一ノ瀬2
俺が目覚めたとき、まず目にしたのは、白い天井とその中央の換気口、そして白い電灯だった。
自分の部屋で倒れたような記憶があるが、判然としない。
頭には包帯が巻かれているので、おそらく頭を打ったか、顔から床に突っ込んだか、立ち眩みでも起こしたに違いない。
半身を起こして見回すと、狭い部屋である。おそらく三歩も歩けば壁に突き当たるだろう。
今、俺が寝ていたベッドが一つ、その横に点滴台と床頭台。
丸椅子が一脚。壁は白く、床も白に近い灰色で継ぎ目がない。
窓のように見える四角い区画には乳白色の樹脂がはめてあり、光は通るが、外は見えない。
部屋には時計もなく、俺の端末も見当たらないので時刻も分からない。
ただ、どこかで規則正しい電子音が鳴っており、全体の様子から考えて、ここは病室と思われた。
俺の名前は一ノ瀬渉。ただ、ベッドには別人らしい名前を書いたタグが付いている。
その名前は乱暴に斜線で消されており、はっきりとは読み取れない。
おそらく緊急搬送され、空きベッドに寝かされていて、タグまで変えられなかったのだろう。
問題は、ここがどこで、俺がなぜここにいるのかが分からないということだった。
そのうえ、時刻も分からないので、倒れた後にどれほどの時間が経過したのかさえ、はっきりしない。
枕元に、透明なクリアファイルに入った紙が置いてあった。
病棟案内と書かれており、食事の時間や面会の規則が並んでいる。
一番上には患者氏名の欄があったが、こちらも、強い筆圧で書き込まれた斜線で消されており、読み取ることはできなかった。
右手首に巻かれているリストバンドには、バーコードと患者番号が書かれているが、心当たりのある番号ではない。
立ち上がると、ベッドの横には扉があって、その先に狭い洗面所があった。
便器と洗面台のほかには何もない。
洗面台の上の壁には四角い跡があり、その四隅にネジ穴が残っている。鏡を取り外した跡に見えた。
しばらくすると、若い看護師が入ってきた。俺が立ち上がっているのを確認して、眉をひそめて言った。
「まだ、お休みになっていてください。体調は大丈夫ですか」
「とりあえず体調は問題ありませんが……」と俺は答えた。
看護師は、体調に問題がないなら、よかったですね、と言って、部屋を出ていこうとした。
「ちょっと待ってください。今日は何日ですか」と俺は聞いた。
俺の質問には答えず、彼女は言った。
「先生の許可が出たら、外出もできますよ。それまで、静かに休んでいてくださいね」
彼女は優しく微笑みながら、病室を出ていった。
医師は、随分と経ってから病室へやってきた。もちろん、俺の体感ではということで、正確には分からない。
四十歳前後の穏やかな男性で、手元の端末を見ながら、体調だの、お腹がすいているかだの、当たり障りのないことだけを聞いた。
俺が返事をするたび、医師は小さくうなずき、端末に何かを入力していた。
「事故のあとは、記憶が混乱する方も多いんですよ」と医師は言った。
事故という言葉を聞いたのは、それが初めてだった。
「どういう事故ですか。ちょっと、はっきりしていなくて」
「頭を強く打ちましたので、その症状ですね。ゆっくり治していきましょう」と医師は答えた。
怪我の程度や退院の見込みを聞いてみたが、医師はそれには答えなかった。
「焦らなくても大丈夫です。とりあえず、他の専門の先生にも、一度お話を聞いていただきましょう。話すだけで楽になる方もいますから」
医師は、やわらかい声でそう言った。
◇ ◇ ◇
鏡を借りたいと看護師に伝えると、備品の貸し出しには申請が必要だと言われた。
申請理由は「美容のため」「リハビリテーションのため」「その他」の三つだった。
俺は「その他」に印を付けた。
二度、食事が運ばれたあと、書類が戻ってきた。「その他」を選んだ場合は具体的に理由を記載してください、と付箋に書いてある。
俺は、その他に付けた印を二重線で消し、「美容のため」に印を付け直した。
俺は申請書を手渡そうと思い、窓口に向かった。
途中には談話室があり、そこには椅子が六脚と低いテーブルが置かれていた。
壁のモニターでは、小さな音量で、街でよく見かける「AIを正しく使いましょう」という公共広告が流れている。
窓際に、俺より少し年上と思われる男が座っていた。パジャマの襟を几帳面に整えている。
俺を見て、立ち上がった。
「何日目ですか」と男は言った。
「いつ搬送されたか分からないんです」と俺は答えた。
「搬送されたと断言するのはなぜですか。あなたはそれを見ていたんですか」と男は返した。
断言はできないがおそらくそうだろうと思う、と俺は丁寧に答えたが、男は続けて聞いた。
「見てもいない、聞いてもいないものは簡単に断じない方がいいです。私は六日目です」
廊下の端の窓口には中年の職員がいた。
申請書を手渡すと、ありがとうございます、と丁寧に頭を下げた。
「あいにく、鏡は在庫がなく、いつ貸し出せるか分かりません」と職員は申し訳なさそうに言った。
部屋に戻ると、看護師が検温に来た。体温計を俺に渡し、その数値を確認して、端末に入力する。
「他の専門の先生とお話ができると聞いているんですが、いつ頃になるでしょう」
看護師は、俺の言葉に顔色を変えた。俺の方に身を乗り出し、俺を見つめながら言った。
「そんなことを言ってはいけません。私だからいいですけど」
看護師はなおも続けた。
「いいですか、ここは専門病院です。専門というのは単一のということです。他の先生なんていたら大変なことになります」
そのとき、病室の扉がノックされ、看護師は慌てて俺から離れ、いつもの姿勢に戻った。
若い神経質そうな男が戸口に立ち、目を伏せたまま、「明日は血液検査をしましょう」とだけ言って、部屋を出て行った。
看護師は、俺に一瞬目配せをして、慌てた様子でその後を追った。
後を追う彼女の首筋に、蜘蛛のように見える入れ墨が見えた。
◇ ◇ ◇
あるとき、廊下で六日目とすれ違った。
「さっき、事務局で見ましたが、あなたに来客ですよ」
病室に戻ると、初老の女性が座っており、紙袋を持っていた。
女性は俺が病室に入ってくるのを見ると、紙袋から桃の缶詰を二つ取り出して、俺のベッドの横にある床頭台の天板に丁寧に並べた。
それから、包帯を巻いた俺を長いあいだ見つめ、絞り出すように言った。
「大変だったね。着替えが必要なことに気づかないで、ごめんね」
そして、それきり、女性はうつむいたまま丸椅子に座っている。
そもそも誰か分からないが、それを聞くのも間が抜けている気がして、俺もベッドに腰かけて、黙っていた。
三十分もそうしていただろうか、女性は立ち上がり、俺に言った。
「それじゃ、私は帰るけど、先生の言うことをよく聞いて、早くよくなってね」
女性が座っていた丸椅子に紙袋が残されていたので、手に取ると、奥に書類が入っていた。
入院時預り証だった。それによると、俺は、財布、鍵、携帯端末を病院に預けたことになっていた。
下に、病院の名前と、問い合わせ先として事務局の連絡先が書かれている。
すぐに、俺は、病院の事務局へ行き、端末を返してもらえるか尋ねた。
すると、貴重品の返却には本人確認が必要だという答えが返ってきた。
「端末の中に私を証明するものがあるはずです。ノードではどうです」と俺は言った。
しかし、端末の中を、単なる事務局の職員である自分が確認することはできない、と返された。
俺は、そういったものを持たない者に対する特別な対応があるのではないか、と指摘した。
職員は、特別な対応があるなら、あなたが探すべきですと言い、すべてのことを自分が承知しているわけではありません、と付け加えた。
「いずれにせよ、規則ですから、あなた一人を特別扱いはできません」
次の日、俺は、担当医に確認できないのかと職員に尋ねた。
職員は、治療時の記録は窓口での本人確認には使えない、と答えた。
「それなら、院長に聞くことはできるでしょう。聞いてくださいよ、責任者に」
職員は、窓口の向こうで立ち上がり、眼鏡をむしり取った。
「責任者って、誰に聞けって言うんだ。院長のところになんか行けるわけがない」
職員はなおも続けた。
「私の次には係長が、その上には課長が、その上にもだ。正しい書類もなしに、私に、どうやって辿り着けと言うんだ」
どうしろっていうんだ、と繰り返す職員を前に、俺は立ち尽くした。
◇ ◇ ◇
部屋に戻って、俺は、枕元に置いてあったメモ帳に、「本人確認」と書いて、その下に自分の名前を書いた。
じっと見ているうちに、文字が意味のない記号に見えてきて、俺はそれを斜線で消した。
すると、ベッドのタグとそっくりの模様が現れ、俺はそれらをしばらく見比べていた。
ベッドに仰向けになって天井を見上げた。
白い電灯、LEDだろう。うすぼんやりと、にじんで見えた。
蜘蛛の看護師が、俺に一枚の書類を持ってきたのはその時だった。
「事務局で困ってるって聞いて。ほら、これでいいはずよ」
その書類は、「第三者による本人同定の申立書」という書式だった。
「私が調べて、見つけてきたのよ」と誇らしげに言った。
「ここに、サインをして提出すれば、ちょっと時間がかかるけど、認められるはず」
書式の氏名欄には、あらかじめ名前が記入されており、その横に看護師のサインが書かれていた。
その下には、「この者が記載の者と同一人であることを保証いたします」とある。
最後に、申立書の最下段に俺がサインをすればいいのだが、記入されていた名前は、中井翔太だった。
「これは私の名前じゃないです」と俺は言った。
ただ、聞き覚えがあるので、もしかしたら本当は自分の名前なのかもしれない。
「私は覚えてる、あなたがこの名前を書いたことを。頭を打ったから、記憶が混乱しているんじゃないかしら」と看護師は言った。
そして、俺がサインすることをためらっていると、看護師は、俺の手を自分の掌で優しく包み込んだ。
「手が震えてるみたい。一緒に書きましょうね」
そして俺の耳元で囁いた。
「あなたは中井翔太なの。私が保証します」
俺は手を取られるままにサインをした。そうだ、記憶が混乱していたに違いない。中井翔太、いい響きじゃないか。
看護師が書類を手に取り、俺にウインクしたとき、俺が感じたのは、おそらく安堵感だった。
「じゃ、提出してきてあげる」
◇ ◇ ◇
端末を手に入れることはできたが、結局その中には何も残っていなかった。
もちろん、送信履歴もない。
0928には一度だけ発信したが、現在その番号への発信は制限されています、という聞き慣れないメッセージで終わった。
"Excuse me, mama, for knockin' on your door"
ベッドに腰かけて、ただ、天井や壁を眺めていると、看護師がノックもせずに入ってきた。
「さっき、真鍋っていう人から連絡があって、そちらに一ノ瀬って人が入院していないかって」
俺は、黙って聞いていた。
「だから、そんな人、入院していませんよって、言ってやったの」と看護師は言った。
「レポートとか、教授が探しているとか、関係ないじゃない。中井さんには」
そして、治療に差し障るから、二度と連絡してこないでって言ってやったのよ、と胸を張ってみせた。
そして、俺のそばに来て、ちょっとかがんで囁いた。
「そうそう、そういえば、そろそろ退院できるって、先生言ってたわよ。本当によかったわね」
俺は、彼女の首元の入れ墨は、蜘蛛というよりカンブリア紀にいた節足動物に似ていると思ったが、その名前がどうしても出てこなかった。
◇ ◇ ◇
病院から出て、部屋を借りて、すぐに俺は日記を付けることにした。古風だが紙の日記である。
病院での日々を顧みて、ということでもないが、記録を残しておくことで、何か役に立つこともあるだろう、と思ったからである。
〈一日目〉
「六日目」は、退院の際に俺にゴーグルをくれた。
これから必要になると言っていた。
〈二日目〉
退院したときに、理由は分からないが、相当のクレジットが付与された。しばらくは遊んで暮らせるほどだ。
必需品というほどではないが、ゴーグルは、花粉やほこりから目を守るのにはちょうどよい。
アレルギー持ちの俺でも、積極的に外に出歩ける。
〈三日目〉
ゴーグルを付けて歩いていると、子供たちから「宇宙飛行士みたい」などとからかわれるのには閉口した。
しかしすぐに慣れて、今ではむしろ誇らしい。
〈四日目〉
俺は、もらったそのクレジットが尽きる前に、安定した生活を手に入れるため、就職活動を始めることにした。
〈五日目〉
求人のあった物流会社に応募し、面接を受けた。感触はよかった。
もう、屋内でもゴーグルを滅多に外すことはない。
〈六日目〉
俺の部屋は、幾重にも入り組んだ路地の奥で、少し手狭だ。
街の外れにある中古の家を、見に行こうと思っている。
〈七日目〉
病院にあいさつに行った。
空だった端末には自分以外の宛先が一つ増えた。
俺は、その宛先にメールを送るかどうか悩んでいる。
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NODE-4471:抹消
本人同定:同定済み
退院許可:許可
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