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徳川家康

長良川の霧を背に、丹羽長秀の軍は東へと進んだ。


十一月の風はすでに冬の気配を帯び、朝は白く、昼は乾き、夕は早い。関ヶ原の山道に差しかかる頃には、吐く息も白くなり、荷駄車の車輪は湿った土を重く噛んだ。


先鋒をゆく稲葉一鉄は、馬上から道を見下ろしながら言った。


「道は細いが、通れぬほどではないな。」


後ろから長秀が応じる。


「荷駄がある以上、ここで止まるわけにはいきませぬ、桃慧殿荷駄に気を付けて進むよう指示を。」


「承知しました。宗次、話は聞いていましたか?」


「はっ、しかと命じて参ります。」


その後方、医務衆の列は整然と続いていた。


荷駄班の者たちが荷駄車に寄り添うように歩いている。竹筒が規則正しく揺れ、荷駄車に結いつけられている負傷人床がカタカタと音を立てる。。


それを横目に見た一鉄が、ふと笑った。


「……ほう1年ちょっとの軍ではあるがよく訓練されておるな。遅れもなくよくついてくる。


長秀は短く答えた。


「軍としては日が浅いですが公民や織田の兵から選抜されたもの達ですからね。」


「なるほど、道理で落ち着いているな。」


一鉄はそれ以上は言わなかった。


ただ、もう一度だけその隊列を見やり、小さく頷いた。

「さて、ここからが問題だな。」



関ヶ原を越え、近江を抜ける頃には、行軍は早まった。


道は開け、荷駄の進みも軽くなる。


だが三河へ入ると、空気が変わった。


荷をまとめて家を離れようとする村人。

既に人のいない村。

踏み荒らされた田畑。



あやめが小さく呟く。


「……もうここまで戦の空気が来てるんだね。」


宗次が低く答える。


「野盗も多くなっているのかもしれぬな。」


その日の夕刻。


前衛の一隊が足を止めた。


伝令が駆け戻ってくる。

「武田の斥候です」


長秀の眉がわずかに動く。


「どの程度か」


「三騎。こちらを見て引きました。稲葉様の隊で捜索を出すとの事。」


長秀は静かに言う。


「追うな、こちらの規模を知られたくはない」


「承知しました、伝えて参ります。」

伝令が直ぐに走りだす。


宗次が医務衆へ振り返る。


「隊列を崩すな、荷駄を寄せろ」


桃慧はそのやり取りを、少し離れた位置で見ていた。

馬上で遠くを見る様に眺めているが、ただ、その目は鋭く光っていた。


「……早い」


誰にも聞こえぬ声で呟く。

柚が横で聞き返す。


「何がです?」



「武田との接触がです。既に天竜川を越えられているという事ですね。」

桃慧は前を見たまま言う。


「こちらが来る前に既に斥候が伏せているということは。」


宗次が近づく。


「敵方は隠れようともしておりません。堂々とこちらを睨んでおります。」


桃慧は首を振る。

「隠れなくても構わないという事なのでしょうね。


宗次は一瞬黙った。

だがそれ以上は問わなかった。


長秀の命で、軍は進み続ける。

止まる理由はなかった。




その夜は、灯を落としての野営となった。

火は最小限。

声も抑えられる。

遠く、どこかで犬が吠えた。


誰もが武田の影を意識していた。


だが襲撃は来ない、静かな夜だった。


翌日以降も、斥候の気配は消えなかった。

丘の上に影が見える。

林の向こうで馬が動く、だが距離は保たれ接触はない。


一鉄が呟く。


「……見ておるだけか」


長秀が答える。


「何を企んでいる事やら、追い払うため兵を向けましたが逃げの一手で我らを相手にしておりません。」


その言葉に、周囲の武将は何も言わなかった。


戦は、すでに始まっている。


ただ刃が交わっていないだけだ。


1572年11月22日

長良川を発した軍勢が幾つもの山河を越え、浜松城の姿を遠望した時、すでに日は傾きかけていた。

台地の上に据えられた城は、夕焼けを背に黒く沈み、その周囲には徳川の兵が幾重にも配されている。城下には焦げた匂いが残り、遠江の空気そのものが張り詰めていた。


先陣を進める稲葉一鉄が、馬上で小さく息を吐く。


「ようやく着いたか」


その横で丹羽長秀は静かに言った。


「ここからが本番にございます」


門前に至ると、すでに出迎えの列が整えられていた。


中央に立つ男が一歩進み出る。


徳川家康である。

具足は整い、表情は落ち着いているが、その奥にある疲労と緊張は隠しきれていない。

髭が伸びており戦時にそのようなことは気にしていられないのだろう。


長秀と一鉄が馬を寄せると、家康は深く一礼した。


「遠路、よう参られた」


顔を上げる。


「佐久間殿に続き、丹羽殿、稲葉殿までお越し下さるとは、まことありがたきことにござる」


その声音には、偽りのない安堵が滲んでいた。


長秀が静かに応じる。

「上様の御意にございます。徳川殿をお支えせよ、と」


一鉄は笑って言う。

「まあ、骨の一本くらいは役に立つだろうて」


家康もわずかに口元を緩めた。

「そのお言葉、頼もしく存じます」


言葉を交わしながら、家康の視線は自然と後方へと流れていく。


そこに並ぶのは、見慣れぬ一団だった。


麻布の衣を揃え、胸に奇妙な装具を備えた者たち。兵とも、僧ともつかぬその姿。


そして――


その中に、ただ一人、騎乗している影があった。


小柄な体躯。

面差しは遠目にも若く、しかし尼の姿。


家康の目がわずかに細まる。


(……あれは)


ただ一人、馬に乗る。


護衛のようでもなく、使者のようでもない。

しかし、あの位置。


隊の中核に近く、ただの従者ではない。


家康の脳裏に一瞬、疑念がよぎる。

だがすぐに視線を戻した。


今はそれを問う場ではない。


「丹羽殿」


家康は改めて言う。

「まずはお疲れをお癒し下され、城内にて支度は整えております」


長秀が頷く。

「かたじけない」


一鉄が横から笑う。

「酒はあるか」


家康も応じて笑う。


「ささやかながら、戦の前ではございますがおもてなしは尽くさせていただきます」


そのやり取りの間にも、家康の意識の片隅には、先ほどの影が残っていた。


(……あの者は何だ)


だが問いは口に出さぬ。


代わりに、城内へと手を差し向ける。


「どうぞ」


門が開かれ、織田の軍勢がゆっくりと浜松城へと入っていく。


医務衆の列もまた、その中へと流れ込んでいく。


その最後尾近く、馬を降りた桃慧は、何事もなかったかのように歩を進めていた。


ただ一度も、顔を上げることはなかった。


家康はそれを横目で見送りながら、心の中で小さく息を吐く。

疑念は、後に回された。



浜松城の門をくぐった途端、空気が変わった。


城内には血の匂いと湿った土の匂いが混じり合い、庭先にはすでに遠江の戦場から逃げ延びたのであろう多くの負傷者が運び込まれている。呻き声、怒号、足音が入り混じり、落ち着いた場所などどこにも無かった。


その光景を一目見た瞬間、医務衆は足を止めなかった。


桃慧が静かに前へ出る。

そのまま最も負傷者の多い一角へと歩を進めた。

近くにいた徳川の家臣が、(いぶか)しげに声をかける。

「何者だ」


その声は鋭く、警戒が滲んでいる。


一綱が一歩前に出た。


無駄な言葉は無い。


「信長様直属の金創医隊だ」


短く、しかしはっきりと告げる。

家臣の目が変わる。


「……信長様直属?!」


「医務衆という」


宗次が続ける。


「是非、手を貸しましょう。」


一瞬の沈黙。


そして家臣は即座に頭を下げた。


「頼む!」


その一言で、場が動いた。



「ここを空けろ!」


宗次の声が飛ぶ。


「治癒台をこっちへ!」


救走班がすぐに動き出す。


担架が広げられ、負傷兵が次々と運び込まれ整えられる。


柚が布を広げながら指示を出す。

「治癒班は包帯を外して負傷状況を救走班と共に再確認してください。汚れた布は直ぐに洗って清めて。」


「あやめ、清創水と薬を、抗炎剤を多めに。」


「はい!」


竹筒の栓が抜かれる。

透明な液が傷口へと注がれる。

兵が思わず声を上げる。


「押さえてください!」


「動かさないで!」


一綱はすでに膝をつき、深手の兵の傷を見ていた。


一瞬で判断する。


「桃慧様、この者鉛玉が入っております。」


短い言葉。


「私が処置します。一綱はこちらの矢傷を見てください。血色が良いので臓器には異常がなさそうです。」


「承知しました。宗次すまんがこの布を押さえててくれ。」

一綱は雑に取り出された矢傷を整える様に処置する。痛みに苦しむ兵を少しでも楽にするため傷口に麻の種や曼荼羅華を用いた白い軟膏を塗り、御猪口(おちょこ)一杯の焼酎を飲ませる。

「こうか?」


「そうだ、悪いが少し傷口を押さえている俺の指を押えててくれ。その間に縫う。」


「わかった。」

宗次が一綱の指を押さえる。

血が溢れていたが圧迫止血により徐々に治まる。


「血が止まったぞ。」


「よし、指を離すぞ。よしよし、止まった。」


素早く縫合し薬を塗る。その手は止まらない。


徳川の兵たちは、ただその光景を見ていた。


見たことのない技。

見たことのない手際。

一人の足軽が呟く。


「……何だ、あれは」


別の者が答える。


「医者、だろうが……」


だがその声にも確信はない。


ただ一つ確かなのは、


倒れていた者が、少しずつ息を取り戻していくことだった。



桃慧は少し離れた位置に立ち、鉛玉の摘出や深く刺さった矢を抜く。


徳川の金創医達が驚いたのは、患者が悲鳴を上げると既に終わっているその処置速度である。


焼酎を飲ませ、患部に竹筒に入る液体をかけ、白い軟膏を塗り、関節を縛り一気に切開する。

患者が叫び声をあげ暴れようとするのを周りの者が抑えると既に桃慧の指には鉛玉が摘ままれ、薬が塗られる。

患者が息を吸うため一瞬動きを止めると既に糸で傷口が縫われている。混乱した患者が患部を見ると処置は終わり傷は塞がれている。


何があったのか理解もしないうちに、痛みは楽になりそのまま眠りにつく。



一人の家臣が近づいてくる。

年の頃は四十ほど、その視線は鋭い。


「……お主」


桃慧は顔を上げない。


「この者たちの頭か」


少しの間。


それから、静かに答えた。


「はい、私が織田家御医頭の桃慧です。」


「そうか。」

それだけだった。

いまこの者に話しかけてはいけない。そう理解した。


家臣は眉を寄せる。

だが、それ以上は問わなかった。


目の前で命が繋がれている。

それが全てだった。



「次、桃慧様に!軽傷は向こうに!医療班3名軽傷者へ回して」

治長も現場の全体を見まわし指揮を執る。


「治長、私の方に2名回してください、この方も直ぐに治療が終わります。」


「えっ?!今、回したばかり....えっ次の重傷者は桃慧様のもとへ。」


医務衆の声が、城内に響き渡る。

医務衆の戦は既に始まっている。


一方その頃、別の部屋では家康の接待を受ける織田諸将、酒が渡され盃に口を付ける瞬間に長秀が気が付く。


「家康殿、もう一人織田家の将が居るはずだが?」

その声音は穏やかでありながら、場の空気をわずかに引き締めた。


「はぇ?」

家康の眉がわずかに寄る。


「尼の装束を纏った若い女子なのだが」

長秀は続けた。


家康は先ほど見た不可思議な集団の中に騎馬した雰囲気の違う尼を思い出す。

「あ、あの尼も将なのですか?」

家康は目を見開きパチパチと瞬きをする。


長秀が盃を置き、落ち着きながら、なだめる様にゆっくりと話す。

「こちらの紹介不足でございました。信長様が直臣として取り立て推挙し当家の御医頭を務めている医僧出身の者です。名は桃慧と言います。」


一鉄が低く笑う。

「戦で使うには惜しいほどの娘子よ」


信盛も短く言う。

「……ただの医ではない、神技を持つ娘子じゃ」


その瞬間。

「これは失礼いたした!おい!話は聞いていたな!今すぐ迎えに....いや私が自ら迎えに行こう」

家康は慌てて立ち上がる。


「み、皆さまはどうぞごゆるりと。おい!膳をもう一つ用意せよ!」

そのまま走り出す家康。

「う、上様お待ちをっ!」

家康を追いかける近習たち。


「なんという無礼を、せっかくの援軍なのにっ!もし機嫌を損ない帰られたらどうする」

家康の脳裏に、先ほど門前で見た“違和感”が蘇る。


――ただ一人、馬に乗る影。


(……あれか)


血の気が引いた。



「おい、尼の格好をした援軍に来た娘はどこにいる!」


渡辺守綱はあわてて答えた。


「そ、その娘でしたら下の廓にて負傷者の治療を....」


その一言で十分だった。

家康の顔色が変わる。

宴にも呼ばないどころか既に動き始めている。

七千の援軍、そして織田の重臣たちが駆けつけてくれたことへの安堵からのこのような失態。

家康の顔色はどんどん青ざめていく。


「あ、案内せよ、は、早く」


間髪入れずに歩き出す。

もはや接待の場どころではない。

背後で家臣たちが慌てて立ち上がる。

廊下を進む足は早い。


いや――速い。

武将の歩みではなく、焦りを押し殺した者のそれだった。



下の(くるわ)(ふすま)が開かれた瞬間。

家康は、息を呑んだ。


徳川の金創医たちが、その周囲にただただ立っていた。


誰一人、手を出していない、出せていない。

ただ見ている。


完全な傍観者だった。


一人が呟く。

「……何だ、あれは」


別の者が首を振る。


「織田の医者らしいぞ……」


「だが…なんだあの技は…」


その先の言葉が出ない。


目の前で、明らかに違う“何か”が行われている。


そして時間が経つにつれ、

あれほど満ちていた悲鳴が、少しずつ減っていく。

呻き声が弱まる。


兵たちの顔に、わずかな安堵が浮かび始める。

家康もそれを共に傍観するだけだった。。



(一体なにが起きているのだ。)


やがて、家康はゆっくりと口を開いた。


「……一体誰がこの場を仕切っておる」


その声は低いが、はっきりとしていた。


周囲の視線が、一点へと向く。


その先に一人の影。


小柄な体。頭巾で頭を覆いせこせこと動く。

膝をつき、また一人の兵の処置を終えたところだった。


血に濡れた手を拭い、静かに立ち上がる。


治療を終えた兵は奥へ運ばれ、桃慧は治療で使った器具を洗い、その場を竹筒より流す水で洗い流す。

そして手を洗い次の患者を受け入れる。


ただ、その存在だけが際立っていた。

周囲の動きが、その者を中心に収束している。

誰もが自然に従っている。

命令を発しているわけではない。


命令は別の者が忙しなく動き、命じている。



家康は、ゆっくりと歩み寄る。

一歩。

また一歩。


やがて、その前に立つ。

桃慧が顔を上げた。


視線が交わる。


その目は晴天の空の如く澄んでいた。

戦場の只中とは思えぬほどに。


家康は、静かに頭を下げた。


「……この家康、遅れたこと心より詫びる。其方が桃慧殿だな?」


「はい、なにか?」


この瞬間が家康と桃慧の初の対面であった。


用語集


負傷人床=担架


傷病見立て=現代訳のトリアージ


見立て紙=トリアージ記載紙


清創水=医療用アルコール 濃度によりそれぞれ使い分けている。


搬送車=4輪の牛車改造の救護車(現代的解釈の救急車)


救命胴着=現代で言うタクティカルベストのように胸部に竹の水筒を複数本格納できるようにした前掛け。




救走班=現代で言う救急隊 9名1組での前線での救護活動する部署。


    陣頭医1名(傷病見立てを行い止血など初期救護を行う)


    担ぎ手2名×3(要救護者の搬送を行う。)


    荷駄係2名(補充用の薬や水、包帯などの運搬員、担ぎ手の補助を行う)


    荷駄班=救走班と併用されている物資運搬が主目的の班




医監班=戦場での記録、物資の管理、人員管理を行う部署


    盲目の人材を訓練し笛音伝達による情報伝達を処理する人々もいる。


医務班=外科的医療、治療指揮、医術の新理探求を行う部署


薬事班=調薬、投薬管理、薬草畑の管理を行う部署


治癒班=負傷者の看護、継続的治療や陣中、医務所の衛生管理を行う部署




笛音伝達=鉄笛、竹笛の音を組み合わせ暗号化し医務衆内で連携をとるシステム


     鉄長音3回・・・重傷者搬送中本陣受け入れ準備せよ


     竹笛短音連続・・・敵襲接近など様々な音で連携をとる。


     戦事や日ごとに符丁を変えて運用している。

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