逃亡
宿の裏口を抜けたとき、夜はすでに深かった。
寺内町の喧騒はまだ遠くで燻っている。
だが表門を離れ、建物の影を縫うようにして進む三つの影の周囲だけは、妙に静かだった。
風が冷たい。
十月末の大坂の夜は夏の熱帯夜は遥か昔と懐かしむほど温かくはない。夜の底に、冬の気配が確かに沈んでいた。
桃慧達は、息を殺して歩いていた。
剃髪した頭は、昼のうちに風に慣れたつもりだったが、夜気を受けるとまだどこか頼りない。僧衣の襟元を押さえる指先が、冷えで少し硬い。
琴がすぐ後ろに続く。
琴もまた音を立てぬよう、裾を持ち上げて歩いていた。足もとの土は乾いているところと湿っているところがあり、暗がりでは見分けがつきにくい。
うっかり石でも蹴れば、それだけで通りの向こうにいる誰かが振り向くかもしれぬ。そんな緊張が、三人の足取りを慎重にさせていた。
最後尾を歩く藤田盛景だけが、何度も振り返っていた。
本願寺の方角。濠と土塁の向こうには、まだ焚火の明かりが揺れている。その上を、夜の空気を裂くように鐘の残響がときおり流れてくる。宿に逃げ込む前に耳にしたあの警鐘が、まだ終わっていないのだと分かる。
「急ぎましょう。」
盛景が低く言った。
桃慧はうなずいた。
「町外れへ急ぎましょう。」
「僧兵はずいぶん多く出てきていますね、裏道などありますか?」
桃慧も頻りに後ろを確認する。
「えぇ、この通りをさらに右に曲がり進みましょう、すこし遠回りですが人は近寄らない通りです。」
声は小さい。だが緊張で、言葉そのものに硬さがあった。
三人は細い裏路地を選んで進んだ。石山の周辺はただの寺町ではない。本願寺に寄り添ってできた町であり、商人と門徒と流れ者が入り混じるいびつな城下である。
昼ならまだしも、夜の裏道には別の顔がある。戸を閉めた家々の隙間から灯が漏れ、どこかで酒の匂いが漂い、男たちの笑い声が不意に途切れる。誰も彼も、こちらをまともには見ない。
だが、見ていないからこそ怖い。目を合わせぬまま、見たいものだけ見ているのが、こういう町の人間だった。
やがて、町の端に近い一角へ出た。
大きな街道から少し外れた、馬借と荷運び人足の溜まり場に近い場所である。昼なら荷駄と馬のいななきで賑わう場所も、この刻限にはしんとしていた。ただ、厩のあたりから獣の息遣いだけが聞こえる。
盛景が足を止める。
「ここです」
桃慧は辺りを見回した。
板塀の低い建物。軒下に荷車。壁際に藁束。門灯は消えているが、奥にかすかな気配がある。人が眠っている家の静けさではなく、起きている者が息を潜めている静けさだった。
盛景が戸を叩く。強くは叩かない。三度間を置いて。
すぐには返事がない。
もう一度。
今度は内側で誰かが身じろぎする音がした。
「……誰だ」
低い、警戒した男の声。
「夜分にすまない。どうしても馬を借りたい」
盛景が言う。
「夜更けにか」
「夜更けだからだ」
戸の向こうで沈黙があった。
やがて、板戸が指二本ほど開いた。隙間から、眠そうでいて眠ってなどいない目が覗く。町外れで馬を扱う者の目だ。夜中に人を訪ねて来る者が、善人ばかりでないことを知っている目だった。
「どこへ行く」
「急ぎ京へ向かいたい。」
男の眉が動く。
「今から?」
「今からだ」
男は盛景の肩越しに、桃慧と琴を見る。
若い僧。従う女。旅装の男。奇妙な組み合わせだ、不自然ではないが馬を借りる人間としては奇妙な組み合わせだ。
しかも三人とも息を整えすぎている。追われている者の匂いが、隠しきれずに滲んでいた。
「高くつくぞ?いいか?」
「構わない、頼む。」
男はさらに目を細めた。
「銭はあるのか?」
盛景が懐へ手を入れようとしたそのとき、桃慧が前へ出た。
「銭もございます」
静かな声。
「ですが、それよりも」
頭陀袋から小さな包みを取り出す。
ひとつは琥珀色に透ける蜂蜜。もうひとつは、口の細い小瓶。蒸留酒である。石山に入る前から、桃慧はこうした“もしも”のための手札を少しだけ残していた。
男の目の色が変わった。
「……これは」
桃慧は包みを差し出す。
「謝礼にいかがでしょうか?」
男は蜂蜜の壺を受け取り、鼻を寄せた。
甘い。しかも混ぜ物の匂いがしない。本物だ。
次に小瓶の栓を少し抜く。
鼻先を刺すような強い酒気。
男は思わず目を見開いた。
「なんだ、これは」
「焼酎という酒でございます。」
「焼酎……?」
「酒をさらに濾し、濃くしたものです。」
「どこでこんな貴重なものを....まぁいい。」
男は栓を戻した。
その顔には、夜の商売人らしい素早い算盤が見えた。蜂蜜も珍しい。だがこの酒はさらに珍しい。銭よりも後で利く。相手が何者かなど、どうでもよくなるだけの価値がそこにあった。
「……二頭だ」
男が言う。
「夜道に出すなら二頭が限度だ」
盛景が即座にうなずく。
「わかった、頼む」
男は戸を大きく開いた。
「入れ。だが急げ。夜明け前に町を抜けねば、見つかるぞ」
その言葉に、桃慧と盛景の視線がわずかに交わった。
やはり町にはもう気配が流れているのだ。
厩の奥から引き出された馬は、闇の中でも不自然なほど均整が取れていた。肩が高く、首筋はしなやかで、脚は長い。
夜目にも分かる艶がある。腕のいい馬飼いとだけ思う。
盛景が短く息を吐いた。
「……走れそうですね」
男は鼻を鳴らす。
「よしよし、頼みますね」
桃慧は馬の鼻先にそっと手を当てた。熱い息が掌を打つ。
生き物の熱に触れた瞬間、自分がようやく逃げているのだと実感した。昼の石山で見た顕如の目が、脳裏によみがえる。
あの男は自分を使える駒として見た。ならば、今夜ここで姿を消さねば、二度と自分の足で外へ出られなくなるかもしれぬ。
「桃慧様」
琴の声がした。
振り返ると、琴が少しだけ困ったように笑っている。
「わたくしは……」
「私の馬に、すみませんが私の後ろに乗ってください。」
桃慧は言った。
琴が目を瞬かせる。
「よろしいのですか」
「琴は馬に乗れないでしょう?」
「はい...でもいいのですか?」
ワクワクと胸を躍らせる琴。
盛景がうなずく。
「大丈夫ですか?琴様」
琴は少しだけ頬を赤らめた。
こんな刻限こんな逃走の最中だというのに、その表情がいかにも琴らしい。
桃慧のすぐ後ろに乗ることになる。
その近さを思って、緊張とは別の熱が頬へ上がるのを自覚しているのだろう。
桃慧は先に鞍へ上がった。
剃髪した頭を夜風が打つ。琴が後ろへ乗り、そっと腰に手を回す。細い指先が、最初は遠慮がちに触れ、次いで観念したようにしっかりと掴んだ。
「しっかりと私の腰をつかんでください。落ちないでくださいね?」
桃慧が言う。
琴は小さく答える。
「はい……ですが、その……」
「なんです」
「今は、落ちる気がいたしません」
こんな時に、と桃慧は思った。
だがその一方で、琴が恐怖だけで硬くなってしまわず、少しでもいつもの調子を残していることに安堵した。
盛景はもう一頭へ乗り、綱を確かめていた。
「京まで街道を飛ばします」
「川沿いは霧が出ます。轍も深い。無理には寄せません」
「もし後ろで動きがあれば?」
桃慧が問う。
盛景は夜道の先を見ながら答えた。
「夜のうちは追いにくい。ですが、夜明けに人が動き始めれば話は別です。こちらが町を抜け切る前に気づかれれば、街道筋で抑えに来る」
「では急ぐしかないのですね」
「はい」
男が厩の戸を閉めながら、最後に言った。
「京へ行くなら、淀の方で右へ寄るな。水辺は霧で見えぬ。馬を取られるぞ」
「恩に着る」
盛景が応じる。
次の瞬間、二頭の馬は町外れの闇へ滑り出した。
最初は早足。
まだ町の中だ。音が響きすぎると人目を引く。戸を閉めた家々のあいだを抜けるあいだ、桃慧は馬の首筋に身を伏せた。琴の腕が腰に回り、その力が歩調に合わせて強まったり弱まったりする。背に感じる息は速い。琴も恐れている。だが離れない。
「桃慧様」
「はい」
「……温かいですね」
「今、そう言う時ですか」
「ふふふ、とても役得です。ところで桃慧様は以前も馬を乗りこなしていましたがどこで馬術を?」
「私の故郷は産駒が盛んな地域でしたから、家に馬小屋がくっついて建っているところが沢山あるんですよ。私も良く馬と遊んでました。」
「いつか見てみたいですね、桃慧様の生まれ故郷。」
思わず、桃慧は小さく笑った。
意図せず起きた逃亡劇の最中、ほんの一瞬の息継ぎだった。
町を抜けると、盛景が前で手を上げた。
「ここから飛ばします!」
馬が駆けた。
地面の感触が変わる。
土の街道。所々に轍。石。浅い泥。馬の脚がそれを次々と越えてゆく。風が顔を打つ。剃った頭には容赦なく寒さが刺さるが、それでも今は気にならない。
周囲は闇だ。
だが完全な闇ではない。空には雲の切れ間があり、時おり月が顔を出す。
そのわずかな光の中で枯れ草が銀色に揺れ、遠くの水面が鈍く光る。犬が吠える。どこかの農家の軒先で鶏が騒ぐ。
夜道を馬で急ぐ者など善き旅人ではない、そういう時間だった。
盛景が振り返らずに言う。
「音があればすぐに!」
「はい!」
桃慧が応じる。
だが背後からは、今のところ何も聞こえない。
石山はまだ遠い。だが、遠くなっているからこそ怖かった。
あの城塞寺院が今もそこにあり、顕如の目が自分を追っているような気がした。
やがて、東の空がごく薄く白み始めた。
夜明け前である。
一番暗いはずの刻なのに、空だけが先に色を変える。道の輪郭がようやく見え始め、木立の形も、畑の畝も、遠くの村の屋根も、ぼんやりと浮かび上がる。
「……抜けた」
盛景が低く言った。
「大坂の外れを越えました」
桃慧はようやく背後を振り返った。
石山のある方角は、もう朝霧の彼方だ。寺の姿は見えない。だが、代わりに別のものが見える。京へ続く道。その向こうに、まだ曖昧ではあるが都の気配がある。
「都の近郊です」
盛景の声に、張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。
だが終わってはいない。
桃慧は知っている。
ここからが次の戦である。
寺社勢力の噂の伝わりの速さは尋常ではない。
胸の内では、すでに持ち帰るべき情報が整理され始めていた。
本願寺の兵糧。
毛利との連携。
雑賀の鉄砲。
門徒の招集。
挙兵の難しさと、城塞としての強さ。
それらを信長へ届けねばならぬ。
「桃慧様」
琴が耳元で囁く。
「はい」
「……無事に、抜けられましたね」
桃慧は前を見たまま答えた。
「まだです」
だが声は、石山を出たときよりも静かだった。
「まだですが、一つ抜けました」
朝の光が、ようやく馬の首筋を照らし始める。
冷えた空気の中、二頭はなおも京を目指して駆けていた。石山の夜を背に、三人はようやく次の朝へ踏み込んだのである。
東の空が、まだ夜の色を残したままわずかに白み始めていた。
田の上には薄い朝霧が流れ、草の先に結んだ露が冷たい光を返している。夜通し走り続けた馬の肩から、白い息がゆっくりと立ちのぼった。
京の南外れ。
まだ町の門が完全に開く前の、眠りと目覚めの境目の時間だった。
藤田盛景が手綱を引き、街道を外れた細い道へ馬を向ける。
道の脇には藁を積んだ農家と小さな納屋があり、まだ人の動く気配はない。
ただ遠くの村で鶏が鳴き、どこかで薪を割る乾いた音が朝の空気に混じっていた。
「ここです」
盛景が言った。
納屋の裏手に、ひとりの男が立っている。
背には魚箱。腰には縄。頭には粗末な笠。
漁師か、魚売りの行商人にしか見えない。
男は三人を見ると、軽く会釈した。
「盛景様」
声は低く、落ち着いている。
盛景が紹介した。
「庄兵衛だ」
男は桃慧に目を向けた。
「明智家の者です」
桃慧は合掌した。
「お世話になります」
庄兵衛は背負っていた箱を地面へ下ろす。
蓋を開けると、塩気の強い匂いがふっと広がった。
干した鯖だった。
琴が少し驚いた顔をする。
「魚……?」
庄兵衛は苦笑した。
「舞鶴の鯖という触れ込みです」
桃慧は首をかしげる。
盛景が説明した。
「信長様へ献上するという名目です」
庄兵衛が続ける。
「鯖は腐るのが早い魚ですが、開いて夜風に這わせて干物にしております。」
少し飴色がかった身が脂を貯えており朝日に照らされ虹色に光る。
見るからにうまそうな品である。
「これを売りに行くという事で、馬で走っても怪しまれません」
桃慧は納得したように頷いた。
「なるほど、よくできた話ですね」
庄兵衛は肩をすくめた。
「こういう世ですから。早馬と書けば怪しまれますが、魚売りなら馬を使っても怪しまれませんし、関所も問題ありません。」
「なるほど、では直ぐに書を準備します。」
桃慧はすぐに筆を取り出した。
朝霧の中、納屋の柱を机代わりに紙を広げる。
石山本願寺の様子。
顕如。
兵糧の量。
門徒の動員状況。
毛利家との連携の様子。
雑賀衆、根来衆、鉄砲の数。
すべてを簡潔に記す。
墨が紙に吸い込まれる。
盛景が静かに言う。
「武田はどうだ?」
桃慧の筆がわずかに止まった。
「遠江の城がかなり攻略されております、徳川も後詰に兵を送り何とか踏ん張っておりますが。」
庄兵衛の声は低い。
「別動隊が東美濃を襲い国衆の遠山家は武田に降ったようです。」
琴が思わず顔を上げた。
「東美濃なら岐阜から目と鼻の先ですよね……?」
盛景が頷く。
「さすが武田信玄公、甲斐の虎は頭も爪も鋭い。」
その名を口にした瞬間、朝の空気が重くなる。
桃慧は紙を折り、庄兵衛へ渡した。
「これを岐阜へ」
庄兵衛は受け取る。
「二日で岐阜へ入ります」
盛景が言う。
「桃慧殿、この書状を岐阜の誰に渡すのです?」
庄兵衛は不思議そうに景盛を見る。
「何を言ってるのです?桃慧様が書状を渡し相手は信長様しかおりませんでしょう」
「の、信長様!?」
景盛の目はまん丸でいまにも目が飛び出しそうだ。
庄兵衛は馬に乗る。
馬の背に魚箱をくくりつけ、軽く手綱を引く。
「では」
次の瞬間、馬が走った。
蹄の音が霧の中へ吸い込まれていく。
やがてその音も聞こえなくなった。
しばらく二人は立ち尽くしていた。
景盛は呆然と桃慧を見る。
「藤田様?大丈夫ですか?」
「いや、桃慧様は何者なのです?」
「え、知らないのですか?」
琴が驚いたように桃慧の脇から顔を出す。
「信長様直臣、御医頭の桃慧様ですよ?」
「はがっ....えっあ?いや?あぁ?」
「え、知らないのですか?」
「は、はい、ではこの方が坂本を疱瘡から救い、焼き討ちの凶行を帳消しにしてくださった、あの桃慧様なのですか?」
朝の光が少しずつ強くなり、霧の向こうに京の町がぼんやりと姿を現し始めている。
琴が小さく言った。
「……急がないといけませんね。」
盛景が下馬しシナシナになりながら口を開く。
「きょ、京へ入りましょう」
街道を進むと、町の気配が濃くなっていく。
水を汲む女。
野菜を運ぶ農夫。
寺へ向かう僧。
朝の京は静かなようでいて、確かに動き始めていた。
やがて三人は曲直瀬道三の屋敷の門前に着く。
白い土塀の向こうから薬草の匂いが漂っていた。
盛景が門を叩く。
しばらくして弟子が顔を出す。
「何用だ」
桃慧が前へ出た。
「遵慧にございます」
奥から声がする。
「え?あの、少々お待ちを」
現れた老人が桃慧を見る。
そして、ぴたりと動きを止めた。
「……随分早い帰還だな、しくじったのか?」
桃慧は深く頭を下げる。
「ご無沙汰しております」
道三は桃慧の頭を見て、しばらく黙っていた。
やがて小さく笑う。
「ほう、医僧らしくなったではないか。ようやく剃ったのか」
桃慧が苦笑する。
「寒さがしみますね。」
道三は肩をすくめる。
「なるほど、潜り込んできたのか。」
桃慧はすぐに言った。
「御師匠様にはかないません。」
道三の目が鋭くなる。
「全く危ない真似をしおって、良く帰ってきたな。」
桃慧は黙って頷いた。
道三はそれ以上聞かなかった。
「胤貞のところへ行くのだな」
「はい」
「かのお方はお前が来るのを心待ちにしておる、まだ来ぬのか?何をしているのだ?と催促してくる。」
「では直ぐにお伺いしたほうがいいですね、十日待ってくださいと言ったのに。」
桃慧は一礼しその場を離れ公家、大鷹原胤貞のもとに赴く。
屋敷の庭には朝露が残り、松の枝から雫が落ちている。
大鷹原胤貞が現れると、桃慧を見て目を丸くした。
「そ、その頭はどうした」
桃慧は軽く笑う。
「少々悪さをしてしまい頭を丸めました。」
胤貞はしばらく眺め、やがて笑った。
「その姿も似合うではないか」
桃慧は薬袋を開く。
「では診察を」
胤貞が座る。
庭では風が松を揺らし、乾いた音がする。
桃慧は腹を診ながら、何気なく言った。
「最近、京は静かですか」
胤貞が目を細める。
「いや、会うものすべてに聞かれる。信玄公はどうなっている。いつ上洛するのかと。」
桃慧は淡々と答える。
「それはそれは、大鷹原様もお忙しいのですね。また胃が乱れ始めております。」
ぐっと、みぞおち付近を押すと胃がきゅるきゅると鳴る。
胤貞は肩をすくめた。
「最近は将軍様より諸大名がうるさくてかなわない。武田に浅井朝倉、本願寺の坊主共、それに中国の毛利、やかましくてかなわん。」
胤貞は一口白湯を呑み、衣を整える。
「畿内も戦乱になるのですか?」
桃慧が珍しく政治話に口を出す。
「いや、それはないだろう。本願寺の僧共は大人しくしておるし、三好家の者共も信長どころか自らの家臣たちの手綱を握るのに必死だ。あとは織田の出方次第だろう。必死に書状をだして融和を望んでいるようだから畿内は大丈夫だろう。」
胤貞は背伸びをすると腹をさすり桃慧の診察に体を委ねる。
「あまり無茶をなさらない様に。私は少し高尾山で頭を冷やしてくるのでしばらくは御師匠様がいらっしゃいますからね。」
「おぬしいったい何をしたのだ?」
「高僧様から逃げてきたのです。腹が黒く痛んでいたので治療をと思いましたが私では役不足でした。」
桃慧は薬を手渡し微笑む。
「それはそれは、でも私の腹は治してくれたのだな」
「大鷹原様は別です、私を信じてくださいましたから。」
胤貞は少し寂しそうに薬を受け取る。
「許しがあると良いな、曲直瀬様もきつい罰をお与えになる。」
「ありがとうございます、私の意思で赴くのですよ。」
「そうか、早く戻ってきてくれ。」
桃慧は胤貞に深々と礼をし屋敷を後にする。
屋敷の門を抜け、町をゆっくり歩きながらも最短の道で琴と景盛のもとへ。
「お待たせしました。では急ぎ帰りましょう。岐阜へ」
虎は確実に近づいてきている。
大火のごとく荒々しく、雷のように戦の轟音を奏でながら。




