第十一話
六月の中頃。万次郎がキヨに無理難題を吹っ掛けてきた。
「なんですって。家賃を倍になさるというのですか……」
「それが嫌なら、あの娘を追い出せばいい。息子に、これ以上は無理するなと伝えておいてくれ」
どんどんプレッシャーをかけて桜子を追い出そうとしている万次郎だったが、この事を知った要は決意した。
「家を出よう。別の家を借りればいいんだよ」
万次郎に払っていた家賃と同じ金額を払えば似たような一戸建ての家を借りられると思っていた。しかし、要の通勤に便利なエリアの貸家はすべて誰かが借りている。
色々、探し回ってやっと見つけた物件も、要が仮契約した後、すぐに大家が言い難そうに断ってくる。万次郎や環のせいだ。ヤクザめいた男達が大家に圧をかけており、要には貸さないように言っているのだ。
悔しさに要は唇を噛みしめる。
今は、桜子とキヨと要の三人は一丸となって万次郎に対抗している。この事態に憤ったキヨが言った。
「坊ちゃま、決して桜子様を手放してはいけませんよ」
もちろんだ。桜子と別れるつもりなど毛頭ない。
「いってまいりまーす」
今日も、桜子は車夫として街を疾走していく。いつものようにジェイコブを迎えに行くと、ジェイコブが蒼褪めていたので桜子は尋ねた。
「どうかなすったんですか?」
「オーストリアの皇太子が撃たれたのだよ……」
桜子の預言は当たった。もうすぐ第一次世界大戦が始まる。そうなる前に、鉄や銅や小麦を買いまくるように息子に電信を送っておこう。
千里眼の桜子の預言通りなら、おそらく、ヨーロッパは大変なことになる。
もっと、戦争について聞きたいけれど、どこまで詳細に予言してくれるのだろう。少し、もどかしい気持ちでジェイコブは尋ねる。
「今のうちにイギリスがやれる事はあるだろうか」
「ドイツ軍が毒ガスを使いますと兵隊さんは苦労なさるでしょうね。毒ガスの後遺症で苦しんだりするかもしれませんわね」
「な、何だと、毒ガスだと」
桜子も、格別、歴史に詳しい訳ではないが、自衛隊でガスマスクを装着する訓練の際に、そういう話をチラッと軍事オタクの同僚から聞いた事がある。あとは、英国ドラマのダウントンアビーで見て知っている程度だ。
しかし、ここまでぺラぺラと語った後で桜子はハッとなる。
ここは異世界。
どうして、これから起こる事を知っているのかと追及されては困る。
「いえ、あの……。塩素の毒ガスを使うかもしれないなぁと思うので中和するマスクの材料を今のうちに集めたらいいのではないかしらと、個人的に予想したのでございます」
「うむ。なるほど、我が国も敵の脅威に備えねばならんな」
ジェイコブも深刻な顔で頷いている。
「各国が色んな兵器を作っていることはわしも心得ておる」
しばらく考え込んだ後、ジェイコブは言った。
「おや、おまえさん、少し痩せたのではないかね」
桜子にとっては、遠くの戦争より、自宅の家賃の問題が重たく肩にのしかかっている。
「ええ、実は、色々と困っておりますの。わたしと要様は家探しをしているのですが、なかなか見付らないのでございます」
相談されたジェイコブはフッと微笑んだ。
「わしの知り合いの空き家に住んだらどうかね。そいつは、大英博物館から派遣された学者でな、日本の海洋生物やらを調べるのが仕事だ。ついでに日本の民話や怪談を集めておる変り者なんだが、八か月ほど日本を離れるというのだよ」
洋館の一軒家を管理する人が欲しいけれど、信頼できる者でないと困る。何しろ、その家には貴重な資料や標本がある。標本など興味はなくても立派なケースに入っているので高価なものだと思って泥棒が入るかもしれない。
それに、ネズミに標本を齧られたりしたらたまったもんじゃない。
「八か月間、限定なのだが、おまえさん達がよければ、明日からでも住めるぞ。スペンサー卿は、明日の朝の船便で帰国するのだよ。いずれ起きるかもしれない大戦の状況によっては、当分、こっちに戻らぬかもしれぬのう。ああ、そうそう、その家はヴィクトリアの近所なのだよ」
「あら、素敵ですわ。是非とも、そこに住まわせて下さいな」
「うむ。よかろう」
要に先に相談すべきだとも思ったけれど、その洋館は要の会社からも近い。何より、桜子と仲良しのヴィクトリア一家が近所にいるというのが心強い。
「桜子さん、引っ越しましょう」
要はすぐに賛成してくれた。洋館には家具が一式備え付けられているので、身体一つで移動すれば良かった。
キヨがよく使う鍋や洗濯板といったものは持ってきたけれど、要も桜子も身軽に引っ越してきたのである。それこそ、赤毛のアンの家のように愛らしい外観に桜子の頬はフルッと緩んだ。
また、ここから新しい日々が始まる。
二階建ての洋館の玄関のドアの前で要が言った。
「ここは本当に素敵な家ですね」
要も気に入ったようだ。興味深そうに家主が残した書籍を手に取っている。
キヨはキヨで、ハイカラなシャンデリアやオルゴールなどの調度品を眺めている。
「要様、しばらくは家賃の心配はしなくて済みますわね」
「暖炉があると冬でも暖かく暮らせるよ」
桜子と要が微笑みながら、シャンデリアのある居間で紅茶を飲んでいた頃。
急に引っ越したと知った万次郎が地団駄を踏んだ。
異人の家には手を出せない。それが、日本人の家ならばこっそりと火を付けて要を燻り出す事も出来たのだが、金持ちの外国人が暮らす区域の入口にはガードマンのような者がいる。
(くそーーー。要め……)
息子を甘く見ていた事を後悔していると、そこに、なぜか、西園寺美智子がやって来たので、仕方なく玄関で対応した。美智子はげっそりとやつれていた。
「伊集院様にお願いしたいことがございます。前に約束していた娘の女学校の学費を受け取りにまいりました」
「そんな約束はしておらん。帰れ」
「ですが、前に……」
「おまえの長女が、わしの愛人になったらの話だったのだぞ。おのれ、わしの息子をたぶらかしおって。おまえは、どんな教育をしておるのだ。おまえの娘はとんてもない毒婦なのだぞ」
こないだ風呂場でツルッと滑って頭を打った瞬間、万次郎は明確に思い出したのだ。桜子に投げ飛ばされた事を……。
「わしの大切な息子を骨抜きにしおって……。帰れ、帰れ。不愉快だ」
万次郎に足蹴にされた美智子は這うようにしてアタフタと逃げた。万次郎の言いつけで、初老の女中が美智子に塩を撒いている。まるで、薄汚い物乞いを追い払うかのような扱いである。悔しさと悲しさにまみれて泣き暮れながら唇を噛みしめる。
美智子は絶望していた。
実家の兄には、これ以上は頼れない。こうなったら、桜子をどこかに売り飛ばすしかない。その時、美智子の脳裏には、『からゆきさん』という言葉が渦巻いていた。
シンガポールやサイゴンやフィリピンや香港などの娼館へと連れて行かれる若い娘のことを、こう呼ぶのだ。
騙したり誘拐したりして強引に海外に連れ出せば女達は二度と帰ってこられない。
(そうよ。あんな子、わたしには関係ないわ。董子ちゃんの為にもお金が必要よ。嫁ぐにしても、支度金が必要なのよ)
美智子の心には悪の華が咲いている。すぐさま、借金取りの男に告げていた。
「そんなにお金が欲しいのなら、娘の桜子を外国に売り飛ばして下さいな」
最初、男達はそれを拒否した。万次郎の息子の許嫁に手を出すなんてとんでもない。
だが、万次郎が桜子と息子を引き離そうとしていると知ると彼等は動き出したのである。
その翌日の夕刻、桜子は、そいつらに襲われた。一人は着物姿。もう一人はとび職のような格好をしている。
「あ、あなた達、なんですの」
「ふふっ、オレ達は、あんたをさらいに来たのさ」
桜子は、その時、買い物籠に貴重な卵を入れていたので、まずは、買い物籠をどこかに置いてから、男達を投げ飛ばしてやろうと思っていたのである。
その男達は前と後ろから桜子を挟むようにしてにじり寄っている。いつも思うのだが、着物というのは股を開きにくい。踏ん張って体幹がぶれないようにしたいのに、着物のせいで関節の可動域が狭まってしまう。
桜子は舌打ちする。くそーーーー。
モンペが履きたい。せめて、洋装になりたい。
しかし、何とか戦おうとして身構える。
「よう、べっぴんの姉ちゃん。おとなしくしてりゃ痛い目に合わせないぜ」
「そうだぜ。いいから、オレ達と一緒に来いよ」
男の一人は麻酔薬のような物を手にしていた。
夕刻、この界隈は人が少ない。ここは、高い塀で囲まれた家と家に挟まれるような路地である。
桜子は下駄を脱ぎ捨てて足袋で地面をこするようにして動きながら、どのように二人と戦うべきなのか考える。
柔道の技だけでは無理だ。よし、テコンドーの蹴りも使おう。でも、着物のせいで足が上がりそうにない。
(ああ、もどかしい。どうしようかな。やっばり、まずは足払いだな)
そして、前から来た男に対して足技をかけようと思った瞬間、拳銃の音が響いた。
振り返ると立派な身なりの男がいた。背広姿の普段着の大熊中尉である。大熊中尉は、まずは一発警告として空に向けて撃ったのだ。
相変わらず、中尉の眼光は鋭い。
「貴様ら、その婦人から離れろ」
「あわわ」
「勘弁してくれーー」
桜子を誘拐しようとした男達は慌てふためいて逃げ出していく。桜子は違う意味でドキドキしていた。
(ああ、びっくりした。まさか、近くに善意の第三者がいたなんて気付かなかったわ)
人前で、あいつ等を投げ飛ばさなくて良かった……・
「あ、ありがとうございます。大変、恐ろしゅうございましたわ。本当に助かりました」
桜子と目が合うと大熊中尉は、時が止まったかのようにフリーズしていたのだ。
桜子は小首をかしげた。
「あの、どうかなさいまして……」
「あっ、いや、何でもありません。あなたに似た人を前に見たものですから……」
似ているのではなくて同一人物なのだが大熊中尉は分かっていない。桜の花のように可憐な桜子。
(こんな美人は初めて見た……)
ただ、ぽーっと魂を抜かれたかの様に頬を染めが、ハッとしたように言った。
「あいつらが潜んでいるかもしれません。お宅までお送りしますよ」
「あら、大丈夫ですのよ。すぐそこまで行けば人の通りも増えますもの」
丁寧に断った桜子だったが、桜子をエスコートしたい大熊中尉が送ってくれるというので素直に従った。親切な方だ。
桜子は、銘仙の着物姿でテクテクと進みながら言う。
「わたし、異人さんのお宅の管理人をしております」
「まさか、あなた、お一人で?」
「いいえ。婚約者と共に暮らしております」
その瞬間、大熊中尉はどこかが痛むような顔を見せたものの、すぐに気を取り直した。そして、晴れ晴れとした顔で去っていく。
(あれぞ、大和撫子)
大熊中尉は心の中でホッとしていた。
やはり、自分は女が好きなのだ。付き合うなら、先刻出会った人のような大和撫子がいい。そんな事を夢見る大熊中尉はまだ独身である。ちょうど、桜子が絡まれた場所の近くに中尉の祖母が暮らしていて、遊びに行った帰りだったのだ。
「たまたまオレが通りかからなかったら、あの美しい婦人はどうなっていたのだろう。あのような美しい御婦人に手を出そうとするなんて不届きな輩め。撃ち殺せば良かったな」
大熊中尉は日本に巣食う悪人どもを壊滅させたい。彼は彼なりの正義を貫く為に、日々、奮闘しているのである。
その夜、美智子は、ヤクザな男達から桜子を捕まえ損ねたと聞かされて溜息を漏らした。
どうやら、桜子は洋館の管理人をしているらしい。綺麗な家で暮らす桜子の事が無性に羨ましくてムカついていた。今は、家政婦の吉村に払う給金もなくて、こないだ解雇している。
借金取りの男達は、ズカズカと乗り込むと赤札を家中に貼った。借金が返せない時は、美智子の唯一の財産であるこの家を手放すしかない。
八方塞がりの美智子の心は硬く強張っている。その目は憤怒に燃えている。
桜子と刺し違える覚悟で桜子が暮らす洋館へと乗り込んでいく。
「お母様、どうかなさったのですか」
土曜日だった。この日は、自宅に要もいたのだが、昨夜は、取引先との接待で夜中まで起きていた事もあり、まだ二階で寝ている。
桜子が応接間で美智子を持て成すと美智子が声を震わせるようにして言った。
「今すぐ、要さんと別れなさい」
「嫌ですわ」
即答だった。
「あなた、親の言う事が聞けないの? 誰のおかげでここまで大きくなれたと思っているの?」
「……お母様?」
桜子は美智子の様子がおかしい事に気付いていた。
「お母様、もしかして、お金に苦労なさっているのですか?」
着道楽の美智子が古ぼけたものを身に着けている。それに、帯留めや髪留めや半襟も安物だ。
おそらく、鼈甲の櫛や真珠の指輪など売れるものはすべて売ったのだろう。
「お母様、少ないけれど、これで美味しいものでも食べて下さいませ」
蒸し暑い中、人力車で稼いだお金だ。今月からは家賃は払わなくていいので桜子にも余裕がある。
「あ、あなた、あたしのことを憐れんでいるのね。何なのよ。馬鹿にしないでよ」
美智子はヒステリックに叫ぶ。
「施しは受けないわ」
「ですが、お母様……。とてもやつれていらっしゃいますわ。ああ、そうだ。董子は、元気にしておりますのかしら」
「あの子は元気よ」
いや、それは嘘だ。桜子も、今までのようにお金が使えなくなって落ち込んでいる。
美智子は恨みがましい顔で言った。
「あなたみたいな卑しい娘が、どうして、こんなふうに幸せに暮らせて、うちの董子ちゃんが毎日、同じ着物着ているのよ。そんなのおかしいじゃない」
「お母様……。もし良かったら、わたしのお金を使って下さい。新しい着物を董子に着せてあげて下さいな」
半ば押し付けるようにして渡すと、美智子は疲れたような顔で立ち去った。
すると、その日の夕刻、要が言った。
「今日、君の母上がいらしたみたいだね。挨拶も出来なくて申し訳ない」
「いえ、いいんです」
桜子は多くを語らなかった。しかし、キヨは夕飯の片付けを手伝う桜子に向けて呟いた。
「桜子様……、美智子様のことを旦那様に言わなくていいのですか。こんな言い方をすると何ですが、美智子様は癇癪をぶつける為にここに来たように見えました。何て失礼な人なのかと、キヨは呆れましたよ」
「お母様は生理前になると鬼になるの。イライラしてわたしに八つ当たりしてきたわ」
おそらく、あさって辺りに美智子は生理になるのだろう。とても分かり易い人なのだ。
美智子の事を思い返したのかキヨは少し非難するような顔つきをしている。
「美智子様、もしかしたら、また、お金を貰いに来るかもしれませんよ。その度に、お金を渡すおつもりなのですか?」
「それは、わたしにも分からないわ」
正直に言うと、美智子のことは嫌いだ。でも、長年、一緒に暮らしてきた。
「お母様もお辛いのよ」
夫は愛人の家に入り浸り、挙句の果てに破産して心中している。あれほどまでに見栄っ張りな美智子が、あんなみすぼらしい姿で街を歩いている事が、桜子には痛ましく映る。
「とりあえず、今日は、たまたま、わたしもお金を持っていたので差し上げたのです。金は天下の回り物とよく言いますでしょう。あるいは、情けは人の為ならぬですわ。ふふっ、きっと、巡り巡ってわたしは幸せになりますわ」
おっとりと微笑む桜子に対してキヨは困ったように眉尻を落としている。
「桜子様は本当にお人よしですね」
そんな会話を要は盗み聞きしていたのである。
(桜子さんは天使のような人だな……)
天使かどうかは分からないけれど、桜子はお金には執着しない性質だ。洗い終えたお皿を手ぬぐいで拭きながらキヨが言った。
「そう言えば、桜子様はお洋服が欲しいと言っておられましたわね。先刻のお金、お洋服を買うのに使われたら良かったのに」
「構いませんわ。いっぱい働いて稼ぎますもの」
桜子が欲しいもの。それは、アメリカの労働者が履いてるジーンズ。令和で言うところのリーバイスのデニムだ。それと男物のシャツが欲しい。股をガッと開いて意気揚々と街を闊歩したいものである。
(やっぱり、着物はどうも好きにはなれないんだよなぁ……。この髪も洗うが大変だから憂鬱なんだよなぁ)
しかし、桜子の言葉を盗み聞きしていた要は思うのだ。
スカートとブラウスとパンプスを桜子さんにプレゼントしよう。うん。それがいい。ハイカラな洋装の桜子も、きっと素敵に違いない。
要は、いつも頑張っている桜子を喜ばせたくて、色々と考えていたのだが、ちょうど、その頃、美智子の家では董子が号泣していた。
「お母様、この赤札は何なの。この家はどうなってしまうの」
「す、董子ちゃん、落ち着いてちょうだい」
「こんなの落ち着いていられないわ。どんどん、うちは貧乏になっていくのよ。もう女学校にも行けやしない。お友達と甘味処に入るお金もないのよ」
「お金ならあるわよ。さぁ、これを使いなさい」
美智子が桜子から受け取ったお金を董子に渡すと董子は無邪気に喜んだ。
「このお金、どうしたの? もしかして、伯父様からいただいたの?」
「……」
最近、美智子の兄はこう言っている。
『董子はどうせ結婚するんだ。高等女学校など辞めてしまえ』
女に教育などいらないと美智子の兄は言う。実際、董子は勉強などに興味はない。
学校のお友達とキャキャッと笑い合いたくて学校に通っているだけのように見える。
「もう、どうでもいいわ」
桜子に施しを受けたことで美智子の心はバリンと壊れている。ここまで落ちぶれたのかと、改めて思い知らされたのだった。耐えられない。もう、嫌だ。逃げ出したい。美智子の心は泥のように澱み、とことんまで疲弊していた。
こないだ、董子のお見合いの仲人の女が言った。
『少し早いけど、お宅の董子さん、お嫁に出したらどうかしらね。先方は、少しでも早く息子に身を固めてもらいたいとおっしゃっているわ。グスグスしていたら、別の娘さんに目移りするかもしれないよ。何しろ、池田の坊ちゃんは女好きだからね』
美智子も池田竜馬の噂について聞いたことがある。最初は、いいお相手のように思えていたが、あれは、とんでもない浮気者のようなのだ。
それでも、池田家に嫁げば金には不自由しないだろう。
翌日、美智子は娘の董子に告げた。
「董子さん。あなた、学校を辞めて竜馬さんのお宅に言って花嫁修業に励みなさい」
嫌だと言うかと思ったけれど、董子は跳ねるようにして笑った。
「嬉しいわ。学校なんて行きたくないと思ってたの」
お嫁に行けば、試験を受けなくても済む。どこまでも愚かな董子は二つ返事でお嫁に行きますと呟いた。この後、自分がどうなるのかなど分かっていなかった。
結婚すれば少女小説のヒロインのように愛されると信じて疑わない。
しかし、美智子はこの家を売るつもりでいる。娘を池田のところに送った後、自分は命を断つと決めている。この歳で、兄夫婦の家で居候するなんて惨めなだけだ。
兄はともかく、兄嫁と小生意気な姪達に馬鹿にされるなんて耐えられそうにない。
だから、美智子は、正式に董子と池田竜馬の親のもとに向かい、娘をよろしくお願いしますと告げた後、線路に向かった。汽笛が聞こえる。線路に立ち続けて意図的に迫りくる汽車に身を投げたのだ。
事故と自殺の両方が疑われたけれど、警察は事故と断定している。
「お母様ーーーーーーーーーーーーっ。そんなの嫌よ。董子の花嫁姿を見ないで死ぬなんて。お母様ーーーっ。どうか嘘だと言って」
董子は葬儀で泣き崩れた。桜子も言葉を失い顔を真っ青にしていた。
「董子……。久しぶりですわね」
桜子は妹に寄り添う言葉をかけた。
「お母様が亡くなって、あなたは一人になりましたわね。よければ。わたしと暮らしませんか?」
姉の桜子が引き取ったからといって誰も不思議には思うまい。
しかし、董子は跳ねのけた。
「あたしは竜馬様のところに嫁ぐことが決まったのよ。もちろん、こんな事が起きたから、すぐには結婚できないけど。喪が明けたら式を挙げるわ」
それを聞いた桜子は戦慄する。
「あの男はやめなさい」
あれは、とんでもない奴なのだと説明しようとすると、竜馬の叔母がやってきた。
「董子ちゃん。心配しなくていいのよ。あなたは甥の大切な婚約者ですもの。だから、結婚式の日までは、わたしの自宅で暮らせるといいわ。何不自由なく暮らせますよ」
言いながら、チラリとと意味ありげに桜子を見つめる。
「まだ結婚もしていない男女が一つ屋根の下で暮らすなんてことはありませんから安心しなさい。誰かさんと違って、あなたはお行儀のいい娘さんたものね」
それは桜子への痛烈な嫌味である。竜馬の叔母にしてみれば、桜子はアバズレだ。
「叔母様ーー」
董子は、竜馬の叔母に泣きついてワーワーと派手に泣きじゃくっている。父に続いて母も亡くしたのだから心細いに違いない。もはや、桜子に嫌味を言う気力さえもなさそうだ。通夜に訪れた人はごく僅か。何とも寂しい限りだ。美智子の葬儀の喪主として桜子は立派に振舞った。キヨや要も手伝ってくれた。
葬儀を終えた後、もう一度、董子を説得しようとしたのだが、今度は竜馬が現れたので何も言えなかった。
竜馬は喪服姿の桜子を見ると、どこか品定めするようにして目を細めた。にんまりと笑っている。その目付きがうざい。
その瞬間、桜子は悪寒が走った。この男、絶対にいやらしい事を考えている。
(董子、その男はとんでもない奴なのよ。結婚なんてやめなさい。あなた、不幸になるだけなのよ)
いや、言ったところで董子は信じてはくれないだろう。
とにかく、二人の結婚はまだ先だ。
幸い、祝言を挙げるまでは同居をさせないようなので、しばらくは安全である。
そのうち、竜馬の尻尾を掴んで董子の目を覚まさせようと決意した桜子は、美智子の位牌を胸に抱いて泣いていた。
「こんなに早く亡くなるなんて悲しいです」
事故なのか自殺なのか……。
桜子には分からない。最後に会った時、もっと優しくしてあげたら良かった。あの人は傷ついていた。それだけは確かだ。
(なんで、もっと寄り添ってあげられなかったのかな。あたしは自分のことで一杯で美智子さんの事を労わる余裕もなかったな)
美智子にとって桜子は格下の人間という認識だったから、お金を渡した事で傷つけてしまったのかもしれない。
(美智子さんも大変な人生を歩んできたものね、あたしも要さんの妹さんが産んだ娘の母親になれと言われたら、きっと戸惑うだろうな。それに、夫に先立たれたら心細くなるだろうな)
色々と後悔の念が溢れてきて止まらない。
そんな桜子を気遣うようにして要が肩を叩いている。
「桜子さん、お疲れさまでした」
ヘトヘトに疲れている桜子にとって要はオアシスだ。董子にも、こくんなふうに素敵な殿方と出会ってもらいたいと切に願う桜子だった。




