第十二話
思ったよりも早く虎次郎は復活している。だから、速やかに人力車は虎次郎に返している。
ジェイコブの仕事場と自宅のルートはいつも同じ。食堂や劇場など行きたい場所は地図で示す事で何とかなりそうだ。
ヴィクトリアと会う際の桜子は、いつもスカートを履いている。これらはヴィクトリアのお下がりである。赤毛のアンのような服装だ。
いや、正確にはマシューがアンに買ってくれたような可愛い服装と言うべきか。
お洒落な提灯袖のブラウスに踝が隠れる丈のロングスカートで、颯爽と街をサイクリングすると、人々が桜子達に注目する。
自転車に乗る女性は、まだまだ少ない。
「桜子、おはよう」
最近の桜子はヴィクトリアの侍女という名目で働いている。英国レディは外出する際には付き人をつけないといけないらしい。そういう意味では英語が話せて護衛も出来る桜子はピッタリだ。
「今日は、少し特別な場所に行ってもらうわね。お手伝いしてもらいたいの」
どこに行くのかと思いきや、着いた場所は孤児院だった。イギリス人の牧師夫人が主体となって運営している。ここにいる子の多くが混血児。つまり、ハーフだという。
「この子達の母親は外国籍の男の人に捨てられたみたいよ。結婚するという言葉を信じて子供を産んだものの、彼等は約束を果たさずに帰国したのよ」
ヴィクトリアの顔には怒りが滲んでいる。いい加減な男どもの振る舞いに我慢ならないのだろう。
「あとは、外国人専用の娼婦が産んだ子供がいるわ」
普通、娼婦は妊娠したと知ったら、すぐに堕胎するものなのだが、それが上手く行かずに生まれた結果、捨てられた。もちろん、両親共にイギリス人で生粋のイギリス人の孤児もいるけれど、そういう子は、すぐに養子縁組が決まり母国へと帰っていく。
ヴィクトリアが言った。
「混血の子供は養子縁組しようとしても、なかなか貰い手が見付らないのよ。見た目がどうのこうのというより、言葉の問題が大きいわね。日本語しか話せない状態で英国の里親のところに行っても戸惑うだけだわ」
ということで、ヴィクトリアは、ボランティアで英語を教えることにしたというのである。
といっても、日本語の話せないヴィクトリア一人では心許ない。だから、桜子に助っ人を頼むというのだ。
「もちろん、お給金は払うわ」
「いえ、わたしもボランティアで構いませんわ」
「駄目よ。これは仕事として依頼するのよ。その方が、こちらとしても、遠慮なくあなたをこき使えるもの」
言いながら、茶目っ気たっぷりにウインクしている。
「バイト代といっても、そう多くは払えないから、あんまり期待しないでね」
車夫と違って身体は動かさないけれど、孤児院まで往復二十キロの道程を通うので、いい運動になる。
孤児院の子供達は二十人。そのうち十五人が男の子だ。なぜ、男の方が多いかというと、女の子は娼館にそのまま置いてもらえるのだ。遊廓でいうところの禿のような仕事をあてがわれている。
とにかく、色々な事情があり孤児になった子供達である。縁あって、ヴィクトリアと共に小さな教室で言葉を教えることになった。みんな素直でいい子達だ。イギリス人の牧師夫人が主体となっているだけあって、子供達はキリスト教を信仰している。名前もチャールズとかマシューといった具合である。
ただし、お世話をする女性が日本人なので、みんな日本語で会話している。
ある時、桜子はトムとジェリーという双子の男の子が痣だらけの状態でシクシクと泣いているのを見つけた。
どうしたのかと尋ねると、見知らぬ日本人の男の子に石をぶつけられたのだという。
『やーいやーい、洋妾の息子、売笑婦の息子。あっちに行け』
罵詈雑言は日常茶飯事のようだ。
売春婦じゃなくて売笑婦と呼ぶのは大正時代のトレンドなのだろうか。漢字だけ見ていると女芸人のことを指しているように見える。嘲笑の対象という意味なのかもしれない。
養護施設で働く心優しい卯月奈保という娘は、トムとジェリーの手当をしながら教えてくれた。
「石をぶつけるぐらいなら、まだいい方ですよ。こないだなんて、アリスとエマが人買いの奴等に誘拐されそうになったんです。それからは孤児院から一歩も出ようとしません。姉妹の母親は日本人ですが娼婦じゃありません。堅気なんですよ。ちゃんと結婚したんです。日本生まれなので子供達は日本語しか話せないんです」
もちろん、娼婦の子供であろうとも石をぶつけたり誘拐してはいけないのだが……。
とにかく、ここで暮らす子供が気の毒で胸が詰まる。
「このままここにいても、この子達、馬鹿にされるだけです。お先真っ暗ですよ」
桜子は不思議な気持ちになっていた。もう少し時代が進めば、ハーフみたいな顔になりたいと憧れの的になる日も来るのだが……。そんな事をこの子達に言っても響かないだろう。
とにかく逞しく生き延びてほしい。
「決めましたわ。わたし、この子達に体育を教えます」
石をぶつけられそうになったら、ひょいとよけてしまえばいい。
「さぁーーー。良い子のみんなーー、ドッチボールの時間ですわよ」
桜子はドッチボールを教えた。幼児と赤子以外の全員が参加した。みんな、キャッキャと笑いながらボール遊びに夢中になった。桜子も剛腕を生かしておりゃーと高速ボールを投げ込んでいく。おかげで、子供達の反射神経は格段に上がった。
「はーい、みんな、良い子は体操をしましょうね」
自衛隊仕込みの体操を教え込んだ。みんな、ヤーヤーと掛け声を発しながら、朝から元気に体操するようになった。
「ようし、それじゃ、良い子は腹筋と背筋を鍛えましょうね」
特に男の子に奨励していた。
「腹筋が割れたら人気者になれますわよ。みんな、頑張ってーー」
桜子のスパルタ教育はどんどんハードなものへとレベルアップしている。おかげで、子供達の筋肉量が増えている。
「はーい。みんな、今日はピクニックに行きますよ。たくさん歩いたら御馳走が待ってますわよ」
桜子がみんなを引率していった。ヴィクトリアは自転車で先に自宅に戻ってランチの用意をしてくれた。孤児院からヴィクトリアの家までは往復二十キロ。子供達は折り返し地点のヴィクトリアの家で美味しいお昼ご飯を食べた後、また、孤児院へと戻っていく。
誘拐されそうになってから外へは出た事のないエマとアリスも、この日はニコニコしながら歩いている。
桜子はホッと胸を撫でおろした。しかし、孤児院の近くまで来た時、悪ガキともが囃し立てた。
「あれ、見ろよ。洋妾の子供がぞろぞろと歩いてやがる。あっちに行けーー。シッシッ」
また、奴等は石を投げたが子供達は石をサッと避けた。日頃の訓練の賜物である。桜子は石を投げた子供達にツカツカと近寄ると真面目な顔で言い放った。
「あなた達、今すぐに柔道を習いなさい」
「はぁ?」
いじめっ子達は訳が分からないという顔をしている。
「良い子は柔道をしなければならないのです。自分を磨きなさい。精力善用、自他共栄。人間は互いに尊重しあうものなのです。いいですね」
ギロッ。射貫くような視線が炸裂する。
「は、はいっ。分かりました」
何だか分からないが、桜子の殺し屋のようなオーラにいじめっ子はションベンを漏らしそうになった。当分、孤児達をからかうのはやめようと心に誓ったのである。
桜子は改めて感じた。この子達にも柔道の魅力を知ってもらいたい。
柔道が好きだ。やはり、自分は生粋の柔道家なのだ。柔道を教えることを提案すると孤児院の園長が賛成してくれた。ここの子供達は暴力に晒される事も多いので、護身術として柔道を習うべきだと園長さんも感じたようである。
久しぶりに桜子は柔道着に着替える。しかし、子供達は着物姿である。金玉ポロリはまずいので猿股を履かせておいた。
幸い、孤児院には広々とした畳の間がある。さぁ、ここが道場だ。
前世の頃から初心者に教えてきたので指導には慣れている。
『よろしいですか。道場というのは神聖な場所なのです』
子供達は、立礼、座礼から始める。柔道を通して人間として成長してもらいたい。
礼儀作法や、柔道の崇高な精神について語った後、指導を始めた。
『基本姿勢はこうです。柔道は相手と組み合わないと技がかけられません。釣手と引手があります。釣手は横襟、引手は中袖を持ちます』
もちろん、奥袖や袖口を持っても戦えるが技か制限される。
『はい、先生を見てね。基本はすり足で移動ですわよ。歩足と継足。この二種類を見せるから真似してくださいな』
足さばき、体さばき。崩し。
『正しい受け身を身につけましょうね。横受け身、後受け身、前回り受け身、前受け身。はーい、先生に注目してくださいね』
とまぁ、こんな感じで初歩から教えることにした。
この子達が投げ技を実践するのは、もっと先。まずは体力づくりに専念しよう。とにかく、少しずつ上達してくれたらと願っていた。
子供達には思いやりのある強い人になって欲しい。
桜子は指導する事が楽しくて堪らない。ストレッチ。指さしダッシュ。手押し車。練習メニュを懸命にこなす子供達は生き生きしている。
元々、英語を教える予定だったのに、いつのまにか柔道の指導者になっている。
しかし、ヴィクトリアは気にしていなかった。というのも、子供達の表情が前よりも明るくなったからだ。へとへとになる程に身体を動かすことによって鬱屈していたものが綺麗に昇華されているのかもしれない。季節は本格的な夏を迎えていた。
暑い。身体が溶けそうだ。その日の桜子は自転車で帰宅してから、洋装のままだらんとソファに座っていたのだ。すると、そこに要が帰ってきた。
「お、おかえりなさいませ」
「桜子さん、今日は洋装なのですね」
「申し訳ありません。着替えもせずにお出迎えして」
「いえ、何も着替える必要はありませんよ」
なんだ。そうだったのか。いつも、要は自宅では着物なので家では着物でいるべきなのかと思っていた。
「そ、それでは、毎日、洋装でも構いませんのね?」
「桜子さんの好きなように暮らしていただいていいのですよ」
「嬉しいです。そうさせていただきますわね」
幸い、ヴィクトリアのお下がりの洋服が何着もある。アメリカ製の乳バンドもある。という事で、この日を境にして桜子は洋装で過ごすことにした。桜子は決意する。そうだ。トランクスを履こう。
柔道着とズロースはどうも相性が悪い。
前世の頃から、桜子は夏場は男物のトランクスを履いていたのである。自衛隊の寮にいた頃、そのことで仲間には笑われたが、誰が何と言おうと夏はトランクスだ。
愛する要とお揃いのトランクスがいいだろう。
間違わないように自分のトランクスには、自分のイニシャルの刺繍を施しておこう。
そんなふうにして充実した日々を送っていたのだが、その日の午後、要は、デパートの衣料品売り場へと赴いていた。
最近、会社の法務の仕事を完璧にこなしてくれる社員が見付かり、要の負担は楽になった。
嬉しい事に、最近は黒字の収支になっている。これから、もっといい事が起きそうな気がする。そんな期待に胸を膨らませる要は、桜子に似合いそうなワンピースを購入する。
宝石売り場へと向かった。婚約指輪をまだ渡していない事に気付いた。どんなデザインのものにしようかと真剣に悩んでいると、そこに、買い物途中の絹代が通りかかった。いつもそうなのだが、絹代はハイカラな洋装だ。絹代は、まさかという顔で要を見つめている。
そして、ツカツカと要に詰め寄った。
「要様、どなたに指輪を買うおつもりですか?」
「もちろん、桜子さんですよ」
絹代は絶句する。
「どうしてですの。あの娘は不貞をはたらいているのですよ。御存知ないのですか?」
「オレの会社に妙な手紙と写真を送りつけたのはあなたですね。絹代さん、言っておきますが、オレは桜子さんがどういう人なのか知っています。オレは桜子さんと一生添い遂げたいのです」
「そ、そんなの有り得ませんわ。あなたの父上は絶対にお許しにはなりませんわよ」
「愛する人を娶るのに父の許しなど必要ありません」
それだけ言うと、要は、突き放すように絹代を眺めた。
「あなたは暇なんですね。買い物する以外に脳のない人だな」
わざと皮肉をぶつけた。要も絹代が自分に執着している事は知っているからこそ、馬鹿にしたように半笑いの顔で言う。
「オレは、あなたと話したい事は特にないので、もう失礼します。どうぞ、このまま、くだらない買い物を続けて下さい」
「なっ……」
なんですって。
今までも素っ気ない態度を取っていたけれど、今日の要は、絹代に対して敵意のようなものを露骨にぶつけている。この仕打ちに絹代はショックの余り蒼褪めた。屈辱にまみれた絹代は険しい顔で要の背中を睨みつけていく。
絹代の隣にいた荷物持ちのメイドもポカンとしている。あそこまで絹代がコケにされるなんて意外だった。メイドは慰めようとして告げた。
「あの男の人、ずいぶんと失礼でしたわね。気にしないで下さいませ」
「うるさいわね」
絹代はメイドの頬をひっぱたく。
「も、申し訳ありません。お嬢様……。出過ぎた真似をいたしましたわ」
「あなた、今日の事、誰かに話したら殺すわよ」
顔を引き攣らせるとドロッと粘着質な怒りを滾らせた。可愛さ余って憎さ百倍。まさに、その心境である。
(あの男、何様のつもりなのよ)
イライラする。
帰りの自動車の中で絹代は歯ぎしりをする。どうしても、どうしても、腹の虫がおさまらない。要への殺意のようなものが抑えられなくなっている。それでも、まだ要の事を諦められなかった。執着心が絹代を突き動かしている。
もはや意地になっている。
(あの女狐さえいなくなれば……。要様も正気を取り戻すかもしれない)
絹代は、その日のうちにヤクザを手配していた。
依頼はこうだ。
『西園寺桜子を誘拐して殺しなさい。遺体をバラバラにして東京湾の魚の餌をしなさい』
何だかサイコホラーな展開になってきた。喜助と弥一。金さえもらえば人殺しも厭わない男達である。もちろん、二つ返事で引き受けている。
最近の桜子は、いつも英国籍のヴィクトリアと行動を共にしており、なかなか、単独で動く機会はない。そこで男達は一計を案じたのである。孤児の男の子のトムを誘拐した。
いつまでたっても帰ってこないトムを心配して桜子や孤児院の人達は周辺を探し回った。
「トムちゃんーーー。どこにいるの?」
大人達がトムを見かけていないかと聞きまわっている。
喜助達は、その時、リヤカーに荷物を乗せて売り歩く行商人に変装していたのである。
通りかかった桜子が、重そうにリヤカーを曳いている喜助に向かって尋ねる。
「すみません、八歳ぐらいの混血の男の子を見かけませんでしたか?」
孤児院の園長さんのおつかいで、郵便局に手紙を投函したきり戻って来ていない。それもそのはず、トムは眠り薬を嗅がされて箱詰めにされた。今、まさにリヤカーの荷台に積まれているのだ。
リヤカーの後ろを押していた弥一が言った。
「おう、その子なら、あっちの空き家の中に入っていきますぜ。猫を追いかけておりましたぜ」
「あら、そうですの」
それは、御親切にありがとうございますと会釈すると喜助が言った。
「大変だな。おいら達も一緒に探しますよ。その日本家屋はとにかく広い。前に華族が住んでいたようですぜ」
そう言って、空き家の近くまで一緒に向かうと、喜一が塀を乗り越えるようにして覗き込んで叫んだ。
「てぇへんだ。あの庭に子供が倒れてますぜ」
「あら、大変」
空き家の門は閉じられている。どうやって忍び込んだのだろう。やはり、塀を飛び越えたのだろうか。それならば、自分も塀を跨いで入るしかない。幸い、フワッと軽やかな化繊素材のロングスカートを履いている。よっこらしよと片足をかけた直後、桜子の口に濡れた布が被さった。
眠りを促す薬を嗅がされて、そのまま気を失っていたのである。
男達はリアカーに積んでいた箱を降ろした。その箱の中には孤児のトムが入っているが、もう、こんなガキに用はない。
男達は桜子をリヤカーの荷台に乗せるとその上から毛布を被せる。そして、そのまま移動したのだ。
絹代のリクエスト通りに遺体を切断して浜辺に野ざらしにする為に、わざわざ海へと向かった。
どっぷりと日が暮れていた。
海の猟師小屋で桜子の身体を横たわらせると喜助が言った。
「なぁ、今すぐ殺すには惜しいぜ。こいつ、売り飛ばそうぜ。日本は無理でも外国船に乗せちまえば絹代お嬢さまにもバレやしねぇぜ」
「馬鹿な事を言うな。遺体を細かく切った証拠の写真を撮ってこいって、アメリカ製のカメラまで渡されたんだぞ。言われたように残忍に切断するしんねぇんだよ」
「それなら、殺す前に美女を抱こうぜ。なぁ、兄貴、それならいいだろう」
「ああ、まぁ、それぐらいはいいだろう。だけど、大声を出されるとやっかいだ。この女が寝ている間にさっさとやっちまえ」
「いひひ。いいねぇ。寝ている女を犯すってのもオツなもんだね」
「早くやれよ。オレは小屋の外で煙草を吸うぜ」
兄貴分の弥一は小屋の外に出る。すると、喜一はニヤニヤしながら、桜子の裸を拝もうとしてブラウスのボタンを外していく。こういうボタンに慣れていない喜助は面倒くさくなってしまい、持っていたナイフでシャツを引き裂いた。桜子の乳バンドも外そうとしたのだが、その時、桜子は目覚めていた。
(誰なの?)
卑しい男が目の前にいる。ああ、そうか、リアカーを曳いていた男の一人だ。
でも、そいつは桜子の服を破いている。
おかしい。これはどういう状況なのだろうか。
「あの、ここはどこですの? トムを探していたはずでのよ」
「ああ、あのガキはもういねぇよ。今頃、目を覚まして孤児院に帰ってるさ」
「あの、わたしはここで何を?」
「今から、オレが抱いてやろうってんだよ。いいか。逆らうなよ。そんなことしたら、おまえの顔を引き裂くぜ」
ヒンヤリとしたナイフの刃先が桜子の頬に当たっている。
桜子は、このピンチを脱却したい一心で懇願する。
「ああ、恐ろしい。おやめ下さい。わたし、あなた様の女になります。ですから、そのような恐ろしいものはしまって下さいませ」
刃物は危険だ。
桜子としても、ここは無傷で切り抜けたい。
座り込んだまま、ずるずると後退した後、壁に背中をすりつけるようにしてふらりと立ち上がった。
「お願いでございます。お助け下さいませ」
やめてと言われて止めるような男ではない。
喜助が、桜子へとにじり寄ろうとする。まだ、その手にはナイフがある。桜子は嫌々と泣くふりをして相手の衿や袖に手をかけると、そのまま、 喜助の足をさっと足払いする。眼にもとまらぬスピードで相手の体勢を崩してやった。
転んだ拍子にナイフは男の手から離れている。
相手の着物の衿を使い、送り襟絞めで男の頸部を絞めていくと、そのまま失神させたのだった。
よし、これで一人は片付いた。
桜子は周囲を見渡して耳を澄ます。波音が聞こえる。
ここは海から近いようだ。
しかし、逆に言うと人里から離れている。
猟師小屋に置かれていた網をナイフで切断すると、その網で男の手足を縛っておいた。
ついでに、男の懐を探ると拳銃が出てきた。こんなものを使われたら、たまったもんじゃない。
回収しておこう。
それから、桜子は小屋の戸口近くで悲鳴をあげた。
「きゃーーーーーっ、誰か、助けてぇーーーー」
すると、大声に驚いた兄貴分の弥一が引き戸を開けた。ガツンッ。物陰に潜んでいた桜子は持っていた棒で頭をぶん殴ると、そのまま外に飛び出していく。てっきり、男は気絶したと思っていたのだが甘かった。
「ま、待ちやがれ」
額から血をタラタラと流しながら、男は桜子に向けて銃口を向けている。
二人の距離は七メートル。
このまま走っても撃たれるリスクが高いと判断した桜子は砂浜に伏せた。相手は、桜子が転んだと思ったようだ。
「このアマ、手間を取らせやがって」
銃を桜子に向けたまま近寄ろうとしたけれど、桜子は伏せたまま反転すると、自分が持っていた銃で相手の銃を撃った。
「うっ……」
弥一の指先が痺れた。
銃を弾き飛ばされた弥一は面食らった。
(あの女、いきなり撃ちやがったぞ)
そりゃそうだ。元、陸上自衛官だもの。ああやって、伏せたままの体勢で撃つのは得意だ。
「フン、まぐれで当たったんだな」
弥一は呆然としながらも、落とした銃は、まだ使えるかもしれないと思った。再び桜子に撃たれるとやっかいだ。先に桜子を撃ち殺してやると思い、砂に埋もれた銃に目を向ける。長身の弥一が前かがみになり拾おうとした時、予想していない事が起きた。
桜子は逃げるどころか、猛然と駆けてくる。弥一が驚愕の表情で浜辺で中腰のまま佇んでいると、ひらりと高く右足が舞い上がった。
女性のスカートの中を見る事を優先した弥一は動けなかった。踵落としの蹴りが入った。その直後、弥一は目の前が真っ白になった。
「うぐ……」
今度こそ、弥一は失神していた。桜子は、砂だらけになったスカートをパンパンとはたいて砂を払うとフーッと溜息を漏らす。
緊迫した空気の中、桜子は考え続ける。
(こいつら何なのよ)
面倒だが、この男もお縄にしなければならない。喜助と同じように手足を縛り終えると、遠くの方から、人の声が聞こえてきた。
(えっ、やだ、あの声はもしかして……)
それは助けに来た要である。
あわわ。あわわわわ。おろおろしたまま桜子はどうすべきなのか焦った。
とりあえず、小屋から離れると松林の方角へと駆けこむことにする。
何とか誤魔化したい。
松の木の根元に座り込んだまま、かよわい声で告げた。
「か、要様……。桜子はここにおりますわ」
はぁはぁ。
必死の面持ちでの要は、桜子を見つけると感極まったように桜子を抱きしめた。
「さ、桜子さん、御無事でしたか……」
いや、その服装は酷い事になっている。ブラウスの胸元が切り刻まれて下着が露になっている。桜子は、ハッとしたように首を振る。
「わ、わたしは大丈夫でございます。純潔は保たれましたわ」
「……」
この時、要は少し言葉に詰まっていた。
要の顔は固まっている。信じてもらえないのだろうかと悲しくなった桜子は懸命に叫ぶ。
「わたしは生娘でございます。本当ですのよ」
「えっ……」
この時、要の頭の中にクエスチョンマークが飛来した。
「えーっと、あの、すみません。桜子さんは、子供の頃に男に襲われたのではないのですか?」
普段の要なら、そんなデリケートな問題を口にすることはない。この時ばかりは聞かずにはいられなかったのである。
桜子はきょとんとしている。
「いいえ。わたしは襲われたことなどございません。あっ、猪には何度か襲われております。猪は獰猛でございます」
「い、猪……?」
すると、桜子は真顔で言った。
「ですが、猪にも身体を傷つけられておりませんのよ」
「はぁ……。そうですか。しかし、桜子さんは生娘ではないという噂を聞きました。なぜ、そんな嘘が広がったのですか」
えっ。桜子はドキッとなる。まさか、要の耳にも届いていたとは。
これはまずい。訂正しよう。
「おかしなことをしたと思われるでしょうね。池田さんと結婚するのが嫌だったので、お兄ちゃんと付き合っているという噂を広めましたの」
その瞬間、要は快活な様子で破顔していた。
池田竜馬のような奴と結婚したくないと思うのは当然だ。だからといって、そこまでやるとは桜子の思い切りの良さに驚いてしまう。
「そ、それは何とも大胆ですね」
あはは。そうだったのか。酷い目に遭っていないのなら、それはとてもいい事だ。
それは良かったと安心した要はスッと一筋の涙を流していた。色々と緊張の糸が途切れたせいかもしれない。
「か、要様……?」
桜子はハラハラしたように見上げている。
「すまない。桜子さん、オレは泣き虫だね。我ながら情けないよ」
この時、要は改めて自覚したのだった。桜子を誰よりも愛している。絶対に、この人を失いたくない。要が、感情を高ぶらせて抱きしめると、桜子もその背中に腕をまわして嬉し涙をこぼしていた。
「桜子さん、あなたのことを本当の意味で妻にしたいと願ってもいいですか」
「もちろんですわ。桜子はあなたのものでこざいますもの」
ヒシッと互いに抱き合う。
「オレの上着を着てください」
麻の洒落た上着を桜子に羽織らせると桜子の頬はポッと桃色に染まった。人里まで向かうと二人で人力車に乗って帰宅した。ちょうどその頃、浜辺の小屋には警官が集まっていた。
箱詰めされていたトムが、誘拐犯は二人組で、男達はリアカーを引いていたと証言した事から、このように迅速に警察官は動いていたのである。警官達は失神している男がお縄になっている事に首を傾げていた。
男達に尋問したけれど、男達は桜子にやられたとは言わなかった。そもそも、誘拐などしていないと言い張った。彼らは桜子にやられたなんて恥ずかしくて言えない。刑務所で他の奴らに笑われたくない。
一方、男達をやりこめた桜子も本当の事は言いたくない。
(誤魔化すしかないわね)
涼しい顔で嘘をついた。
「わたし、気付いたら小屋に閉じ込められておりましたの。どなたかは知りませんが、小屋に出入りする傷病兵のような人がわたしを救って下さいましたの。ほんとうに危ないところでございましたわ。その男の身長はこれぐらいで……」
架空の男だが桜子の話にはリアリティがある。実は、いつか見た大熊中尉がモデルである。
「ああ、なるほど、戦争帰りのルンペンに助けられたのですな。さすが、元、兵隊さんだな。こういう悪漢を倒してくれるとは有難いですな」
人のいい警官はしきりと感心している。ルンペンとはホームレスのことだ。
桜子から事情を聞き終えた後、警官は桜子を解放してくれた。
桜子は犯人が誰に雇われているのか知らない。
とにかく、行方不明のトムが無事で良かった。
しかし、要は薄っすらと勘づいていた。
「おそらく、今回の事は絹代さんの仕業でしょうね」
「あらまぁ、恐ろしい」
桜子は、絹代という女のしつこさと陰険さにヘドが出そうになる。万次郎の可能性もなくはないけれど、ああ見えて、万次郎は人を殺めるような度胸はない。
要の母の霊が万次郎を恨んでいると祈とう師に言われてからは、死霊に関しては馬鹿満みたいに怯えている。
要は確信している。
(絹代さんの仕業だな。絹代さんには我慢ならないな)
要は、もう二度と桜子に手出しさせまいとして決意していたのである。
「もう、あなたはオレの家族です。本当に無事で良かった」
披露宴は来年でいいから早く関係を持って夫婦になりたい。そうすれば、さすがに、父親も絹代も諦めてくれるのではないかと思ったのだった。




