1章-7節 冒険者登録③
宿の前まで戻ると、夕餉の仕込みだろう。良い香りが漂っていた。大きめの窓からはグレイブが酒場のカウンターで調理中の様子が見て取れる。奥の棚に並んだ数々の酒瓶が橙色の明かりを受けて濡れた光を放っている。
「ああ、おかえりなさい。冒険者登録はできたのかい?」
宿に入ると酒場から声が届く。
おかえり、なんて最後に聞いたのはいつだったろう。そんな想いを抱きながら、言葉を返す。
「――ただいま。登録は無事できた。依頼を受けるのは明日からだな」
酒場のカウンター席に腰を下ろすと、ほとんど間髪入れずに食事が出てきた。湯気を上げる肉が食欲をそそる香りを伴って飛び込んでくる。口の中で涎がじわりと湧いてきた。
「いいのか、これ」
「食事付きの契約だろう? 貰うものは貰っているのだ、遠慮なく食べてくれ」
肉叉が渡され、受け取った勢いのまま突き刺した。湧き出す肉汁が皿に広がる。
口に放り込むと、蕩けて消えたかのような錯覚。肉に振りかけられた何かが、舌から鼻を刺激する。
「……正直言って、こんなに旨いものは食べたことがない」
「ははっ、面白いことを言うね。うちの料理はそんなに特別なモノじゃない。少しばかり手が込んでいるだけだ」
「しかし、この香りの高さと舌に感じる刺激……相当特別なものを使っているのでは?」
食べるのが勿体無くて手が止まる。我ながら貧乏性だ。
「胡椒の事か? それこそ一昔前は高価だったが、今ではありふれたものだろう。――ネーヴェさんは、どちらから来たんだ?」
「なるほど、これが都会の味か……。俺は、あっちに見える一番高い山から来た。ここからだと、歩いて数十日掛かるな」
路地にあるこの店からは見えないが、今頃は夕陽が俺の故郷の山を照らしているだろう。その天を貫くかのような威容。遠景では極端に尖っており、とても登れるようには見えないが、実際は装備さえあれば登れる。……もっとも、麓のヤク村からうちの村まで登ってきた者を見たことはないが。
「あの山――では、霊峰の民か……?」
「――? 街ではそう呼ばれているのか?」
グレイブが驚きに目を剥いていた。
しかし霊峰とは、また仰々しい。
確かに山の頂上には神が住むとか、龍が座すとか、村の言い伝えで聞いたことはあったが。
過去には登頂できた者が村長になる資格を得る、という習わしがあったらしいが、近年では危険すぎるとして廃止された。
前村長であった俺の父は過去に腕試しに挑戦し、登頂を果たしたらしいが、その父も登頂前から村長になることが決まっていた。ついでに言えば、俺を含む大半の村人は挑戦してさえもいない。
命がけで登って、得られるものは山頂付近で採取できる鉱石だったか。割に合わないのだ。
「霊峰は一部では信仰の対象となっているんだ。人は、山に神性を見出す。そして、そんな山に住む人々も伝統を継ぐ民として一定の敬意を払っているというわけだ」
そうして付いた称号が『霊峰の民』か。
だが、あれはヒトの生活圏から少しだけ逸脱してしまった、ただの寂しい村だ。少なくとも俺はそう考えている。そしてもう、そこには誰もいないのだ。
肉を食べながら、そんな事情を話す。
「――なるほど。ネーヴェさんが彼らの最後の生き残りか」
「村を出た者も多くいるから、どこかで生活している者もいるはずだ。会ったことはないか?」
グレイブはゆっくりと首を横に振る。
落胆はない。やはりかと思うばかりだ。
俺が最後の村人であり、出て行った者達は誰一人戻らなかったのだ。
「込み入ったことにまで踏み込んでしまったようだ。申し訳ない」
「いいんだ、街ではこの肉がいつでも食える、ということを知れたからな」
右手の肉叉が厚みのある肉を穿つ。それを口に放り込むと、束の間の甘美な幸せに浸れた。
「ははっ。では、明日からは特に腕によりをかけよう」
「ああ頼む、期待してる」
「任せてくれ。ところで、ネーヴェさん、酒は飲むのかい? 不躾の詫びだ。今晩くらいは奢るが」
「いや……以前どうしようもなく寒い夜に仕方なく飲んだくらいで、嗜むこともないな。それに王令で十八歳未満は禁止されたと何かで読んだが」
思い出すのは猛吹雪の夜。
石造りの家が軋みを上げ、外界のありとあらゆるものが凍りつき、そして静止していくような、極限の夜。
暖炉の火さえ凍りそうなほど酷く冷える夜に、父が秘蔵していた酒を出したのだ。栓を抜けば白い蒸気の上がる、恐ろしく強い酒だったと思う。
「飲むかと勧められ、口に含んだ瞬間、酒精が全身を巡ったのを覚えてる。その後は覚えてないが、全身真っ赤になって倒れたらしいな」
下手したら死んでいたのではないか。とにかく、恐ろしい酒だった。
「災難というかなんというか……。ネーヴェさんの親父殿も無茶をなさるな」
「昔からそういう人だった」
父と母とで、性格がまるで違うのによく一緒になったなと、今にして思う。
「しかし、ネーヴェさんが十八歳未満とはこれもまた驚きだ。やけに落ち着いて見えるが、いくつなんだい?」
「麓の村の知り合いにも言われたな。態度がデカ過ぎて実年齢を忘れそうになるって」
ブリッツが以前言っていた言葉をそのまま伝えると、グレイブは膝を叩いて笑った。どうやら俺と知り合った者たちの共通認識になりそうだ。
「で、年齢だが。俺は先日神託を受けたばかり。つまりは十五だ」
「なるほどなるほど。だが、その彫りの深い顔に、健康的に焼けた肌、目つきや言動も相まって、二十歳は超えてそうに見えるがね」
くつくつと笑う。
「肌は雪焼けで今だけだろうが、敬語は苦手だ。それに一人で生きていくなら、ガキに見られるより良い」
「そうだな、その通りだ」
言いながらも、グレイブはまだ笑っているのだった。
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