三方ヶ原の戦い【前編】
冬の浜松は、乾いた海風がが骨を刺す。
雪の気配は少ないが強い風が人々を凍てつかせる。
そんな1572年12月20日。
山県昌景、秋山虎繁率いる武田の精兵、赤備えの別働隊5000は、二俣の西を抜け浜名湖湖岸の堀江城を目指して静かに動き出した。
進軍は速く、そして音がない。
軍列は長く伸びることなく、要所ごとに締められ、無駄な火も焚かぬ。
兵は口数少なく、ただ前を見て街道を歩く。通りの村々には徹底した戒厳令を命じ、怪しきものは容赦なく切り捨てた。
そんな彼らの大将、武田信玄から命ぜられた任務は「攻め」ではない。
敵を引き出すための、確実な一手であった。
その頃、二俣城には信玄の姿がまだあった。
病を押しながらも、床に伏すことはない。
地図の上を指がなぞる。浜松、三方ヶ原、堀江。
そして、わずかに口の端が動く。
「関は開かれた、後は流れるのみ」
誰にともなく、そう呟いた。
動くべきは今ではない。
今動くのは敵(家康)である。
武田軍が動いたという報は、直ちに浜松の家康の元へ届いた。
「山県昌景率いる軍、その数約5000、東美濃方面、もしくは浜名湖方面へ向かったとの事!」
「信玄はどうか!」
「未だに二俣城にて動きが在らず。」
家康はすぐに命を飛ばした。
堀江を失えば、織田と徳川、三河と浜松を繋ぐ要が断たれる。
それは戦の勝敗以前に、国の呼吸が止まることを意味した。
「皆の者!信玄が動かぬ今が好機!叩くぞ!」
家康の激は家臣の闘争心に火を灯す。
「応ッ!」
決断は速かった。
出陣は即日。
徳川本隊に加え、織田よりの援軍、佐久間信盛の兵三千。
三河武士たちは鬨の声をあげ、意気は高い。
「武田が動いたぞ!」
「今度こそ討ち取る!」
「五千対一万二千だ!今までの鬱憤を晴らすのは今だ!」
血が騒いでいた。
遠江、一言坂での屈辱、そして方々の城で散れなかった武者たちは死に場所を探すかのように目をぎらつかせ刀を握りしめた。
そんな中、ただ一人、炎が纏っているかの様な家康だけが静かであった。
(……速い)
敵の動きが速すぎる。
戦力差もあるが浜松城を無視しての東進は何かある。
だが、このまま堀江を見捨てることは出来ぬ。
武田本隊は浜松を包囲する動きだが何か変だ。
なぜ攻めかかってこない。
しかし家康自身が置かれた状況は優しいものでは無い。これ以上方々の城を見殺しにすれば寝返る国衆も増えるだろう。それに補給線も、織田との連絡線も絶たれれば服従か、死があるのみだ。
この出陣は必然であり、避けようのないものでもあった。
そして運命の12月22日、14時を過ぎた頃。
三方ヶ原の北縁にて、徳川軍は武田別働隊を捕捉した。
冬の陽は既に傾き始めている。
乾いた草原の先に、赤い影が並ぶ。
整然とした布陣。
乱れがない。
「……移動して居たはずではないのか?」
「逃げられないと踏んで一戦交えようということか?」
誰かが呟いた。
本来なら、追撃など無視して堀江へ向かう途上のはず。
長篠方面に逃げれば信濃へ抜ける道もある。
だが武田は、三方ヶ原で迎え撃つ陣を張っている。
しかも鶴翼の陣。
守りに適した陣形だが劣勢の軍が張る陣ではない。
中央突破されれば一目散に戦線は崩れ落ちる。
家康は馬上で目を細めた。
(やはり誘いか)
陽動の匂いがする。
しかし
「待て」
命を出そうとした、その時であった。
前方で鬨が上がる。
「今だ!かかれぇッ!!」
「一番槍は俺のものだ!」
「逃げる武田を討つのは今ぞ!」
堪えきれぬ若い三河武士達がすでに駆け、ちょっかいをかけ始めていた。
投石、そして小規模な矢合わせ。
命令無視した部下たちを追うように、本多忠勝の隊を先鋒に幾つもの小隊が雪崩れるように前へ出る。
止める声は、もう届かない。
「放てっ!!!」
本多忠勝隊の騎馬鉄砲隊が銃火を揃え一斉に火を放つ。
武田の槍足軽たちがバタバタと倒れる。
家康は一瞬、歯を食いしばった。
(バカ者め、気を急くとは愚かな!)
家康は思わず爪を噛み悔しさを滲ませる。
しかし1度流れ出した濁流を止められるわけがない。
「遅れるでない!全軍、突撃だ!!!!」
ここで止めれば、逆に崩れる。
ならば押し切るしかない。目指すは中央突破による敵に撃破。
ここで勝利できれば以後の信玄との戦いも楽になる。
法螺貝の音が空を震わせる。
徳川・織田一万余、ついに動く。
「槍!構え!」
足軽たちの槍が壁のような槍衾を形成する。
そして号令が響く。
「前へ!!!!」
わああぁぁぁぁぁぁぁぁッ!
德川の軍勢が一度に押し入る。
激突は、一瞬であった。
「叩け!」
「「「「「えいッ!!!」」」」
「叩け!」
「「「「えいッ!!!」」」」
槍衾の集団戦が始まり土煙が立ち上がる。
それを援護するように鉄砲隊が槍衾の間から鉄火の嵐を撃ち込む。
一瞬の間に鉄と肉の音が交じる。
槍が折れ、血が飛び、叫びが風に裂ける。
だが
「……おのれっ崩れぬか!」
徳川側の誰かが、信じられぬというように呟いた。
数では勝っている。
勢いもある。
それでも、武田は崩れない。
そこに立ち塞がるのは兜から具足まで真紅に染められた屈強な武者達。
三日月の兜や唐の首、地面に突き立てられた大槍が一同に徳川先鋒を叩き崩す。
我らこそが最強と自信に満ち溢れた堂々たる立ち姿。
戦国において泣く子も黙り、妖共も慄く赤備えの一団。
山県昌景の軍が、そこにあった。
「押し返せぇぇぇ!」
山県昌景の一言で鮮やかな朱の具足が徳川の兵の血を浴び、夕陽を受けて鈍く光る。
その列は乱れず、押されてもなお、じりっ、じりっと押し返す。
突撃を受け、退くではなく押し返してくる。
崩れない。
そして、次の瞬間には逆に突き崩してくる。
まるで、巨大な壁であった。
「退けぬか……!」
本多忠勝が歯を鳴らす。
その名槍蜻蛉切は既に幾人を貫いたか知れぬ。
だが、前にいる敵は減らぬ。
むしろ、圧が増している。
「ならばっ!」
忠勝は馬腹を蹴った。
馬の蹄が地面を抉り、天高く土を巻き上げる。
迷うものなどはない、ただ一直線に朱の壁へ矢の如く突き進む。
躊躇という言葉がこの漢の脳内にあるわけが無い。
そのまま敵陣の中核へ突っ込む。
そして朱の壁に、一点の楔を打ち込む。
佇む鬼に楔を打つために。
「我が名は本田平八郎忠勝、山県昌景殿とお見受けする!槍合わせ願おう!!」
「来いやぁぁぁぁぁぁ!」
低い声が応じた。
山県昌景すかさず槍衾を割って入り先頭に立つ。
馬上にあって、その槍先は微動だにせぬ。
ただ、その眼だけが鋭く光る。
「一言坂での武勇……」
わずかに笑う。
「見せてもらおう!忠勝ッ!!!」
次の瞬間、二つの槍が交錯した。
鋼と鋼がぶつかり、火花が散る。
衝撃は重く、深い。
一合。
二合。
互いに一歩も退かぬ。
周囲ではなお戦が渦巻くが、その一点だけ、異様な緊張を孕んでいた。
徳川の槍が突き込めば、武田が受け流す。
武田が打ち込めば、徳川が弾き返す。
互いの槍が音を置き去りぶつかり合う。
汗すら宙に置き、まるで止まる時の中を泳ぐように槍が交じり合う。
戦場の中心に、動かぬ核が生まれていた。
だが、陽は容赦なく傾いていく。
風が冷たさを増す。
家康は遠くその様を見ていた。
押し切れぬ。
崩せぬ。
そして、時だけが過ぎていく。
(……このままでは)
日が落ちる。
それはすなわち、戦の主導を失うこと。
退くにも、進むにも、中途となる。
焦りが、胸の奥で静かに膨らんでいく。
拮抗は、長くは続かぬ。
それは戦の常であった。
均衡とは、刃の上に立つようなものだ。
わずかに傾けば、そのまま崩れる。
三方ヶ原の一角。
依然として本多忠勝と山県昌景の槍が、なおも火花を散らしていた。
互いに一歩も退かぬ。
だが、その周囲では確実に“歪み”が生じていた。
押しているはずの徳川の陣に、奇妙な重さがのしかかる。
前へ出ているのに、進んでいる感触がない。
むしろ削られている。
赤備えは退かぬ。
退いても、崩れぬ。
崩れぬまま、再び前へ出る。
その繰り返しが、じわじわと徳川の気勢を削いでいた。
陽は、さらに低くなる。
西の空が赤く滲み、戦場を斜めに照らす。
影が長く伸び、敵味方の区別すら曖昧になり始める。
家康は馬上で、唇を固く結んでいた。
(これはまずい、押し切れぬ……)
数はある。
勢いも、あるはずだ。
それでも、決しない。
それどころか、前線はわずかに押し返されている。
(長秀は――まだか)
浜松に控える丹羽長秀の動きが、頭をよぎる。
背後は守られている。そう判断して前に出た。
だが、見えぬ。
見えぬことが、じわりと不安に変わる。
そして何より――
(時間がない)
日が落ちる。
このままでは、勝ちきれぬまま夜を迎える。
それは最も避けるべき形であった。
焦燥が、静かに胸を締め上げる。
その時であった。
ブォォォォォォ……
低く、長く、空気を震わせる音が走る。
法螺貝。
それも一つではない。
幾重にも重なり、遠くから押し寄せてくる。
戦場のざわめきが、一瞬、止まった。
徳川も、武田も。
誰もがその音の出所を探る。
「……なんだ」
「後ろか……?」
視線が揺れる。
その瞬間。
風の向こう、夕闇の縁に、旗が現れた。
ゆっくりと確実に、朱の旗に金の糸で編まれた武田菱。
幾つも、幾つも。
その下に連なる影は、先ほどまでの別働隊とは明らかに異なる。
密度。
厚み。
そして重圧。
「……まさか」
家康が呟く。
その中心に、一騎。
黒の具足に、揺るがぬ姿勢。
馬上にあって、動かぬ。
武田信玄。
二俣、いや浜松城を包囲しているはず敵の総大将が、そこにいた。
声はない。
号令も、ない。
ただ、ゆっくりと。
その手にある軍配が下ろされた。
次の瞬間、空気が変わる。
――来る。
徳川の兵も織田の兵も、誰もがそう感じた。
この大地から伝わる振動、恐怖、威圧感。
戦国最強と言われる男の軍が来たのだと。
空を切る唸りを上げ、黒い粒が空を裂く。
一つ、二つではない。
無数のつぶてが、徳川の前線へ降り注ぐ。
「ぐッ……!」
「ぐあああ――!」
額を割られ、視界を奪われ、隊列が一瞬乱れる。
そこへ響く地鳴り。
大地そのものが唸るような振動が、足元から伝わる。
振り向いた者の目に映ったのは、黒い奔流であった。
その先鋒に立つは、馬場信春。火の1文字の旗を背負い、風に靡かせ大火の如く迫りかかる。
槍を低く構え、ただ前を見据える。
ドンドンッと鳴り響く太鼓の振動、そして男達の叫び。鳴き声を挙げながら猛進する騎馬が戦列を揃え、慄くことなく突っ込んでくる
「オリャァァァァァァァッ!」
低い声が、風に溶けた。
次の瞬間、濁流に呑まれる。
葵の旗が破ける。
屈強な三河武士が枯葉のように宙を舞う
圧が、押し寄せてくる。
一陣が徳川の側面へ食い込む。
まだ構えきれていない兵の列が、横から抉られる。
槍が弾かれ、身体ごと薙ぎ払われる。
「なっ――」
叫ぶ間もなく、崩れる。
その裂け目へ、すぐさま容赦なく二陣が突っ込んでくる。
逃げ場を失った兵が押し合い、転び、踏まれる。
三陣。
四陣。
波は止まらない。
最初の一角が、音を立てて壊れた。
泣く声がする。母を求める童のような泣き声が。
笑う声が聞こえる。狂ったように許しを求める声が。
怯える声がする。逃げ惑う屈強な男の声が。
恐怖その物が徳川の陣を襲う。
「持ちこたえよ!!」
平手汎秀が声を張り上げる。
織田の勇将。木瓜紋を背に、馬を返し崩れかけた側面へと自ら飛び込む。
数騎を率い、突撃。
一人、二人と斬り伏せる。
槍を振るい、迫る騎馬の足を止める。
一瞬、流れが止まる。
「恐れるな!続け!」
必死に兵を鼓舞しながら騎馬の波に槍一本で突入する。
だが、「どけっ!小童っ!」
低く、静かな声。
馬場信春が、そこにいた。
距離は一瞬で詰まる。
鋭く重い突き。
汎秀は受け、槍先を流す。
そして再び重い一撃が左肩に入る。
騎乗で体勢を崩す、次の一撃を受けきれぬ。
あぁ、と思ったその一瞬。
槍が胸を貫いた。
目の前が暗くなる。
喧騒が響く。
力が入らぬ。
馬場は振り返らぬ。
ただそのまま、次へと進む。
その頃、山県隊と激戦を繰り広げていた本田忠勝隊は。
「……何だ、これは」
忠勝が低く呟いた。
先ほどまで拮抗していたはずの戦場が、変質している。
右翼が崩れている。
背後がざわついている。
音が、乱れている。
「退くなッ!!槍衾を崩すな!」
叫ぶ、だが声が届かぬ。
混乱はたちまち全体に広がる。
騎馬の群れが後方を蹂躙している。
今まさにここにもその波はやってくるだろう。
誰かが後ろへ走る。
それを見て、別の誰かが続く。
「ダメだ、逃げろ!」
「信玄だ、甲斐の虎が来たぞ....」
「家康様!殿を守れ!殿はどこだ!」
崩れは、広がる。
昌景は、その様を見ていた。
「本田殿、お相手出来たこと誉とする。」
「山県殿、ここは引かせてもらう。次の戦でも会い見えようぞ」
忠勝は馬の手網を引くと兵たちと共に逃げに入る。
「殿!追撃は?」
昌景の兵たちがほくそ笑みながら問う。
「今は追わぬ。隊列を組み直せ。日が暮れたら落ち武者狩ぞ。」
ただ、今はそれだけでよい。
戦は、すでに決してしまった。
夕闇が完全に戦場を覆い始める。
その中で。
徳川の陣はあっけもなく確実に壊れ始めていた。
負傷人床=担架
傷病の見立て=トリアージ
見立て紙=トリアージ記載紙
応 答 【有/無】
傷/病 【頭/首/胴/腕手・左右/ 背/臀部/足・左右】
心 臓 【動/静/止】
息 【動/静/止】
出 血 【多/少/無】
終期・・・死亡/心肺停止/死に際の者
急体・・・急ぎ搬送治療が必要なもの、もしくはそれに値するもの
傷体・・・搬送に悩む程度の者、急変の可能性がある者
健体・・・現地の治療で間に合うもの
①新たに救走班という少数の集団を編成する。
陣頭医・・・1名 (現場指揮・搬送判断・応急処置)
担手・・・2名1組×3 (搬送・止血)
荷駄係・・・2名 (荷車にて医療品・水の運搬)
以上9名1班編成 これを複数班整備し布陣する。
用語集
負傷人床=担架
傷病見立て=現代訳のトリアージ
見立て紙=トリアージ記載紙
清創水=医療用アルコール
搬送車=4輪の牛車改造の救護車(現代的解釈の救急車)
救命胴着=現代で言うタクティカルベストのように胸部に竹の水筒を複数本格納できるようにした前掛け。
笛音伝達=鉄笛、竹笛の音を組み合わせ暗号化し医務衆内で連携をとるシステム
鉄長音3回・・・重傷者搬送中
竹笛短音連続・・・敵襲接近など様々な音で連携をとる。
戦事や日ごとに符丁を変えて運用している。




