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三河武士

庭の喧騒を背に、徳川家康は静かに接待の間へ戻った。


足取りは先ほどよりも重い。

戦の重圧とは異なる、別種の思考がその身にまとわりついている。


座に着くと、丹羽長秀がすぐにそれを見抜いた。

「……その様子だと」

わずかに口元を緩める。

「さぞや驚かれたことでしょう」



家康はしばし黙したまま、膳に手をつけずにいた。

やがて、ゆっくりと顔を上げる。


「あの者は……何者だ」


言葉を探すように間を置き場が静まる。


その問いに、長秀は一切の迷いなく答えた。

背筋を正し、堂々と胸を張る。


「織田家の未来そのものにございます」


一鉄が低く笑う。


「ふはははっ、大きく出たな」

だが否定の色はない。


信盛も短く言う。

「……あの者に限って言えば誇張ではないな」


家康はその言葉を受け止め、視線を落とす。


(……未来、か)


やがて背後の徳川重臣たちが、自然と口を開いた。

本多忠勝が腕を組む。


「殿、いったい何を見てきたのですか?」


酒井忠次が静かに続ける。

「織田家の重臣の皆さまが口をそろえて評価する、いったい何者なのですか?」


榊原康政が頷く。

「某も気になります。」


鳥居元忠は家康の表情をまじまじと見た後、低く言う。

「殿が口を噤む程の者、私も気になってまいりましたな。」


長秀はそれに応じる。

「そのうちこちらに来るのでしょう。その際にお話しいたします。」


長秀は盃を掲げ酒を喉の奥へと流し込む。

その様子は愛娘を誇らしげに自慢する父親のような、織田の未来は安泰だと安心しているような自信に満ちた姿であった。


家康は小さく息を吐いた。

そして視線を上げる。


「……あれだけの者を抱え込むには苦労したのでは?」


佐久間信盛が答える。

「苦労どころか向こうから了の一言だそうだ。上様と少し話しただけで。信長様も桃慧殿もお互いに一目でその才を見抜いたのであろうな。」


家康は膳の上に乗るみそ汁の味噌の滞留を呆然と眺めている。

「.....天の定めという事か。織田家にとってまさに吉兆の人という事ですかな。」


「まさに」

酔った長秀は自信気に鼻息を鳴らす。


やがて、話は自然と戦へ移る。


信盛が口を開く。


「聞くところによると」


「信玄は二俣城の攻略に手間取っているとの事でしたが。」


家康も頷く。

「……よく耐えておる」


酒井忠次が言う。


「城兵の働き、見事にございます」

榊原も続ける。

「何度も攻め寄せられながら、持ちこたえております。」


鳥居が低く言う。


「城主は中根正照(なかねまさてる)、千二百の城兵もきっと苦しい時世でしょう。」

一瞬、場に静かな敬意が流れる。


家康はゆっくりと頷いた。


「……三河武士の名に恥じぬ奮戦ぶりだ。正照は某の誇りだ。」

その声音には、主としての想いが滲んでいた。


だが、すぐに現実がそれを覆う。


「後詰は?既に出しておられるのですか?」

長秀の目が動く。

家康は苦しそうな表情をしながら答える。


「二千を出したのだが.....返り討ちにあい.......下の廓の様だ。織田殿の援軍が来た今、某が兵を引き連れて....」


「それは反対です!」

本田忠勝がキッパリと反論する。


信盛は首を横に振った。

「……確かに難しかろう」


家康も静かに言う。

「道はすでに抑えられている、辿り着けぬ可能性が高い、しかし二俣の兵の事を思えば....」



一鉄が酒を置く。


「二俣の兵には織田からの援軍の話は伝わっているのでしょうか?」


家康はわずかに目を伏せる。

「……届いている……ことを願っている。」


榊原康政が家康を庇うように話す。

「殿、殿のお気持ちは二俣の兵たちも重々承知しているはず、故にここまで奮戦しているのです。」


家康は膝の上で手を握り締める。

「わかっておる、わかっておるからこそ後詰が出せないことに腹が立つ。」


しーんと座敷に静けさが広がる。

ロウソクの火が朧気に酒に映る。家康は盃で酒を一気に飲み干す。


床がきしみ、足音が近づいてくる。

そして障子の向こうで足音が止まる。


「……失礼いたします」


静かに開かれる。


先に入ったのは渡辺 守綱(わたなべもりつな)、そしてその後ろに一人。

「遅くなりまして、桃慧様をお連れしました。」

室内の空気が、わずかに変わった。


「ご招待頂き感謝いたします。」

廊下の冷たい床の上でひれ伏す桃慧。


「いやいや、こちらこそ申し訳ない。兵たちに代わり某から、先の治療の一切合切、誠に感謝申し上げる。」


家康が頭を下げると家臣たちも一斉に深々と頭を下げる。


「どうぞこちらへ。」


男たちの中にただ一人。

だがその存在は、異質でありながら、場に溶け込んでいる。


血の匂いを纏った先程とが打って変わり、華やかな香りを身にまとい席につくと、もう一度静かに一礼する。

家康はその姿を見て、わずかに目を細めた。


先ほどとは違う。

今度は「将」として見る。


「表を上げてくだされ、ささやかながら善を用意しておりますのでお召し上がりください。」


桃慧は頷き、静かに面をあげる。


顔の赤い長秀が小さく笑う。

「これで、揃いましたな」


一鉄が笑う。

「主役は遅れて現れるものよ」

軽い笑いが起きる。


だが、その視線は皆、桃慧に向けられていた。


家康は盃を桃慧に渡し、酒を注ぐ。

自らの手で。

「ささやかながら、労いの席ゆえ」


その所作は丁寧だった。


桃慧は一瞬だけ迷う。

だが、断ることはしない。

盃を受け取り、口元へ運ぶ。


ほんのわずかに触れさせる。


そして静かに置いた。

誰もそれを咎めない。

ただ、その所作の意味を感じ取り頷く者もいた。



家康はしばし黙していた。

盃の中の酒面を見つめる。


やがて、ゆっくりと顔を上げた。


「先ほどの話の続きとするならば、その武田の誘いに乗るのではなく」


一同の視線が集まる。


「逆に取る」


空気が変わる。


「信玄が我らを誘い出すというのならば、二俣に気を取られている今こそ、その背後へ回り一太刀、浴びせてやる。皆様のお力を借り、一万五千の兵ならば信玄とも互角に戦える」


その言葉は、静かでありながら鋭かった。

一瞬、誰も言葉を発しない。


だが次の瞬間、酒井忠次が、はっきりと口を開いた。

「殿それは、なりませぬ」


静かだが、断固たる声音。

「恐れながら申し上げます。いかにして、天竜川を渡られるおつもりか」


場の空気が、ぴたりと止まる。


酒井は続ける。


「渡河の要所は、すでに武田に押さえられております。浅瀬も、橋も、監視が行き届いておりましょう。後詰の兵も渡河地点を探るべく向かったところをやられました。」


榊原康政も口を開く。


「仮に渡れたとしても兵の動きは既に察知されます。これでは奇襲にはなりませぬ」


本多忠勝が低く言う。


「背後に回るつもりが逆に囲まれ背水の陣となり潰されるでしょう。」


鳥居元忠が静かに補う。


「それは、特に天竜川沿いは背後に回る場所ではございませぬ。敵が最も警戒している筋にございます」


一鉄が苦笑する。そして渡辺守綱が短く言う。


「退路も断たれるのであれば攻め込む意味が無い。それに渡河に数的劣勢、それに疲弊で士気も下がる。二俣城を救う為とはいえを得策ではないですな。」


長秀が最後に言葉を継ぐ。


「……御意は、敵の意表を突くものにございます、しかし」


視線をまっすぐに家康へ向ける。


「我々が美濃から来る間ですら斥候が潜んでおりました。すでに浜松近郊も敵の手の内にございます。こちらが動けば、すぐに捕捉されましょう」


静かな声で話すがその言葉の意味は重い。


「主導は依然として、武田にございます」


家康は動かなかった。

ただ、その言葉を受け止めていた。

一つ一つが正しい、反論できぬほどに。


そして、それが己を守るための言葉であることも分かっている。


やがて、ゆっくりと盃を置いた。


「……そうか」


短い言葉。


だが、その中にすべてがあった。


「分かった」


それ以上は言わない、だがそれは折れたのではない、今は傍観を選んだのだ。

酒宴は夜を深めるにつれ、重く苦しいものとなりその日はそれで解散になる。





武田の動向と攻めを見極める軍議を行う日が続く。

その間も医務衆たちは退避してきた徳川配下の兵、民衆たちに継続的な医療支援を行う。



そして1572年11月27日急報が入る。


武田軍の工作により、10月より攻められながらも耐えに耐え続けていた二俣城の水の手が押さえられ落城は近いとの報告が入ったのだ。水が無くては戦えず。兵たちの士気も下がる。


家康は急報を聞くと家臣一同と織田諸将を集め来るべき決戦に備え大規模な軍議を開いた。



夜は更けていたが、誰一人として席を立とうとはしなかった。

灯明の火が幾つも揺れ、壁に映る影はまるで戦場のように乱れている。


中央には地図。

遠江一帯、徳川方の各城、砦、道、重要な要所がまとめられている。

その周囲に、徳川の重臣たちと織田諸将が居並ぶ。


本多忠勝、酒井忠次、榊原康政、鳥居元忠

そして上座に、徳川家康。




「……出るべきではありませぬ」


最初に口を開いたのは、酒井忠次であった。

低く、だがはっきりとした声。


「敵は明らかに我らを誘っております。このまま城を固め、機を待つが上策にございます」


榊原も頷く。


「武田の兵は精強、正面から当たれば被害は避けられませぬ。」


場は一度、静まる。

理としては正しい。

誰もがそれを理解していた。


だが、その沈黙を破ったのは・・・。


「……それで、よいのか」


本多忠勝だった。

低く太い、抑えた声。

だが、その一言で空気が変わる。


「民が焼かれておる」


顔を上げる。

その目は鋭い。


「村が、畑が、家が、焼かれておるのだ。それに奮戦した二俣城の友たちはどう思う。」


誰もすぐには言葉を返せない。


忠勝は続ける。


「それを見て、城に籠るか?それで三河武士と言えるか」


酒井が即座に返す。


「忠勝殿、それは。」


「理は分かっておる!」

すかさず遮る。


「だがな」


拳を膝に打ちつける。


「理で民は救えぬ!国を守れぬ!」


場の空気が震える。


榊原が口を開く。


「ならば、どうする?武田と野戦を行えば、勝てる保証は無い。それでも出るか」


忠勝は即答した。


「出る」


一切の迷いがない。

鳥居元忠が静かに言う。


「……しかしむやみやたらに城を出て殿が討たれれば、どうなる」


忠勝は一瞬だけ黙る。


だが、すぐに答える。


「ならばその前に、我らが死をも恐れぬ働きで一人でも多くの武田兵を討ち取ればよい」


その言葉に、場が凍る。

「……馬鹿を申すな」


酒井の声が、わずかに強くなる。


「それで家が保てるか、徳川が滅びれば民も救えぬ。今は耐える時だ。」


忠勝が睨む。

「耐えて何になる?焼かれ、奪われ、殺されるのを指を咥えて見ているだけか?それが徳川の武士か?」


榊原が静かに言う。

「勝たねば意味がない、意地で戦をしてはならぬ」


忠勝が笑う。


「勝つために出るのだ。籠って勝てるなら、もう勝っておる」

言葉がぶつかる。


理と意地。


どちらも正しい。

だからこそ、止まらない。


その時、別の声が上がる。


「出るべきだ」


若い武将だった。

名のある者ではない。

だが、その声に周囲が反応する。


「そうだ」


「このままでは士気が下がる」


「武田に怯えたと言われれば徳川の末代までの恥かと!」


次々と声が上がる。

その声は止まらない。


酒井が声を荒げる。


「静まれ!」


だが、収まらない。


「殿はどうお考えだ!」


「我らは戦うためにある!」


「城に籠るためではない!」


「三河武士の名が泣く!」



もはや議論ではない。

感情の奔流だった。


誰も引かない。


引けない。


その中心で家康は、黙っていた。


一言も発しない。

ただ、全てを聞いている。


忠勝が前に出る。


「殿」


膝をつく。


だが、その姿勢は直立に近い。


「御下知を。出るか、籠るか。我らは殿の命があればどちらでも従いまする。」

全ての徳川の将が頭を下げ家康の一挙手一投足に睨みを利かせる。

一拍。


「だが」


忠勝が顔を上げる。


「籠ると申されるなら我らを城の柱に縛ってくださいませ。」


場が凍る。

酒井が息を呑む。


「……忠勝殿、それは」


「このままでは止められませぬ」


はっきりと言い切る。


「このままでは、我ら兵は足軽下人に至るまで武田に一太刀浴びせに向かうまで留まることは決してございませぬ。もし、それを止めるなら殿の刀で止めてくださいます他ございませぬ。」


静まり返る。


織田の諸将は意見できない。

滅茶苦茶な意見だが本田忠勝を筆頭に白髪頭の古強者から若い将まで目は真っすぐで濁りがない。。


榊原が目を閉じる。


「……まったく」


ぽつりと呟く。

だが、その声には諦めが混じる。


「殿、いかなる命でもどうか。」

榊原も頭を下げた。



やがて家康が、ゆっくりと顔を上げた。

全員が息を止める。


「……あい分かった。」


静かな声。


だが、それだけで場が止まる。


「出るぞ。」


その一言。


一瞬の静寂。


そして

「「「「はっ!!」」」」


三河武士たちの声が揃う。


先ほどまでの混乱が嘘のように消える。

統制された軍の顔に戻る。


「半蔵、武田の動向を逐次報告せよ。方々に物見を出せ。浜松一帯の武田の物見や内通者を一切合切処断せよ。」


「はっ」

服部半蔵という男が笑顔でその場を離れ廊下を駆けてゆく。


酒井は目を伏せる。

榊原は小さく息を吐く。

誰もが理解していた、これは最善ではない。


だが、これが三河の武士の真骨頂であると。


家康は静かに呟いた。

「……はぁまったく、どいつもこいつも。」


その声には、誇りと、諦めと、覚悟が混じっていた。


「忠勝、武田の動向がわかり次第出陣とする、先鋒はそなたが務めよ。準備致せ。」


「殿!感謝いたします。」

忠勝も満面の笑みでその命に応える。

忠勝の背後に控える若い将たちも家康の判断を自らの誇りと語らんばかりに胸を張り笑みを溢す。


誰よりも忠義が厚く、融通が利かない生真面目さと、言い訳がましいが主君を立てようとする気持ち。

それが三河武士という者である。


その三河武士の姿を見た桃慧はひどく無表情を決め込んでいた。

(......岐阜に帰りたい)


負傷人床=担架

傷病の見立て=トリアージ

見立て紙=トリアージ記載紙

応 答 【有/無】


傷/病 【頭/首/胴/腕手・左右/ 背/臀部/足・左右】 


心 臓 【動/静/止】 


 息  【動/静/止】 


出 血 【多/少/無】 



 終期・・・死亡/心肺停止/死に際の者


 急体・・・急ぎ搬送治療が必要なもの、もしくはそれに値するもの


 傷体・・・搬送に悩む程度の者、急変の可能性がある者


 健体・・・現地の治療で間に合うもの


①新たに救走班という少数の集団を編成する。


 陣頭医・・・1名 (現場指揮・搬送判断・応急処置)


 担手・・・2名1組×3 (搬送・止血)


 荷駄係・・・2名 (荷車にて医療品・水の運搬)


               以上9名1班編成  これを複数班整備し布陣する。



用語集

負傷人床=担架

傷病見立て=現代訳のトリアージ

見立て紙=トリアージ記載紙

清創水=医療用アルコール

搬送車=4輪の牛車改造の救護車(現代的解釈の救急車)

救命胴着=現代で言うタクティカルベストのように胸部に竹の水筒を複数本格納できるようにした前掛け。


笛音伝達=鉄笛、竹笛の音を組み合わせ暗号化し医務衆内で連携をとるシステム

     鉄長音3回・・・重傷者搬送中

     竹笛短音連続・・・敵襲接近など様々な音で連携をとる。

     戦事や日ごとに符丁を変えて運用している。

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