1章-5節 呉服商マリアーヌ②
「今日はこちらに泊まりましょう。宿代は持ちますわ」
宿の前でマリアーヌは提案する。断ることは想定していない様子だ。
「……そんなに親切にされても、返せるものは何もないぞ」
「路銀は持つと言いましたでしょう。ネーヴェ様は、冒険者見習いとして、わたくしたちを護衛していただければそれで構いませんわ」
マリアーヌは常に余裕の笑みを崩さない。これが彼女の商人としての武装なのだろう。商人として厳しく躾けられたのか、元々の素養か。なんとなく、後者な気がした。
夕餉を終えた席で、改めて契約を交わすことになった。これは口約束ではなく、契約書を用いた正式なものだ。
主人の指示を受け、慣れた様子で契約書類を作成していくバルト。出来上がったものを俺とマリアーヌで確認していく。
本物の契約書は初めて見る。家の書架には無かったはずだ。
内容も田舎者には馴染みのない表現が多過ぎて解読に手間取ったが、マリアーヌも解説してくれたし、俺が騙されるような文言はなかったように思う。それに、そこまでするほどの価値が、俺にあるとも思えない。
契約の要点は三つ。
一、俺がマリアーヌとバルトを護衛すること。
二、依頼失敗時、俺が生存していた場合は、フロイデにあるイデラータ本家へ経緯を報告し、謝罪すること。ただし、賠償責任は負わない。
三、契約期間は双方の合意によって定める。ただし、俺は任意の時点で契約を終了できる。
――特筆すべきは三つ目で、俺が一方的に契約終了を告げれば、マリアーヌにそれを断る術はない。……たとえそれが、戦闘中であっても、だ。だからこそ、マリアーヌからの信頼を強く感じた。
他にも、報酬や経費に関することなどがあったが、元々進むつもりだった道を一緒に行くだけで路銀が浮くのだ。欲張ることはないし、身の丈に合わないので報酬については固辞した。
このとき、初めてマリアーヌのフルネームを知った。マリアーヌ・スフォル・イデラータ。聞いたことのない家名だったが、大陸西部では新進気鋭の商家として名を馳せているらしい。
「ではネーヴェ様も、宜しければこちらにサインを」
村の識字率は実は低いようだが、両親から読み書きを習っておいて良かったと思えた瞬間だった。さすがに自分の名前は書きたいものだ。
「ネーヴェ・サタールンタ、様」
「ああ。田舎者の、しがない冒険者見習いの名前だ」
「いいえ、命の恩人のお名前です」
「命を狙われた理由が迂闊すぎるがな」
「返す言葉もございません」
さすがに商人の笑みが引き攣ったが、しかし良い経験になったと宣うのだから流石だ。俺なら人間不信に陥るし、旅にも出たくなくなるだろう。
「――そうだ。マリアーヌ、これを見たことは?」
荷物から山で拾った家紋入りの小箱を取り出す。大小五つある小箱の全てに同じ家紋が彫られている。俺には家紋の知識はほとんどないが、商人ならば知っているかもしれないと思ったのだ。
「ふぅん……? わたくしも商人の端くれとして有力な貴族や商人の家紋は覚えていますが、こちらには見覚えがございませんわ。これを、どちらで?」
「故郷の山で拾った。どうやら持ち主は崖下に滑落したようだが、荷物は運良く岩場に引っかかっていてな」
「そうでしたか。それで、ご遺族を探して差し上げているわけですね」
「まぁ、そういうことになるな。今のところ手がかりはこの家紋入りの箱と、写真だけだ」
「――まぁ、端正なお顔立ちの御方ですね。ご家族にも品がありますし、王都の貴族かしら……。でもだとしたらわたくしが知らない家紋が……?」
「山を登るときには間違いなく通る麓の村でも見かけた者がいたんだが、頑として目的は言わずは、何か訳ありの様子だったらしい。ま、知らないのなら別にいいんだ。俺も熱心に探しているわけじゃない」
「実家に帰ったら調査してみますわ。この小箱、一つお借りしても?」
「構わない。どうせ拾い物だ、写真も持っていくといい。俺が持っているより有益だろう。ただ、鍵は壊さないでやってくれ」
「箱そのものに価値があるかもしれませんものね。承りましたわ」
そうして、夜は更けていく。途中からは酒が入ったからか、マリアーヌが西海岸の良さをひたすら語る時間になっていたが、山のことしか知らない俺にとっては何とも興味深い話だった。
◇
それから幾日かが経った。
馬に乗った二人と徒歩の俺という組み合わせは、如何にも貴族と護衛といった様子で、少しおかしかった。
「結局、何事もなかったな」
レゾンとフロイデの分岐路に、俺たちは立っていた。
「ネーヴェ様は旅の神に愛されておいでなのでしょう」
「前にも話したが、旅立って数日で魔力火災で死にかけてるぞ」
「では、わたくしが旅の神の寵愛を受けていたようですわね」
「そうだろうよ」
皮肉な笑みを返すと、マリアーヌも同じように笑った。
結局、護衛としての役割は周囲に気を配るくらいで危険もなく、逆に〈命活師〉であるマリアーヌから魔法の手ほどきまで受けることになってしまった。俺が固辞した報酬分の授業だと彼女は笑う。
「フロイデまではまだ距離がある。気をつけてくれよ」
「心得ました。ネーヴェ様も」
「ああ」
「レゾンで落ち着いたら、お手紙をくださいね。あの家紋と写真の人物の調査も進めておきますので」
「わかった。バルト、あんたも達者でな」
「はい。ネーヴェ様、お世話になりました」
「また、お会いしましょう。次は是非、フロイデで」
「レゾンで生計を立てれるようになったらな」
「はい。それでは」
マリアーヌとバルトはゆっくりと馬を進めた。見送ることなく、俺も歩を進める。今生の別れかもしれないし、いつかは交わる路かもしれない。その一つ一つに感傷を抱いて立ち止まっていられるほど、人生は長くはない。
それでも……落ち着いたら手紙でも出してみよう。人の縁とは得難いものだと本にあった気がする。
――そうして、また一人で進むこと幾日か。あの『野焼き』や『盗賊騒ぎ』に次ぐ事件もなく。
俺は順調に旅路を進め、ようやくレゾンの入り口にまで辿り着くことができた。
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