第十五話
桜子とナターシャは共に礼をしてから畳の上に立った。近くでナターシャを見た途端に、桜子は鮮烈な既視感を覚えた。
(本当によく似ているわね……。ゾクゾクしてきだわ)
前世のナターシャに比べると少し背も低いし体重も軽いけれど、体つきは同じ。対する桜子は、あの頃よりもうんと軽い。体格的に今回は不利だ。
しかし、桜子には前世で蓄積された技術と試合への執念がある。愛する要様の為に、何としても勝たねばならない。一方、ナターシャもファイトマネーを稼ぐ必要性があった。
金を貯めてアメリカで暮らそうと思っているからだ。
クリミアで生まれた父はロシアで革命を起こそうとしているけれど、ナターシャは革命よりも、平凡な幸せが欲しい。
雇い主のイワノフに命じられるままに、金持ちの男達の相手をする生活はまっぴらだ。
この試合に勝ったならアメリカ行きの船に乗ると決めている。あの国は移民を受け入れてくれると聞いている。
今回の試合を見守る面々は、イワノフが招待した異国人の大金持ちと、自分達の試合の順番を待つ男子の柔道家達である。
女子の場合はナターシャと桜子の一騎打ちだが、男子は大勢いて日本人もいれば西洋人もいる。全員が腕に自信のある猛者たちだ。
みんな、桜子とナターシャの美人対決に興味津々になっている。主催者のイワノフには自信があった。
(あの小娘、ナターシャに勝てると本気で思っているのか? 馬鹿な女だな。身長差と体重差もあるんだぞ)
しかし、桟敷席の客達は面白がっている。いつもは賭けないジェイコブが桜子に賭けている。もしも、桜子が勝ったなら、ジェイコブは大金を掴む事になるだろう。
ショーンはオッズ表を見て呻いた。
「まっ、念の為にオレも桜子に小銭を賭けておこうかな」
ショーンも締め切りの直前に桜子に賭けた。正面の壇上にいるイワノフはほくそ笑む。
(ジェイコブ、あの男は、柔道通のように振舞っているが、大したことはないようだな)
そんなふうにイワノフは甘く見積もっていたのだが、いざ試合が始まると、イワノフは息を呑んだ。
桜子とナターシャの実力が拮抗している。
スピードとパワーと抜群のセンスを持っているナターシャの攻めを巧みにかわす桜子。
久しぶりの試合の手触りを確認するかのように慎重に試合を進めている。
不用意に相手に技をかけてはいけない。逆に倒されるリスクがある。
(焦りは禁物だわ……。じっくりと慎重に挑むのよ)
桜子にとっては、この試合は前世のやり直しの意味も兼ねている。試合を見守る男性選手たちは固唾を飲んでいた。
観客達は試合から目が離せなくなっている。
「おいおい、あのナターシャが苦戦しているぞ」
「日本人の女のようだが、あれは誰なんだ?」
「ナターシャの素早い動きに対応してる。普通なら、もう投げ飛ばされているところだぞ」
実際、何度もナターシャは桜子に仕掛けている。しかし、桜子はまるで相手の心を見透かしていたかのように防御している。そうこうしているうちに延長戦へと雪崩れ込んでいた。
ナターシャは珍しくイラついている。
桜子は試合に没頭しながらも心のどこかで歓喜している。こんなふうにして、また闘える喜びが身体中で駆け巡っていく。
出来る事なら永遠に組み合っていたい。
やっぱり、柔道が好きだ。
そんな事を思っていると、ナターシャに足を払われて仰向けに倒されていた。そのままナターシャは桜子に覆いかぶさり横四方固で抑えて封じようとしている。
これに対して桜子は左手で相手の柔道着を掴み、相手の右肩を押して、右足を相手の右足の下に入れる。
右足で相手の右足を寄せて左足も絡めると、反動をつけながら引っくり返した。
「おおっ、逆に相手を抑え込んだぞ」
ギャラリーが沸き立ったが、今度はナターシャが柔かな形の関節を生かして逃げ切った。
そして、また仕切り直しだ。延長戦に入ってからも、延々と繰り返される攻防戦。ここからはスタミナの勝負になってくる。
日頃から車夫をしていた桜子のスタミナはまだまだ切れない。
しかし、いつも、早いタイミングで買ってきたナターシャの額には疲労の色が滲んでいる。
はぁはぁ。ナターシャの息は荒い。
ナターシャの顔全体が汗で湿っている。熱気と興奮に包まれた会場全体が熱を帯びている。
じりじりとした攻防戦が続いていた。長い長い闘い。どこまでも果てしなく続く戦い。少しでも気を抜くとやられるという緊張感。
勝負が決まったのは、一瞬の事だった。
桜子は、右の相四つで組んだ後、歩足での前進後進の中で見事に膝車の体勢に入った。
状態を崩しながら相手の右膝に自分の左足の裏を当てると、ダイナミックに投げたのだ。
ドスンッ。ナターシャはそのまま仰向けに倒れた。自分が負けたという事実を理解するのにナターシャも時間がかかったようだ。唖然としている。
「一本」
審判の判定の声。
スーッと美しい光の筋が身体を突き抜けたかのような爽快感だった。桜子は万感の想いで、その声を聞いていた。
(やっと、オリンピックでナターシャに勝ったんだわ)
いや、これはオリンピックではない。
それでも、曇っていた過去のモヤモヤが晴れたような気がする。
勝った。やっと勝てた……。
ナターシャは初めて自分を打ち負かした桜子に対して微笑んでいる。互いに礼をしてから去っていった。
彼女も、この真剣勝負に満足したようだ。
試合を見守っていたギャラリーからは惜しみない拍手が注がれた。
桜子と契約したショーンも満足そうに桜子を出迎えた。
「おいおい、お嬢さん、やるじゃねぇか。オレとアメリカを巡業しねぇか。東洋のビューティフルモンスター、チェリーチャイルド。いいねぇ、この名前であちこちの闘技場に出向こうぜ。いい金儲けになるぜ」
「いいえ。わたしには旦那様がおります。アメリカには行きませんわ」
軽く、ショーンをいなした後、桜子はお金を獲得して帰り支度をしていた。すると、そこにジェイコブが現れた。
「ジェイコブ様、どうなすったんですか」
「それはこっちの台詞だぞ。おまえさん、なんで試合に出ておるのかね。そんな金に困っているのかね」
「実は……」
絹代のせいで資金繰りに困っている事を打ち明けた。イワノフへの借金の支払いは、今日の賞金で何とかなりそうだが、会社の金庫から消えた分の運用資金は、まだまだ足りない。
「どこの銀行も要様に融資して下さらないのです」
「うむ。なるほど、確かに銀行にとって弓削家は大口の顧客だからな……」
少し考えた後、ジェイコブが名刺を渡してくれた。
「来週、この銀行の頭取のところに行きなさい。おそらく、何とかしてくれるだろう」
「ありがとうございます。だけど、このお礼をどうやってすれば良いのやら」
「いやいや。今日、わしは、おまえさんのおかげで一人勝ちしたのだぞ。あはは。実に楽しい試合だった。あんな手に汗を握る試合は滅多に見られるものではない。本当に見事だった。どちらも美しく強かった。歴史に残る試合だったぞ」
「あ、ありがとうございます」
そんなふうに褒められて感無量だった。桜子は目頭が熱くなった。
達成感が桜子を満たしている。
☆
夕刻、桜子は賞金を持って要の会社へと向かった。
「要様、このお金を使って下さいまし」
「桜子さん……。どうして、こんな大金を……」
まさか、ロシア人主催の柔道の試合で勝ったとは言えない。またしても桜子は嘘をついた。
「わ、わたし、環さんから聞きましたの。牧野さんという人が作った借金の返済に困ってらっしゃるそうですわね。わたし、先程、ヴィクトリアの知り合いの方達とポーカーゲームをして勝ちましたの」
「えっ……」
桜子が西洋人達と密に接している事は知っている。しかし、そんなに簡単にポーカーに勝てるものなのだろうか。まさか、異人相手に身を売ったのではないか。
そんな不安に駆られたのだが、桜子は夏の太陽を浴びた子供のように健やかな顔をしている。
「はぁー。今日は疲れましたわ。ついに勝ちましたわ。本当に気持ちのいいものでございますわね。今夜は、ぐっすりと眠れそうでございますわ」
さりげなく桜子は名刺を出した。
「それから、わたしの知り合いのジェイコブ様が、融資をしてくれる銀行を紹介して下さいましたのよ。ぜひ、来週、ここに行ってみて下さいな」
「……」
一体、どんな魔法を使ったのだろう。
正直、要は半信半疑だった。しかし、いざ、要が、その大手銀行に向かうと銀行員一同が手厚く迎え入れてくれて、おまけに融資の話もスイスイと進んだ。という訳で、要の会社はまたしても持ち堪えた。それどころか、銀行は要に媚びへつらうようになっている。
その事に関して面白くないのが絹代だ。
絹代は、銀行に出向いて文句を言ってやろうと息巻く。だが、そうはいかない。その夜、絹代の父親が絹代に言った。
「絹代。おまえ、わたしの名前を使って伊集院君の会社に圧力をかけているようだな。もう、そんな事は止めなさい」
「お父様、悔しくないのですか。あの男は、わたしをコケにしたのですよ」
「バカバカしい。ただ単に、他の女を選んだだけの話ではないか。そんなに嫌なら別の男と結婚しなさい。いいね。二度と、伊集院君に近寄るな。そうでないと、わたしが困る事になるのだよ」
「どうしてよ。お父様を困らせる者なんて日本にはいやしないわ。政治家も軍部の幹部もお父様の言いなりよ」
「しかし、欧州の銀行家一族から見れば、わたしなどは極東の小者なのだよ。いいかね、伊集院君の許嫁の背後にはとんでもない大物が控えている。そのことを忘れるな。今度、おまえが何かしたら、わたしまで危なくなる」
それだけ言うと、絹代の父は部屋から出て行った。その二日後、絹代の元に見合いの話が舞い込んだのだが、絹代は絶句した。
「こんな太鼓腹の野暮ったい男と結婚しろですって。ふざけないで欲しいわ」
しかし、絹代の父は強引に話を推し進めようとしている。はっきり言って、伊集院要との結婚は絹代の父にとっては得るものがない。家柄のいい財閥のボンボンと娘を結婚させると、絹代の父は決めている。
断るという選択肢のない見合いの後、絹代は最後の足掻きを見せた。
またしても、写真と密告文を要の会社に送り付けたのである。
『あなたの許嫁は雄一という男と浮気しています。これが証拠です』
要は、その写真を見た瞬間、さすがに胸が騒いだ。がっつりと雄一が桜子に覆いかぶさっている。
しかし、どう見ても、桜子は柔道着を身に着けている。柔道のことなど知らない絹代は練習風景だと気付いていないのかもしれない。
要は執務室で顔をしかめていた。
(オレに内緒で柔道の練習をしているのか……? だが、やましくないのなら話してくれたらいいのに、なぜ、コソコソと会っているんだ?)
いくら練習であろうとも雄一が桜子の身体に密着している事が気に入らない。
(こんな練習を何度もやっているのか?)
イワノフ主催の柔道の死闘を知らない要は嫉妬まじりの苛立ちを感じ始めていた。
桜子が浮気をしているとは思わない。
しかし、雄一との親密さが気に入らない。せっかく、会社の問題が片付いたというのに要は不機嫌なまま帰宅する。タイミングが悪い事に、この日、雄一が洋館のダイニングルームにいた。
雄一は桜子に頼まれて孤児院の屋根を直したのだ。
「おう、おかえり、伊集院さん」
雄一は無邪気だ。
ガタイのいい雄一におかえりと言われても要は嬉しくない。
「おかえりなさい。お兄様」
雄一の横にはゆき恵がいた。
今日も、孤児院で英語を教えた後、ヴィクトリアに頼まれて日本の書籍を英訳したゆき恵も、この洋館で夕飯をいただいていたのである。桜子特製のカレーを御馳走していたところである。
もちろん、海老は使用していない。ウサギの肉の入ったカレーだ。
「要様も、お夕食、まだですわよね?」
桜子は、いそいそと準備をしようとしていたのだが、要はムスッとしたままこう告げていた、
「すみませんが、お腹は空いていません。今夜は、疲れているので二階で休みます」
「か、要様……。何か召し上がらないと……」
そう言いかけた桜子の腕をはらうようにして二階へと行ってしまった。ギスギスしている要の後ろ姿を見ていたゆき恵はニヤッと笑った。
恋に鈍感な桜子には分からずとも、妹のゆき恵には分かっている。
(あら、驚いた。あのクールなお兄様が拗ねてらっしゃるのね……。あらあら、なんて、愉快なんでしょう。んふふ)
原因は雄一であろう。
(確かに雄一さんは素敵だものね、お兄様がむしゃくしゃする気持ちも分かるわ)
しかし、同性だからこそ分かる。桜子は雄一を異性として見ていない。それに、雄一も桜子を溺愛しているけれども女として見ていない。
ちなみに、雄一は、今日、屋根を直しながら桜子相手にこんなことを話していた。
『オレ、こないだ、付き合ってる女に結婚してくれって言ったんだよ。断られると思ってたんだが、いいよって言ってくれたのさ。なんか、しらねぇけど、桜子、おまえとオレが付き合ってると思い込んで落ち込んでたらしいぜ』
桜子はけらけらと笑っていた。
『お兄ちゃんとあたしが付き合う訳ないじゃないの。そんなの有り得ないわ』
『こないだ、柔道の練習しているのを見て勘違いしたらしいぜ』
『ああ、そうなんだぁ』
そんなふうに二人は笑い合っていたのである。
その夜、ゆき恵は、焼きもちを焼いている兄の為に仲を取り持ちたいと思った。
(お兄様の借金の件も片付いたんだもの。のんびりなさるべきだわ)
だから、後日、ゆき恵は桜子に市内温泉の無料招待券を渡した。市内温泉というのは健康ランドのようなものである。湯に浸かり、美味しいものを食べ、綺麗な庭を散策する施設の事だ。
「あらあら、こんないいものをいただけるなんて嬉しいですわ」
「券は四枚あるの。良かったら雄一さんにも二枚、差し上げて。使える期日は一日だけなの。この日以外だと無料じゃなくなるから気を付けてね」
雄一と雄一の恋人の翠も温泉に行けば、要のモヤモヤも解消出来ると思ったのだ。恋人を連れている雄一と要が鉢合わせたならいいと願っての事だった。
しかし、桜子が温泉の券を雄一に渡しに雄一が下宿している離れに向かうと、もう雄一は山に帰っていた。
この券はどうしたものかと思っていると、市場で買い物をしようとしている董子と出くわした。
はっきり言って、姉妹の仲は良くないので滅多に会うこともないが、董子の暮らしぶりが気になったので、温泉の券を渡すという名目で近寄った。
「董子さん、久しぶりですわね」
「お、お姉様」
なぜか、ビクッとしたように瞳を揺らしている。
「な、なんですの?」
「いえ、あなたを見かけたものだから……。これから、夕飯の支度なの?」
「こ、今夜は竜馬さんが叔母様の家に泊まるようだから、酒の肴を用意しなくてはならないのですわ」
そう言いながらも、桜子と目線を合わせないようにしているところが気になった。桜子は、あっそうだと言いながら、董子に温泉の券を手渡していく。
「これ、無料券なの。よかったら使ってみて下さいな。お世話になっている竜馬さんの叔母様と二人で行くといいわ」
「そ、そうね。ありがとう」
えっ。
今、董子がありがとうと言った事に桜子は驚きを隠せない。董子に券を渡そうとした時、董子が肩の辺りに痛みを感じたのか、うっと顔をしかめた。
「董子さん、どうかしたの?」
「な。なんでもありません」
ぶっきらぼうに言い切ると、董子は買い物籠を持ったまま人ごみの中に消えていった。
この時、桜子は嫌な予感がしたのである。
その夜、正義感の強い桜子はモヤモヤしていた。
『お姉様なんかにキャラメルはあげなーい』とか、『お姉様は不義の子なのよ』というような嫌味なとを言い続けてきた妹なのだが、それでも、あんなふうに憔悴している姿を見るのは忍びない。
(きっと、あの子に何かあったんだわ)
そう、確かに事件は起きている。
結婚するまでは一線を超えないという約束だったというのに、二日前、竜馬は酔った勢いで董子を押し倒した。
泣き叫ぶ董子の声に気付いて竜馬の叔母の家にいた女中が踏み込んだおかげで、董子の貞操は何とか保たれたけれども、抵抗した際に肩を強く押されて痣になっている。
泣きながら立ち去る董子に向けて、竜馬は焦点の合わない目で董子を口汚く罵っていた。
『誰のおかげで飯が食えてると思ってる? 上品ぶるんじゃねぇぞ』
普段の竜馬とは別人だった。
幽鬼に憑りつかれたような顔をしていた。董子は恐ろしくて堪らない。あんな男と結婚するのかと思うとゾッとする。でも、親が他界している董子にしてみれば他に生きる道はない。
未来について絶望する董子だったが、気晴らしに竜馬の叔母と温泉に出かけたいと思ったので券を差し出した。
しかし、その券を見た竜馬が言った。
「いいですね。ぜひ、僕と行きましょう」
ゾワッ。
董子は恐怖に包まれた。二人きりになるなんて嫌だ。しかし、竜馬の叔母はにこやかに言った。
「そうね。デートをするといいんだわ」
竜馬の叔母は竜馬に甘い。
竜馬はほくそ笑んでいた。こないだは董子を抱き損ねている。今度こそ逃すものか。暗い欲望を滾らせる竜馬に対して董子は怯えるしかなかった。
☆
その日がやってきた。
要は涼しげなシャツにズボン。桜子は花模様のワンピース。どちらもハイカラさんだ。
男湯と女湯の露天風呂がある。
それぞれ、たっぷりと温泉を満喫した後は昼食となる。海の幸、山の幸。どれもこれも美味しかった。
「桜子さん、この後はどうなさいますか?」
人工の滝があるが、美しい庭を散策するには暑過ぎる。
個室で、まったりと過ごすのがいいだろう。いや、それとも、売店でかき氷を食べようか。桜子はぼんやりと思案する。
ここは、いわゆる日帰り温泉なのだが、料金を支払えば個室で夕刻まで過ごせる。イチャイチャしたいカップルにとっては都合の良いものだった。
布団は敷かれていないものの、逢引き宿として使うことも可能だ。実際、この温泉に来ている不倫カップルは大勢いる。
中居も心得たもので、食事の後は部屋には来ない。
そういう事をまったく知らない桜子は無邪気だった。
「やはり、夏は暑いですわね」
団扇でハタハタと胸元に風を送っている。
結い上げた髪。しどけなく投げ出された素足。少し、お酒をいただいた後の桜子は色っぽい。
このまま二人でここにいると要の理性がどうにかなりそうだった。一旦、自分だけでも外に出ようとして要は腰を上げる。
すると、隣室から若い女の悲鳴が響いた。
桜子と要は同時に顔色を変える。
「や。やめてーーー。叩かないでーー」
それは、酔って暴力をふるっている竜馬に怯える董子の悲鳴だった。湯上りに日本酒をたんまりと飲んだ竜馬は、董子にもっと酌をするように言ったのだが、すっかり怯えている董子は手元が震えていた。そして、うっかり、酒を竜馬の浴衣にこぼしてしまった。
その途端に竜馬が切れて桜子の頬を叩いたという訳だ。
「うるさい、黙れ、このガキ」
いいから、とっとと股を開けよ。
そんな声を耳にした桜子は隣の部屋に飛び込む。嫌がる董子の悲鳴が耳に突き刺さる。
桜子が見ている目の前で無理強いしようとして竜馬が妹の頬を殴った。鼻血を流して泣いている董子が哀れだ。
「あんた、あたしの妹に何をしてくれてんだよーーー」
許さん。許さん。絶対に許すもんか。
「おい、おまえ、いきなり何なんだ」
突然の怒号に驚いた竜馬はボクサーの構えで桜子を威嚇しようとしている。
しかし、それがどうした。
てめぇ、覚悟しやがれ。鬼の形相の桜子は臨戦態勢に入っている。
うぉりゃーーーー。
桜子は我を忘れて一本背負いしていた。竜馬はドスンと倒れたものの、すぐに立ち上がった。
「このアーマー」
ボクシングを習っていたらしい。かなり速い速度で竜馬の右ストレートが迫ってくる。しかし、桜子は次々とパンチをよける。空振りして前のめりになる竜馬は、顔を真っ赤にして怒っている。
「てめぇーーー。鼠みたいにチョロチョロしやがって」
フン。なんとでも言え。
そうやって、相手を揺さぶった後、テコンドーの要領で竜馬の横っ面を回し蹴りにしていく。
「うぐっ」
渾身の一撃が決まった。
竜馬は鼻血を垂れ流したまま横向きで倒れている。秒速で気絶している。
はっと我に返った時、桜子は要の視線に気付いてフリーズする。
(えっ、どうしよう)
要は驚愕の表情で桜子を見ていたかと思うと、ザッと背中を向けた。
「あ、あの要様……」
呼んでも返事はなかった。
「……」
要は絶望したかのように頭を振っている。駄目だ。嫌われたと思った桜子は真っ青になり、そこから衝動的に逃げ出していく。
(どうしよう。どうしよう)
要が好きなのは小鳥ちゃんのような弱々しい女性なのだ。
(妹の婚約者を失神させるような恐ろしい女のことなど、きっと見たくもないのね)
ずっと、本当の自分を偽り騙してきた。いずれ、こんな嘘もバレると心のどこかで怯えていた。そして、ついに破滅の日を迎えてしまった……。
オーマイガッ。
(もう、あたし達はダメなんだわ)




