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援軍

1572年11月3日。

美濃の空は薄く曇り、長良川を渡る風はすでに冬の匂いを帯びていた。

岐阜城下は朝から騒然としている。


城門の外では足軽が槍を整え、荷駄隊が俵を担ぎ、馬のいななきが絶えない。

普段は整然とした城下町が、まるで巨大な蟻塚のように忙しく動いていた。

甲冑の鉄の擦れる音、荷駄の車輪の軋み、伝令の駆け足。


すべてが一つの方向を向いている。


各方方での敵方の攻勢が始まったらしく岐阜城下は慌ただしく動く。


そんな慌ただしい最中の城下に二騎の馬が現れる。


馬は汗に濡れ、長い道を走ってきたことが一目で分かった。

先頭の騎手が顔を上げる。


桃慧だった。

その背後に琴を乗せ、疲労が顔に滲む。

さらに藤田盛景。


門番の足軽が身構え叫ぶ。

「止まれ、何処の者だ!」

次の瞬間、目を見開いた。


「おお、これは桃慧様!」


桃慧は手網を緩め減速し、門兵の前で下馬し問う。。


「上様は」


他の足軽は慌てて直立する。


「本丸にて軍議にございます!」


「承知しました。ありがとうございます。」


「桃慧様、そ、その髪は....」


「色々ありまして剃髪しました。」


「そうでしたか...」

顔なじみの門兵との会話も素っ気無いが今は火急の時、駆け足で城内へ入るとさらに慌ただしい。

廊下を駆ける小姓、鎧を運ぶ下男、名簿を確認する武士たち。城のあちこちから怒号と指示が飛び交っている。


琴が小さく言った。


「……すごいですね」


桃慧は周囲を見渡す。


「上様はもう動いていますね」


藤田盛景が低く答えた。


「それほど武田の進撃が早いのでしょう。」


桃慧はうなずくと、そのまま本丸へ向かった。

軍議の間の前には近習が控えている。

桃慧の姿を見ると、驚いた顔で声を上げた。


「桃慧様!......上様!桃慧様が戻られました!」

襖の向こうから声が響く。


「来たか、通せ」


襖が開く。

広い畳の間。

中央の上座に織田信長が座している。


黒漆の鎧の上に羽織を掛け、腕を組んだまま静かに座っていた。その目は鋭く、まるで獣のように周囲を見渡している。


左右には重臣たちが並んでいた。


丹羽長秀

林秀貞

村井貞勝

稲葉一鉄

など織田家を信長の身近で手助けするもの達ばかり、前線で指揮をする柴田勝家や滝川一益などは不在の用だ。

そこへ桃慧は静かに進み出て深く頭を下げた。


「ただいま戻りました」


信長は腕を組んだまま言う。

「遅かったな、まずは無事で何より。」


声は低く、だがどこか楽しそうでもあった。

「石山まで潜り込んだと聞いた」


桃慧は顔を上げる。

「はい、潜り込むために剃髪いたしまして少々見慣れぬ姿かもしれますぬがご容赦を。」


信長の口元がわずかに歪む。


「....ようやる、その姿も似合っておるぞ。それに其方がもたらした情報の数々。誠に良い働きぞ。1番知りたかった情報ばかりだった。」


それだけだったが、室内の空気が少し変わった。信長が人を褒めることは滅多にない。


丹羽長秀が静かに言う。


「桃慧殿、お疲れの所申し訳ないが改めて何か情報はあるのか?」


桃慧は一度息を整える。

「本願寺を出た後、堺へ向かう予定でしたが一向門徒達に目を付けられ追われてしまい京へ戻りました。その後光秀様のお世話になりまして先の伝令を走らせました。」


室内が静まる。


桃慧は続ける。

「石山本願寺は兵糧は豊富、城塞も堅固。毛利との連例も視野に入れており、さらに雑賀衆や根来衆などと言った傭兵の姿も多く武器弾薬は多く備蓄され籠城の構えをとっております。」


林秀貞が眉をひそめる。


「……やはり毛利か」


桃慧は頷いた。


「それと」


信長が顎をわずかに動かす。


「ほう?」


「門徒たちの動員はなされておらず、門徒の多くを伴っての挙兵はまだ先かと思われます。寺内も負傷者が多く手が回らぬほどの人員不足の様子。」


村井貞勝が言う。


「では、すぐには動かぬと」


「はい」


桃慧はさらに続けた。


「三好家も統制が取れておりません。将軍家と書状は交わしていますが挙兵の様子もなく、家臣たちの統制に躍起になっておられます。そのため畿内の諸勢力が同時に動く可能性は低いと考えます」


信長は黙って聞いていた。


やがてふっと笑う。


「なるほどな」


信長は腕を解き、前へ身を乗り出した。


「つまり、西はまだ火が付かぬ」


桃慧は頷く。


「はい」


信長はゆっくり立ち上がった。

その動きだけで、室内の空気が張り詰める。


「ならば」


信長は言った。


「西は捨て、今は燃え上がる東を止めるのが吉。」


重臣たちが顔を上げる。

信長は続ける。


「信玄の軍は二万、遠江へ入り浜松に陣取る徳川を押している」


丹羽長秀が静かに頷く。

「すでに佐久間信盛様の援軍3000の準備は整いつつあり、明日明後日ごろには徳川様の元へ馳せ参ずることが叶いましょう。」


信長は部屋を見回した。

畳の上で、のそりと動く影があった。


稲葉一鉄だった。


白い髭を撫でながら、のんびりと口を開く。


「上様」


信長がちらりと見る。


「何だ、一鉄」


一鉄は豪快に笑った。

「三千じゃ足りませんぞ」


室内の武将が一斉に一鉄を見る。

一鉄はまるで気にしない。


「武田は二万、それに信玄は用心深い男です。三千じゃ様子見で終わる。焼け石に水。焼け三河に洟垂れの様なもの。」


信長は口元を歪めるもどこか楽し気にゆっくりと歩きながら話始める。


「鋭いな一鉄、流石よ。その通り三千では徳川の軍八千と合わせても1万1千だ。」



信長は言った。

「美濃を守る余の軍七千の内、三千を後発隊として徳川に送る。」


そして一拍置く。


「畿内と美濃の守りは余の四千と明智軍一千五百で事足りる。徳川には先発と後発合わせて六千の援軍とする。しかし期限付きの援軍だ。徳川には冬季間武田の攻勢を押さえる様に厳命せよ。無駄な消耗を避け武田の力を削げと命ずる。」


部屋の空気がわずかに張り詰める。


信長はゆっくり視線を巡らせた。

「一鉄」


稲葉一鉄が顔を上げた。


白い髭を撫でながら、どこか飄々とした顔をしている。

「ははっ」

信長は頷く。


「後発軍の総大将を任せる、後に先発の佐久間の隊と合流したのちは指揮を佐久間に任せよ。」

一鉄は一瞬だけ目を細めたが、すぐに豪快に笑った。


「はっはっは」

畳に手を打つ。


「この老将にそのような大役をいただけるとはありがたい」


そして桃慧を見る。

その目には、先ほどとは違う色があった。


「殿の軍を預けていただくとなればこの老骨に鞭を打ってでもこの大役、果たさねば末代までの恥。しかと承りいたし申す。」

一鉄は言う。

信長は頷く。

「頼むぞ。」


「ははっ。」

一鉄は嬉しそうに笑いながら平伏する。

信長は頷きながらその姿を見守り次に桃慧へ目を向ける。


「桃慧、医務衆を出す。持久戦となれば其方の力が必要だ。出すべき時は今であろう。」


武将たちが顔を見合わせる。

一鉄は続けた。

「ほぅ、桃慧殿の話は以前より聞いております。私も少々医の道に通ずる者。桃慧殿が共に居てくれるのは大変心強い。」


桃慧は少し驚いた顔をする。

一鉄は髭を撫でながら言う。


「戦場で兵を救う医者、面白いではありませんか。それも金創痍をまとめ上げ軍とする者とは。戦は長くやれば兵が尽きる、ならば尽きぬようにすればよいと、それを形と成した上様の秘蔵の隊を預けて頂くとなれば、命がけで努めなければな。」


一鉄は信長を見た。


「上様、この女子は戦を変えるやもしれませぬぞ」


信長の口元がわずかに歪む。

一鉄は続ける。


「老いぼれではありますが、その変わり目に立てるなら願ってもない機会」


そして桃慧を見る。


「桃慧殿」


桃慧は静かに頭を下げた。

一鉄は笑った。



「我らが兵を頼みますぞ」


その時だった。


「上様」

静かな声が響く、丹羽長秀だった。

軍議の場にいた武将たちが一斉に長秀を見る。

長秀は深く一礼した。


「進言申し上げても。」


信長が言う。


「構わん、言え」


長秀は顔を上げる。

その表情は穏やかだが、どこか硬かった。


「医務衆を出すのは危険でございます」


室内にわずかなざわめきが起こる。

信長は眉を動かさない。


「理由は」


長秀は静かに答えた。

「医務衆は兵ではありません、戦場の働きに慣れてはおりましょうが武田との戦は激戦となるでしょう」


長秀は一鉄を見る。


「稲葉殿の軍は前へ出ます」


一鉄は頷く。

「当然だ、当家の軍は皆美濃の斎藤家より脈々と続く武辺者たち。戦働きこそが当家の歴史にござれば前線に赴くのは至極当然のこと。」


長秀は続ける。

「医務衆はその戦場に耐えられる隊ではございません」


信長は腕を組んだ。

「ふむ……」


長秀はさらに言う。

「しかし、稲葉様も医務衆の価値は理解しております。持久戦に持ち込むのなればまさに医務衆の得意とする戦。ここに医務衆を入れなければどこに入れるのかと疑問がわくほどでござれば。」


そしてゆっくりと頭を下げた。


「もし医務衆を出すのであれば後発隊の総大将の役目、どうかこの五郎左にお任せください」


室内が静まり返る。

長秀は続けた。


「医務衆は戦う軍ではありません。戦を支える軍です。その役割を理解する者が指揮せねば、無駄に損ないます」


一鉄がふっと笑った。


「なるほど」


長秀を見る。


「長秀殿は医者の使い所を分かっておられるな」


長秀は穏やかに答える。


「ええ」


一鉄は豪快に笑った。

「はっはっは、それは良い」


そして信長を見る。


「上様、長秀殿の言うことは正論です、某は前へ出ます。であればこの娘の兵は長秀殿に預けた方がよろしい。医者は医者、武士は武士の仕事をしなければ勝てる戦も逃しましょうぞ。さすがは長秀殿よく進言してくださった。危うくこの娘を殺すところだった。」


信長はしばらく黙っていた。

そしてゆっくり口を開く。


「五郎左。」


「はっ」


長秀は頭を下げた。


「良し、五郎左は兵を何人出せる?」


「1千を。」


「であれば余の軍を二千、五郎左が一千、一鉄が五百とする。医務衆は如何程か?」

信長は桃慧を見る。


「医務所に残置する者を抜き、二百四十を」

そして静かに言った。


「よい、これで軍は成った。」


桃慧は深く頭を下げた。


信長はゆっくり言う。


「ならば後発軍を五郎三が指揮を取れ」


長秀が畳に手をついた。


「はっ」


信長は一鉄を見る。


「一鉄、副将を頼む。後発軍の矛は其方しかおらぬ。頼んだぞ。」


「承りもうした。いや、実に賑やかになりましたな。」


信長は最後に桃慧を見る。


「桃慧」


「はい」

桃慧は平伏する。


「武田は徳川を潰す気で戦をしかけている。だがここで徳川を失う訳にはいかぬ。1人でも多くのものを救え。」


そして静かに言った。


「頼んだぞ。」


「はっ。」

信長は落ち着いた眼差しで長秀、一鉄、桃慧の3名を見る。そして声を張り命ずる。


「では直ちに支度致せ!」



一同は一斉に駆け出す。

先発の佐久間信盛隊の鬨の声を聞きながら闘志に火を灯す。


敵は甲斐の虎 武田信玄


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