ターニャ
喫茶「潮」は、駅から少し外れた裏通りにある。
古びた店で、入口の横には、小さなコイン読み取り機が一台だけ置かれている。
ゲートも認証もない。うるさい端末も必要ない。
喫茶店の店主よりも、別の職業のほうが似合いそうなマスターは無口だ。
「いらっしゃいませ」と「ありがとうございます」ぐらいしか話さない。
坊主頭にサングラス、髭。
でも、私は一人でいられるこの店が好きだった。
マスターに聞いてみたことがある。
「この店って求人とかしていないんですか」
マスターは驚いたようにこちらを見た。
「急な話ですね。うちは一人でやっても儲けが出ないぐらいで、とても……」
私は、ちょっと身を乗り出して言った。
「薬局でもバイトしているんで、お金っていうよりここが気に入ってて。時間のあるときだけとか」
マスターは視線を泳がせながら、答えようとした。
その時、珍しく別のお客さんが入ってきて、話はそこまで。
私は持ってきたコミックを読み始める。
▽ ▽ ▽
「宇宙船地球号」
〈二巻〉
私は、一足先にコールドスリープから目覚めた。
私の執務室は船の東端にある。
壁の一面が強化ガラスの窓で、外を見ると、二つある月が赤茶けた空に浮かんでいる。
その向こうの地表を、四足ロボットが忙しく走り回る。
すでに、地表の白い砂を固めた建材で造られた居住区が、いくつか完成していた。
ある程度、開発が進んだタイミングで、乗員を順次目覚めさせていく予定である。
船倉には、極低温に保たれたコールドスリープルームがある。
このコールドスリープ中に、乗員の適性は把握されている。
私の手元には、すでにその結果の一部が出力されていた。
いつもかけている放射線防護用ゴーグルを少しずらして、私はその内容を確認する。
ポッド 氏名 適性
0928 多賀谷 計量・配分計画
4471 一ノ瀬 地層評価・調査
5829 ターニャ 食料工場管理
これらの三名には、中核メンバーとして重要な任務が与えられる。
当然、彼らにも、緑のバッジが授けられることになる。
開発された居住区については、順次、購入者へ引き渡される予定である。
そういえば、覚醒時にはコールドスリープ中の「体験」が記憶として蘇る。
私の場合は街だった。他の者にも、様々な記憶が残っているだろう。
△ △ △
持ってきたコミックを読んでいたら、頭の片隅に、別れた彼のことが浮かんできた。
あまり思い出したくはないんだけど……
私はその日、窓際の席に座って、外の景色を眺めていた。
窓の外には、街灯の脇を、小さなドローンがゆっくりと通り過ぎていくのが見えた。
雨が降っていたはずだけど、見上げると、雲の隙間から陽が差している。
見ていたと思っているものと、実際の景色が違っていたりすること。
私はあまり気にしないようにしている。
ドアの開く音がして、声がした。
マスターはそちらを向き、「いらっしゃいませ」と小さな声で言った。
「ここ、来たことあるんだよ。コインだけって、面白くないか」
多賀谷の声だった。隣に一ノ瀬がいる。
二人が入口に近いテーブルに着こうとしたところで、多賀谷がこちらに気づいた。
窓際の私の席とは、テーブル二つ分の距離があった。
「え……、ここに来てるの……」
「久しぶりね」
声は、思ったより普通に出た。
一ノ瀬が小さく頭を下げた。
「多賀谷に、久しぶりに会おうって言って、メールのこともあって……」
一ノ瀬は、おしゃべりな割に何を考えているのかよく分からない。
それより、多賀谷が「ここ、来たことあるんだよ」と言ったことが、少し引っかかった。
付き合っていた頃は、星の付かない店なんて興味がなかったはず。
別れてからの時間の中に、私の知らない多賀谷がいる。
でも、もう宛先も履歴も消したし、彼もそうだろうから、関係ないけど。
「……ほんとうに久しぶりだな」とテーブル二つ向こうから、多賀谷が答えた。
「最近どう」と多賀谷は続けた。
「最近、ねえ」
私はカップを置いて、言った。
「最近、奨学金の審査が通らなくて。スコアの問題だって」
「スコアの問題じゃ、どうにもならないよなあ」
「奨学金の基準は妥当だよね。なんか特別な事情でもあるの」
そのまま聞き流してしまえばよかった。
いつもならそうしている。
でも「特別な事情」という言葉に引っかかった。
私には「特別な事情」なんてない。
◇ ◇ ◇
「奨学金の面談、一度受けたっていうか、受けさせられたことがあって」
と、私は喋り始めた。
「スコアはギリギリだったけど、窓口で却下の理由を聞いてたら、奥の方から誰か出てきて」
私は少し間を置いて続けた。
「端末も置いてない執務室に通されて、笹野って人。瞬きが多くて変な感じ」
そこで、多賀谷が尋ねた。
「何を言われたんだ」
「特別な事情があれば配慮できるとか。あと、記録に残さないほうがいいとか」
「冗談じゃない。それってどういう意味よ」と思わず強い口調になった。
訳も分からずスコアは下がるし、申請に行けば変なのに目を付けられる。
私の何が悪いのか、記憶をいくら辿ってみても分からない。
多賀谷は黙っていた。
少し間を置いて、「それ、記録とかはあるの」と言った。
疑っているのか、ただ確認しているだけなのか、判断がつかなかった。
「ないけど、それが何。執務室の写真とか撮っとけばよかったの」
私は多賀谷に言った。
「まあ、スコアは記録を基にURBOSが決めることだし」
多賀谷は静かに言った。
「その記録に残ってないことなんて、ないのと同じだ」
そして、続けた。
「スコアが下がった言い訳なんじゃないの」
私をちらりと見て、一ノ瀬がテーブルを軽く叩いた。
「そんな言い方あるかよ、多賀谷」
多賀谷はちょっと驚いたように、一ノ瀬を見た。
一ノ瀬は構わず続けた。
「ひどいんじゃないかって言ってるんだ」
「一ノ瀬には関係ない話だろ」
多賀谷が切り返そうとする。
「関係とかじゃない。人としてどうかってことだ」
一ノ瀬の声が大きくなった。
でも、テーブルを叩きたかったのは私なの。
カウンターの隅にいた男と、マスターがこちらを見た。私は目をそらした。
窓の外に見える向かいのビルの輪郭が、一瞬滲んだ。
灰色のコンクリートの下に、青い水たまりみたいなものが浮かんで、すぐに消えた。
二人は言い合いを続けていて、気づいていない。
でも、なんだか海みたいに見えた。
多賀谷は何か言い返そうとしたが、結局、軽く息を吐いて言葉を収めた。
「分かった、分かった。落ち着けよ」
また、その場だけ取り繕って、うやむやにする。
そういうところよね。
「もう帰る」と私は言った。
一ノ瀬が何か言おうとしたが、結局言葉にはしなかった。
多賀谷は、コーヒーカップを見つめたまま。
出入口のマットには、濡れた銀杏の葉が一枚貼りついていた。
誰かの靴底についてきたものだろう。
潮のカウンターでは、トレンチコートを着たままの男が、マスターと話していた。
その横を通ってドアを開け、私は駅へ向かって歩き出した。
そのとき、一瞬、トレンチコートの男と目が合ったような気もする。
見られるのはあまり好きじゃない。
値踏みされているような気がするから。
◇ ◇ ◇
コミックは最後のページを開いたまま。
なんだか、いろんなことを思い出しながら、しばらくぼんやりしていたようだった。
外では小雨が降り始めていて、でも、遠くでは日が差している。
多分、私は何かを間違えたんだろう。
本当は、もっとうまくいくはずだった。そう思った。
こんな調子で薬剤師の試験は大丈夫だろうか。
今、見ている雨も本当に降っているのかな。本当は明るい日差しの中にいたりして。
◇ ◇ ◇
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NODE-5829 承認ログ抜粋 対象:ターニャ
信用スコア:598(基準未達)
奨学金審査:否認
混入データ:削除
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