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3/12

ターニャ

喫茶「潮」は、駅から少し外れた裏通りにある。

古びた店で、入口の横には、小さなコイン読み取り機が一台だけ置かれている。

ゲートも認証もない。うるさい端末も必要ない。


喫茶店の店主よりも、別の職業のほうが似合いそうなマスターは無口だ。

「いらっしゃいませ」と「ありがとうございます」ぐらいしか話さない。

坊主頭にサングラス、髭。

でも、私は一人でいられるこの店が好きだった。


マスターに聞いてみたことがある。

「この店って求人とかしていないんですか」

マスターは驚いたようにこちらを見た。

「急な話ですね。うちは一人でやっても儲けが出ないぐらいで、とても……」


私は、ちょっと身を乗り出して言った。

「薬局でもバイトしているんで、お金っていうよりここが気に入ってて。時間のあるときだけとか」

マスターは視線を泳がせながら、答えようとした。

その時、珍しく別のお客さんが入ってきて、話はそこまで。

私は持ってきたコミックを読み始める。


▽ ▽ ▽


「宇宙船地球号」


 〈二巻〉


私は、一足先にコールドスリープから目覚めた。

私の執務室は船の東端にある。

壁の一面が強化ガラスの窓で、外を見ると、二つある月が赤茶けた空に浮かんでいる。

その向こうの地表を、四足ロボットが忙しく走り回る。


すでに、地表の白い砂を固めた建材で造られた居住区が、いくつか完成していた。

ある程度、開発が進んだタイミングで、乗員を順次目覚めさせていく予定である。


船倉には、極低温に保たれたコールドスリープルームがある。

このコールドスリープ中に、乗員の適性は把握されている。

私の手元には、すでにその結果の一部が出力されていた。

いつもかけている放射線防護用ゴーグルを少しずらして、私はその内容を確認する。


 ポッド   氏名   適性

 0928    多賀谷  計量・配分計画

 4471    一ノ瀬  地層評価・調査

 5829    ターニャ 食料工場管理


これらの三名には、中核メンバーとして重要な任務が与えられる。

当然、彼らにも、緑のバッジが授けられることになる。

開発された居住区については、順次、購入者へ引き渡される予定である。


そういえば、覚醒時にはコールドスリープ中の「体験」が記憶として蘇る。

私の場合は街だった。他の者にも、様々な記憶が残っているだろう。

△ △ △


持ってきたコミックを読んでいたら、頭の片隅に、別れた彼のことが浮かんできた。

あまり思い出したくはないんだけど……


私はその日、窓際の席に座って、外の景色を眺めていた。

窓の外には、街灯の脇を、小さなドローンがゆっくりと通り過ぎていくのが見えた。


雨が降っていたはずだけど、見上げると、雲の隙間から陽が差している。

見ていたと思っているものと、実際の景色が違っていたりすること。

私はあまり気にしないようにしている。


ドアの開く音がして、声がした。

マスターはそちらを向き、「いらっしゃいませ」と小さな声で言った。

「ここ、来たことあるんだよ。コインだけって、面白くないか」

多賀谷の声だった。隣に一ノ瀬がいる。

二人が入口に近いテーブルに着こうとしたところで、多賀谷がこちらに気づいた。


窓際の私の席とは、テーブル二つ分の距離があった。

「え……、ここに来てるの……」

「久しぶりね」

声は、思ったより普通に出た。


一ノ瀬が小さく頭を下げた。

「多賀谷に、久しぶりに会おうって言って、メールのこともあって……」

一ノ瀬は、おしゃべりな割に何を考えているのかよく分からない。


それより、多賀谷が「ここ、来たことあるんだよ」と言ったことが、少し引っかかった。

付き合っていた頃は、星の付かない店なんて興味がなかったはず。

別れてからの時間の中に、私の知らない多賀谷がいる。

でも、もう宛先も履歴も消したし、彼もそうだろうから、関係ないけど。


「……ほんとうに久しぶりだな」とテーブル二つ向こうから、多賀谷が答えた。

「最近どう」と多賀谷は続けた。

「最近、ねえ」

私はカップを置いて、言った。

「最近、奨学金の審査が通らなくて。スコアの問題だって」

「スコアの問題じゃ、どうにもならないよなあ」

「奨学金の基準は妥当だよね。なんか特別な事情でもあるの」


そのまま聞き流してしまえばよかった。

いつもならそうしている。

でも「特別な事情」という言葉に引っかかった。

私には「特別な事情」なんてない。


◇ ◇ ◇


「奨学金の面談、一度受けたっていうか、受けさせられたことがあって」

と、私は喋り始めた。

「スコアはギリギリだったけど、窓口で却下の理由を聞いてたら、奥の方から誰か出てきて」

私は少し間を置いて続けた。

「端末も置いてない執務室に通されて、笹野って人。瞬きが多くて変な感じ」


そこで、多賀谷が尋ねた。

「何を言われたんだ」

「特別な事情があれば配慮できるとか。あと、記録に残さないほうがいいとか」

「冗談じゃない。それってどういう意味よ」と思わず強い口調になった。


訳も分からずスコアは下がるし、申請に行けば変なのに目を付けられる。

私の何が悪いのか、記憶をいくら辿ってみても分からない。


多賀谷は黙っていた。

少し間を置いて、「それ、記録とかはあるの」と言った。

疑っているのか、ただ確認しているだけなのか、判断がつかなかった。

「ないけど、それが何。執務室の写真とか撮っとけばよかったの」

私は多賀谷に言った。


「まあ、スコアは記録を基にURBOSが決めることだし」

多賀谷は静かに言った。

「その記録に残ってないことなんて、ないのと同じだ」

そして、続けた。

「スコアが下がった言い訳なんじゃないの」


私をちらりと見て、一ノ瀬がテーブルを軽く叩いた。

「そんな言い方あるかよ、多賀谷」

多賀谷はちょっと驚いたように、一ノ瀬を見た。

一ノ瀬は構わず続けた。

「ひどいんじゃないかって言ってるんだ」

「一ノ瀬には関係ない話だろ」

多賀谷が切り返そうとする。


「関係とかじゃない。人としてどうかってことだ」

一ノ瀬の声が大きくなった。

でも、テーブルを叩きたかったのは私なの。

カウンターの隅にいた男と、マスターがこちらを見た。私は目をそらした。


窓の外に見える向かいのビルの輪郭が、一瞬滲んだ。

灰色のコンクリートの下に、青い水たまりみたいなものが浮かんで、すぐに消えた。

二人は言い合いを続けていて、気づいていない。

でも、なんだか海みたいに見えた。


多賀谷は何か言い返そうとしたが、結局、軽く息を吐いて言葉を収めた。

「分かった、分かった。落ち着けよ」

また、その場だけ取り繕って、うやむやにする。

そういうところよね。


「もう帰る」と私は言った。

一ノ瀬が何か言おうとしたが、結局言葉にはしなかった。

多賀谷は、コーヒーカップを見つめたまま。

出入口のマットには、濡れた銀杏の葉が一枚貼りついていた。

誰かの靴底についてきたものだろう。


潮のカウンターでは、トレンチコートを着たままの男が、マスターと話していた。

その横を通ってドアを開け、私は駅へ向かって歩き出した。

そのとき、一瞬、トレンチコートの男と目が合ったような気もする。

見られるのはあまり好きじゃない。

値踏みされているような気がするから。


◇ ◇ ◇


コミックは最後のページを開いたまま。

なんだか、いろんなことを思い出しながら、しばらくぼんやりしていたようだった。


外では小雨が降り始めていて、でも、遠くでは日が差している。

多分、私は何かを間違えたんだろう。

本当は、もっとうまくいくはずだった。そう思った。

こんな調子で薬剤師の試験は大丈夫だろうか。

今、見ている雨も本当に降っているのかな。本当は明るい日差しの中にいたりして。


◇ ◇ ◇


────────────

NODE-5829 承認ログ抜粋 対象:ターニャ

信用スコア:598(基準未達)

奨学金審査:否認

混入データ:削除

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