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三方ヶ原の戦い【中編】

1572年12月22日の正午頃、浜松城


風は強く気温も冷えていたが、日の光が強く温かさの方が強く感じる

浜松城の高台に立てば、野は広く、空は低く、すべてが張り詰めて見える。


その空の下浜松の町の郊外を、黒い流れが動いていた。


武田の軍勢である。


浜松の外縁をかすめるように現れ、城を圧するかに見せて布陣していたその一軍が突然動き出した。。

土煙を巻き上げたまま、南へもよらず、北へも寄らず、ただ一直線に、三方ヶ原の方へと流れてゆく。


城攻めの構えではない。


威嚇でもない。


ましてや、迂回でもない明らかに計画的な"進撃"。


「……こちらに来ないのか、狙いは浜松ではないのか。」


丹羽長秀は、低く呟いた。


その視線は動かない。

ただ、流れの“向き”だけを見ている。


浜松を見ていない。

見ているのは、その先家康本隊の出た方角であった。


一歩、間を置く。


風が、わずかに旗を鳴らす。


長秀の瞳が、細くなる。


「……これはまずい。」


その声は、独り言のようでいて、断定であった。


「狙いは場所ではない!人だ!」


この場所を取るならば既に城下に火が放たれているはずだ。

それに取るつもりなら、既に陣を敷いてこちらに対峙するはず。。

あの動きは、意図的に城を“外している”。


一瞬の沈黙ののち、答えは出る。


「……家康殿か」


その言葉は、冷えた空気に落ちた。


家康はすでに出ている。

別働隊を討つために、三方ヶ原へ向かっている。


「誘われた....伝令!」


「はっ」

近くにいた近習が墨をと筆を執る。


「家康殿に急報、武田の狙いは浜松に非ず、家康殿也。武田全軍が三方ヶ原方面に進軍。」


「復命、武田の狙いは浜松ではなく家康公、武田全軍三方ヶ原に進軍。」


「よし、行け!」


声色に、わずかな悔しさが混じる。


武田は城をなどどうでも良いのだ。

城は捨て置き、家康そのものを狙い釣り上げた。


戦場を、動かされたのだ。

長秀は振り返った。


「稲葉殿」


控えていた稲葉一鉄が、すぐに進み出る。

その顔に迷いはない。すでに何かを察している。


「は」


「武田の本隊が三方ヶ原へ向かった」


短く告げる。


一鉄は、ただ頷いた。


「ならば、間に合うかは分からぬが我らが出向き立ちはだかる他あるまい。」


その言葉に、長秀もまた頷く。


「おそらく家康殿の位置は三方ヶ原付近から東美濃へ抜ける街道の辺りだろう。ここから3時間程だろう」

長秀が慌てて兜を被り顎紐を締める。


今から追っても武田本隊の目の前に立ちはだかることはできないだろう。

しかしここで何もしないわけにはいかない。


何もせず武田が徳川本隊へ攻撃したならば、以後の徳川の勝ちはほとんど望めない状況になる。

ここから先は“勝つ戦”ではない。


「間に合わなくとも行くしかかあるまい。」


長秀は言った。


「伝令は出した、伝令が先に届けばよいが恐らく間に合わないだろう。ならば。」


一鉄の口元が、わずかに歪む。

笑みではない。覚悟の形であった。


「この城までの退路だけは守らなければ徳川が滅ぶ。」


「まさに。」


二人はすぐに動いた。


号令が飛び、兵が集まり、騎乗の音が重なる。

静かだった城内が、一転してざわめきを帯びる。


だが、その喧騒の中で、長秀は一人だけ足を止めた。


視線を、城内へと向ける。


そこに、桃慧がいた。

その周囲に、医務衆の者たちが控えている。


戦場に立つ者ではない。

だが、この戦において、もう一つの“中枢”であった。


長秀は歩み寄る。


「桃慧」


呼びかけに、彼女は静かに顔を上げた。


「家康殿の軍は、すでに東美濃、もしくは三方ヶ原方面に入っている」


余計な説明はしない。


それだけで十分であった。


「武田本隊は、浜松城(こちら)ではなく家康殿を追った」


桃慧の瞳が、わずかに細まる。

理解している。


「……なるほど」


「嵌められたようだ。」

長秀が言い切る。


その言葉に、動揺はない。


ただ事実として置かれる。


「我らは直ちに出立し浜松までの退路を守る」


そして一拍。

視線を、城そのものへと向ける。


「ここは、お前に任せる」


命令であり、委任であった。


「徳川の軍が戻るまで頼むぞ」


だがその声は、“閉じこもれ”ではない。

「"ここ"を守ってくれ、ここに戻ってくる、すべての兵を。」


桃慧は、わずかに頷いた。

「承知いたしました」


それ以上の言葉はない。

長秀もまた、余計な言葉を残さない。

背を向ける。


「長秀様......御武運を。」


そのまま、振り返らずに歩き出す。拳を握り。



やがて、馬のいななき。

鎧の擦れる音。

そして、門が開く。


丹羽長秀、稲葉一鉄。

三千余の兵が、浜松城を発した。


向かうは武田と家康の軍がぶつかる地。

すでに傾き始めた陽の下へ。



やがて、城内に静けさが戻る。

だがそれは、先ほどまでの静けさではない。


“待つ”ための静けさであった。


桃慧も歩き出す。


城の天守、浜松が一望できる場所へ。

櫓へと至る階を、迷いなく登る。


風が強くなる。

冷たさが、頬を打つ。


視界が開ける。

遠く、遥か遠く。


時は13時過ぎ、日が傾き始め温かな日差しが落ち着きだす頃。


三方ヶ原の方角。

そこに、細い煙が見えた。


土煙。


まだ小さい土煙とその後方にさらに濃い土煙が見える。


「……おそらく後ろの土煙が家康様達でしょう。その前に薄い土煙が武田の別動隊。」


「あれがか、俺にはよくわからない。どれだ。」

物見の兵が、背後で呟く。


桃慧は答えない。

ただ、見ている。


「始まりましたね。丹羽様は間に合ったでしょうか。」


その土煙は漂い濃さを増す。

時をおり揺らいでは流され、再度濃さを増したと思えば薄くなる。


煙は消えない。

その場に、留まり続けている。

風に流されず、ただそこにある。

形を変え、広がり、そして消えない。

浜名湖から流れる風に揺蕩う、時折鉄砲のモノと思われる破裂音が山に響く。

時間が経つ。


土煙はまだ止まっている。


押し切れていない。

桃慧の視線が、わずかに鋭くなる。


「数的に押し切れると思いましたが、終わりませんね。」


その時だった。

留まる土煙の後方、東側から新たな土煙が現れる。


「桃慧様、あれはなんでしょうか」

物見の兵が問う。

「おそらく武田本隊かと」


「くっ、間に合わなかったのか。」

大きい。明らかに丹羽長秀たちの軍とは規模が違う。



そして新たな土煙は斜めに揺蕩う土煙にぶつかる。

先の二つとは異なる角度で。


それが、ゆっくりと、しかし確実に重なっていく。

さらに色が濃くなる。


土煙の厚みが増す。

そして、煙全体の形が変わり始めた。


桃慧は、微動だにしない。

ただ、その変化を、見ている。


煙は、増えていた。

ただ増えたのではない。

“入り方”が違う。


正面からぶつかった煙は、そこで膨らみ、停滞していた。

だが、後から現れたそれは横から、斜めに、流れ込んでいる。


押し合うのではない。

包み込むように。


そして、わずかに。


ほんのわずかにだが、煙の端が崩れた。


その形が、横へと引き延ばされる。


「……決しましたね」


桃慧が、低く呟いた。

背後にいた医務衆の者が、息を呑む。


「......これは.」


目は動かさぬまま、言葉だけが落ちる。

風が吹く。

煙が、わずかに流れる。


その流れは、前ではない。

横だ。



「……敗走が始まったと思われます。」


断定であった。



一瞬、静寂が訪れる。


誰もが、その言葉の意味を理解するまでに、わずかな時間を要した。

戦が拮抗しているのではない。

漂う土煙が指しているのは敗北の序章の様子である。



「治長、支度をしましょう」


桃慧が振り返る。

その声は、静かで、しかし迷いがない。


「大規模治療に備えましょう。下の(くるわ)に移ります」


空気が変わる。


「承知しました。班長呼集!」

治長が檄を飛ばす。


誰もが、動いた。


「救走班、負傷人床を増やし城外で待機。明るいうちに道を頭の中に入れておけ」


「はい!」


「清創水は三種、前へ。濃いものは城門付近の治癒場に」


「包帯、こちらへ!」


「門前を空けて。動線を確保」


指示は短く、明確だった。


医務衆が散る。


走る。運ぶ。


櫓の上にあった静けさが、城全体へと広がっていく。

それは混乱ではない。

秩序だった“準備”であった。



その最中。

ひとりの男が、ふらりと立ち上がった。


腕に添え木を当て、布で縛られている。

顔にはまだ血が残り、歩みもおぼつかない。


それでも、立つ。


「……俺たちも手伝う」


低く、掠れた声。

周囲が、振り返る。


「まだやれる……」


その一言に、別の男が続いた。

脚を引きずりながら、歯を食いしばる。


「戻るぞ……!」


「仲間が戦ってるんだ!」


声が、増える。


「門を開けろ!丹羽殿が退路を守ってくださる。撤退してくるもの達が流れ込んでくるぞ」

「武田の追撃が来るぞ、斥候を出せ!周囲の安全を確認しろ!」


空気が、揺れる。

戦へ戻ろうするのではない、主と仲間を守るための衝動。

それは、止め難いものだった。



桃慧は、すぐには言葉を発さなかった。

ただ、その様子を見ている。

そして、歩み寄る。


「……どうか安静にしててください」


短く、告げる。

男たちが、睨む。


「分かってる!だがこのまま寝てるのは徳川の兵ではない!」


「お医者様には悪いがこのまま寝て居られるか。」


「殿たちは.....敗走してくるんだろ?なら俺たちがここを守れねば」


城内の雰囲気で察したのか皆覚悟を決めたような表情をしている。



「苦しいようですが今あなた方が戦場に出ても身を崩すだけです、どうか安静に」

桃慧は重ねるように、言う。


沈黙。


誰も、言い返せない。

しかし、

「俺たちは戦に出るんじゃない。無理はしない、だから安心してくれお医者様。」


一歩、近づく。


「俺たちは帰ってくる奴らを支えに行くだけだ。」


視線を、門の方へ向ける。


「腕が折れてても肩を貸すことはできる。疲れてる奴らには大きな支えになるだろう?」


言葉が、落ちる。

風の音だけが、聞こえた。


「怪我人を担げる奴、前に出ろ」

「水を背負える奴は用意しろ!」


動きが変わる。


武器を取ろうとしていた手が、水袋や薬の入った木箱へ伸びる。

脚を引きずる者が、部屋の脇に座る。


「俺は足が折れてるから走れん……」


ひとりが苦く笑う。


「お医者様、患者を押える役はいらないか?足は無理だが腕と手なら使える!」


別の男が、折れた腕を押さえながら言う。

「腕は使えん……だが、薬くらいは片手で運べる」


桃慧があきらめたように頷く。

「無理はしないでください。」


その一言で、全員が理解する。

役割が、分かれていく。


宗次が桃慧に近付く。

「桃慧様、あのもの達は救走班で指揮します。戦意も高く見事に仕事を成すでしょう」


桃慧も複雑な表情をしつつもそれを了承する。

「わかりました。宗次、頼みました。」


「ありがとうございます。もし倒れても我らが救いますので安心してください。」

宗次は直ぐに救走班の者たちに話を通してくれている。


「鎮静薬を多めに作ってもらった方がよかったですね」

桃慧が苦笑いしつつ小さく言葉を吐く。



その時であった。

「何の騒ぎか」


低い声が、割って入る。

家康より留守居を預かる石川数正である。

城の守備を預かる男が、状況を見に来たのだ。


視線が、周りの負傷兵へと向く。

ただならぬ気配を、察している。


「桃慧殿」


名を呼ぶ。


「何が起きている」


問いは簡潔であった。

桃慧もまた、簡潔に答える。


「本隊が敗れたようです。」


一言。


数正の眉が、わずかに動く。

「土煙をみて判断したのですが。武田本隊が合流し、味方の側面、もしくは後方より流れ込みました。戦線は間もなく崩れます」


沈黙。


風が吹く。

遠くで、煙がわずかに揺れる。


数正は、それを見た。

そして、目を閉じる。


ほんの一瞬。


再び開いた時、その中に迷いはなかった。

「……なるほど」

低く、呟く。


「戦は、負けるか」


問いではない。

確認でもない。

受け入れであった。


「わかった、負傷兵共が槍を持とうとしているのもそのためだな?」

数正が言う。


「はい」

桃慧は真っすぐ数正を見つめ応える。



「任せる」

その一言で、すべてが決まる。


「門を開けよ」


振り返り、兵に命じる。

「押し返すな。通せ」

「担げる者は前へ出せ」

「道を空けろ」


命令が走る。

城が動く。


遠く、冬の早い夕暮れの闇に追われるように土煙がゆっくりと浜松へ、流れ始めていた。

負傷人床=担架

傷病の見立て=トリアージ

見立て紙=トリアージ記載紙

応 答 【有/無】


傷/病 【頭/首/胴/腕手・左右/ 背/臀部/足・左右】 


心 臓 【動/静/止】 


 息  【動/静/止】 


出 血 【多/少/無】 



 終期・・・死亡/心肺停止/死に際の者


 急体・・・急ぎ搬送治療が必要なもの、もしくはそれに値するもの


 傷体・・・搬送に悩む程度の者、急変の可能性がある者


 健体・・・現地の治療で間に合うもの


①新たに救走班という少数の集団を編成する。


 陣頭医・・・1名 (現場指揮・搬送判断・応急処置)


 担手・・・2名1組×3 (搬送・止血)


 荷駄係・・・2名 (荷車にて医療品・水の運搬)


               以上9名1班編成  これを複数班整備し布陣する。



用語集

負傷人床=担架

傷病見立て=現代訳のトリアージ

見立て紙=トリアージ記載紙

清創水=医療用アルコール

搬送車=4輪の牛車改造の救護車(現代的解釈の救急車)

救命胴着=現代で言うタクティカルベストのように胸部に竹の水筒を複数本格納できるようにした前掛け。


笛音伝達=鉄笛、竹笛の音を組み合わせ暗号化し医務衆内で連携をとるシステム

     鉄長音3回・・・重傷者搬送中

     竹笛短音連続・・・敵襲接近など様々な音で連携をとる。

     戦事や日ごとに符丁を変えて運用している。

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