笹野
朝、運用局の建物に入るには、ゲートを四つ抜ける必要がある。一つ目は一般職員と同じ認証ゲート。
二つ目からは、権限の階層ごとに分かれている。私の端末はすべて承認される。
四つ目のゲートを抜けるとき、私はいつも一度目を閉じる。ここから先は数字の世界だからだ。
数字の世界に入る前に、目を一度休ませておく。若い頃からのたいした意味のない癖である。
とはいえ、目が乾きやすい体質で、瞬きが多いのは昔からだった。
会議で向かいに座った相手が、私の瞬きにつられて落ち着かなくなるのを、何度も見てきた。それでも、直しようがない。
妻にも、あなたは瞬きで呼吸をしているのね、と笑われたことがある。私は、意外に冗談は好きだ。言われる相手にもよるが。
運用局のロビーの壁面には、行政ニュースを流す大型モニターがあり、今朝は、恒星間航行の実証機が目標の恒星系へ到達したという速報だ。
足を止める職員は一人もいない。だが、私は違う。どんな情報でも一旦は目を通す。
私の関心は、それよりも、奨学金、居住資格、研究費、医療補助などの申請にあった。
誰かの生活を数行の理由欄に押し込める作業が、一年の終わりには決まって増える。私は、その処理で頭が一杯になる。
執務室に着くと、審査案件の一覧が届いている。この時期は、私の端末には案件が山積みになる。
ただし、すべて部下とURBOSとで評価を済ませたものだ。私の仕事は形式上、それを最終的に決裁するに過ぎない。形式上は、だ。
◇ ◇ ◇
「数字だけで決まるものではない」
これは私の信条で、部下には言わない。言えば、では何で決まるのですかと聞かれる。答えれば、それは規定のどこに書いてありますかと聞かれる。
どこにも書いていない。どこに書いてあるかと言われれば、私の心の中にある正義の書に、である。
昔、一人の学生に会った。まだ私が審査部門に来たばかりの頃だ。数字はわずかに足りなかった。
理由は、父親の失業と、それに伴って学生本人が始めた深夜労働である。学生の不規則な就労は減点される。
結局その学生は支給を打ち切られ、翌年大学からいなくなり、退学の記録だけが残った。
数字は正しかった。審査内容にも問題はない。ただ私にとってあの一件は正しくなかった。
深夜労働という行動記録がある。
これに「不規則就労」のタグがつけば、スコアは削られるが、「家族介護に伴うやむを得ない就労」のタグがつけば削られない。
どちらも嘘ではない。
事実は一つで、読み方が二つあるだけであって、私は、記録になる手前で、私の権限を使って、タグやそのタグの重みづけを「読み替える」だけだ。
評価や記録には触れない。
一度評価され、記録されれば、動かせない真実になる。つまり、私は嘘はつかない。これは真実である。
◇ ◇ ◇
いつだったか、奨学金を申請に来た女子学生と面談した。窓口で少しもめていたので、気になって記録を遡ると、スコアに不規則な波があった。
現時点では、奨学金の基準ギリギリという線だ。ただし、もともとは非常に優秀だ。こういうときはたいてい何か事情がある。
窓口では話しづらいだろうと思い、奥の執務室に通した。端末を置いていない部屋だ。
記録に残さないほうがいい話というものはあって、それは相手と私自身を守るためでもある。
記録に残った瞬間、言葉は言質になる。言質はいつか必ず本人に返ってくる。
私はいつもと同じことを言った。数字だけで決まるものではないということ。
協力的な学生には、できる範囲で配慮することもある、ということである。
協力的という言葉を、私は「こちらの提示する読み替えに同意してくれる」という程度の意味で使っている。
ただし、読み替えには本人の生活状況や個人情報など、特別な事情を知る必要がある。
教えてもらえなければタグは書き換えられない。それだけのことだ。
「奨学金はどうしても必要ということでしょうか」と私は聞いた。
女子学生は、うつむいて、答えを探しているようだった。
「ここでの話は記録には残りません。どういう意味か分かると思いますが」
逡巡している相手には、この言葉が効果的である。
「先ほど協力とか、特別な事情によっては、とか仰ってましたが、どういう意味ですか」
女子学生は向き直って、私に聞いた。
「言葉どおりの意味ですよ。むしろあなたがどう捉えるかが大事じゃないですか」
何度か瞬きをしながら、私は答えた。
奨学金というのは、強く必要を感じている方にふさわしいですね、と付け加えた。
学生の答えは意外なものだった。
「失礼ですが、その瞬き、なんとかして頂けますか」
「特別な事情って、それがあるのはあなたの方じゃないの」と続けた。
そして彼女は自分から執務室を後にした。振り向きもしなかった。
理解されなくても構わない。気が変われば、また来ればいい。私は見捨てることはしない。
部屋を出て、私はまた一度目を閉じた。照明が少し眩しかった。
◇ ◇ ◇
私には小さな誇りが一つある。捨てない、ということだ。
以前に、統合データポータルの大規模な再起動作業を任されたことがある。
メインのノードの記録に広範な欠損が見られたので、私は、旧型の保守端末を使って、すべての記録系統を参照し、復元した。
三日三晩の作業だった。
終わったとき、過去の記録が系統内の正しい位置に戻っていくのを見た。とても美しいものだった。
データを捨てなかった。あのとき私はそう思った。
誰も見ないものでも、捨てていいものなど一つもない。
特に、古い記録は、私の「読み替え」に役立つことも多い。
ただ、ここ最近、気になることがいくつかあった。一つは、初歩的な人為的ミスだ。
都市のメンテナンスログにノイズがあったため、分離して削除しようとした。
その際、ノイズを分離する前のログを、別のデータベースに結合してしまった、というものだ。
気づいてすぐに修正したものの、おそらくは私のスコアにも影響があるだろう。
ただし、私のこれまでの仕事ぶりを評価してもらえれば、影響は最小限となるだろう。もちろん、記録は一つである。記録は。
もう一つは、先週、私が審査を予定していた案件を開いてみると、すでに審査済みになっていたことである。
タグは私が付けようとしていたものと同じだった。誰かが先にやったのだろうと思ったが、記録を見ると、処理者は私になっていた。
日付を勘違いしたのだろうと判断した。この歳になるとそういうことはよくある。
処理の内容は正しかった。私がやろうとしていた通りだった。
だから、こちらも何の問題もない。気になるというだけだ。
◇ ◇ ◇
その日の帰り、ゲートは端末による認証を求めなかった。すでに開いていた。
省電力機能の誤作動だろうと考えた。そう考えることが最も妥当だ。四つあるうちの最後のゲートで、私は立ち止まった。
守衛が席にいたが顔を上げなかった。ゲートは当然のように開いている。
足元には白い砂が散らばっている。まるで海岸を散歩しているようじゃないか。
私は歩き出した。途中、信号に一度も止められなかった。自宅にはいつもより早く着くだろう。
自宅に着き、いつものように、エントランスの認証パネルに端末をかざした。承認されなかった。これも誤作動だろう。
ガラスの向こうには、見慣れた廊下の明かりが、いつも通り灯っていた。
中に人の気配はあった。テレビの音か誰かの声か判然としないが、扉越しにかすかに聞こえた。
私はしばらく扉の前に立っていた。それから、端末をもう一度かざして、肩を落とした。
これは誤作動ではないのかもしれない。いつの間にか、足元には白い砂。さっきよりも多いようだ。
◇ ◇ ◇
翌朝、審査部門には、笹野名義の業務連絡が定時に届いた。
未処理案件の割り振り、乖離通知への対応方針、面談記録の保存規定の確認。
文面はいつも通り丁寧で、判断はいつも通り的確だった。
その日、執務室の予定表には、真鍋という男との面談が一件入っていて、予定通りに消化された。
対応者の欄には笹野と記されていた。いつも通りの日常が繰り返される。
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NODE-0093 承認ログ抜粋 対象:笹野
入力系統監査:入力値の変更:閾値超過
バリデータ権限:回収
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