顕如の軍
石山本願寺の夜は、昼の喧騒とは別の顔を見せる。
境内のあちこちで焚火が揺れ、負傷者の長屋からは時折低いうめき声が聞こえてくる。
念仏や仏具の音も聞こえなくなり静かな夜である。
桃慧は尼用の僧房の隅で、静かに薬袋を整えていた。
その時だった。
障子の外で声がする。
「医僧様。……妙慶様。」
桃慧が顔を上げる。
「はい」
障子が開くと、僧が二人立っていた。
「法主様がお呼びです。」
桃慧の手が、わずかに止まる。
法主。
つまり、顕如からの呼び出し。
あまり良いことではないが、桃慧はすぐに合掌した。
「承知いたしました」
琴が小さく息を呑む。
二人の僧に導かれ、境内の奥へ歩いた。
夜の石山本願寺は静かだが、完全に眠っているわけではない。
兵糧庫の前では俵を調べ、雑賀の鉄砲衆が火薬を整え、門徒の若者が槍を手入れしている。
その中心へ近づく。
やがて書院へ通され、障子が開く。
そこに座していたのはやはりあの男だった。
顕如。
昼間と同じ穏やかな顔、だがその眼は深い。
「妙慶、よくきた。こちらへ」
桃慧は深く礼をする。
「はい」
顕如は微笑んだ。
「昼間の事は聞いた。私も見たが素晴らしい働きであった。感謝する。」
そして側の僧へ言う。
「もてなせ」
桃慧の前に膳が置かれる。
酒や菓子、それに干し肉など。
修行僧や普通の僧はまず口にできないようなものばかりである。
もちろん石山の境内とは言えども考えられないものばかり。
まるで隠密に高僧を迎えるかのような待遇。
桃慧の目がわずかに揺れる、疑うように。
そして内心で驚いていた。
早すぎる。
たった半日の治療。
それだけで、法主が呼ぶ、しかもこの待遇。
顕如は穏やかに言う。
「医は尊い、人を救う者は仏に近い、極楽浄土を求めるには苦痛を伴うが妙慶殿の腕をもってすれば痛みも無に変えられる。」
桃慧は頭を下げる。
「恐れ入ります」
顕如は続ける。
「そこでだ。石山には負傷者が多い、しばらくここで医を施してくれぬか」
柔らかい言葉。
だが意図は明白だった。
桃慧は静かに答える。
「私は修行僧にございますので、さらなる仏の御心を知るために長くは……」
顕如は笑う。
「ここは修行場でもある、他には無いぞ、このような修行場は。比叡山は焼かれて使い物にならぬからな。」
沈黙。
桃慧は顔を上げない。
しかし心の中では、別の思考が走っていた。
ここは寺ではない、仏の名のもとに人を殺め、極楽浄土を想い人を操る。
桃慧は昼の光景を思い出す。
武器の管理。
兵の配置。
命令系統。
門徒の規律。
仏に仕える身としてこれは許されるとは思えない。
すべてが仏の信徒の為や仏のではなく宗教の為の軍であった。盗賊と大差ないとすら感じる。
ここはそれでも戦をするための準備をしている。
戦になれば恐ろしい場所。
だが中身は中途半端な衆、堅固な砂の城、個個の力は弱いだろう。
織田の軍であれば崩せないものではないだろう。
そしてなによりも顕如の視線。
あれは僧を見る目ではない。
駒を見る目。
桃慧は理解する。
このままでは戦のために利用される。
顕如のような人物は、医僧をただの医僧としては見ない。
信長とは違う。
桃慧は静かに礼をした。
「ありがたきお言葉」
顕如は微笑む。
「今夜は休むがよい、また明日から励んでくれ。」
桃慧は深く頭を下げる。
出されたものを口にせずゆっくりとした動作で書院を出る。
夜の空気が冷たい。
琴が心配して長屋の外で待っていた。
桃慧へ小声で話しかける。
「と.....妙慶様」
桃慧は歩きながら答える。
「はい」
琴は言う。
「如何でしたか……?」
桃慧は短く言う。
「ここは危険です」
琴が頷く。
桃慧は静かに言う。
「長く居れば、顕如の駒になります」
琴は迷わず答える。
「今夜ですね」
桃慧は頷く。
「はい、来たばかりですが今夜中に出ましょう。藤田様をお迎えに行きます。」
急ぎ桃慧と琴は静かに荷をまとめ始めた。
本願寺と言えども僧達は酒を酌み交わす者、武具を整える者、小声で噂話をする門徒の姿もある。
桃慧はその様子に肩を落とす。
そして桃慧と琴は灯りの少ない境内を静かに進む。
向かう先は、男衆の長屋。
昼間、藤田盛景が休むと言っていた場所だ。
長屋の前まで来たとき、桃慧は足を止めた。
「……」
琴も気づく。
中から声が聞こえる。
低い笑い声。
そして――
女の声。二人は顔を見合わせる。
ここは僧の長屋、女人禁制のはずだ。
桃慧と琴は緊張した面持ちで、そっと隙間から中を覗く。
灯りの下。
数人の僧が酒を囲んでいる。
その膝に寄り添う女たち。
町の女だろうか?
笑い声が上がる。
念仏の寺とは思えない光景だった。
琴が小さく息を呑む。
桃慧はすぐに目を逸らした。
規律が緩い、ゆるすぎる。
昼間感じた違和感が、ここで確信に変わる。
そのとき。
長屋の裏手に、影が見えた。
壁にもたれ、座り込む男。
桃慧はそっと回り込む。
「……藤田様」
低く声をかけるとゆっくり目を開ける。
盛景は少し眠そうに顔を上げた。
「……桃慧殿」
酒の匂いはない。
ただ、長旅の疲れで眠っていただけらしい。
「どうされました」
桃慧は声を落として言う。
「顕如に呼ばれました」
盛景の目が一瞬で覚める。
「……」
「修行僧に行うような対応ではなく高僧を迎えるような接待でした。」
盛景の表情が変わる。
多くの信徒をまとめ上げ、その名が天下に轟く顕如、そんな人物がただの修行僧を呼ぶ。
それが何を意味するか、武士である盛景にはすぐ分かった。
「……それは」
桃慧が静かに言う。
「目を付けられましたね、使える駒が来たとでも思ったのでしょう。」
「首輪をつけたいと思ったのでしょうな。」
盛景は長屋の方を見る。
中から女の笑い声が漏れる。
彼は苦く笑った。
「酷く不快な場所です、行きましょう。」
盛景はゆっくり立ち上がる。
そして小さく言う。
「朝になれば、逃げられませぬ、直ぐに動きましょう。」
石山本願寺は巨大な寺城。
一度囲まれれば、簡単には出られない。
桃慧は静かに頷いた。
「では」
盛景は周囲を見渡す。
長屋の中では、僧たちが酒に酔い、女と笑っている。
見張りは少ない。
「今が最も緩い」
盛景は言う。
「門はまだ開いている」
桃慧は荷を整える。
琴も頷く。
三人は怪しまれぬように身なりと荷を整え石山の境内を抜けようとする。
夜闇は深い。まるで人を飲み込む口のように思えるほどに。
境内の道は暗いが人の気配はある。
門徒が火を囲み僧兵が巡回し、雑賀衆の鉄砲が壁に立て掛けられている。
三人は無言で歩く。
石山本願寺の城内を抜け、やがて外門へ近づいた。
そこには、やはり僧兵が立っていた。
槍を持ち、灯りの下で出入りを見張っている。
夜でも門は閉じられていない。
だが通る者は必ず止められる。
桃慧は足を止めた。
盛景が低く言う。
「……他に出口はありませぬ。」
桃慧は頷く。
城塞都市の門、ここを通らねば外へは出られない。
桃慧は静かに息を整える。
そして歩き出した。
僧兵がすぐに気づく。
「待て、動くな。」
槍の柄が軽く地面を打つ。
「月明りもない深夜にどこへ行く」
桃慧は合掌した。
「私は修行僧にございます、長居をするのは申し訳なく足早でありますが次の地へ移ろうと思います。」
僧兵は目を細める。
「こんな夜にか」
桃慧は穏やかに答える。
「夜明けまでに大坂を出たく思いますので。」
「なんだ、そんなに急ぐ旅路なのか?」
一瞬の沈黙。
桃慧は答える。
「はい」
僧兵の眉が動く。
僧兵は三人を見回す。
剃髪した若い僧。
従者の女。
旅の供らしい男。
荷物は少ない。
怪しいところはない。
だが夜だ。
桃慧の美しい瞳を疑いの目でにらむ。
「なにか訳でもあるのか?」
僧兵は疑う。
桃慧は静かに続ける。
「ここで救える者は救いました。次の寺で痛みに苦しむ者を救いに参ります。」
僧兵はしばらく考える。
その時、後ろの僧兵が言った。
「おぉ、奥州から来た医僧様じゃないか、ほらさっき噂していた凄腕の医僧様はこの方だよ」
別の僧兵が顔を上げる。
「ほんとだ、確かに愛らしい顔をしている」
「これ、やめんか失礼であろう。」
三人の僧兵が笑う。
多くの門徒を治した僧。
その話は門番の間にも伝わっていた。
「ふむ、腕のいい医僧か」
僧兵は桃慧を見た。
「もう少しゆっくりしていけばよいのに」
桃慧は合掌する。
「先ほども申した通り修行中の身なので、どうかお通しください。」
僧兵は槍を少し下げた。
「そうか」
そして門を指す。
「仲間を助けてくれて感謝する、行け」
「ありがとうございます。」
桃慧達は歩き出す。
しかし
「おい」
三人は再び歩みを止めて固まる。
僧兵は言う。
「また来いよ、次来た際は礼をさせてくれ」
桃慧は深く頭を下げた。
「御縁があれば」
三人はゆっくり門を通る。
背後で門が閉じる音。
三人の影が夜の道へと消えていった。
やがて少し離れたところで、盛景が小さく息を吐く。
「……どうなるかと」
琴も肩の力を抜く。
「てっきり出してくれないのかと思いました。」
桃慧は振り返らない。
三人は声もなく歩き出す。
「では南へ、堺へ行きましょうか。」
堺の様子を見ておきたい。
石山の門前町を抜ければ、南へ下る道は商人や旅人が多い。
三人は本願寺を背に、暗い道を南へ進んだ。
歩き始めてそう経たない時が過ぎる。
時間にすればほんの十分ほどだった。
その時。
夜の空気を裂くように、遠くから音が響いた。
カン……
桃慧の足が止まる。
琴も振り返る。
本願寺の方向。
もう一度、音が鳴る。
カン……カン……
寺の警鐘だった。
桃慧は小さく呟く。
「……あれ?」
次の瞬間、嫌な予感が胸をよぎる。
「これって……」
琴が小声で言う。
「桃慧様」
藤田盛景がすぐに状況を理解した。
「これはあまりよくないですね。」
修行僧が一人いなくなっても騒ぎにはならない。。
だが顕如が認め、囲おうとしたものが居なくなれば話は別だ。
藤田は周囲を見渡し、低く言う。
「この先に宿があります。」
桃慧が目を上げる。
「宿?匿ってくれるのでしょうか?」
藤田は頷く。
「明智家の縁の者です」
坂本の明智家は畿内の商人や宿とも繋がりがある。
その一つがこの宿だった。
三人は足を速める。
しばらく進むと、小さな宿が現れた。
灯りはまだ残っている。
藤田が戸を叩く。
「……夜分にすまぬ、坂本の藤田だ」
戸がわずかに開く。
宿の主人が顔を出す。
年配の真っすぐな目をした優しそうな白髪交じりの痩せた男
「こんな時刻にいかがしました。」
藤田が短く言う。
「すまぬ、追われているようなのだ」
主人の顔色が変わった。
すぐに戸を開く。
「どうぞこちらへ、さっ、早く」
三人は中へ滑り込んだ。
部屋へ案内される。
灯りの少ない小さな部屋。
琴がようやく息をつく。
「助かりました。」
主人は藤田を見る。
「何があったのです?」
藤田は簡潔に答えた。
「本願寺だ。」
それだけで十分だった。
主人は頷く。
「……そうでしたか、あんなところに近付くなんて。命知らずな」
三人は床に座る。
桃慧はようやく緊張を解いた。
「本当に助かりました。すみませんが少し休ませてください。」
「えぇ、どうぞごゆるりと。藤田様、この方は石山の僧ではないのですか?」
「まぁある意味石山の僧ではあるが違うな、光秀様の指示で護衛をしている。」
「はぁ、厄介ごとに巻き込まれたわけですな」
宿屋の親父は景盛のことを哀れそうに見つめる。
「す、すみません」
空気に耐えきれず謝る桃慧。
ほんの短い休息。
「どうぞ、こんな物しかありませんが」
御主人が温かいお茶を出してくれる。
「寒かったので助かります。」
琴がずずっと茶をすすりはぁ....と一息つく。
「体にしみますねぇ」
桃慧と琴がのほほんとしている中、景盛は周囲の音に気を使っている。
やったりとした時間が流れる。
だが、それは長く続かなかった。
一時間も経たぬうちに、外が騒がしくなる。
戸を叩く音。
乱暴な声。
「開けろ」
宿の主人が外へ出る。
戸口で声が響く。
僧兵だった。
「若い尼を見なかったか」
主人が首を振る。
「尼?」
僧兵が続ける。
「尼と女ひとり、男ひとりの護衛をつけた三人組だ」
別の僧兵が言う。
「顕如様の命令だ、匿って居る様だったら容赦しないぞ」
部屋の中で、琴が息を呑む。
藤田が低く言う。
「これは良くないですね、逃げましょうか?」
桃慧は静かに立ち上がった。
戸口の向こうでは、僧兵が宿を調べ始めている。
「すべての部屋を見せろ」
主人が答える。
「今日はこの宿には旅人は居りません」
「嘘をつくな」
床板が軋む音。
足音が近づく。
藤田が小声で言う。
「裏口へ行きましょう」
主人が振り返り、小さく顎を動かす。
目くばせで藤田に逃げ口を示す
三人はすぐに動いた。
灯りを消し、部屋を抜ける。
音を立てぬように細い廊下を進み、台所の奥へ。
そこに小さな戸があった。
藤田が戸を開く。
外は闇。
桃慧は振り返らない。
「行きましょう」
三人は夜の闇へ滑り出した。
背後では、僧兵の怒声が宿の中に響き始めていた。




