1章-10節 魔族の女 ネアルクロミシア①
「あーもう、お腹空いた、ねえお腹空いたわ犬。腹減ったのよ犬、食べちゃうぞー」
女魔族――黄昏を招く者は何かブツブツと言いながら、野犬の一頭を捕まえて撫で回したり甘噛みしたりして、犬にはかなり迷惑そうな顔をされている。
……いやいやまさか。
まさかとは思うが、田畑が襲われたのは、あいつの空腹を満たすためだったのか?
溜息と共に、倒してしまった三頭の野犬に申し訳ない気持ちが湧いてくる。魔力によって従えられてしまった彼等に罪はなかった。あの生活力の無さそうな魔族が悪いのだ。全滅させなくて良かった……。
ただ、いくら間抜けに見えても強大な魔力を誇るという魔族だ。迂闊に前に出るわけにはいかない。
木々の間を縫って近づきながら様子を窺い続ける。今も腹が減ったとわめいている。もし言葉通りなら交渉次第で事件を円満に納めることができるかもしれない。
「誰?」
すると、女から鋭い誰何の声。
……さすがに近づき過ぎたか。気配を消すことには自信があったのだが、仕方ない。
「やっと見つけたぜクソアマァ!」
背にした木から出ようとした瞬間、予想外の方向から声がした。それは俺と女を挟んでちょうど反対側。
覗き見れば魔族の女はこちらに背を向けており、その向こうに肩を怒らせた男がいる。いかにも裏稼業の人間です、と自己紹介でもしてるんじゃないかと思うくらい人相の悪い禿頭の男だ。
「なんだ、あんたか。見つけたって言うけど、別に逃げてないわ。付いて来れなかったあんたがノロマなだけでしょう?」
「ぅるせぇッ! テメェがオレから奪った犬を返しやがれ!」
肩をすくめて見せる女。
犬の飼い主の男が犬泥棒の女に憤っている、という構図だろうか。
男は頭に血が上っているようだし、状況が落ち着くまでは手を出さない方が良さそうだ。俺が出て行ったら互いに敵対して三竦みになりかねない。
「わたしは犬の散歩をしてあげてるだけじゃない」
「そのまま連れ去っただろうが!」
「それはこの子たちが一緒にいたいって言うからそばに置いているだけよ」
従属の魔導印によるものでは、と思わないでもないが、現在部外者の俺は何も言わない。会話――というよりは怒鳴り合いに耳を傾ける。
「そいつらには金と時間を掛けてんだ! どうしても返さねェなら、出るとこに出るぞ!」
「後ろ暗いことがあるから自分で追って来たのでしょう? 出れるものなら出てみなさいよ」
わたしは捕まらないし、あんたは捕まるけどね、などと付け加え更に男の怒りを煽っていく。男の顔には青筋が浮き出て、目が血走っていた。最早見かけただけで自警団や騎士団に通報されそうな形相だ。女の言う通りで、とても堅気には見えないし、出るとこに出れるほど清廉な身とは思えない。
「どうせ、魔導印を刻んだこの子たちを悪用するための訓練でもしていたんでしょう」
「なっ――!?」
男が驚きの声を上げていた。そして直後に苦虫を噛み潰したような顔。
魔導印を刻んだのは男の方、なのか……?
では、なぜ犬たちは女のそばを離れようとしないのか。魔力による支配を覆す何かがあるのかもしれない。
「田畑を襲わせてたのは、初級試験と言ったところ? 自律行動を促し、目的達成の手段と手際でも確認していたのかしら」
魔導印があれば、従属者は意のままに動く。死ねと言えば死ぬし、盾になれと言えば身を呈して主人を守るだろう。
だが、どう動くか――その判断は従属者の知性や知能に因る。馬鹿は馬鹿なりにしか動けない。だから男は試していたのだ。
「そうやって、ある程度厳選した従者を連れて窃盗やら強盗やらの悪事を働く。――馬鹿で実力のないド低級の〈従魔士〉によくいるのよね。ホント最低。ホンット迷惑。今すぐその矮小なツルピカ頭を地面に埋めて自死してくれないかしら」
「この……! 言わせておけばッ!」
従者を奪われた〈従魔士〉が腰に提げた鞘から曲刀を抜き放つ。木漏れ日をギラリと反射する刀身が、魔族の女に向けられる。男の息が荒い。怒りで全身が昂っている。
女に加勢するか?
胸中で自身に問うが、同時にその必要はないと頭の冷静な部分が告げる。大型の刃物を向けられても欠伸をしているような者に、加勢など不要だろう。
「命を大事にしろとは言わないわ。死にたいのなら、殺してあげる。そろそろ空腹も限界なのよね」
ゾッとするほど冷たい声だった。〈氷雪士〉の俺が心胆を冷やすなど、冗談にしても出来が悪い。
この時点で禿頭の〈従魔士〉の命運は決まった。方法はどうあれ、その命は地上から消えてなくなることだろう。
犬たちが両者の間に満ちた殺気を感じて距離を取る。それが合図となった。
「死ねエエェ――――ッ!!」
気勢を上げ、斬りかかる男。その動きは意外なほど速い。
だが、相手が致命的に悪かった。
「雷擂襲鎚」
囁き程度の詠唱とともに魔族の女が親指を大地に向ける。魔法の発動にそんなものは必要ない。それは余計なメッセージ。地獄に堕ちろと、女は伝えたのだろう。
至近で雷光が閃いた。耳を削り取るかのような猛烈な破砕音は、砕かれた大気の悲鳴。振り下ろされた雷の槌が周囲の全てを震わせた。
「あら……?」
反響した雷鳴が止んだ頃、魔族の女が疑問符を挙げた。彼女の視線の先には、雷撃によって蒸発し消滅する筈だった〈従魔士〉の男が未だに息をしている。
ただし、意識は刈り取られていたし、破砕された大量の氷に埋もれていたが。
「悪いが、この男は俺が預かる。こちらも仕事なんでな」
木陰から進み出ると、女は警戒した視線を寄越す。俺は喋るたびに歯の間で電気が弾ける不快さをなんとか堪えるのに必死だ。
……男が死の運命を自力で覆した訳ではない。天空から降り注ぐ雷撃を、俺の氷刻厖掌による大質量の氷腕が迎撃したのだ。結果粉々に砕けた氷が男に降り注いだ。
「きみは?」
鋭い視線。蒼玉の瞳が細くなり、こちらを窺う。
ただ、俺に敵意はない。諸手を上げてそれを示す。
「ネーヴェ・サタールンタ。しがない冒険者だ」
「あぁ、じゃあこの子たちのボスを倒したのはきみね! いやいや、よくやってくれたわ」
告げると、相手の警戒が一気に解けた。害のない相手だと判断したのだろう。
「だけど、タダで黒幕を捕まえた手柄を引き渡すのは癪ね。別にわたしにはその男を殺さない理由もないのだし」
「ふむ……食い物で良ければやるぞ」
胃が収縮し、派手な音をたてた。
勿論俺のではない。魔族の女のだ。
「……………………交渉、成立ね」
心なしか頬を染め、顔半分で睨みながらもう半分は唇を吊り上げるという、器用な表情で女は告げた。追求したら殺すと視線で思念を送りつけて来るので、一瞬前のことは忘れておこう。
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