第十三話
速攻で既成事実を作るつもりだったけれど、これに対してキヨが猛反対していた。
「いけません。桜子様のお母上が亡くなってから間がないのですよ。坊ちゃま、常識的な行動を取ってくださいませ。桜子さんの為にも、きちんとしたお式を挙げて入籍するべきですよ」
面倒なことに、この時代、親の許可なく結婚できないことになっている。
二十五歳になるまでは親の許しが必要なのだ。
「自由恋愛を決行した者は、畜生婚と揶揄されますよ。桜子さんの為にもそのような蛮行はおやめ下さい」
ばぁやのキヨがそう言うのなら仕方ない。
「そんなことより、坊ちゃま、頼まれていた浴衣が仕上がりましたよ」
「ありがとう。とても可愛らしい浴衣だね」
要は、七夕の数日後の土曜日に行われる神社の夏祭りへと桜子を誘った。夕刻、祭り会場へと向かう桜子のテンションは爆上がり状態になっている。嬉しい。ずっと、こういう夏祭りのデートをしてみたかった。
夏祭り。大好きな要と歩く。これだけで、桜子の乙女心はお日様を浴びたように満たされる。要が、わざわざ用意してくれた浴衣は桜の模様である。
桜子と要の美男美女のカップルだ。しかも、どちらも背が高く、華やかなので、周囲の人達の視線が自然と集まる。
『見て……。綺麗な人。男の人もカッコいいわ』
『どちらも役者さんかしら』
人々の羨望の眼差しを浴びながら歩いていると、射的の屋台が目についた。目をキラキラさせている桜子に向けて要が言った。
「桜子さん、何か欲しいものはありますか」
「森永のキャラメルが欲しいですわ」
風味絶佳。あの黄色いレトロなパッケージと味が懐かしい。
「要様は、欲しいものはないのですか?」
「そうですね……。オレは金魚すくいをして金魚を飼いたいな」
そんな事を言い合い、二人は、まずは射的を行った。当たり前だが、桜子はキャラメルを狙って撃った。ばっちりと命中して商品をゲットしている。
要は、すごいですねと素直に感心している。
その後、金魚すくいに関しては桜子は失敗しているけれど、要が器用に五匹もゲットしている。要は金魚すくいが得意なのだ。
お互い、自分の手によって自分が欲しいものを得られて満足だ。
焼き鳥や綿菓子といったものを食べ歩き、腹も膨れた頃、神社の近くの河川敷で花火が上がった。
桜子と要はラムネの瓶を片手に喧騒から少し離れたところに移動する。今夜の祭りとは関係のない小さな神社の境内から花火を観覧する事にしたのである。
社務所もない神社だ。ここだと二人きりになれる。
「とても綺麗ですわ」
要は、花火を見ずに仰ぎ見る桜子の横顔を見つめていた。
「ええ、オレが知っている中で一番綺麗です」
要は桜子への想いを込めてそう呟いているというのに、何も気付いていない桜子は無邪気に笑った。
「花火って、どこか悲しい気もしますわね。すぐに消えてしまうからなのかしら」
「花火は元々は鎮魂の意味があったと聞いています」
「そうなんですね」
桜子と要が神社の境内の石段に腰かけて二人だけの世界に浸っていたのだが、要は、その時、胸に高ぶる感情を形にしようとしていた。顔を寄せて桜子に口づけようとした時、桜子がフッと鬼の形相で要の方を見据えた。
えっ。
バンッ。
なぜか、要は頬を叩かれていた。接吻されたくなかったのだろうかと思っていると、桜子が手のひらを見せた。
「要様の血を吸おうとした蚊を成敗いたしましたわ」
「あ、ありがとう……」
ブーーーーン。
藪蚊が多い事に気付いた桜子は張り切った。花火の音と蚊の音を聞き分けて叩きまくっている。
「一撃必殺ですわ」
バンバンッ。蚊を打ちのめす。桜子は大まじめだ。その様子を見ているうちに可笑しくなって、要は笑わずにはいられなかった。
☆
バーンという音の後、花火がはじける。
桜子の妹の董子が、池田の叔母の家から花火を見上げていた。
(竜馬様、董子とお祭りに行くお約束なのに、どうして、迎えにいらっしゃらないのかしら……)
竜馬の叔母に尋ねると、彼女は言った。
「きっと、あなたとの約束を忘れているのね。あの子は忘れっぽいのよ」
竜馬は、ここから徒歩で二十分ほどの小さな借家で暮らしている。
(そうだわ。竜馬様のお顔を見に行こう)
急に現れたら驚くかもしれない。けれども、きっと、可愛い婚約者の顔を見たなら、あの方は喜んで抱きしめて下さるだろう。キッスをしてくれるかもしれない。そんな期待を込めて董子はウキウキする。
竜馬の叔母の目を盗んで裏口から出ると、竜馬の住む家まで向かった。
「竜馬様……」
おかしい。
玄関の戸を叩いても誰も出てこない。しかし、家の中には人がいる気配がする。どういうことだろう。奥の間に明かりが点いている。
もしかして、竜馬は自宅で倒れているのかもしれない。そう思い、董子がそっと家に入ると、とんでもない光景が目に入った。竜馬は馴染みの私娼と過ごしていたのである。
全裸の竜馬は酒を飲んでいびきをかいている。その隣で、年増の私娼が帰り支度をしていたのである。なぜか、私娼の顔には打撲の痣がある。私娼の女は、驚愕している董子と目が合うと虚ろな顔で笑った。
「あんた、こいつの妹さんかい?」
その女は幽霊みたいに生気のない顔をしている。
「あんたの兄さん、金払いはいいが、気難しい男だよ。お酌の仕方が気に入らないってだけで、殴られちまう。まぁ、あたいみたいな年増は殴られても金を貰えるだけ有難いってもんさ」
何と、自宅に私娼を招いていたようだ。私娼というのはお国の許可なく身を売る女の事である。女は、やけにろのろのとした動作で髪を梳いている。
「もう二年も御贔屓にしてもらって助かるよ。酒さえ飲まなきゃ紳士なんだけどね。どういう訳が酒を飲むとおかしくなるんだよ」
もちろん、董子の父親にも愛人はいたし、男の人はそういうものだと理解しているつもりでいたけれど、私娼の女の目の痣は毒々しい。
その時、閃光のように桜子の声が蘇った。
『あの男はやめなさい』
もしかして、この事なのだろうか。そうだとしても、今更、婚約は解消できない。
(きっと、あの女が卑しいから、竜馬様は気分を害して殴ったのだわ)
自分は大丈夫。きっと竜馬は宝物を愛でるように愛してくださる。そうであって欲しい。
しかし、それが姉の考えだったという事をじきに知ることになる。
☆
同じく、花火が上がっている時間帯に事件が起きようとしていた。
「えっ、本当ですか、そんなに簡単に儲かるのですか」
最近、要の会社に入った秀才の名前は牧野晴市。膨大な数の英文の契約書を迅速に処理してくれる頼もしい男である。だが、牧野は分不相応な額の金を欲していた。幼馴染の女は吉原にいる。早く身請けしたいが、それには金が要る。
会社勤めの給料では間に合わない。居酒屋で、何かいい金儲けはないかと愚痴っていたところ、たまたま近くにいた男が牧野に言った。
『異人達がやっている賭場に行くと儲かるみたいだぜ。帝大の偉い先生が、一晩で大儲けしたって話だぜ』
ルーレットとポーカー。ロシア人のヤクザが仕切っている賭場には英語の話せるインテリの日本人もやってくる。
牧野は大学を卒業したばかりで、まだまだ人生経験は浅い。
そんな簡単に儲かる訳がないのに、賭場に行った。すると、花火が終わった頃、牧野の手持ちの金が十倍になっていた。
元本が少ないのでたいした額ではないが、それでも嬉しくて高揚した。
このまま勝ち続けたら、好きな娘を見請けする事が出来るのではないかと思い始めていたのだ。それから、一週間、毎日のように賭場に向かった。毎日、勝ち続けた。
けれど、その翌週からは負け始めたのである。
「なぜだ」
そこから、牧野の転落が始まる。
(なぜだ。なんで勝てないんだ……)
なぜ、勝てないのか。それは、ロシア人の配下のヤクザが八百長をしているからである。
まず、初日はドーンと勝たせてやる。そこから、数日は勝たせてやる。しかし、途中からは搾り取るという筋書きだ。
牧野の負債額が洒落にならないほどに膨れ上がった時、絹代の元に報告しにきた者がいた。
「お嬢さま、伊集院要の右腕となっている牧野の事ですが、我々の思惑通りになりました。牧野は焦っています」
「あら、それは何よりだわ」
自分を馬鹿にした要を破滅させてやる。そう決めている。
やっと軌道に乗り始めた要の会社を潰してやるのだ。そうすれば、要も自分に許しを乞うだろう。
(幸い、牧野は何かに憑りつかれたかのように賭け事にのめり込んでいるものね)
オーホッホ。絹代の悪意は膨らむ一方だ。
☆
要は、牧野の顔色が悪い事には気付いていていたけれど、それは、業務が立て込んでいるせいだと思っていた。
真面目な牧野の仕事ぶりを信頼していたので金庫の鍵も牧野が管理している。
会社の運営費用だ。それを牧野は勝手に取り出すと賭場へと向かった。今度こそ勝つ。そう妄信していた牧野は惨敗すると、そのまま姿を消してしまった。自分の会社の机に書置きを残していた。
『一身上の都合により会社を辞めます』
そんな事を言われた要はおおいに慌てた。
取引先に納金しようとして金庫を開けた時、盗難に気付いて愕然となる。
「まさか、牧野が……」
牧野が下宿している家に向かうと、大家さんが言った。
「ああ、牧野さんなら荷物をまとめて出て行ったよ。上海に行くとか何とか言ってたな」
いや、それは嘘である。牧野は上海に行くお金など持ち合わせていない。牧野は賭場の借金取りから逃れるために大阪に逃げている。
牧野を昔からよく知る男がぺらぺらと語った。
「最近、夜な夜なポーカーに興じていたようだな。ロシア人が営む賭場があるみたいだよ。牧野は惚れた女がいてさぁ、その女を身請けするって言ってたんだよ。だから、金が必要って訳なんだ」
念の為に、牧野が惚れた女とやらを探したところ、まだその女は遊廓にいた。もしも、牧野が現れたら知らせてほしいと遊廓のやり手ばぱぁに金を渡しておいたが、おそらく、牧野はこの街には戻ってこないだろう。このままでは横領罪で捕まる。そのことを法学部を卒業した牧野が知らない訳がない。
(クソッ、どうすればいいんだ)
明日、取引先に納入するお金は何とかなりそうだが、来月に支払う額は大きい。どこかで借りるしかないが、どの銀行も貸してくれそうにない。何しろ、要は借りたくとも担保となるものを持ち合わせていないのだ。絶望に苛まれながらも、要はやるべき事をやった。
桜子の為に買った指輪を質屋に入れるしかなかった。
(会社が倒産するだけならいいけれど、多額の借金を背負う事になったら困る。それを桜子さんが背負う羽目になるかもしれない。彼女とは結婚できない……)
要の借金の形として遊廓に売られる桜子の姿を思い浮かべると身震いしていた。銀行に頼らずに金を借りる方法としては、万次郎に頭を下げるしかない。しかし、そうなると、万次郎は交換条件を出してくるだろう。
桜子と別れて絹代と結婚しろ。
しかし、それだけは嫌なのだ。要が苦悩にまみれていると、日本中を震撼させる出来事が起きた。
第一次世界大戦が始まった。おそらく、これから、どんどん船の需要が高まる。絹代の一族は、ますます権勢を誇るだろう。
要が、絶望の淵に立っている時、桜子の元に客人が訪れていた。
今日は祝日。いつもなら、要も会社を休んでいるのに出かけている。
「あら、初めまして。今日は、生憎、要様はいらっしゃいませんのよ」
桜子は、いきなり現れた要の妹のゆき恵に紅茶を淹れてあげると、彼女は、キッと睨むような顔つきで言った。
「いいんです。今日は桜子さんに会いに来ました。単刀直入に言います。兄と別れて下さい」
「どうしてですの?」
「お母様は弓削家との繋がりを望んでいます。絹代さんと兄が結婚したら、あたしは弓削家に嫁がなくても済みます」
「誰か好きな方がいらっしゃいますの?」
「そんな人はおりません。わたしは女性の自立の為に戦いたいのです」
「あら、それならお手伝いいたしますわ。この家で暮らしながら働けばよろしいではありませんか?」
「えっ」
ゆき恵は面食らったように目を開いている。
「わたしに家出をしろとおっしゃるんですか?」
それに対して桜子は言う。
「自立というのは親元を離れて生計を立てることだと思うのですが……」
「そ、そんな事しなくてもうちにはお金があるのよ」
「しかし、それは御両親のお金ですわよ。生活費は親に頼るけど自由に暮らしたいというのは無理だと思いますわ」
桜子は諭すように言った。
「本気で抵抗したいのなら、あなたが頑張るしかないのです」
桜子も要から聞いて知っている。
「あなたのお母様は自分でお店を切り盛りしていらっしゃるそうね。御立派だわ」
「はぁ?」
水商売をやっている環を褒めるなんてどうかしている。子供の頃から母の事で陰口を叩かれて嫌だった。しかし、桜子は爽やかな顔で言い切った。
「あなたも、やりたい事をやればいいのです。女の人は強いのです。行きたい場所にも自由に行けます。ただし、お金を自分で稼がない事には飢え死にしますわよ。仕事ならいくらでもありますわよ」
「わ、わたしは女学校を出ているのよ。このわたしに相応しい仕事でないと嫌よ。物売りなんてまっぴら御免だわ。お母様みたいな水商売の経営も嫌なのよ」
「では、学校の先生や通訳などよろしいのではありませんか」
ゆき恵にピッタリの仕事がある。ヴィクトリアは、本来、孤児達の英語教師を求めていたのである。それに、旅行ガイドブックの編纂を手伝って欲しいと桜子も頼まれていたが、桜子ではヴィクトリアの役には立てそうにない事が分かってきた。英語が得意なゆき恵なら出来るかもしれない。
「わたしの知り合いの英国の婦人の秘書のような仕事をやってみる気はありませんか」
外国かぶれのゆき恵は、この呼びかけに乗った。
ただし、この家で暮らすつもりはないようだ。
自宅からヴィクトリアの元へと通うと言い出したのである。
ということで、二人を引き合わせた。
「あら、助かるわ。桜子の義理の妹さんも可愛いわね」
ヴィクトリアは自宅にこもって執筆に集中するという。その間、英語教師としてゆき恵が孤児達を教える事になった。
桜子は補助教員として子供達に寄り添った。
みんな良い子達なので、ゆき恵も熱心に教えるようになった。しかし、ゆき恵は、孤児院の一室で桜子とお昼ご飯を食べながら不思議そうに言った。
「なんで、洋妾になる人がいるのかしら」
「貧しいからだと思いますわ」
「あら、うちの近所の寡婦も貧しいけど身体を売ったりしないわよ」
「親の借金を返すために売られる人もいると聞きますわ。あなただって、両親や兄がいっぺんに死んでしまって、おまけに借金を抱えていたら、どうしようもないと思いますわよ」
「ふうん。そういうものなのかしら……」
ゆき恵はお金の苦労というものがまるで分からないようである。
桜子は言った。
「ゆき恵さんには色々な後ろ盾があります。ですが、ここの子供達は親がいません。それが、どんなに心細いことなのか想像してみて下さいな」
「そう言えば、桜子さんも両親がいないのよね。だから、お兄様にすがりついているの?」
「いいえ。わたしは要様を尊敬して愛しているのですわ。一緒にいると安心します。ワクワクします。明日が来るのがとても楽しみなのです」
人はそれを愛という。
「ふうん。何だか分かんないけど、兄のこと好きなのね」
「はい。お慕いしております」
この数日、一緒に過ごしていくうちにゆき恵は桜子の意外な一面を知った。
(な、なんで、この人は柔道を教えているの? しかも、やけに強そうなのはなぜなの? ていうか、誰よりも肝っ玉が据わってるわ)
楚々としているけれども、芯が強い女性なのかもしれない。
孤児の一人が木登りをしていて落下して足首を折った時、桜子は妙に冷静だった。
「パキッと綺麗に折れていますわ。良かった。これなら、すぐに治りますわよ」
医者に連れて行くと同じ事を言っていた。
もっと驚いたのはこれだ。
「い、犬が人を噛んでるぞー。逃げろーーーー。あれは、狂犬病の犬だぞ」
孤児院の前の通りで狂犬病と思われる犬が暴れていた。園内の敷地に入ろうとしたが、その前に、桜子は持っていた鍬でガツンと叩いて殺処分した。
狂犬病を発病した犬は死ぬ。その犬に噛まれたら、人間も死ぬ。
だから、先に犬を殺さねばならない。
宮本武蔵のような面構えで犬の暴走を食い止める桜子に対して、ゆき恵は何とも形容しがたい感情を抱くようになったのだ。
(この人、なんだか普通じゃない……。別の世界の人みたいだわ)
話していても妙なのだ。ゆき恵は、女性も男と同じように輝くべきだと熱く語ると、たいていの人は苦笑する。今の世界は男に牛耳られている。ゆき恵はそれが悔しい。
『この世界の半分は女なんだもの。女の人も政治をするべきなのよ』
それに対して桜子は頷いてくれる。
『もちろんですわ。女の人も政治に参加すべきです。待っていてください。いずれ、日本の女性が帝都の長として行政を担う日が必ず来ますわよ』
小池百合子。高市早苗。
ここが異世界であろうとも、女が都知事になる時代は必ず来る。総理大臣にだってなれる。それを知っているからこそ、桜子は自信を持って言い切れる。
「少しずつですが、女性は社会に進出していきます。女の弁護士さんや女の大臣も現れますわよ。オリンピックで大和撫子が金メダルを勝ち取る日も、そう遠くはありませんわ」
それは歴史が証明している。
桜子が、はっきりと肯定してくれるお陰で、ゆき恵は、すっかり桜子の虜になっている。
「男と女の賃金の格差も無くさなくてはなりません。もちろん、土木工事などは男の仕事なのかもしれませんが、事務の仕事は男女の差など関係ありません。そこにあるのは個人の差なのです。掃除や料理も男の方が得意で本人がやりたいのなら男が主夫になればよろしいのです」
桜子は、見た目は古風なのに言う事は斬新だ。
「仕事と家庭と子育て、どれも大変ですわ。女性がすべてを手に入れるには並々ならぬ覚悟と努力が必要ですわね……。とはいうものの、わたし達はどのような状態であろうとも生き抜かなければならないのです。この子達もそうです。生きるしかありません。しかし、心のよりどころのようなものが必要ですわ」
桜子の横顔は菩薩のように美しい。
「せめてここにいる間は、みんなの事を存分に愛してあげたいものですわね。この子達には幸せになる権利があります。みんな良い子達なのです」
ゆき恵は、吸い込まれるような気持ちで桜子の呟きを聞いていた。
「そうですね。わたしも、この子達には幸せになってもらいたいわ」
桜子は孤児達に好かれている。本当に綺麗な人だ。柔道を指導する際の桜子は、ひときわ輝いている。
(すごい。みんな桜子さんのことを食い入るように見つめているわ)
受け身の練習。その見本を示す桜子の動作にはキレがある。
(桜子さん、柔道を習っていたなんて知らなかったわ。それにしても、獣のようにしなやかな動きだわ)
ゆき恵も、桜子の不思議な魅力を認めざるを得なくなっていた。兄と別れてほしいなんて事は思わない。
ゆき恵は、将来について具体的な展望を抱くようになっていた。
『わたし、子供に夢を与える仕事をしたいな。抒情画の本も作りたいわ』
まだ上手く言えないが、こういう子供を救う為に、もっと学びたいと思うようになっている。
ゆき恵の言葉にヴィクトリアも賛同してくれた。
『ゆき恵、あなたは聡明な女性よ。我が国イギリスの女性達も何か社会の役に立ちたいと思って、慈善事業を行っているの。あなたは社会を変えたいのね。だったら、弱い人た達の杖になってあげてね』
その言葉に対して、ゆき恵はイエスと頷いている。ゆき恵は母親の環に告げた。
「お母様、わたしは弓削さんとは結婚しないわよ。それに、お兄様と桜子さんの結婚を応援することにはしたわ」
「んまぁ、何ですってーーっ」
環は、眦を軋ませる。
「ですが、お母様のような自立した女性になれたらいいなと思ってる。前は、お母様の事が尊敬できなかったけれど、お母様はカッコいい女性なのだと気付いたの」
「ゆ、ゆき恵……?」
「お母様は自立しているのね。最先端のハイカラさんなのよ。だから、お父様もお母様にはかなわないのね。ほんと痛快だわ」
娘が母をそんなふうに称したのは初めての事である。お母様のようにはなりたくないと言っていた娘が環を認めている。
「わたし、今、桜子さんと共に孤児院で働いているの。もし良かったら、お母様も孤児達を見にいらしてね。とっても可愛い子達なのよ。お母様が新しく立ち上げようとしている化粧品の会社のモデルになりそうな綺麗な女の子もいるのよ」
ゆき恵は、さりげなく、孤児院の女の子の就職先を斡旋しようしている。混血の女の子は普通のお店で働くことが難しいらしい。でも、最先端の美容院や化粧品なら、あの華やかな顔がプラスに働く。
「お母様、スタイルのいい美人の従業員が欲しいって言っていたでしょう。今、十三歳なんだけど、その子、とてもいい娘なのよ」
イギリス人の裕福な家庭の夫婦の養子にならずに日本で暮らしたいという女の子の名前はエミリー。父親は誰だか知らない。日本人の母親は死んでいるけれども関西に日本人の祖母がいる。
「おばぁちゃんはエミリーと暮らしたいけど、貧しいから無理なのよ。エミリー、自分がお金を稼いで、いつか、おばぁちゃんを迎えに行くと言っているわ。いい子ね」
ゆき恵は、すっかり子供達の後援者になっている。
「お母様、サンドイッチマンを雇ったりしてお店の宣伝しているけど、その宣伝も、孤児達にやらせてあげたらどうかしら。あの子達が集団で歩くと、みんなが注目するのよ」
「あら、面白そうね」
環は、いつのまにやら逞しくなった娘の変化を好ましく感じていた。そして、あれこれと考えた。環には実の息子の勝彦がいる。あの子は十六歳だ。要に負けないくらい勉強はできる。
(まぁいいわ。要さんとゆき恵が駄目でも、うちには勝彦がいるわね。弓削絹代さんの妹の真沙代さんと勝彦が結婚すればいいのよ。真沙代さんは控えめで扱い易いわ。絹代さんだと、嫁と姑の争いになっちゃいそうだものね)
環も絹代の気の強さには気付いている。
(そうね。わたしと血のつながらない要さんと弓削家が繋がっても、こちらに利は少ないものね)
という事で、環は桜子と要の邪魔はしないと決めたのだが……。
要と桜子は窮地に陥っていた。絹代は、じわじわと要を締め上げている。照りつける夏の太陽が要を圧迫している。
資金繰りが苦しい要はもがいていた。
亡くなった母の実家に向かい、唯一生きている祖母に頼み込み、蔵から売れそうな壺や着物を貰い受けて、それを質屋に持ち込み、何とか従業員の給与を支払った。自転車操業状態で四苦八苦していると、更なる追い打ちがかかる。
そいつらは、日没後、会社にやってきた。
要の秘書の男性の静止を振り切って執務室までやってきたのは二人組のヤクザだ。
「伊集院要さんだね。あんたの友人の借金を返してもらいに来た。いいかい。あんたは牧野の連帯保証人なんだよ」
「そんなことは聞いてない」
しかし、そこには要の名前が記されている。しかも、ご丁寧に要の印鑑まで押されているではないか。
「これは何の借金なんだ」
「ポーカーで負けたんだよ。ロシア人のオーナー様に金を返す約束になっている。返せないというのなら、こっちにも考えがありますぜ」
「どうするつもりだ」
「こうするのさ」
バシンッ。
いきなり、男は手にしていた棒を振り回して花瓶を叩き割る。
「伊集院さん……、あんたの妻になる女に保険金をかけて殺してしまえばいいのさ。そうすりゃ、丸く収まるぜ」
「ぐっ……」
「それとも、絹代お嬢様に跪いて泣きながら許しを乞うか? 男妾になりゃいいのさ。いひひ。羨ましいぜ」
「……」
喉に苦いものがこみあげてきた。またしても黒幕は絹代のようだ。
(牧野まで巻き込んでしまったんだな)
恐らく、牧野は嵌められたのだろう。奥歯が砕けるくらいの勢いで要は歯を食いしばっていたのだった。




