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三方ヶ原の戦い【後編】

1572年12月22日 18:00頃

風は乾き、喉を裂くように冷たかった。

日は既に落ち付近は闇に包まれる。

僅かに顔を覗かせる月の光は弱く闇は深さを増すばかりである。


三方ヶ原より落ち延びる徳川の一団は、もはや軍ではなかった。


陣は崩れ、隊は散り、ただ主を中心にまとわりつく影のように、三十騎ほどが道を駆けている。


馬の息は荒く、鼻孔から白く煙が上がる。


背後では、まだ遠いが地鳴りのような響きが追っていた。


「……まだ来るか」

家康が低く呟いた。

声に怒りはない。

ただ、現実を受け入れるような重さがあった。

「迎え討つぞ!者共構え!」


「応!」


槍の穂先が、僅かな月明かりを受けて一瞬光る。


「木瓜紋!御味方です!」

誰かが叫ぶ。


現れたのは、丹羽長秀の一隊であった。

わずか数百、しかし秩序を保った兵が、道を塞ぐように布陣している。

「家康殿!」


長秀が馬を進める。

その顔は冷静であった。

だが、その目はすでに戦の終わりを見ている。


「ご無事かで何より!」


「……辛うじてな」

家康が応じる。

胸を撫で下ろす一同。

そして長秀は一度、家康背後を見た。


「敵襲!者共前へ!」

長秀の一声で織田の兵たちが6尺の長槍を構え槍衾を作る。


統制された足音、敵は精兵であろう。


「まずいな。」

即断であった。


「家康殿、ここより先我らが押し留める」

家康が眉を寄せる。


「押し返せぬか」

その言葉に、長秀は首を振る。

「敵は精兵と思われます。この数では突破されるやもしれませぬ。」

迷いのない声。

「ここからは“逃げの戦”にございます。家康殿はすぐにお引きを。」


一瞬の沈黙。


家康は何も言わない。

だが、その言葉を否定もしなかった、頭では理解している。


すでに戦は終わっていると。


「稲葉殿」

長秀が呼ぶ。

稲葉一鉄が進み出る。


「は」

「ここを引き受ける、兵たちには1秒でも多く時を稼げと!」


一鉄は頷く。


「心得た」

それ以上は不要であった。


互いに役目を知っている。

長秀は再び家康へ向き直る。

「家康殿はそのまま城へ!浜松城にて会いましょうぞ!」

その言葉に、わずかな力があった。

覚悟であった。

家康は一瞬だけ、長秀を見た。


何かを言いかける。

だが、言葉は出ない。

ただ、頷いた。


「……頼む」

それだけであった。


「行けぇ!」

長秀が叫ぶ。道が開く。

家康の一行が、その中を駆け抜ける。

後ろでは、すでに戦が始まっていた。


槍の衝突。

馬の嘶き。

短く鋭い叫び。

振り返る者はいない。

振り返れば、足が止まる。

それを知っている。

長秀は馬を返す。


背後へ。

押し寄せる騎馬を、正面から受けるために。

「ここより先は通さぬ」

低く、言う。


一鉄が並ぶ。

「さて……」

わずかに笑う。

「骨が折れるな」

長秀もまた、わずかに口元を緩めた。

「これは赤備え、山県兵ではないか!」

次の瞬間。

武田の騎馬が、ぶつかった。






その頃。

一騎の影が、風を裂いていた。

徳川家康の忠臣、夏目広次である。


家康の退路を確かめるため、先んじて単騎で走っていた。

馬はすでに限界に近い。

だが、手網を緩めず駆け抜ける。

風に潮風が混じる、森を抜けると浜松が見える。

「なんと!」

城門は開かれ松明が煌々と城壁を照らしている。

徳川の旗が多く立てられ、風に靡き威圧的に城下町へ睨みを効かせている。


「お味方ご帰還!」

ピーーーーッ!


鉄笛が響く

前線で待機していたのは宗次自らが率いる救走班第1班である。

「城内へ!」

宗次が叫ぶ


「かたじけない!」

広次が、応えそのまま城内へ駆け込む。


一息付く間もなく広次は叫ぶ

「味方は敗走中、武田の追撃も近い!門を閉じ守備へ移れ!」


城兵が振り返る。


「まだにございます!」


「お味方が続いておりませぬ!」


その言葉に、広次の眉が動く。


そこへ物見が駆け込んできた。

「報告!武田の騎馬、接近!おそらく城を監視していた一隊、こちらへ向かっております!」


広次が振り向く。

「数は」


「五十……いや、百に近いかと!」


十分であった。



今の家康を捕らえるには。

広次は動かない、木のようにその場に立ち尽くす。


一瞬だけ。


只々立ち尽くす。

潮風が首元を過ぎ、松明の炎を揺らす。



一瞬音が消える。



そしてゆっくりと目を閉じた。

わずかに息を吐く。



そして開く。


「……殿が、危ない」

静かに言う。

そして振り返る。


「馬を引け」

心が決まった。


城兵達は思わず戸惑う。

「夏目殿……!」


「また戻られるのかっ!?」


広次は頷く。

「殿は直ぐそこまで来ている!私が迎えに行かねば!」

広次の心にあるのは主、家康より受けた恩、それだけであった。


「すまぬが馬を変えてくれ。」

近くの厩より馬を1頭所望し手網を握る。


「出れる者は居るか!五十……いや、三十でよい。動ける者だけで構わぬ!」


声が広がる。


「某が!」


「私も出れます!」


「お供させてください!」

兵が集まる。

中には、傷を負った者もいる。

だが、誰も退かない。


「……よし、行くぞ」

広次が馬に乗る。


その顔に、恐れはない。

ただ、決意があった。


松明が(家康)への元へと馳せ参じる漢達を紅く照らす。


その闇の中へ。

夏目広次は、再び走り出した。




浜松の城下を外れた道は、狭く、曲がり、土が深い。

家々の影が長く落ち、闇がじわりと迫っていた。

その道を徳川家康の一行は駆けていた。


馬は汗に濡れ、息は荒く、蹄は重い。

あと少し、浜松城はあと少しだ。

一団は止まらぬ。止まれば追いつかれる。


しかし後方より嵐が来る。


音で分かる。

地面を叩く無数の蹄の音。風を裂く旗の靡く音。鬼達の吐く息遣いが。


武田の追撃である。

「追いつかれたか……迎え撃つ!!」

中根正照が馬を返す。


「殿は前へ!」

叫びとともに、十数騎が同じように向きを変える。

逃げていた流れが、そこで断ち切られる。


槍が構えられる。

刀が抜かれる。

その顔に、迷いはない。

「ここを通せば終いだ!」

「絶対に止めるぞ!」

声が重なる。


武田の騎馬が、姿を現す。

闇の中から、黒い影が膨れ上がる。

速く重い、止まらない。


「――来るぞ!」


正照が叫ぶ。


「構え!」

次の瞬間。

騎馬が唸る。鉄が鳴り、骨が軋む。


一騎が弾かれ、地に転がる。

その上を、馬が踏み越える。

正照の槍が突き出される。

先頭の騎馬を貫き、引き倒す。

「押し返せぇ!」


だが、数が違う。

次の影がすぐに来る。

その後ろにも、さらに押しても、押しても、終わらぬ。

その中で家康もまた、馬上で弓を取っていた。


逃げるだけではない。

振り返る。

矢を番え、放つ。

一騎、落ちる。

もう一矢。


また一騎、崩れる。

だが、それでも来る。

しかし終わらぬ。


「……くそ」

歯を食いしばる。

このままでは、いずれ飲み込まれる。

分かっている。

だが止める者がいる。

その間に、進むしかない。



その時であった。

横合いから、土煙が割れる。

新たな影が、飛び込んできた。

「――殿!」

その声に、家康が顔を上げる。


「……広次!」

夏目広次であった。

兵をを率い、一直線に突入してくる。


「ご無事か!」

短い問い。

「広次っ!よく来た!よく来てくれた。」


家康が広次の帰還を涙ながらに応じる。

それで十分であった。


広次は周囲を一瞬で見渡す。

状況は明白。

このままでは持たぬ。

ならば、時間を作るしかない。

「殿」


広次が言う。

その声は、静かであった。

「兜を」

家康が、わずかに目を見開く。

一瞬。

互いの視線が交わる。

意味は通じていた。


「……いかん、それだけはいかん!」

問いではない。

確認でもない。


広次は頷く。

「ここは我らが受けます」

迷いはない。


「しかし……。」


「兜を!」

広次は敵を睨みながら家康に向け手を突き出すだけ。


「くっ……」

家康は、兜を外した。

重い鉄の感触が、手に残る。

それをゆっくりと、震え手で差し出す。

広次はそれを受け取ると自身の兜を投げ捨て頭に被る。

自身の目の上にまで鍔がかかるほど深く被り、目元が影に沈む。首紐を解けぬほど硬く、外れぬほど締める。


「殿!浜松城まてあと僅かです!急ぎお引きを!」


そして広次は振り返り刀を抜く。

高々と刀を天に突き上げ叫ぶ。


「我が名は――」


風が、止まる。

一瞬。

戦場の音が遠のく。


「徳川家康なり!!」


声が、戦場を支配する。

武田の兵も月明かりに怪しくきらめく刀を仰ぐように魅入る。


広次の掲げる刀は鋭く、大太刀かのように大きく見える。


武田の騎馬が揺れる。

屈強な兵たちが目に見えて動揺する。

視線が集まる、そして標的が定まる。

それでいい。

それこそが狙い。


「家康が居たぞ!かかれぇ!!」

武田の兵達が手柄を我先に争う様に群がる。


「雑兵共が!この家康の首取ってみよ!」

広次が叫ぶ。


馬腹を蹴る。

一騎、その後に、二騎、三騎。

「征くぞ!」

兵たちが広次の後に続く。


松明の明かりに照らされ一人一人が纏まり大きな一つの生き物のように走り抜ける。


戦場の先頭で敵を多く引き止めていた中根正照が振り向いた。


そして笑う、血に濡れた顔で。


「……やるな、夏目!ならば我もよ!」

馬を進める。


「その道我らも続くぞ!」


「感謝する!行くぞ!」

二人が並ぶ。

そのまま、波のように押し寄せる武田の兵の中へ突入する。

鎧が激突し音を立てる。

槍が砕け、刃が弾ける。

正照の槍が、武田の兵を突き、貫く。

広次の刃が、振るわれる。胴が切り裂かれ臓物を零しながら武田の兵が倒れる。


「オリャァァァッ!」


数騎が倒れる。

だが、それでも波は、なお来る。

それでも、退かぬ。

ただ、前へ。前へ。前へ。


ただ、波を止めるために。




家康は馬を走りらせる。

絶対に振り返らぬ。

振り返れば、すべてが意味をなさず崩れるであろう。

それを知っている。


だが、声が出る、嗚咽が止まらぬ。


「……すまぬ」

小さく。

「すまぬ……!」


誰に向けたかも分からぬ。


ただ漏れ出る。歯を食いしばっても漏れ出る。


涙が、滲む。涙か止まらぬ。

思い出すのは融通が効かず屁理屈を言う家臣たちの顔。

言われた時は腹が立って仕方がなかったが結局は笑い話になった。

信奉するものの違いで戦場で相対する時もあった。しかしそれはお互いが嫌いで刃を交えた訳ではなく戦が本意でなかった。結局は互いに謝り元の鞘に収まった。


「クソがぁぁぁぁぁッ!!!」

家康は吠えるそれでも、止まらぬ。

走る。ただ、前へ。



数分もせず城が見えた。

浜松城。

その門は開かれていた。

篝火が、煌々と燃えている。

夜を照らすように。


影を浮かび上がらせるように。

太鼓の音が低く一定に闇夜に響く。


生きている者を、導くように。

門前に、石川数正が立っていた。


ただ、構えている。

「殿!殿のご帰還!!!!」


家康が、門をくぐる。

その瞬間。身体から力が抜けた。

思わず馬から崩れるように転がり落ちる。

「救走班!」

宗次の名で救走班が家康を囲むように手を差し出す。


「構わぬ!どけっ!どけっ!」


石川数正が駆け寄る。

「殿っ!」


「すまぬっ…私のせいで……すまぬっすまぬっ!」


家康は周りを顧みず大声で泣き叫ぶ。


まだ、終わっていない。

戦の音がなお続いていた。



家康の帰還を境に続々と兵たちが城へ入ってくる。

太鼓の音がなり続け、兵たちを鼓舞し、帰還する兵たちの道標となる。


「桃慧様」

宗次が駆け寄る。


治長と桃慧が振り返る。

「どうしましたか?」


「救走班出陣します。」

宗次が告げる。


「分かりました。敵兵が近くまで来ているようです。気をつけて」

桃慧は宗次の背中を見送る。


「皆さん、ではよろしくお願いします。」


医務衆の、医の戦はこれからである。



負傷人床=担架

傷病の見立て=トリアージ

見立て紙=トリアージ記載紙

応 答 【有/無】


傷/病 【頭/首/胴/腕手・左右/ 背/臀部/足・左右】 


心 臓 【動/静/止】 


 息  【動/静/止】 


出 血 【多/少/無】 



 終期・・・死亡/心肺停止/死に際の者


 急体・・・急ぎ搬送治療が必要なもの、もしくはそれに値するもの


 傷体・・・搬送に悩む程度の者、急変の可能性がある者


 健体・・・現地の治療で間に合うもの


①新たに救走班という少数の集団を編成する。


 陣頭医・・・1名 (現場指揮・搬送判断・応急処置)


 担手・・・2名1組×3 (搬送・止血)


 荷駄係・・・2名 (荷車にて医療品・水の運搬)


               以上9名1班編成  これを複数班整備し布陣する。



用語集

負傷人床=担架

傷病見立て=現代訳のトリアージ

見立て紙=トリアージ記載紙

清創水=医療用アルコール

搬送車=4輪の牛車改造の救護車(現代的解釈の救急車)

救命胴着=現代で言うタクティカルベストのように胸部に竹の水筒を複数本格納できるようにした前掛け。


笛音伝達=鉄笛、竹笛の音を組み合わせ暗号化し医務衆内で連携をとるシステム

     鉄長音3回・・・重傷者搬送中

     竹笛短音連続・・・敵襲接近など様々な音で連携をとる。

     戦事や日ごとに符丁を変えて運用している。

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