一ノ瀬
研究室に入ると、中井の席があった場所に別の荷物が積まれていた。
荷物というのはコンテナボックスで、誰かが実習の標本を一時的に置いているのだろうと思った。
しかし、中井の机はなくなっており、椅子もなかった。
そして、壁のコルクボードに貼ってあったはずのアノマロカリスの化石の写真もない。
ただ、机の跡だけが床に残っていた。
脚のゴムが長いあいだ擦れていた場所の床の色が異なり、その周りには砂混じりのほこりがたまっていた。
他の学生に聞いた。
「中井さんって、どうかしたんですか」
藤原という同期が顔を上げて「誰ですか」と真顔で言った。
「中井、えーと、D2の」と俺は答えた。
藤原は少し考えてから「知らない人ですね」と言って、端末の画面に戻った。
廊下で准教授の菊池先生をつかまえて同じことを聞いた。
菊池先生は「うちの研究室にそういう名前の方はいないと思いますが」と言った。
確認するように端末を操作して、「ええ、現在二十七名で、中井という名前の方はいらっしゃいませんね」と言った。
丁寧な口調だが、それ以上の質問を拒む冷たい態度。
「古生物の研究をしてた人で……」
「ああ」と菊池先生はさえぎった。
「あの机、邪魔でしたよね。コンテナ置けるようになって良かったです」
俺は、天井を眺めながら中井のことを思い返した。
だが、中井がいたという事実を、誰かに言う気には、もうなれなかった。
研究室を出ると、廊下の向こうに中井の顔が見えた。
手を振ったところ、中井はこちらを一瞬見て、そのまま歩いていった。
俺は急いで追った。
中井が廊下を曲がったので、俺はその曲がり角まで行ったが、すでに姿は見えなくなっていた。
◇ ◇ ◇
次の日、研究室に顔を出す前に、事務的なことを片づけておくことにした。
木山教授からの課題のレポートの作成に本腰を入れたいからだ。
もっとも、URBOSのおかげで、事務手続きはそれほど難しくない。
端末のUIはよくできている。自分のノードを入れれば概ね自動で進む。
俺は、学食プランの継続や奨学金の申請、それに学生寮のキャンセル待ちをしておいた。
学食プランの継続は何とか承認された。
何とかというのは、一度サーバー側の遅延か何かで、ノードの承認が弾かれたからだ。
またかと思って、ちょっと焦ったが、二度目でうまくいった。
とりあえずは、もう学食で立ち往生はしないで済むわけだ。
それから、早速、学食に向かったのだが、珍しく空いていた。
窓際の席が取れたので、中庭が見える。銀杏の落ち葉が風に少し舞っていた。
朝食を取りながら、中庭を眺めていると、ベンチの端に見知らぬ人間が一人座っていることに気づいた。
こちらを見ている気がした。
こちらもずっと彼を見ていたが、その人物は長い間、身じろぎ一つしなかった。
俺が彼を見ていたのは、この街では珍しく「赤と緑のピコピコ君」を手にしていないように見えたからだ。
朝食を終えて研究室に行ったが、やはり中井はいない。
とっつきづらい奴だったが、俺はもっと中井と話しておけばよかったなと思った。
もしかしたら話の合う相手だったかもしれない。
少なくともアノマロカリスの話はできただろう。
そういえば、先日、多賀谷に、顔がだんだんアノマロカリスに似てきたなと言われた。
アノマロカリスって知ってるのかと返すと、今、目の前にいると言い返された。
俺は、それは循環論理だと言いかけてやめた。
アノマロカリスというのは、カンブリア紀の海の頂点捕食者だ。
扁平な体に二本の触手、複眼でレンズはおよそ一万六千。
その化石は、世界各地の、かつて海だった場所から見つかっている。
俺はこいつが好きで、古生物学に手を染めたのだ。
◇ ◇ ◇
俺は、そのアノマロカリスのことを、レポートのテーマにすることに決めた。
そして、データ集めをしているときに、ちょっと面白いことがあった。
都市のメンテナンス記録が、大学の地層データベースに混入しているのを見つけたのだ。
それは、URBOSにしては珍しい誤りであり、そのうち修正されるはずのものだ。
多賀谷じゃないが、URBOSは正確だから。
だが、俺は、それを面白い取り合わせだと思った。
五億年前の地層に混ざり込んだ、今の都市のメンテナンス記録。
少し笑いながら、すぐにダウンロードして保存した。
俺以外、誰も興味を持たないだろう。
我ながらひねくれているとは思うが、俺はそれらを比較し、解析してみることにした。
単純な作業を繰り返し、ひとまとめにして眺めると、あるパターンが見えてきた。
それに気づいたとき、俺は画面の前でしばらく固まっていた。
そのパターンが、アノマロカリスの移動パターンと似ていたのだ。
もう二十年ほど前になるが、ニールセンという学者が、化石の分布を基にアノマロカリスの移動パターンをモデル化した。
そのパターンは、触手のように細く伸び、突然止まると、障害物の縁を這うように回り込む。
アノマロカリスの群れが餌を追いかけ続けた軌跡である。
生きるために進み続け、障害物にぶつかっても、可能な限り進もうとする。
そして、あるものは進化を重ねて生き残り、あるものは化石の中にのみ痕跡を留める。
ニールセンのモデルを知ったとき、俺は生き物はそういうものだな、と思った。
◇ ◇ ◇
しかし、似ているだけではレポートにはできない。
俺は、都市の拡張パターンが、アノマロカリスの移動パターンと一致するという仮説を立てた。
都市の拡張のベクトルと拡張を止めた座標をモデル化して、ニールセンのモデルと突き合わせた。
「相関係数は0.94です。ほぼ一致と評価します」
端末のAIが検証結果を示した。
手が汗ばみ始めるのが分かったが、それはおそらく発見の興奮によるものだろう。
こんなに高い数値が出るとは、正直思っていなかった。
俺はその値を何度か確認した。何度確認しても変わりはない。
キーボードを叩く指はいつもより速く動いていて、俺はレポートを順調に完成させていく。
「類似性は偶然の可能性もある。しかし、高い相関を示しており、追加の調査が必要となろう」
そう書いて、レポートを閉じる。レポートのタイトルは「都市の拡張アルゴリズムと古生物的位相構造の類似性について」にした。
レポートの最終チェックの前に、使用したデータを整理していたのだが、都市のメンテナンス記録に気になるノイズを見つけた。
通常、生データに混入しているノイズは分離して除去する。
しかし、化石にしても、最初はただの奇妙な形状の石や岩に見え、不要だと判断したものが、実は大事なものだったりもする。
俺はノイズであっても除去はしたくない。そこで、それを分離してファイルに保存することにした。
その作業をしていたとき、はっきりとはしないが、ノイズに奇妙な規則性があることに気づいた。
念のため、AIで分析すると、何らかの信号が含まれている可能性が示された。
「一定の確率で信号が含まれます。解析には専用のツールが必要です」
本気で取り組むなら、信号抽出を行う必要があるだろう。
そこまでやるのはさすがに脱線だろうし、俺の専門外でもある。
そこで、本文には含めず、付録として添付することにした。
「データにノイズが検出された。信号の可能性があるため参考として添付する」と書いておいた。
深夜ではあったが、取り急ぎ、木山教授と多賀谷、それにターニャに送ることにした。
多賀谷が古生物に興味がないことは分かっていた。
しかし、数理経済学をやってるから、付録については何か意見をもらえると思い、宛先に加えた。
多賀谷へのメールには、昔二人で聞いた曲である「Matchbox Blues」と書いておいた。
手がすいていたらぜひ読んでくれ、というぐらいの意味だ。
"I ain't got so many matches but I got so far to go"
ターニャは顔見知り程度だが、万一興味を持ってくれればうれしい、というぐらいの気持ちだ。
翌朝、起きてすぐに通知を確認したが、誰からも返信がなかった。
木山教授は、俺以外にも学生を指導しているから、すぐに返事はしてこないだろう。
多賀谷は多賀谷で、非常に忙しい男だ。会う約束をするのも大変なのだ。
◇ ◇ ◇
ようやく多賀谷と約束できたある日、言われるがままに、喫茶「潮」へ行くことになった。
ターニャにもそこで会ったが、気まずい雰囲気になってしまった。
俺のせいでもあるのだが、メールの話どころではなかった。
ただ、多賀谷とは高校時代からの仲だから、いずれは読んでくれると期待して、しばらく待っていることにした。
ある日、部屋でレコード店の在庫を眺めていたら、端末が点滅した。
チェックすると、多賀谷ではなく、木山教授からのメッセージが届いている。
「レポート拝読しました。実に興味深い。一度話しましょう」と意外にも好意的な返信だ。
小さくガッツポーズを取りながら、立ち上がろうとしたとき、ちょっと目まいがした。床が近づいてくる。
手を突こうとしたが、その動作が間に合わない。床はもう目の前にある。
俺は思わず目をつぶった。
◇ ◇ ◇
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NODE-4471 承認ログ抜粋 対象:一ノ瀬
信用スコア:614 → 611 → 609
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