3章-2節 魔族の出現①
後方を確認していたシアが叫ぶ。
「ネーヴ、人型ができてるわ……!」
「視えてる! なんだあれは!?」
逃走しながらも魔眼の俯瞰視点で後方の様子も窺っていた俺は、黒い竜巻が足の指先から足裏を形作り、脚から腰、胴、肩、腕、そして頭と人の形を取っていく様をはっきりと目にした。
どこからか転移してきたのではない。あの人型は、間違いなく角に宿っていた魔力で構成されたモノだ。
頭部に捻れた二本の角、背中には巨大な黒翼。ゆっくりと開かれた瞳は輝く紅。艶のある黒く長い髪が、竜巻の魔力の残滓を受けて揺れている。
「やはり、まだ不完全じゃのぅ」
甘く響く女の声でソレは言った。離れていても脳に響く、酷く蠱惑的な音色だった。おかげで、混乱の極みに達していた俺の頭が一つの意思に統一される。
――あの危険な存在から逃げなければ、と。
足を速める。後のことなど考えず、全力でこの場を離脱しなければならない。
「せっかく妾が授けた力だというに、情けない小僧よ、のぅ」
黒翼の女は足元に転がる老化したウーベルに話しかけているようだ。その声は空気ではなく魔力を伝播して俺たちにも届く。耳が、あるいは脳が毒される蕩けた声だ。
「ネーヴ、意識してはダメよ。逃げることに集中なさい。わたしも手伝うわ」
「シアはまず自分の治療に専念しろ。いざとなればアレとやり合うことになるぞ……!」
言いながら、氷刻厖掌を発動。足元から伸び上がった氷の腕が、勢いのまま俺たちを飛翔させる。更に氷澆飛刃で作り出した浮かぶ剣を足場に、飛び移りながら落下の加速を利用し距離を稼ぐ。地面に着いたら再び自身を空へと射出する。
「ネーヴはほんと……やることなすこと器用、よね。普通自分の魔法で自分を射出しようなんて思うかしら。……まぁ、わたしの傷はとりあえずいいわ。だから、こうするの」
シアが俺の背に手を回す。
「重星翼昇」
シアの詠唱で、俺と、シアの身体の重みが消失する。落下中に中空に浮かべた氷剣を蹴ると、想像以上の跳躍に驚く。重力系の魔法、なのだろう。落下速度が極端に遅くなり、滑空しているかのようだ。
中空を脚力だけで弾丸のように加速しながら、更に逃走。氷刻厖掌による射出で顔が歪むほどの風圧を受けるが、とにかく前へ進む。
「どこへ向かっているの!?」
風を受けたシアの声は叫びになっていた。
「俺が知る中で最も力を持っているのは冒険者組合だ!」
人型をとったとはいえ、感じる魔力に変化はない。あの女は膨大な量の魔力の塊だ。むしろ、人型という指向性を持ったことによって脅威度が増している。シアが戦闘不能な今、俺個人の戦力では全く足りない。
「ふむ……素早い判断じゃのぅ。悪くない、悪くない」
突如聞こえた真横からの声に、振り向きもせず刀を振った。ガウフの鍛えた刃はしかし、相手の黒い爪に阻まれ甲高い音を立てただけ。重力から解き放たれている俺に近接戦闘は不可能だった。相手の質量に負けて身体が弾き飛ばされる。
「怖やこわや。汝は話を聞かぬのぅ」
「シアっ!」
「雷擂襲鎚!」
衝撃によってバランスを崩した。きりもみに回転して落下する。その視界の中で、雷撃の槌が捻れ角の女の上空に出現したのが見えた。それは俺が今までに見た中で最大の威力をもって放たれた雷撃魔法。が――雷神の槌が焼いたのは謎の女の近くにあった街灯の柱だった。回避されたか。
シアの雷撃によって石柱は破砕され、石畳には特大の穴が穿たれたが、女には傷一つない。黒翼で宙を打ち、涼しい顔で滞空している。
「信じられない、わたしの魔法を避けるなんて……!」
「悪魔の角から出てきたやつだ、何があってもおかしくない」
脚を撓めて着地。組合にほど近い狭い道。街灯が消滅した轟音の名残がこだましている。すぐに人が集まるだろう。
「邪険にするのぅ。妾は今、汝らに危害を加えるつもりもないのじゃが」
可笑しそうに、女は笑う。その声は空気を伝っていたが、やはり毒を孕んでいる。耳から入って知性を溶かすような、強烈な妖気があった。気を強く持たなければ、洗脳されてもおかしくない。
謎の女は黒翼をたたみ、ゆっくりと地面に降り立った。
「お前は、何者だ」
汗が顎を伝う。会話するだけでも相当な負担だが、シアに協力してもらい、俺にできる最大速度で逃げても容易く追いつかれた。これ以上、逃げることはできないと見て間違いないだろう。ならば現状を打破する策とそれを考える時間が必要だ。
「なんと――汝はこの角、翼、瞳に見覚えがないと申すか? ヒト族も大概、忘れることが得意と見える」
予想外に驚いた声を放たれる。
見覚えなどないに決まっているだろう。
――言いかけて、しかし改めて女を見る。捻れた二本の角と背に生えた黒翼。紅く妖しく輝く瞳。淫靡に響く声に、怪しげな魅力を纏う蠱惑的な肢体。この特徴に合致するものをいつか、家の本で読んだことがある。
「まさか……魔族、か……?」
「なんだ、知っておるではないか。気を持たせるでない」
そう、魔族。
真なる魔族はシアのように刃のような角を持った種族であるのに対し、この女はこの世界に広く伝わるハオライル教によって改変された――捻じ曲げられて伝わった魔族としての特徴を有している。世間ではこちらの姿が一般的ではあるのだろうが……。
とりわけこの女は、姦淫を誘う者としての特徴を有していた。教えの中では人を堕落させ、破滅へと向かわせる性格の悪い魔族だった筈だ。名前は、確か――
「そう。妾こそはライラー・ナイアルシェイド。魔侯爵が一人である」
詠うように告げる。まっすぐにこちらを見る真紅の瞳。
それは正気を保とうとする俺の頭に、殴りつけられたかのような甘い衝撃を与えた。この女の声は毒が過ぎる。更に視線にも魔力が載っている。この女が現れたあの異常な光景を知らずに出会っていたのならば、一瞬で引き込まれていたに違いない。
正気が蝕まれる怖気が、しかし徐々に消えつつあることにこそ、恐怖を感じる。この誘惑の声に抗うには、忍耐だけでは足りない。
「ヒト族の子よ、あの小僧を打ち破る汝には、なかなかに見るべきところがある。どうじゃ、妾の角を受け取らぬか?」
毒を孕む言葉は無視して思考する。奴が教会の伝える魔族だとして、しかし奴の言った魔侯爵という地位を俺は聞いたことがない。教会による教義の産物と思えた魔族だが、どこかに治めるべき領地を得たとでもいうのか。
「どうなってる……」
「わたしにもわからないわ……」
俺たち二人を混乱の極みに叩き落とした魔族――ライラーは、可笑しそうに笑い佇んでいる。
「妾が力をくれてやるというのに、要らぬのかえ?」
甘い声が脳髄を抉り侵す。それは抗い難い誘惑。視覚の焦点がぼやけ、頷いてしまいそうになる。だが、それでも、奴に力を求める訳にはいかないと、残った正気を振り絞る。刀の柄を強く握ると、少しだけマシになる。
「代償が、あの老化なら、絶対にいらん」
吐いて捨てる。強く拒絶することで、正気を取り戻す。
ウーベルの末路は悲惨なものだった。生きていてもあれでは長くはないだろう。あんな最期は御免だと、心を奮い立たせる。
俺の言葉に、ライラーは口の端を吊り上げるだけだった。代償が老化でないにしろ、やはりロクな最期にはならないだろう。とするなら、やはり俺の答えは否となる。いや、例え代償がなかったとしても、ハオライル教において人類の敵とされる者の力を借り受けるなど、危険に過ぎる。他の人間全てを敵に回すことになりかねない。
「一応聞くが、シアはどうだ」
「嫌よ。角が三本になるなんて、バランス悪いじゃない。形も違うし。わたしは今の状態がベストよ」
いつも通りに響くシアの声が、誘惑の言葉を粉砕してくれる。心強い。
同時に、三本目の角を額に付けたシアを思い描くと、胸中で笑ってしまった。まるでユニコーンだ。いや、左右の角を合わせてトリコーンとでも言うべきだろうか。
「なんだか、余計なことを考えているわね」
「なんで分かるんだよ」
「ネーヴは雰囲気に出るのよ。笑ってるって」
そういうものか。
ともあれ、俺たちの答えは決まった。ライラーという魔族を騙る者に与するつもりは毛頭ない。
「俺たちに、そんなものはいらん」
「そうよ。そんな角、自分の股にでも突っ込んでなさい、腐れビッチ」
………………………………どうして味方まで俺の耳を穢そうとするのか!
俺が抱える女の毒を、数秒かけて理解したらしい。ライラーは眉を吊り上げる。
「死ね!」
放たれたのはなんの工夫もない呪詛と、怖気のする黒い魔力。反射的に紡いだ氷壁が魔力を押し返すが、一瞬しか保たない。何とか射線から身体を逸らすだけで精一杯だった。
氷壁が黒い魔力に触れた瞬間、酷く気味の悪い感触に、改めて怖気が沸き立った。以前シアの魔法を受け止めたときは純粋な破壊力だけがあったが、こいつは違う。何かを奪い取るような、あるいは呪うような、底意地の悪い何かを感じた。
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