表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
14/16

十四話 

来月の支払いに使う資金と牧野の借金。両方を支払う事など無理だ。


 要は、毎日、資金繰りに追われた。家に帰っても暗い顔つきのまま黙り込む事が多くなっている。


(借金取りが桜子さんに近寄らないようにするには、もう婚約を解消するしかない……)


 桜子との別れを考えるだけで胸がズキンと痛む。しかし、絹代のしつこさは天下一品だ。


「クソッ、どうしたらいいんだ」


 食事の間は、何とか我慢していたけれど、トイレに入った要は堪らなくなって呻いていた。


 悔しい、悔しい。


「このままじゃ、みんなが不幸になる。クソッ」


 そんな気持ちで壁をバンバンと拳で乱打する。


 ちょうど、洋館の裏手で草むしりをしていた桜子はトイレで呻く要の声を聞いてしまった。


『このままじゃ、みんなが不幸になる。クソッ』


 それがどういう意味なのか気になった。


 前にも、要は問題を自分ひとりで抱え込んで悩んでいたけれども、今回も何か困った事が起きたのかもしれない。


(最近の要様は顔色が悪いわ)


 食事も、あまり口にしていないし思い詰めた顔をしている。


 この翌日、桜子は出勤した後の要を尾行することにしたのである。その結果、分かった。


 幾つもの銀行をまわって融資を頼んでいるけれど、次々と断れらているようだ。


 しかも、その額がかなり大きい。どこからも相手にされずに肩を落としている。そんな要の後ろ姿を見るのは辛かった。役に立ちたい。


 どうして、要は相談してくれないのだろうと思っていると、要は、継母の環が営む華やかな球戯場へと足を向けていた。


 主に外国人が酒を飲みながらビリヤードを行う店である。


 まだ、開店準備中だ。


 店の中までは入れないので要が中で何を話していたのか分からない。しかし、しばらくすると店の玄関から出てきた。容赦なく照りつける太陽によって薙ぎ倒されそうなほどに要は苦悩している。


 継母にも融資を断られたようである。


(要様、とても悩んでいらっしゃるのね)


 おそらく、会社関係のトラブルなのだろう。あんなふうに落ち込む要を見ていると、こっちも泣きたくなる。


 桜子は、意を決して環に会うことにした。完全に初対面なのだが、どうしても知りたかった。


「あの、お母様にお話があります」


 いきなり、環の職場に現れたものだから環も面食らっている。


「あなたにお母様と言われる筋合いはないわよ。要さんの妻だなんて、こっちは認めていないのよ」


 それはそうだろう。しかし、桜子は怯むことなく言った。


「認められなくとも、わたしは要様をお慕いしております。要様も、わたしを大切にして下さいます」


「どうやら、そのようね」


 最近、環は、娘のゆき恵と桜子が親しくしている事を知っている。しかも、桜子は環のことを自立した女だと褒めていたという。ということで桜子への心証はうんと良くなっている。


 本来なら、桜子をつまみ出してやるところだが、特別にお茶を淹れて椅子に座らせた。


「いきなり、何の話かしら」


「最近、要様は資金繰りで困っておられるようなのです。なぜ、そんなに困っているのですか」


 要は堅実に商売を進めるタイプのように見えるのだが……。


「会社で何か事故でも起きたのでございますか? 要様は仕事の事は何も話して下さらないのです。わたしは少しでも助けになればと思っております。せめて、借金の正確な額だけでも知りたいのです」


「……」


 環は、どこか冷めたような顔で桜子を見つめた。


「知ったら、あなた、恐ろしくて泣いてしまうわよ。あなたが出る幕ではないわ」


 それでも、その額を言うと、桜子は目をパキッと見開いた。


「どうして、そんな大きな額を……」


「不思議に思うのも無理はないわ。わたしも驚いたの。どうやら、会社の幹部の若者が横領したようなのよ。しかも、賭博の負債を埋めるために、その場で賭博業者から借金したのよ。保証人として要の名を使ったみたいなの」


 お節介ついでに環は言ってやった。


「ここだけの話だけど、牧野っていう社員が賭博に嵌ったのも弓削のお嬢様の計略のせいなのよ」


 その賭博場の悪い噂は環の耳に届いている。ロシア人が元締めとなっており、ポーカーやルーレットはもちろん、地下格闘技による勝敗を賭けたりしている。その賭博に正当性はないが、それでも借金の証文はチャラにはならない。


 そいつは要のハンコを勝手に使ったのだ。牧野の借金を要が返さなければ、要は破滅する。


「だけど、桜子さんと別れるのなら、その借金もチャラにしてもらえるかもしれないわ。わたしは別れなさいと言ってやったの。だけど、要さんは、どうしても、あなたとは別れたくないと言うのよ。困ったものだわ」


 呆れながらも憐れむ様に溜息をついている。


「だけど、どっちみち、あなたと別れるしかないと思うのよ。要さんは、あなたを借金地獄に巻き込みたくないと思っているわ。自分一人で借金を返そうとするでしようね。今日は、わたしにお金を借りに来たの。だけど、当然、わたしは断ったわ。わたしも、絹代さんを敵にまわしたくないのよ」


「……」


 そういう事だったのか。


 環は妥協案を語った。



「表向き、要さんは絹代さんと結婚するといいのよ。そして、外であなたを囲えばいいわ。結婚なんて紙切れ一枚の事なのよ。あなた達は裏で熱烈に愛し合えばいいのよ。そうやって、絹代さんを出し抜いてやればいいじゃないの。その方が痛快よ。あなたも、そう思わない?」


「お、思いません」


 桜子の瞳は怒りの色に染められている。


「世の中には色々な夫婦がおられます。偽装結婚をするのも本人達の自由だと心得ています。しかし、要様は、卑劣な真似をする絹代さんとは決して結婚の契約を結びませんわ。そんな事をするくらいなら、死んだ方がマシだと思うような方ですわ」


「そうなのよね」


 環は、次の瞬間、恐ろしい事を言った。


「要さんは一本気だから怖いのよ。借金を返すために自分の命さえも捨てる覚悟をしているんじゃないかって思うの」


「殴り込みに行くってことですか」


「違うわよ。自殺するんじゃないかって事よ。実は、わたしの知り合いの男の話なんだけど、保険に入っているのよ。その男が事故にみせかけて死んだおかげで、残された奥さんは借金取りに追われなくて済んだのよ」


「……まさか、要様が同じ事をすると?」


「そうはならない事を願うわね。だけど、このままじゃそういう可能性もあるわ」


 環は要の継母だ。要は、一度たりとも環を母と呼んだ事はない。しかし、かといって環の悪口を外で言いふらしたこともなかった。それどころか、庇ってくれたこともある。


 昔、万次郎の弟がこう言っていた。


『環さんは、兄貴の愛人を遠くに追いやって関係を断ち切らせたようだね。嫉妬深い女だね。男が女を囲うのは当然なのに。そんなに兄貴に惚れていたとは知らなかったよ』


 だが、要は静かに首を振った。


『叔父さん、それは違いますよ。環さんは、父が女に金を使っていることが許せないのです。父は、使用人への支払いを渋っています。それなのに、芸者にせがまれたら何でも買ってやる。そういうところが環さんは嫌なのです。環さんも守銭奴ですが、従業員や奉公人をないがしろにした事は一度もありません。そこが父とは違います』


 要は、実の父親の欠点をよく分かっている。


 世間は、環が万次郎の愛人に嫉妬しているとしか思わなかったが、それは違う。芸者に着物を買うぐらいなら、番頭や女中に菓子の一つでも買ってやれと言いたかった。万次郎は、番頭の孫に対してお年玉を渡すのも渋るようなケチな男だ。


(あんな男、別に好きでもなんでもないわ。親に言われて仕方なく嫁いだのよ)


 女だてらに商売に力を入れる環。


 あの頃、環は婚期を逃がそうとしていた。


(万次郎の後妻は呪われるという噂が花柳界で流れていたわ。そんなものを恐れない女がわたしだけだったから結婚したのよ。ただ、それだけのことよ)


 環にとって、要は、よそよそしいけれども行儀のいい同居人のようなものである。


 しかし、ゆき恵や勝彦にしてみれは血の分けた兄弟だ。特に、勝彦は要のことを尊敬していて二人は仲がいい。


 芸術家肌で内向的な勝彦が学校で虐められている時も、要は勝彦に寄り添って宥めてくれた。


 環は、どうにもならない現実を見据えたまま困ったように言った。


「銀行は決して融資しないわよ。だって、弓削家の威光に逆らえる訳がないじゃない。いいから、あなたも諦めなさい」


 厳しい顔つきのまま桜子は席を立った。


「急に押しかけたりして申し訳ありませんでした」


 会釈してから桜子は部屋から出ようとしたのだが、その前に聞いた。


「賭博の元締めのロシア人の名前は何ですの?」


「そいつの名は、エフゲニー・イワノフよ」


「そうですか。どうもありがとうございます」


「あ、あなた、まさか……」


 そのまさかを実践しようとする。それが桜子なのだ。


 レッツゴー。


 桜子は一人でイワノフの邸宅へと乗り込んでいく。後先のことなど考えていない。とにかく、突撃するしかない。黒い鉄柵に囲まれた豪邸に乗り込むと執務室に入れてくれた。


 イワノフは、いかにもロシアの金持ちというふうな服装をしている。


 どこか病的な雰囲気が漂う。神経質で青白い顔をしている。


 金髪に青い目。そして、無駄な贅肉のない身体。


 この男は、あらゆる武術に興味を抱いている。そして、それを賭けの対象としているという。


「いいかね。お嬢さん、借金をなかった事には出来ないよ。ただし、伊集院要が身体で返すという方法もある」


「まさか、あなたの男妾になれとでも言うのですか」


「どうして、そういう発想になるのかね」


内心、イワノフはドキッとしていた。実は、イワノフはゲイなのだ。祖国では男色は御法度なので日本で羽根を伸ばしている。何しろ日本は織田信長という武将が美形の小姓とよろしくやっているような国だ。イワノフにとっては天国そのもの。


 とはいうものの、東洋人の優男に興味はない。


「ボクシングの試合に出るというのなら、利子は免除してもいい。そして、試合に勝ったなら、賞金として借金もなかったことにする。ただし、試合の相手は、二十戦二十勝のマイク・スミスという黒人だ」


 要がボクシングなんて、とんでもない話である。


「その試合、わたしが出ますわ」


 勝たなくてもいい。利子だけでも減らしたい。


 しかし、イワノフは一笑した。


「あなたのような小娘が出られる訳がないだろう。馬鹿な事は言うものじゃないね。あなたなら、東欧で極上の娼婦として名を馳せる事も出来そうだ。どうかね。ボクシングの試合なんてするよりも、ずっと快適だよ」


 イワノフが桜子の頬に手を添えようとしたが、桜子はその手首を掴んで机にねじ伏せた。


「お断りしますわ」


 本当はイワノフを締め上げて恐喝してやりたいが、ドアの外にはボディガードがいる。こうなったら、深夜に、この家に乗り込んで金庫の中にある金を盗んでやろうかしらと、よからぬ事も過ったけれども、それは、さすがに出来ない。


 仕方なくイワノフの執務室を出る。気落ちしながら、長い廊下を歩いて玄関へと向かうと、ちょうど門を出た先で何やら揉めている様子が目に入った。日本女性とアメリカ人の男なのだが、男も日本語を話している。



 女は口紅をひいているので、かろうじて女性と分かったけれども、パッと見た感じは若手の力士そのものだ。


 そんな彼女が言った。


「試合には出ないよ」


「そんなことになったら、こっちが多額の違約金を払うことになるんだ。てめぇ、ふざけるな」


「あたし、手付金を返すよ」


「てめぇ、そういう問題じゃねぇんだよ。試合に穴をあけられねぇって言ってんだよ」


 興奮したのか、ここからは英語になっていた。


『糞、糞。この豚女。おまえみたいなブスを抱く女がいるなんて世も末だな。なんで、こんな時に妊娠しやがる。おまえのガタイと重量なら、百戦錬磨のナターシャにも勝てると思ったからスカウトしたんだぜ。この豚女め』


 ハッキリ言って、コンプライアンス的にも道徳的にもアウトな汚い言葉が続いている。


 物陰から聞いていた桜子は、ナターシャという言葉に反応していた。


 汚い物言いとは裏腹に、どこかお人よしな雰囲気が漂うアメリカ人は嘆いている。


「松子、違約金なんて払ったら、オレは破産しちまう。この際、誰でもいいから探せよ。おまえには相撲ガールの仲間がいるだろう」


 女の力士も興行として各地を巡回しているのだ。


「相撲と柔道は違うわ。あたしは柔道も習ってたけど、他のみんなはルールも知らないのよ。代役なんて無理よ」


「相撲は相手を投げ飛ばしゃいいんだろう。相撲も柔道も似たようなもんだ。体重が重くて俊敏な女なら誰でもいいんだぜ。代役が見付らない時は、予定通りにおまえがナターシャと対戦するしかねぇぞ」


「あの女は熊を投げ飛ばしたって噂だ。あたしも投げられちまうよ。あたしのお腹の子が流れたらどうしてくれるんだい」


「だったら、代役を早く連れてこい」


 咄嗟に桜子は背後から叫んだ。


「あの、わたし、柔道家でございます」


「はぁ?」


 アメリカ人は怪訝な顔つきで振り返った。その刹那、桜子は、男の上着の襟と袖を掴んで、ザッと右足を相手の左足の前に踏み出した。両手で相手を手前に釣り上げ、左足の裏を相手の右膝に当て、両手でハンドルを回すようにして投げ込む。


 何が起きたのかアメリカ人は訳が分からない。


「今のは膝車でございますわ。わたしを代理にして下さいませんかしら」


 遠心力を利用した技である。


 松子は手を叩いた。


「あんた、すごいじゃないか。見事なもんだ」


 投げられたアメリカ人は、いててと己の背中を押さえながら桜子を見つめ返している。


「おまえ、柔道を習ってんのかよ?」


 アメリカ人の名前はショーン。桜子の美しい顔を見るとニヤッと笑った。


「オレと契約する気があるならついてきな」


ここでは何だからという事で、三人はカフェーに向かった。


 ショーンはアイルランドからニューヨークに移った移民の子孫でカトリック教徒だ。


「ボクシングみたいに同じ階級で戦う必要はないんだよ。だから、松子をスカウトしたのさ」

 

 ショーンは桜子に打ち明けた。


「オレだって、松子が妊娠したって聞いてぶったまげだぜ。まさか、こいつに男がいるなんて予想もしてねぇからな。罰が当たるから流産なんてしてもらっても困る。だけど、いくら代理でも初心者じゃ困るんだよ」


 松子の体重は百キロ近くあるようだ。そして、対戦相手のナターシャは五十七キロ。


 二十歳。これまで十二戦、全勝。


 ちなみに、桜子は五十二キロである。


 ショーンは暖かいコーヒーを美味しそうに啜りながら言った。


半年に一度のイベントだ。


「毎回、オレが連れてきた女子選手は負け続けきたんだ。日本が柔道の本場だっていうのに、だらしねぇな。とはいうものの、ナターシャはガキの頃から日本にいた。ナターシャの父親は、日本人のパン屋に雇われて手押し車でパンを売り歩く貧しい男なんだ。何でも、ロシアに帰ると殺されちまうような事をしたようだ。ロシア王朝の転覆をもくろんだとか何とか……。何しろ、政治犯の娘だから、ロシアには帰れない。だから、父親とナターシャは日本で生き抜くと覚悟を決めたそうなんだ」


 異国の地で身を守るためにナターシャは柔道を習った。数年前、イワノフの目に留まり、賭けの対象として柔道の試合に出ているというのである。


「とにかく、どえらい美人なんだぜ。背が高くて手足が長い。ブロマイドも売れてるって話だ。イワノフの野郎はナターシャのおかげで儲かってるよ。大金を出した奴にはナターシャを抱かせているって噂だ」


 桜子は嫌な気持ちになった。


 ナターシャを利用して搾取するイワノフが許せない。


「ほらよ、これがナターシャだ」


 ブロマイドを見た瞬間、桜子の胸が震えた。ソックリなのだ。名前だけではなく顔も似ている。シャラポワ似の超絶美人のナターシャ。


 半裸の姿のブロマイドに対して松子は半笑いの表情を浮かべた。



「美女と巨漢の対決って事で客を呼ぼうとしたって訳だよね。あたしもナターシャには負ける可能性が高い。桜子さん、あんたも怪我をしないようにしなよ」


「ああ、まったくだ。あんたは美人だ。美人対決って事で場が盛り上がるのなら、イワノフも客も満足だろうよ。どうせ、女子の試合は男子の真剣勝負の前説みたいなもんだからな」


 ショーンは勝てるとは思っていないようだ。


 桜子は言った。


「ナターシャに勝った場合、賞金は、わたしとあなたで折半して下さいますわね?」


「ああ、いいぜ~ 期待してねぇけどな」


 ショーンは投げやりだった。


「あんたは身体も細い。さすがにナターシャには無理だと思うぜ。まぁ、せいぜい頑張ってくれや」


 という事で代理として桜子が柔道の試合に出ることになったが、大きな問題があった。


 ここ最近、桜子は誰とも対戦していない。誰かと組んで徹底的に練習しなければならない。


 孤児達を相手に投げ技を本気で実践する訳にもいかないし、どうしたものだろう。


 本気で練習に付き合ってくれる相手となると、もう、あの人しかいない。


「お兄ちゃん、お願い。あたし、試合に勝ちたいの」


 子供の頃から困った時には頼ってきた。幸い、雄一も柔道を習っている。たまたま、村に柔道の指導者がいたのだ。村の男の子達の中で雄一が最も強かった。それこそ、熊を相手にしても負けないように練習に励んできたと聞いている。


 今日は、わざわざ村の山小屋まで来た桜子だったが、まさか、毎日、ここで練習をする訳にはいかない。往復の時間がもったいない。


 雄一が言った。


「試合までの二週間、オレは街で暮らすよ。カフェーで働いている恋人がいるって言っただろう。そいつの知り合いの家に下宿させてもらうことにする」


 午前中は孤児院で孤児達の勉強を見てやる。そして、午後から夕刻にかけては、雄一を相手に実践をイメージして動きながら技を繰り出していく。


 特に、これまで出来なかった背負い投げの練習に余念がなかった。


(おおっ、この背中で担ぐ感触。そうだ。これだわ……)


 雄一と向き合い、四つで組んだ状態から腰を落としてタイミングをとって、両膝のバネを使いながら体を前傾させて投げる。繰り返し、繰り返し、桜子は感覚を確かめるようにして技の精度を高めていく。その横顔は鬼気迫るものがある。


 夜も練習をすることがあった。老夫婦が暮らす一軒家の離れの間での秘密の特訓である。老夫婦達は、訳ありの恋人同士が激しい逢瀬を繰り返していると思い込んでいる。


 あれだけ、ドスンドスンと音を立てているのだから誤解されても当然だ。


 試合までに技の精度を高めたい。


 この日の練習は特に熱を帯びていた。だから、夕刻を過ぎても帰らずに桜子は打ち込みや乱取りを反復する。練習あるのみ。勝ちたい。勝ちたい。いや、勝たねばならぬ。


 桜子の額には汗が滲んでいる。


「ああ、もう、髪が邪魔だわ」


 前世のように松本薫様と同じ髪型にしたいけれども、そうはいかない。大正時代の女性の殆どがロングヘアだった。


 畳の上で仰向けになって小休止している桜子に向かって雄一が尋ねた。


「前から不思議だったんだが、おまえ、誰に柔道を習ったんだ?」


「山にいた時、お兄ちゃんが教えてくれたからこんなに強くなれたんだよ」


「いや、オレが教えた時、すでにおまえは強かったぜ」


「そんなことないよ。あの頃は、お兄ちゃんは手加減してくれたもの」


「……」


 色々と聞きたい事があるような顔をしているけれど、雄一は、いつも桜子の好きなようにやらせてくれる。


「お兄ちゃん。この後、試合形式の練習に入ったら本気であたしと戦ってね。そうでないと練習にはならないよ。ナターシャは熊と同じくらい強いんだから」


「お、おう。分かった。ほんじゃ、今夜、オレの部屋に来い。相手をしてやる」


 要の帰宅が遅い日は、夜も練習する。雄一も必死になって桜子の練習を支えている。寝食も忘れるほどに二人は熱を入れている。


 雄一の恋人の新谷翠は雄一の様子がおかしい事に気付いていた。


 街に滞在しているというのに翠が働く銀座のカフェーに来る事もない。何をしているのかと訝しく思った。気になるので雄一を尾行すると、下宿しているという家に美しい娘と連れ立って入っていった。そっと襖の隙間から覗き込むと、すぐさま、その娘は洋服を脱ぎ出した。


 翠はまさかと思い襖に背を向けた。色々と言いたい事はあるけれども言えない。


 翠は雄一よりも四歳年上だ。


(あたしみたいな年上の出戻り女じゃ嫌なんだね)


 翠は二年前、子供を授からないという理由で一方的に離縁されたのだ。


 結婚相手の男の身体に問題があると思うのだが、お姑さんは翠を責めた。そんな過去を持つ翠は怖くて現場を確かめる勇気などない。あの雄一が浮気をするなんて。


 翠は雄一に求婚されていた。でも、山で暮らすのは嫌だから、のらりくらりとかわして誤魔化してきた。それでも、本当は結婚したかった。


 まさか、あんな楚々とした小娘と浮気していたなんて。


『雄ちゃんの馬鹿ーーーー』


 おっぱいの大きな女が好きだと言っていたのに、あの娘はぺったんこじゃないのーーー。


 泣きながらその場を離れる翠だったが、桜子は柔道着に着替えていただけ。


 雄一は桜子が着替える間、いつものように後ろを向いている。


 はっきり言って、雄一は桜子の裸になんぞ興味はない。


 雄一は柔道着を着ることなく着物に股引きという服装で桜子の練習に応じている。桜子と雄一の密会に気付いた者は他にもいる。それは、絹代が雇った探偵だ。


 毎日、桜子は雄一が間借りしている部屋へと通っている。数時間の逢瀬の後、帰っていくけれど、夜遅くまで滞在した事もあった。それは、要が神戸に出張した夜の事である。


 午後の九時頃まで桜子は練習に打ち込んでいた。探偵はそっと忍び寄ると、アメリカ製の小さなカメラで二人の様子を撮影した。


『おっと、これは生々しいな』


 探偵はニヤニヤしながら隠し撮りしていく。ちょうど雄一が桜子の上に馬乗りになり上半身を抑え込んでいるところだった。いわゆる縦四方固めの体勢である。


 がっつりと絡み合っていた。下敷きとなった桜子は呻くようにしてもがいている。固める側の雄一も必死だ。何しろ桜子はメダリスト。技から逃れる技術にも長けている。


 桜子は、うつ伏せになる、あるいは足を絡めるといった方法で技から逃れようとして、呻き声を漏らしている。


 真面目に柔道をしているのだが、探偵にしてみれば獣じみた濡れ場のように見えている。


 雄一の恋人。


 絹代の探偵。


 下宿屋の老夫婦。


 色々な人に誤解を与えながらも、桜子は特訓を続けた。流した汗の分だけ、個々の技に磨きがかかっていく。



 そうこうしているうちに、ついに、その日が訪れた。


 試合は午後から夕刻にかけて行われる。


 柔道の試合の会場となる小さな体育館は、イワノフの私邸の脇にあった。


 ボクシングの試合の時はそこにリングを設置する。だが、今日のように柔道の試合の時は畳を敷く。


 体育館の二階部分は桟敷席になっており、特別な顧客だけが招待される。文字通り、高みの見物なのだ。


 その客人の中にはジェイコブがいた。


(おや、なんで、あの娘がここにおるのだ……?)


 ジェイコブは神聖な柔道の試合で賭けたことはない。ただ、ここに来れば正式な試合のルールにのっとった戦いが見れるので足を運んでいるのだが……。


 桜子の瞳は凛としている。


(いい面構えをしておるのう)


 ほとんどの人間がナターシャに賭けているようである。


 しかし、ジェイコブは桜子に賭けると決めたのだ。











評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ