第九話
絹代の誕生日から一週間が経過した夜。絹代は、探偵からの報告を聞いて高笑いしていた。
「オーホッホ。西園寺桜子。ああ、可笑しい。ああ、面白いったらありゃしない。あなたの尻尾を掴んでやったわよ」
愉しくて笑いが止まらない。探偵が絹代に報告した内容によるとこうだ。桜子は、毎日、要が出勤した後、人力車の車夫である虎次郎の家に向かい、夕刻までそこにいるという。
「周囲の者に聞いたところ、虎次郎は肋骨や手の骨を折っているそうです。しかし、一日中、看病するほどの重体ではありません」
探偵は男装して虎次郎の家から出てきた桜子の事を見落としている。探偵の目の前を桜子は軽快な足取りで走り去っているというのに、探偵は、それが桜子だなんて夢にも思っていない。
「虎次郎の居候らしき若い車夫が仕事から戻ると、桜子という女は帰っていきます」
「あら、そうなの」
密室で男女が二人きり。やることは一つしかない。しかし、収穫は、それだけではなかった。
「郷里の者の話によりますと、マタギの雄一という男と深い仲のようです。最初の男はマタギで間違いありません」
その情報を探偵に提供したのは、女中の吉村の兄嫁である。
『噂では、山賊に操を奪われたって事になっておりますけどね、それは間違いでございますよ。あたしは、西園寺家で働いている者から聞きましたからね。桜子様は雄一に惚れているんですよ。あたしも、何度か、桜子様が雄一と野道を歩く姿を見ています。まるで兄妹のようにべったりなんですよ。ああ、汚らわしい。桜子様ってのは、ああ見えて、お盛んなんですよ。あら、嫌だ。こんなの、あたしが言ったってことは内緒ですよ』
探偵が、少し金を渡しただけなのに村の女はぺらぺらと喋ってくれた。
「マタギの雄一というのは、背の高い野性味のある男前だそうです。虎次郎の方は顔は平凡ですが、とてもいい体格をしています」
「あら、そうなの」
昼間は肉体労働者の男に身を任せ、夜は知的な要に甘える。何という毒婦なのだ。
絹代は興奮気味に拳を握りしめる。やはり、あの娘には裏の顔があったのか。
「ところで、どうして、あの娘は英語が話せるのよ?」
「それに関しては、まだ謎ですが、昔、ほんの数年ですが、西園寺家には書生が滞在していたのです。今は通訳をしています。もしかしたら、桜子という女が幼児の頃に書生から習ったのかもしれません」
なるほど。
「色々と調べてくれて助かったわ。御苦労様。さぁ、これで美味しいものでも食べて吉原にでも行ってちょうだい」
絹代は、たっぷりと探偵に報酬を与えたのだった。
探偵は、ちゃんと桜子が虎次郎の長屋に入る様子を写真に撮ってくれている。今度こそ、あの女を破滅へと追い込んでやる。そう決意した絹代は、密告の手紙と写真を要の会社宛てに送りつけていく。社長室で茶封筒を開けた要はショックを受けた。
桜子は、どうして、車夫の男の自宅へと入っていくのだろう。
その写真と共に同封された手紙にはこう記されている。
『あなたの許嫁は、毎日のように車夫と逢引きしています。それに、あの娘の最初の男はマタギの雄一です』
この短い文を書いた者が誰なのかはどうでもいい。おそらく、父か絹代のどちらかだろう。
そんな事よりも、桜子が、実際に車夫の家に通っているのかどうかを確かめなければならない。
その翌日。
要は、いつものように家を出た。しかし、会社には向かわなかった。
しばらくすると、桜子の明るい声が響いた。
「キヨさん、行ってまいります」
今日は、ジェイコブの送迎は行わない。ジェイコブは二日前から神戸の親戚のところにいるからだ。
今日は、仲良しのヴィクトリアと共にサイクリングを楽しむ事になっているが、その前に、桜子には行かねばならないところがあった。キヨから、もうすぐ要の誕生日だと聞いている。
桜子は、働いて溜めたお金で高価な万年筆を買おうとしていた。
(要様に喜んでいただけるかしら……)
高価なものを売る文具店に向かうと、そこで、一番高い万年筆を購入した桜子は、それを巾着袋に入れて店から出てきたのだが……。
グイッ。
いきなり、巾着袋をひったくられて桜子は、あっと小さく声をあげた。この通りには高価なものを売る店が何店か点在している。それなのに人通りは少ない。一本奥にある路地は迷路のように複雑だ。
ひったくり犯は、ずっと、獲物が訪れるのを待っていたのである。つくづく暇な奴だ。
いかにも、しとやかな桜子は犯人にとっては狙い易い相手として映ったようである。しかし、そうはいかなかった。
要の万年筆を盗まれた桜子は、着物の裾をまくりあげて、家政夫のミタゾノのような顔で暴走していく。
タタタッ。忍者のように素早く追いかける。
(てめぇ、悪事は許さん)
桜子は怒り心頭である。
おりゃーーと、背中からドロップキックを喰らわして万年筆を取り戻したのだが……。
それらの様子を見ていた要は戦慄する。
(な、何なのだ……。あれは鬼神の御業なのか……)
とんでもなく奇怪な光景に要は度肝を抜かれて絶句していた。
もはや、桜子の浮気がどうのこうのという次元の問題ではない。
その後、桜子はヴィクトリアの邸宅に向かうと、ヴィクトリアが貸してくれた洋服に着替えて颯爽と自転車を漕ぎ始めた。
さすがに、自転車を追うのは無理なので要の尾行もそこで終わったのだが、要の頭は混乱していた。
(な、な、何がどうなっているのか、誰か教えてくれないか……)
もしかしたら、幻覚を見てしまったのかもしれない。
あの桜子さんが、男の背中を飛び蹴りするなんて、そんなの、ある訳がないじゃないか。きっと、疲れているのだ。今日は帰って休もう。
そう思って、まだ午前中だというのに自宅に戻ってみたところ、少し離れたタバコ屋の前で空の人力車が停まっているのを見かけた。家の玄関先に誰かがいるみたいである。何だろう。偉そうな声だ。どうやら、自分の父親のようだ。
「キヨ、いないのか」
要は門柱の陰から盗み聞きしていた。
「おーい、キヨ、今月の家賃をとりに来たぞ」
「旦那様、どうぞ、お納め下さいな」
「フン、今月もちゃんと払えるようだな。しかし、無理しなくていいと要に伝えておいてくれ。あの娘さえいなくなれば家賃など払わなくて構わぬのだからな。この金は、あのアバズレの居候代だ」
「旦那様、恐れながら申し上げます。坊ちゃまと桜子様と睦まじく暮らしておられます。どうか、ご容赦ください」
「キヨ、貴様、使用人の癖に生意気なことを言うな」
「申し訳ござません」
バンッ。玄関の引き戸を乱暴に閉めると、万次郎は待たせていた人力車に乗って帰っていった。いつものことだが、万次郎が去ったあとには葉巻の臭いがこびりついている。
要はうろたえた。
家賃のことなど聞いていない。どういうことなのか、すぐさま、自宅に入って確認するとキヨは白状した。
「わたしと桜子様が払っていたのでございます」
何と、家賃の為に桜子は外に出て働いているというのである。驚きの余り、言葉も出ない。その時、車夫の家に入る桜子のことが脳裏に浮かんだ。
(まさか、家賃の為に、あの人は転々と家庭訪問をして身を売り歩いていたのか……)
桜子は家族から虐待されて行く当てなどない孤独の身の上である。ここを失う訳にはいかないと考えたのかもしれない。
(オレには内緒で、オレを救う為に、そんなことをしているのだとしたら、オレは男として情けない……)
キヨは、桜子が身を売っている事を知っているのだろうか。
「キヨさん、桜子さんが外で何の仕事をしているのか聞いていますか?」
「詳しくは聞いておりませんが、おそらく、家政婦として洗濯や掃除を代行しているのではないかと思います」
「洗濯……」
それなら、怪我をした独り身の男の自宅に入るのも無理はないとも言えるのだが、いや、しかし、本当のところはどうなのだろう。
というか、異国の女性とのサイクリングも気になる。いや、これは、パーティーで知り合って仲良くなったのかもしれない。
サイクリングのことは良しとしよう。彼女の交友関係を詮索するつもりはない。
しかし、どうしても、人力車の男の事が気になる。だから、翌日、要は、またしても桜子を尾行していたのである。
すると、桜子は、いそいそと虎次郎の長屋へと入っていった。
桜子も、最初の頃は公衆トイレで車夫の恰好に着替えて虎次郎の長屋に行っていたのだが、虎次郎が着替えるなら、ここでやったらいいじゃないかと言ってくれたので、虎次郎の家で着替えていたのだ。虎次郎は桜子のおかげで最低賃金を確保する事が出来て感謝している。
「ところで、お嬢ちゃん、あんた、おいらの怪我が治った後はどうするつもりなんだい?」
「虎次郎さん、ジェイコブさんの送り迎えをして下さいませ。わたしは、別の仕事をやりますわ」
「割のいい仕事があるのかい?」
「ええ、知り合いの英国人の御夫人が、日本に関する旅行ガイドを編纂するのを手伝って欲しいとおっしゃったのですわ。車夫の次にはその仕事をしようかと思っていますの」
「おお、そうかい。その方がいいな。人力車なんてのは女の仕事じゃねぇからな。世間体が悪いもんな」
「そうでございますわね」
とはいうものの、桜子にとって車夫という仕事は天職であった。
おかげで、身体はビッチビチに鍛えられている。
「では、行ってまいります」
そして、その数分後、車夫姿で出てきた桜子だったのだが……。
「うっ……」
物陰から見ていた要の心臓が止まりそうになった。
探偵の眼は誤魔化せても、要の眼は誤魔化せない。
(な、なんで、桜子さんが人力車を曳いているのだ。し、しかも、あんなに軽々と……)
白目を剥くほどの驚きに薙ぎ倒されながらも、尾行する事にした。
すると、ジェイコブを乗せて、タッタッタッと坂道などものともせずに駆け抜けていくではないか。その後も、桜子は次から次へと客を乗せていく。昼になると、屑屋や華工といった肉体労働者が集うテン屋と呼ばれる総菜屋に入っていった。そこは煮魚やかまぼこなどを副食として売っている店である。
安くて美味い。ちなみに、米だけは、それぞれが持参している。
桜子はむさくろしい男達に混じって、キヨの握ってくれたやにぎりを頬ばり、じゃこ天を美味しそうに咀嚼している。
「桜の介ちゃん、あんた、男前だから、こんにゃく、サービスしとくよ」
店の女将とも仲がいいようだ。男装している時は、桜の介と名乗っているらしい。
要は、額に汗して働いた後、束の間の休息を楽しむ桜子の姿を見て、今まで見た中で、一番、気高く美しいと感じた。
桜子の内側からは眩い光が出ているかのように見える。
(あなたは、とてもユニークで逞しい人なんだな……)
これまで抱いていたイメージとは違っていたけれど桜子の健気さは伝わっている。
家賃を払うために、こんなふうに働いてくれていたなんて知らなかった……。
それにしても、桜子は生き生きしている。あんなに楽しそうに働いている様子を見ていると、要の気持ちもフクフクとまろやかに跳ね上がる。
もっと知りたい。
いつまでも尾行して観察したいと思ってしまう。
やがて、昼食を終えた桜子は、飯屋の前で物乞いをしている男を見かけて立ち止まった。
そこにいるのは、いわゆる傷病兵だ。廃兵という酷い言い方をする者もいる。戦争で負傷して手足や聴力などを失った者は大勢いて、職もなく行く当てのない者は物乞いで命を繋いでいる。
桜子は、薄汚れた傷病兵の前に置かれた茶碗の中に銭を入れると、傷病兵は、ありがとうごさいますと低い声で呟いた。
傷病兵がお金を小袋に入れ終えて、懐に戻そうとした時、それを引ったくって駆けだした野郎がいた。ちょうど人力車を動かそうとしていた桜子は、ハッとなり、人力車を置いて駆け出す。
猛然と走って追いつき、後ろからタックルして堰き止めると、泥棒は小刀を握って威嚇してきた。
「このガッキーーー。なめんなよ」
泥棒は桜子の胸を刺そうとする。しかし、桜子も陸上自衛隊で護身術を習っている。
(てめぇーーー。自衛官、なめんなよーーー)
心の中で雄たけびを上げると、暴漢の腕をねじふせていく。ガツンッ。空手チョップで小刀を地面に落とす。そして、暴漢の両袖を掴んだ状態でクルンと投げていた。これを空気投げという。
三船先生が編み出した柔道の技の一つである。
このようにして武器を持つ相手に対して素早く対応できたのも、自衛官の訓練と柔道家としての日頃の鍛錬の賜物と言えよう。仰向けに倒れている盗人の手足の自由を奪ってそれを制圧すると大声で叫んだ。
「恥を知れ」
それでも、なお、暴れようとするので頸動脈を絞めて気絶させておいたのだった。
桜子は、奪われた小袋を持ち主に渡した。その時、傷病兵の手は震えていた。
というのも、その傷病兵は、実は、国内での治安維持に勤しむ大熊中尉だったからだ。足が不自由なフリをしながら、国内に潜む反体制派を見張るために座っていたのだ。お金をとられても痛くも痒くもないので泥棒を逃がしてやっていたというのに車夫の桜子が見事に捕まえた事に驚きたまげていたのだ。
この時、大熊中尉の中で、ある光景がフラッシュバックしていた。
英国公使館の書記のピートの鞄を奪おうとした時、桜子が扮する車夫に阻まれた。
あの時の少年だ。
(この少年は何者なのだ……。先刻の技は初めて見たぞ)
何にせよ、この少年が柔道の達人で、なおかつ、善意で引ったくりを捕まえた事は間違いないようである。
「兵隊さん。盗まれないように気をつけて下さいね」
ニコリと微笑む桜子とは目を合わせないようにしながらも、大熊中尉は冷や汗をかいていた。
何なのだ。この美少年は。
(なんで、こんなに優しい微笑みを浮かべているのだ)
大熊中尉は心臓を高鳴らせていた。
(か、可愛い……。とんでもなく可愛い)
まずいことになった。男色の獣道へと踏み込みそうになっている。可愛い。抱きしめたい。大熊中尉はこんな欲求に駆られる自分が怖くなってきた。立ち去る桜子の小さなお尻の色っぽさに頬を染める大熊中尉は我を失いポーとしている。
(さ、桜子さん)
要もフリーズしている。桜子の後ろ姿に釘付けで呼吸するのも忘れそうになっている。
さすがに、要は、もう尾行する体力など残っていなかった。そして、日が暮れる前に帰宅すると、キヨがいて出迎えてくれた。
「坊ちゃま、今日は、随分とお早いのですね」
今日の要は色んな意味で情緒を揺さぶられて疲れている。本当の桜子は自分が思っているような人ではなかった。彼女は強い。しかし、なぜ、あんなにも強いのだろう。まるで違う星から来た人のようだ。
とりあえず、人力車の車夫の独身男との浮気はなさそうである。
(毎日、桜子さんは、オレの為に身を粉にして働いてくれているんだな。雨の日も、カンカン照りの日も……)
不甲斐ない自分を要は恥じた。
早く、会社の業績を上げなければならない。
この先、しかるべき時期が来たなら桜子を娶ろうと決意したのだが、しかし、まだ気になることがある。
「キヨさん……。桜子さんにはマタギの友人がいると聞いたのだが知ってるかい?」
「ええ、存じておりますとも。キヨも見ましたわ。何でも、子供の頃、辛い目に遭った際に山で助けてくれた恩人だそうでございますよ。心根の暖かそうな素敵な男性でしたよ。兄のように慕っておられるようです」
「そ、そうなのか……」
キヨにも話しているのなら、後ろめたい関係ではないのだろう。
子供の頃、桜子は見知らぬ男に酷い目に遭ったと聞いている。その時に、マタギによって救われたのかもしれない。
ああ、そうか。
桜子が強いのは、二度と、酷い目に遭わぬように訓練したのかもしれない。そうか、そういう事なのか。
いや、別にそんな凄絶な過去はないのだが……。
とにかく、桜子が強いという事実はバレてしまっている。
今は何も知らないフリをしよう。そのうち、桜子も自分から打ち明けてくれるかもしれないと要は思ったのだ。
「ただいま戻りました」
夕刻、桜子の快活な声が響いた。二日連続で要が早めに帰宅しているものだから、桜子は慌てた。
「要様、どうなさったんですか。お加減でも悪いのですか?」
六月に入ってから気温はうんと高くなっている。
桜子は、一日中、走り回っており、その顔には疲れの色が滲んでいる。
「疲れているのは桜子さんの方だと思うよ。さぁ、少し休みなさい」
その細い体で人力車を曳いていたなんて今まで知らなった。
「いえいえ、わたしは平気でございます。あっ、そうだ。お風呂を沸かしますね。要様、お食事の前にお風呂に入って下さいませ」
どこまでも元気な桜子であった。
シャキシャキと動き回る桜子の愛らしさに要の唇は自然と綻ぶ。
風呂の窓から、チラリと外を見ると、猛烈な勢いで薪を割る姿が見えた。このところ、昼間は外に出ているので薪を割るのは夕刻なのだ。
おりゃ、おりゃ、おりゃーー。
斧を振り下ろす凛々しい桜子は言葉では言い尽くせぬ程に神々しい。鉈で細く割る仕草もこなれている。
ふと、桜子は鉈をあらぬ方向に投げた。
シュパッ。
木の根の辺りで不穏に蠢く蛇に命中している。サーカス団のナイフ投げの名人のような見事な技である。
キヨさんがマムシに噛まれないように成敗したのだ。
「……」
ああ、凄いと要は息を飲んだ。もう桜子から目が離せない。
風呂から上がり、食事を終えて、ぼんやりと縁側に座っていると、桜子が、麦茶を持って現れた。
「要様、喉を潤して下さいませ」
「ありがとう。桜子さん」
何だろう。桜子はモジモジしている。
「どうしたの。桜子さん」
すると、桜子が綺麗な和紙で包装された万年筆を差し出した。
「要様、お誕生日、おめでとうございます。わたしからの贈り物でございます」
ああ、そうだ。この万年筆を取り戻す為に、桜子は男に飛び蹴りを喰らわしたのだ。雷小僧のように、とんでもないスピードで走っていた光景を思い出した要はブッと吹き出していた。
なぜか、要の笑いのツボに入ってしまったのだ。
クスクスッ。桜子という女性は普通の尺度では測れない。
痛快だ。
「ど、どうかなさいましたか。万年筆は気に入りませんか……」
おろおろする桜子に対して、要は腹を押さえながら言った。
「いえ、こ、これは、しゃっくりだよ。ひっ、ひっ、うっ」
笑ってはいけない。笑うな。要は自らに言い聞かせるが、我慢しようとすると、もっと疼いてしまい笑いが止まらない。すると、桜子は、これは大変とばかりに力任せに要の背中を叩いた。
「げふっ」
飲んだ麦茶が逆流しそうになるが、要は何とか嘔吐をこらえた。
ふと顔を上げると、今にも泣きだしそうな桜子と目が合った。桜子は、大きな瞳で要の顔を心配そうに覗き込んでいる。
(なんて綺麗な人なんだろう)
要は万年筆を胸に抱くと、心から嬉しそうに呟いた。
「ありがとう。大切に使わせてもらうよ。本当に、素敵な人だ。君のような人は、今まで見た事がない。もっと君を知りたいと思ってる」
要にも理解不能な衝動が湧き上がっていた。そのまま、桜子の頬に手を添えた顔を近付けていく。不思議な空気が流れ始めている。
潤んだような瞳とフワリと不安定な表情。要の異変に気付いた桜子は身構えた。
これはキスへのエチュード。そう思えば良かったのだが、熱病に浮かされてこちらに倒れかかっていると勘違いしてしまったのである。
「要様、しっかりして下さいまし! お熱があるのですね。顔が赤いですわ」
桜子は自分の方へと顔を傾けている要を支えると、そのまま、どっこいしょと担いで運ぼうとしたものだから、要は慌てた。
「……いや、オレは風邪などひいていないよ」
「ですが、要様の顔色が変ですわ。何だか、眼の下にクマがありますわよ」
それは、桜子を追いかけて街を放浪したからである。
「さぁ、要様、ゆっくりと休んで下さいませ」
別に、熱はないけれど、要はおとなしく横になることにした。
「氷屋さんに行って、氷をいただいてまいりますわね」
「桜子さん、どこにも行かないでくれ」
要は、桜子の手首を掴んで引き留める。
「あなたが、こうして、見守ってくれるだけでいいんだ……。あなたと暮らせてオレは良かったと思っている。本当にありがとう」
「いいえ、何をおっしゃいますの。わたしの方こそ、要様と一緒にいられるなんて夢のようでございます。わたしは三国一の果報者でこざいます」
「……」
要は、桜子の摩訶不思議な魅力の虜になっている。誰か何と言おうとも、この人と別れるものか。絹代のおかげで、前よりも要と桜子の絆は強くなっている。
それから、しばらく、要と桜子の生活は穏やかに流れていった。
要は、素知らぬフリをしながらも、桜子の事を観察することにした。気をつけて見ていると、けっこう頻繁に見かける。要の会社の前の道を、時折、桜子が人力車で疾走していく。
なんて逞しい姿なのだろう。
(今日も、あなたは颯爽と走り抜けていくのですね……)
桜子という人間は見ていて飽きない。
最近の要はふんどしを卒業してトランクスを履いている。桜子は、いつも、楽しそうに要の服を洗濯している。それが癖なのかは分からないが、なぜか、桜子は洗う前のシャツをクンクンと嗅ごうとする。
何の意味があるのだろう。
(そんなに臭いのだろうか。気をつけよう)
いや、臭いのではない。桜子は要の匂いをクンクンしたいだけなのだ。まるで犬猫のように要に懐いていると言えよう。
一方、要も、万年筆を見つめたまま嬉しそうに微笑んでいた。昨日の夜の桜子の行動も可笑しかった。
少しふざけて、要は、そうっと後ろから近づいてからワーッと脅すつもりだったのだが、桜子の身体に染みついている柔道家の反射神経が炸裂していた。
足払いをされて、そのまま要は畳の上に倒されていたのである。
すると、ハッとしたように桜子は言い訳をした。
『わたし、立ちぐらみがして、よりかかってしまいましたわ』
いやいや、どう見ても、あれは柔道の足技である。
変な言い訳をする桜子も可愛くて要の笑いのツボを刺激する。
クスクス。
本当に、愉快な人だなと執務室で呑気に思い返していたのだが、そこに、腹違いの妹のゆき恵が飛びこんできた。
ゆき恵がとんでもない事を言った。
「お願い、お兄様。絹代さんと結婚してちょうだい。でないと、わたしが絹代さんの腹違いの兄さんと結婚させられてしまうわ」




