第十話
絹代の父には何人か愛人がいるけれど、婚外子は一人だけである。
使用人の貧しい女が産んだ息子である弓削金光のことを、絹代の父は息子として高く評価している。
長男で正妻の息子の弓削修(二十三歳)は賭け事に溺れている。
酔って喧嘩をして留置場に入れられるような放蕩息子ではどうにもならない。
一方、金光は帝大に通っている。
絹代の父は、絹代の娘婿に弓削家を委ねるか、もしくは、愛人の息子の金光に任せるか、どちらかの決断をするつもりだという。
金光は英語とフランス語に堪能で、おまけに思慮深くて、日本の外務省が官僚候補として彼を狙っているとの評判だ。
結婚相手としては、そう悪くない相手だと思うのだが、ゆき恵は涙目で訴えている。
「わたしはイギリスに留学するのが夢なのよ。それなのに、お母様は、留学なんてしたら、お嫁に行けなくなるからやめなさいって言うの。だけど、お兄様のことを説得できたら、わたし、留学出来るのよ」
環は、女だてらに、最先端のカフェーや富裕層向けの美容院やビリアード場を経営しており、それらの店は繁盛して儲かっている。だから、環は娘の留学費用を捻出する事もできる。
ちなみに、万次郎は、娘の教育や嫁ぎ先に関しては環に一任している。
「お母様が言ったわ。絹代さんはお兄様との婚姻を望んでおられるそうよ。弓削家は、お兄様に稼業を任せたいみたいなの。ねぇ、お兄様、絹代さんと結婚してよ」
どうやら、ゆき恵を使って揺さぶろうという継母の環の作戦のようだ。
要は深くため息をつく。
「ゆき恵、おまえの留学の目的は何なんだ? ただ単に世界を知りたいだけなら、金光君の妻になりなさい。新婚旅行で欧州を巡るといい」
「わたし、平凡な妻になりたくないわ。女性も外で働いたり政治に参加できると思うの。わたしは世界で生き生きと活躍する女性を見たいわ。日本の女性の地位を上げたいのよ」
ゆき恵のような過激な思想の持ち主は弾圧されてしまう恐れがある。
妹の本気度がどこまでなのか分からない要は眉をしかめる。
「おまえの理想は立派だよ。婦人参政権運動も異端者の発想だとは思わないよ。でもね、おまえは、所詮、お嬢様なんだよ。本当に戦う意思があるのなら、留学費用を親に出してもらうべきではない」
「だけど、女が働く場所なんてないじゃないの」
「寒村では女の人も炭鉱で働いているよ。街中にも、お惣菜や、豆腐を呼び売りする婦人がいらっしゃる。ゆき恵、本気で夢に挑みたいのなら働きなさい」
「そ、そんなの無理よ。体裁が悪いわ」
「日本に在住しているイギリス人が英文のタイピストを募集していたよ。そこで働けばいいじゃないか。まず日本で異国の風を感じるといい」
手書きの原稿を清書する為に打つだけなので、英語が苦手な人でもできる仕事だ。
ましてや、英語が堪能なゆき恵なら造作ない。
「お、お母様が出勤することを許さないわよ」
「うむ。それなら洋裁の内職をしなさい。ソーイングマシンを買ってもらったのを知ってるんだよ。あれを使わないのはもったいない」
たくさんワンピースやドレスを作ると意気込んでいたのに、今は、そのマシンは使われていないようである。
妹は熱しやすく冷めやすくて子供っぽい。絹代の家のメイドの鈴木敏子と大違いだ。あの娘は十歳の頃から、たった一人で生き抜いている。
「ゆき恵、おまえのような我儘な娘は金光さんにはもったいないよ。自分の事を、もっと顧みた方がいいと思うよ」
「……何よ。お兄様のいじわる。お兄様が絹代さんと結婚したくないからって、わたしを犠牲にするつもりなのね」
「ゆき恵、おまえは所詮は苦労知らずの我儘娘なんだよ。そのことを自覚しなさい」
「ひどい。華族の血をひいているからって、お兄様、いつも偉そうだわ」
別に、そんなつもりはないけれど環や妹は卑屈になる事がある。ゆき恵の母方の祖父は女衒なのだ。それも込みで、ゆき恵の実母の環は若い女を集めて働かせる才能を持っているようである。
要は、夫に頼らなくても自立している。夫の万次郎に対してもずけずけと物を言う猛女だ。
その点は逆に尊敬している。母親としては好きになれないが女の実業家としてはたいしたものだ。なぜ、環のような気概がゆき恵にはないのだろう。
ゆき恵は、ぷーっとふくれっ面になったかと思うとバンっと乱暴にドアを閉じて去っていった。
少し厳しい事を言ってしまったけれども、ゆき恵には幸せになってもらいたいと思っている。
長男の弓削修との婚姻なら断固反対するが、金光ならば安心だ。とはいうものの、ゆき恵は女性人権運動とやらに熱を入れているし、まだ結婚する意思もないという。何かを変えたいのなら、まずは自分を変える覚悟が必要だ。
(いや、妹に偉そうな事を言える立場ではないよな……)
万次郎が所有している家に住み続け、その家賃を妻とばぁやに払ってもらっている自分に妹を説教する資格などない。
つい先刻までは溌溂とした桜子の事を思い浮かべてフアフアと夢見心地になっていたというのに、今は、仄暗いコンプレックスの沼へと引きずり込まれそうになっている。
このままではいけない。
要は、その日からいつも以上に働くようになる。その為、帰宅は深夜近くになるようになっていた。
桜子は夜中までずっと起きて待っていたのだが、要は自分の帰りを待たなくていいと言う。
そんな事を言われても、要が帰宅したなら、お風呂にも入ってもらいたい。
すっかり冷めた湯を、また沸かし直して要が眠りについた後、桜子はようやく床に入る。
こんな日々が一週間ほど続いたある日の事だった。
とても眠くて足元がフラフラしていた。
じっとりと汗ばむような梅雨の曇天。
ジェイコブを自宅まで送り届けるとホッとした。今日は、どうも調子が悪い。
今日のお昼、横浜から帝都まで観光に来たというアメリカ商人を浅草に連れて行ったのだが、そいつは、高慢な男で日本人は足が短いとか、歯並びが汚いとか言いながら笑っていた。
そういう奴のガイドをするのは憂鬱だ。おまけに、最後はガイド料を値切りやがった。
桜子はぼったくったりなんてしていないのに、半値にしようとしたので、そこで言い合いになってしまった。それでも、何とか払ってもらえて良かったとホッとしている。
もう帰って休みたい。そう思って虎次郎の長屋へと向かう途中で桜子は強烈な眩暈を感じて倒れこんでいた。
「おい、しっかりしろ」
そう言って駆け寄ってきたのは、なんと雄一である。
「えっ、桜子、おまえ、なんて恰好をしてるんだ」
驚きながらも雄一は桜子を人力車に乗せると自分が梶棒を曳いて、そのまま氷屋へと向かった。
桜子の為に氷屋て買った冷たいラムネを手渡すと心配そうに言った。
「おまえ、金に困ってんだな。伊集院さんは、おまえが車夫をしていることを知らないのか?」
「知ってる訳がないじゃん。あたし、要様に嫌われたくない。お兄ちゃん、このことは誰にも言わないでね」
「言わねぇよ。だけど、オレはちょっと腹が立ってる。桜子をこんなにヘトヘトになるまで働かせるなんて男としてどうなんだ」
「要様の悪口は言わないで。要様には内緒で、あたしが勝手にやっている事なんだから。あたしは身体を動かしたくてやってるの。お兄ちゃんも知ってるよね。あたしが運動するのが好きだってこと」
「ああ、まぁな」
桜子は、そこいらへんの男よりも体力がある。
ある日を境に桜子の性格が激変していた。何かが憑りついたかのようだと、当時は、雄一も心配した。
(まるで別人なんだよなぁ)
雄一の父親は桜子の豹変ぶりに恐れに近い感情を抱いていた。山の神の祟りかもしれないとブルっていたけれど、雄一は、桜子が前よりも能動的になった事が嬉しかった。
家の中でシクシクと泣いていた桜子よりも、銃を構えて獣と退治する桜子の方が輝いている。
桜子との山での暮らしを思い返しながら呟いた。
「おまえは好きなように生きたらいい。おまえがやりたいように生きろ。でも、身体を休めるのも大切だぞ」
それは桜子も分かっている。
「もうすぐ日が暮れるわ。返らないとキヨさんが心配するわ」
「なぁ、かき氷を食べようぜ」
氷屋の隣は、お茶屋さんだ。芸者の歌や三味線の音が聞こえてくる。
氷屋の向かいの建物は印刷所のようである。カタカタという機会音が漏れ聞こえてくる。
雄一と桜子はかき氷を食べ終わった。桜子も少し元気になった。いつものように虎次郎の長屋に人力車を返却しようと思ったのだが、目の前で別の人力車が停まった。
その車夫は、若い軍人さんを乗せてここまで来たようだ。
何気なく、その様子を見ていると、軍人が人力車の車夫に難癖を付け始めた。
「貴様、無礼だぞ。降りる際に、舵棒がわたしの剣の鞘に当たったぞ」
「も、申し訳ありません」
「軍人の魂とも言える剣の鞘に傷をつけたのだ。代金は払わぬ」
「そ、それは困ります。二時間も走ったんですよ」
「うるさい、貴様、それでも日本人なのか。我々、軍人のおかげて暮らせているのだぞ」
戦争に勝って以来、軍人を持て囃す風潮が広がった。威張る軍人が増えている。威張るだけならまだしも、銭湯に入っても銭湯代を半額にしろと言ってみたり、飲み屋に入ったら飲み代を半額にしろと強請る軍人が増えている。
そんなに軍人が偉いのか。
だが、軍人は剣を持っているので車夫は逆らえない。
それにしても二時間も走り続けてタダ乗りしようなんて図々しいにも程がある。桜子は、同じ車夫として怒りを覚えて奥歯を噛みしめる。
殴ってやりたい。しかし、軍人相手ではどうしようもない。そんなやるせない気持ちになり、心が黒く澱みかけた時、雄一が、スッと前に進み出て軍人をぶん殴っていたのだ。
軍人の前歯が吹っ飛んだ。
「お兄ちゃん、駄目だよ」
桜子は焦った。
「貴様、何をする」
軍人は雄一にサーベルを向けようとしたものだから、桜子は軍人を羽交い絞めにしてから、足技で軍人の身体を傾けさせて膝をつかせた。
「軍人さん、やめて下さい。お兄ちゃんも早く謝って」
桜子は何とか穏便に済ませたいというのに、運が悪いことに、また別の人力車がやってきた。下級士官と思われる若い軍人が怒気を含んだ声で問い詰めてきた。
「おい、そこで何をしている」
仲間の軍人を救おうとしたのか、そいつは桜子の襟首を掴んで引き剥すそうとする。この時、桜子の柔道家としての本能が炸裂してしまい、長身の軍人を投げてしてしまった。
すると、騒ぎを見かけた三名の別の軍人が茶屋から加勢をしに駆けつけてきたのである。
ああ、まずい。
もはや、カオスだ。
冷静に話し合いをしようにも、合計五人の若い軍人達は聞く耳などもたない。
一般人にやられてなるものか。そんな感じで桜子と雄一に挑みかかってくる。さすがに斬りつけたりはしないが、桜子をぶん殴ろうとしているものだから、桜子も必死になって戦った。
相手を傷つけることなく制圧しようとして何とか奮闘してたのだが、雄一は、まるで熊とやり合うかのように相手をぶん殴っている。
この戦いは桜子と雄一ペアの圧勝だった。
母熊と取っ組み合いをした事のある雄一と金メダリストの桜子を相手に五人の軍人達は敗れたのだ。
ワイワイ、ガヤガヤ。
野次馬の中には、物乞いの廃兵もいる。街の人達は先刻の経緯を知っているから、桜子達に同情している。
「また軍人どもが半額にしろとか、タダにしろって言ったらしいよ」
「そんなに兵隊さんが偉いのかねぇ」
芸者の姐さん方は、雄一と桜子、どっちが好みか二階から言い合っている。
「筋肉隆々の山男の方がいいに決まってるじゃないの」
「華奢な美少年もいいわよ」
「それにしても、あの二人、強いわ」
こんな騒ぎの原因になってしまった事が怖かったのだろう。タダ乗りされた車夫がきっかけて起こった喧嘩なのだが、いつのまにやら被害者の車夫は逃げ出している。
雄一は薙ぎ倒した軍人達を踏み越えて桜子と共に逃げようとするか、そこに警察官がやってきた。
「おい、そこで何をしている」
結果的に、軍人達に無礼を働いた罪で桜子と雄一は現行犯逮捕されてしまったのである。
留置所へと放り込まれた桜子は絶望していた。
捕まったのは桜子と雄一だけである。軍人達は無罪放免だ。
「今日は警部殿は帰宅しておられる。明日、取り調べをするからな」
桜子と雄一は鉄格子の中に閉じ来れられてしまった。
「すまない。桜子、つい、カーッとなっちまって」
「お兄ちゃんの悪い癖だよ。後先、考えずに殴っちゃ駄目だってば」
「だけど、腹立つよな。最近の軍人どもは勘違いしてやがる。戦っているのは、あいつらだけじゃねぇんだよ。みんな命をかけてるぜ。炭鉱の男達も漁師も出産する女達も、みんな命がけで生きている」
「……」
元自衛官として桜子も色々と思うところはあるが、今は、そんな事よりも、明日の取り調べが怖い。
「どうしよう。要様に知られたら嫌われちゃうよ」
男装して車夫の仕事をして、おまけに喧嘩をして檻の中にいるだなんて……。
それこそ、離縁されてもおかしくない。
どうにか、ここから脱走できないものだろうか。
午後七時。
おまわりさんが、美味しそうなアンパンをくれたが食べる気になれず、ぼーっと一点を見つめていた。
どうしよう。こんなことになるなんて。桜子は泣きはらしていた。
今頃、キヨさんも要も心配しているに違いない。
ここにいますと連絡する訳にもいかず、桜子は言い知れぬ不安と罪悪感に襲われていた。
しかし、雄一は鼾をかきながら眠っている。
こうやって喧嘩が原因で捕まる事には慣れているからだ。
ここに来る前に氷屋の御主人に人力車を頼みますと言っておいたので、盗まれる事はないだろう。
深夜になっても桜子は眠れないでいた。しかし、唐突に、宿直のおまわりさんが来た。
「おい、おまえら、帰っていいぞ」
帰れるのは嬉しいけれど、まだ取り調べもしていないのに、なぜ、開放されるのか分からない。雄一も寝ぼけ眼で聞き返している。
「おい、急にどうしたんだよ」
「おいらも詳しい事は知らねぇが、軍の偉い人が、今回の事は軍人が悪いっておっしゃったんだ。運がよかったな。さぁ、とっとと帰ってくれ」
こうして、桜子と雄一が開放されたのには理由がある。あの場には物乞いに扮して張り込みをしていた大熊中尉がいたのだ。
反政府分子が集う印刷所にコソコソと出入りしている大学生を見張っていると、あの騒ぎが起きた。
二時間も人力車に乗っておきながらタダで済まそうとした奴は下っ端の兵隊だ。しかも、そいつは外地で戦闘した事もない。
他の奴等にしても、どこぞの地主や商人の次男坊達で戦争体験はない。
あんな奴等のせいで、正義を訴えようとした車夫達を前科者にする訳にはいかないと、大熊中尉は思った。
その時は、大熊中尉は張り込みの仕事があったので動けなかったが、深夜になったので、こうして桜子達を救ったという訳である。大熊中尉の上司が警察に電話一本かければ済む事である。大熊中尉は、警察署から無事に出てきた桜子の後ろ姿をそっと見送っていた。
背負い投げ。大内刈。膝車。どれも素晴らしかった。なんと華麗なことか。
瞼に焼き付いて離れない。美麗な顔。可愛いお尻。
清く正しく美しい桜の介という車夫の凛とした横顔を見ると胸が苦しくなる。
これは恋なのか……。
もし、そうなら、この気持ちは永遠に胸にとどめるしかない。軍では男色は禁忌とされているからだ。ああ、切ない。しかし、そんな大熊中尉の懊悩など知らない雄一は、警察署を出た後、のびのびと欠伸をしていた。
「こんな夜中に返されても困るぜ。あのまま寝たかったな。おい、桜子、おまえ、どうする?」
「家に帰りたいよ。だけど、この恰好じゃ無理だわ。でも、虎次郎さんも、この時間帯は寝てるから起こせないよ」
「それじゃ、明け方まで、オレの宿で過ごすか」
「うん。そうさせてもらうね」
地方労働者や貧者が安く泊まる小汚い宿で二人は眠った。マタギの小屋もそうなのだが、ムッとするような男のニオイがする。普通なら、顔をしかめるところなのだが桜子には妙に懐かしく感じられる。子供の頃から仲が良かったせいなのか、桜子は雄一を異性として意識した事は一度もない。
雄一はおおらかで優しい。そして、おおざっぱだ。
ハッと気付いた時、翌日の正午になっていた。
「ちょっと、お兄ちゃん、なんで明け方に起こしてくれないのよ」
「おまえ、気持ち良さそうに寝てたからなぁ」
「早く帰らないと、みんな、心配してるわ」
桜子は小走りで虎次郎の長屋に向かうと、虎次郎が切羽詰まったようにしがみついてきた。
「おお、帰ってきたか。聞いたぜ。軍人と喧嘩して捕まったらしいな。おいらの車は、氷屋の主人が持ってきてくれたぜ。大変だったな」
「心配かけてごめんなさい。早く帰らないと、みんな心配してると思いますわ」
桜子は慌てふためいたように着物に着替えると、そのまま走ろうとして玄関の敷居に躓いて転んでいた。
「おい、桜子、大丈夫か」
外で待っていた雄一が心配そうに手を差し出している。
「おまえ、疲れているみたいだから家まで送るよ」
「いいってば、そんなことしたら誤解されちゃう」
「馬鹿だな。昨日、どこで過ごしたのか聞かれたらどうするんだよ。おまえ、言い訳を考えてないだろう。オレと一緒にいたって正直に言えよ。やましい事は何もないって言え。それで信じてくれないような奴なら別れちまえ」
「……もう、ふざけないでよ」
「ふざけてねぇぞ。本気だぞ。兄ちゃんが、伊集院さんのこと見極めてやる」
雄一は我が道を行く男なのだ。
仕方なく、二人で帰ったけれど、家の近くまで来ると桜子が雄一に言った。
「ここからは一人で帰るわ」
「いや、兄ちゃんが伊集院さんに挨拶してやる」
「いや、それ、困るんだってば」
そんな事を言い合っていると背後から声をかけられ、桜子はハッと振り返る。
「桜子さん!」
それは、行方不明の桜子を心配して近所を歩き回っていた要の声だった。
「要さまぁーーーーー」
嬉しくなって坂の上にいる要の元へと駆け出そうとしたが無様に転んだ。ドベツ。睡眠は足りていたが、朝から何も食べていなくて血糖値が下がりまくっている。
「おいおい、桜子、肘、すりむいてるぞ」
雄一は桜子の着物の肘の辺りに顔を寄せると、いつものようにペロッと舐めた。桜子が怪我をすると舐める。まるで熊のような男だ。
雑菌が入るからやめてくれと言っても舐める。
でも、いやらしい感じではない。母犬が子犬を毛づくろいしているような感覚だ。少なくとも桜子はそういう感じでくすくったそうにしている。
その時、要の顔は凍り付いていた。
一晩、行方不明になったかと思うと、翌日、ガタイのいい男と返ってきたのだ。それだけでも胸がざわつくというのに目の前でペロペロされたからには黙っていられない。
「あなたは誰ですか。なぜ、桜子さんと一緒にいるのですか」
「よう、あんたが伊集院さんか。男前だね。初めまして。オレはこいつの兄みたいなもんです。田舎にいる頃から、桜子と仲良くやってました。昨夜は、桜子が急に倒れちまったもんだから、看病していたんですよ。言っておきますが、オレは桜子とはそういう仲にはなりゃしねぇ。だから、誤解しないでくれ」
そんな事を言われても普通は信じないだろう。要は喉を震わせている。雄一の登場に我を失いそうになっていた。しかし、桜子はフラフラしながらも健気に微笑んでいる。
「要様、御心配をおかけして申し訳ございません……。わたし、少し体調が悪くて倒れてしまったところにお兄ちゃんが通りかかったのでございます」
それに関しては嘘はついていない。
脱水症状を起こしてへばっていたのは事実だ。
一夜明けても頭に靄がかかったような感じが続いている。
軍人との喧嘩も、今、振り返ってみると自分の動きは鈍かったような気がする。このところ、要の帰宅は遅かった。こちらから話しかけても表情が硬かった。要はピリピリしていたけれど、その理由が分からなくてモヤモヤしたのだ。
愛する要の事が色々と心配で桜子も眠りが浅くなり疲労が蓄積されている。
雄一はニヤッと要を見下ろすようにして言う。
「なぁ、伊集院さんよ。うちの桜子は浮気をするような女だと思うのかい?」
「……」
要はキッと強い目付きで雄一を睨む。
「桜子さんは、そんなふしだらな人ではない」
「おう、よく分かってるじゃねぇか。そうだよ。桜子は馬鹿みたいに純情で一途で真面目な奴なんだぜ。あんたの為に一生懸命に動き回っている。これからも大切にしてやってくれ。浮気なんかしたら許さないぜ」
そう言うと、雄一は腰を屈めて桜子を促した。
「兄ちゃんが家まで背負ってやる。ほら、おんぶしてやる」
「やだ。お兄ちゃん、恥ずかしいってば」
そんな二人の間に割って入るようにして要が桜子の手を引いた。
「桜子さん、帰りましょう」
グイッ。
要は桜子のことを雄一から引き離すかのようにして歩き出している。雄一はニッと笑って要に託した。
「お兄ちゃん、またね」
「おう、ゆっくり休めよ」
雄一は、遠ざかる桜子と要の背中を見つめたまま、フッと唇の端っこを吊り上げる。
(坊ちゃんは桜子のことをマジで惚れてるみたいだな)
自分に向けられた嫉妬心が心地いい。
「オレなら、桜子の隣にオレみたいないい男がいたら頭の中が真っ白になってぶん殴るけどねぇ。坊ちゃんは腕力がないから、しゃーねぇーな」
そんな憎まれ口を叩きながらも、どこか満足気に帰っていく。
そのガッシリとした体躯には男としての魅力が溢れている。
☆
要の顔は少し険しい。帰宅してすぐに土下座して謝ろうとすると、要は、桜子の背中に腕を回して抱きしめたものだから、桜子の頬に赤みが走った。
「心配したんだよ」
「も、申し訳ありません」
「桜子さんが、いつも頑張っていることは分かっています。オレの為に苦労している事も知っています。実は、キヨさんから聞きました。家賃を立て替えてくれていたそうですね」
「えっ、御存知なんですか」
「来月からはオレが払います。その為に、オレも仕事を増やしました」
言いながら、要は背中に回していた手を緩めると、ゆったりとした仕草で桜子のやつれた頬に手を添えた。
「あなたに無理をさせてしまい申し訳ありません。オレのせいで倒れたようなものです。あなたを幸せに出来ない事を情けなく思っています」
「何をおっしゃるのですか。わたしは、こんなにも幸せですわ」
桜子は澄み切った瞳を向けている。
「それに、お家賃のことはわたしが払いたくてやっています。苦しみも楽しみも、二人で分け合うものですわ」
このところ、要は不機嫌そうに見えた。話しかけても心がどこかに飛んでいるかのようで、桜子は寂しかった。
でも、今は、こうやって本音で話せている。
「どうか、今後も、わたしにもお手伝いさせて下さいませ」
「しかし、桜子さんは倒れてしまったと聞いています。昨日も、あなたは外でのお仕事に疲れたのでしょう?」
「ええ、ですから、少しわたしも力を抜いて休むようにいたしますね……。ところで、わたしが外で何をしているのか御存知なのですか?」
えっ。
要は逡巡する。言うべきか。いやいや、さすがに、あれを見たとは言えない。
要は言葉を濁すようにして言った。
「いえ、外であなたが家政婦の仕事をしているとキヨさんから聞いているのですが……」
家政婦?
桜子はパーッと目を輝かせた。
「そ、そうでございます。わ、わたしは流浪の家政婦をしております。けっこう体力を使うのでございます」
さすがに車夫をしていますなんて口が裂けても言えない。とっくの昔に真相はバレているのだが、桜子は、小鳥のように弱々しい女のフリをしたかったのである。
要も、桜子に話を合わせる事にした。
「桜子さん、とにかく、今日は休みましょう。オレも会社を休みます」
「そうですわね。今日はのんびりと過ごしましょう」
そう言うと、二人してゴロンと寝転んでいく。
要は、昨晩から一睡もしていない。
ずっと、桜子の帰りを待っていた。
ただ、待っていたのではない。そこらへんを駆けまわって必死になって探していたのである。
もしかしたら、絹代によって誘拐されたのではないかと心配して気が気ではなかった。
桜子が無事でホッとしていると、桜子は疲れていたのかすぐに寝入ってしまった。
(ゆっくりと休んで下さい)
要は桜子の汗ばんだ額に口づけると目を閉じた。要も疲れ果てていた。
数分後、要もスースーと寝息をたてている。仲のいい子犬のようにピタッと要の背中に張り付いて眠っている。二人とも、あどけなく見える。
「お二人とも、ゆっくりお休み下さいな」
キヨは畳に寝転がる二人の身体に布団をかけてから、そっと出て行く。
要の桜子への想いの強さを感じ取ったキヨは安心していた。
(やはり、お二人は愛し合っておられるのですね。このまま、夫婦になってくれたら良いのだけれど……。蝮のようにしつこい万次郎様が引き下がってくれるかしら)
やがて、キヨの嫌な予感は的中するのだった。




