一拍の間をとりゆっくりと話す。
「思い出しているのです。中根様、夏目様の勇姿を頭の中で何度も何度も思い出し、その姿を徳川様が見ているのです。」
静かに言い切る。
「無理やり憑いてる物がと言うのであれば、“あの戦の夜”がそのまま憑いるのです。」
「やはり臆病風に吹かれているのでは?過ぎたことをいつまでも引きずるのはそうしかあるまい。」
無精髭の男が冷ややかに言い放つ。
「臆病ではありませんっ!」
桃慧が珍しく声を荒らげて否定する。
その勢いに口にした男が怯む。
続ける。
「最も激しく命懸けで戦った者ほど陥る病なのです。」
その時。
近くの床で休む筋骨隆々の男が家康と同じ様な症状で錯乱する。
「ここは俺が!あっ……うぅ……やめろっやめろ!…………うぅ。」
突然立ち上がったと思えば、直ぐに身を縮こませ横になる。
その者は武名に名高い若者であったが、騎馬の波のまれても戦い、血まみれになって倒れていた所を救走班に救助され搬送されてきたのだ。
多くの仲間が男の武勇を称賛し家康も自ら褒美を取らせた者がこの有様である。
虚しいようだがこの者こそが家康の症状の証明であった。
いつの間にか背後で話を聞いていた石川数正が話に加わる。
そして数正が問う。
「どうすればよい」
桃慧は答える。
「まずは扱いを誤らぬことです。よく眠らせる、激しい刺激を避ける、そして一人にしないことです。」
そして。
「決して、ご本人を責めないことが大切です。」
「甘やかしではないか」
先程から桃慧に噛み付いていた無精髭の男にその声に桃慧は静かに返す。
「では、放置なさいますか?二度と元に戻れなくなりますが?」
「っ!」
無精髭の男は苦虫を噛み潰したような表情で黙り込む。
桃慧は続けて話す。
「これはしっかりと寄り添い時間をかけ治せば元に戻ります。しかし扱いを誤れば二度と以前のような徳川様に戻りません」
沈黙、やがて数正が口を開く。
「……桃慧殿の医に従いましょう。病とあらば無知の我らの仕事では無い。」
「お任せ下さい。徳川様をお救いいたしましょう。」
その夜。
桃慧は寝所に向かい直接薬を差し出す。
家康が問う。
「……幻影に怯えるなど……某の威厳に関わる。構わないでくれ。」
桃慧は答える。
「違います。徳川様の今の症状は武士の姿に恥じない、勇敢に激しく戦った証です。」
「違う!某は生かされただけだ!」
しばし沈黙し、嗚咽が無言の室内に響く。
そしてぽつりと家康が口を開く。
「……某は逃げた。恐ろしかったのだ、あの軍勢が」
拳が握られる。
「広次も、正照も……私の為にあの朱の波の中に身を投じた。あの恐ろしい武田の騎馬の波に。」
そして吐き出す。
「私は生かされただけだ……生かされた…だけ…」
桃慧は、すぐには答えない。
そして。
「それは違います」
静かに優しく寄り添うように。
「生かされたのではありません」
一拍の間を置く。
「生き延びたのです」
「同じではないかっ!」
絞るように家康は言い放つ。
「いえ、違います」
断じる。
「退いたのは、徳川様の判断です。退かねばすべて失われていました。徳川様の命も、御家も家臣の皆様も。徳川様が愛する領民たちも。」
「…………。」
家康は近習達を見渡す。
「徳川様が倒れられては夏目広次様、中根正照様、多くの兵達の死も、全て無意味になります」
家康の目が揺れる。
「全て徳川様の未来のために命を捨てて道を開いたのです。それを“ただ生かされた”とするのはその覚悟を、軽くします。」
長い沈黙。
「……では、どうすればよい」
「彼らの勇姿を忘れず覚えてください。」
桃慧は優しく家康の手を握る。
「忘れずにその上で、静かに生きてください。生きることが最も重い役目です。」
家康は大粒の涙を流し桃慧の手の温かさを感じる。
「勇ましく散った彼らは徳川様が生き延びる限り共にあります。彼らが託したものこそが徳川様の未来なのです。」
「そうか……皆某を信じ散ったのだな。」
「そうです。徳川様は1人逃げたのではありません。徳川様を頼って託してくれたのです。」
桃慧は優しく家康を抱擁し泣き止むまで夜を過ごした。
やがて。
夜は静かになる。
近習達が入れ替わりながら無音の夜を過ごす。
朝になり寝所より桃慧が襖を静かに引き廊下に出る。
「桃慧”様”お疲れ様でした。」
一晩家康が落ち着き、深く寝込んで尚も慰め続けた桃慧、疲労の様子もなくいつも通りであった。
「今は深く寝てれおります。明日以降も、これが続くとは限りません。本日お渡しした薬よりも適当な薬をお渡しします。すぐに治る病ではないので長い目で寄り添ってください。」
「承知いたしました。」
深々と頭を下げる近習たちに桃慧も礼を返してその場を離れる。
翌日、浜松城の一室には家康の近習達が集められていた。
ここには薬草の匂いと、日の光の揺らぎらぎだけがある。
板の上に並べられたのは刻まれた根、乾いた葉、細かく砕かれた粉。
それらを前にして、桃慧とあやめが黙々と手を動かしていた。
すり鉢に入れた薬を静かに摺り、指先でわずかな量を確かめる。その所作には迷いがないが、軽さもない。
分量一つで効きも毒も変わることを誰よりも知っている手つきであった。
周囲には家康の近習達、そして家臣団が控えている。
誰も言葉を発さず、恐ろしいほどの圧を放ち、その手元を見つめていた。
これから渡されるものが主君の夜を左右する、それを理解しているがゆえの圧力である。
やがて桃慧は手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
「よく聞いてください」
静かな声だったが、その場の空気を引き締めるには十分であった。
「徳川様のご様子は、日によって変わります。同じように扱ってはいけません」
近習たちは思わず背を正す。
「これは夜に使います」
桃慧は小さな包みを差し出した。布に包まれた粉末である。
「眠りを誘うためのものです。中に曼陀羅華と麻を、ほんの僅か入れてあります。薬の殆どは甘草を使っているので飲みやすいかと思います。」
説明される薬草の名に何人かの喉がわずかに鳴った。毒としても知られる薬草である。
「恐れる必要はありません。量は調えてあります。毒と薬は表裏一体、量の違いにて薬になり毒となります。」
桃慧は指先でほんのわずかな幅を示した。
「その為この薬はこれ以上でも、これ以下でもいけません。眠れぬ様子が続く時、あるいは横になっても落ち着かぬ時に使ってください。ただし……」
そこで一度言葉を切る。
「無理に飲ませてはいけません。拒まれる時は使わないこと。薬への恐れを押し込めれば、かえって強く反発することになります」
一人が恐る恐る問う。
「では……飲まれぬ場合は、いかがすれば」
桃慧は迷わず答える。
「側にいてください。それだけで良い時もあります」
言葉は短いが、その意味は重い。
続いて別の包みを取り上げる。
「これは昼に使います。強い薬ではありません。気を鎮めるものです。黄連を少しと、甘草を合わせています」
近習の一人が顔をしかめた。
「上様は苦味をお嫌いにございます」
「だから少量です」
桃慧は淡々と返す。
「飲める範囲に抑えてあります。動悸がある時、落ち着かぬ時に用いてください。ただし、これも万能ではありません」
視線を一巡させる。
「薬だけでは治りません」
その言葉に、近習たちの顔に戸惑いが浮かぶ。
「では……何が必要でございますか」
問われて、桃慧はわずかに目を細めた。
「人です」
間を置かずに言う。
「必ず誰かが側にいること。夜も、発作が出た時も、一人にしてはいけません。声をかけてください。“今ここにいる”と。“ここは戦場ではない”と。何度でも繰り返してください」
その声は柔らかくも厳しかった。
一人が小さく呟く。
「それで……戻られるのでしょうか」
桃慧はすぐには答えず、灯の揺らぎを一度見つめてから言った。
「戻ります。ただし時間がかかります。そして、扱いを誤れば戻りません」
場の空気が一段重くなる。
「責めれば悪化します。放置すれば壊れます。ですが、正しく扱えば元の徳川様に戻れます」
その言葉に、近習たちの表情が変わった。
そこにあるのは憐れみではなく、理解だった。これは情けではない。
主君を戦に戻すための備えであると、ようやく腹に落ちたのである。
桃慧は最後にもう一つ、小さな土瓶を差し出した。
「これは気付けです。生姜と、少しの酒。意識が落ちた時に使ってください。ただし、使いすぎないこと。強すぎれば逆に乱れます」
すべてを見渡し、静かに言った。
「分かりましたか」
一人が深く頭を下げる。
「はっ!」
それに続いて、他の者たちも無言で頭を垂れた。
それは命令に従う礼ではなかった。
託されたものを受け取る覚悟の礼であった。
桃慧はそれを見届け、再び薬草へと手を戻す。
「この病は甘やかすのではなく支える事で回復へ向います。家臣の皆様の忠義が試される病です。」
桃慧の一言の後空気が一瞬にして変わった。
「殿への忠義……?」
「我らに其れを問うのか?」
「はい」
桃慧は即答する。
「殿となり命懸けで徳川様を守り抜く徳川家臣団の皆様の武こそが忠義とするならば、戦の後病に苦しむ徳川様を支えるのもまた忠義ではありませんか。」
家臣たちはぐっと手を握る。
「焚きつける気だな?ただの医に被れた織田の小娘だと思ったが言うではないか。」
ニヤリニヤリと一同が怪しげに微笑み始める。
「我ら徳川家臣団こそ天下一の忠義者。織田の医者小娘に殿の隣の座を渡すものか!よかろう!以前の殿が戻られるまで我々は暗闇だろうが幻影の軍団だろうが討ち払って見せようぞ!」
「そうだ!三河武士の忠義、この苦境にこそ魅せるものだ!」
「いや、あの、そういう意味で言ったのではなくもっと穏便に支えた方が……」
既に桃慧の声など聞こえず盛り上がる徳川家臣団達であった。




