第十六話
先刻、要がすごい顔で桜子のことを見つめていたような気がする。
(きっと、化け物だと思ったのだわ……)
あの人は、恐怖と嫌悪感を抱いているに違いない。桜子は涙ぐむ。さようなら、要様。
桜子は要と別れるしかないと思い込んでいる。
絶望した桜子は温泉施設から飛び出した。そのままフォレストガンプのように往来を走り続けていく。
「もう、あたしは愛されないんだわーーーー」
一方、要は、ようやく正常な呼吸を取り戻していた。
目の前には失神した竜馬がいる。その背後には涙目の董子が座り込んでいる。
「董子さん。大変でしたね。さぁ、帰りましょう」
「帰るってどこに?」
「とりあえず、我が家に来てください。あとの事は桜子さんを交えて話しましょう」
「お姉様、どこに消えたの?」
「さぁ、どこでしょうね」
要は、ようやく桜子と本気で向き合う時が来たのだと思った。
先刻、要は絶句してしまった。
しかし、それは桜子が竜馬を失神させたからという訳ではない。
(な、なぜ、オレのパンツを履くのだ?)
一瞬、桜子のスカートの中が丸見えになり頭が真っ白になった。桜子の名誉の為に言うと、あれは要のパンツではない。お揃いのパンツである。いくら桜子でも勝手に要のパンツを履くような変態じみたことはしない。
だが、要はこう思っていた。
(あれは、確か、先月、ゴムが緩んだのでゴミ箱に捨てたものだ。もったいないので履いているのだろうか)
あの時、要が震えながら頭を振っていたのは、トランクスの残像を振り払いたかったからである。要は笑ってはいけないと思い、しかめっ面をしていたのだが、そのせいで桜子は傷ついたのだ。
竜馬のような奴は殴られて当然だ。よくやったと要は感心している。
そうとは知らない桜子は、自分が強いせいで要に嫌われたと思い込み、絶望して家を出ていった。
古ぼけたトランクに荷物を詰めると虎次郎の人力車に飛び乗っていた。
帰る家もない桜子が行けるところといえばここしかない。
村だ。山際の民家で雄一と雄一の父親は慎ましく暮らしている。家は小さい。囲炉裏の間と寝室の二つしかない。
「おいおい、桜子、いきなり、どうした?」
「お兄ちゃん、あたし、要様の前でやってしまったの」
説明すると雄一は肩をすくめた。
「今まで本当の自分を隠していたようだが、隠す方がおかしいと思うぞ。おまえは強い。そのことでおまえを嫌うような男なら忘れちまえ。さぁ、お茶でも飲め。このまま、永遠にここで暮らせばいいさ」
「そんな訳にはいかないよ」
というか、雄一の父はどこにいるのだろう。
すると雄一は言った。
「親父は山小屋にいる。この季節は山で過ごす事が多いんだ。ちょうど、こんな季節に、親父は、おまえの母親のハナと山小屋で結ばれたんだよ」
「はぁ?」
今、さらっとすごい事を言われたような気がする。
「えっ。えーーーーっ」
そこで衝撃の真実を知る。
「おまえの母は、親父のことをガキの頃から好きだったようなんだよなぁ。でも、親父は男やもめだ。しかもうんと年上だ。親父は、二人きりにならないように注意していたんだ。お嬢様も、そのうち諦めてくれると思っていたんだが、そうじゃなかった。ある梅雨の日、山小屋まで来てしまった。雷が山に落ちた」
ずぶ濡れになって会いに来た。そのいじらしい姿にこみ上げるものがあった。
「それでだな、なんつーか、抱き合ったんだ。その時、親父もお嬢様のことが好きだと気付いたのさ」
それから、二人はみんなに秘密で会い続けた。
「おまえの母親は、どうしても子供を産みたかった。産んでしまえば家族から勘当される。そしたら、親父の元に行こうと決めていたらしい」
なんと、桜子の本当の父親は雄一の父だというのである。
「孕ませた男の名を決して言わなかったのは、親父を村人から守るためだ。親父が山から追い出されると分かったのさ。地主のお嬢様だっていうのに、子持ちのマタギに惚れちまうなんてどうかしているよな。だけど、本気の恋を貫く為にも秘密を守るって決めていたみたいだ」
我が母親ながら何とも頑固な人だ。
「親父、あんまり、おまえの顔を見なかっただろう。それは、愛した人と同じ顔をしているからなんだ。ハナさんが親父と付き合っていた頃、オレはまだ子供だったけど、この人が新しい母ちゃんになってくれるんだと思ってた」
桜子の母は、弱弱しい外見とは裏腹にこうと決めたらやり抜くタイプだった。桜子が生まれて以来、雄一は妹の事を気にかけており、いつかは真実を伝えたいと思っていたという。
「まぁ、つまり、オレとおまえは腹違いの兄妹なんだ。オレ達は、いつも、おまえのこと遠くから見守っていたんだぜ」
「そうだったんだね」
それで、ようやくスコンと腑に落ちた。母の形見の櫛の形が、雄一がくれた櫛の形と似ているのも納得だ。
「ある時、おまえが、この小屋に来た。オレを頼ってくれた。お兄ちゃんって呼んでくれて嬉しかったぜ」
いつも、雄一といると穏やかな気持ちでいられた。血の繋がった兄だからこそ、いつも、守ってくれていたのだ。自分にも家族がいると分かって嬉しい。。
「実は、翠にも、おまえは妹だって話したんだよ。おまえも、伊集院さんに教えてやったらどうだ? オレも兄としてあいつに言いたいことがある」
「何を言うつもりよ」
「ふふん。そりゃ内緒だ」
とにかく、自分には家族がいると知った桜子は泣き止んでいた。
その夜は、雄一と仲良く布団を敷いて眠った。
「おまえみたいな妹がいるっていうのが誇らしいぜ。試合、よく頑張ったな」
雄一も試合を観ていたらしい。
「おまえのおかげで儲かったぞ。ありがとな」
兄と妹として、こうやって暮らすのも悪くないと言いたいところだが、雄一は、もうすぐ結婚する。
雄一が言った。
「親父の部屋として離れを作る予定なんだよ」
その為にも雄一は金を溜める必要があるという。
(そうだよね。この家は狭いわ。お兄ちゃんのお嫁さんに迷惑はかけられないや。ずっとここにはいられないよ)
何か仕事をみつけよう。とりあえず、当分はここで英気を養おう。
(要様と見た花火は綺麗だったな……)
もう会えなくなるなんて思うと涙が溢れて止まらない。
「泣くな、桜子」
雄一はよしよしと桜子の頭を撫でてやると、桜子はうえーんと子供のように泣いた後、泣き疲れて眠りについた。
思えば、いろんなことがあった。
それでも、桜子は一途に要を慕ってきた。
転生して本当の愛を知った。そんな自分が誇らしい。
例え愛されなくても、自分が好きならそれでいいと思うのだ。
☆
その翌朝、要が飛び込んできた。どえらい勢いで戸が開く。
寝ぼけ眼の桜子は、戸口に佇む要の顔がよく見えなくてポカンとしている。桜子の髪は乱れて浴衣も乱れている。
雄一は、ニッと勝ち誇ったようにして要に言い放っている。
「よう、遅かったな。桜子は、オレのもんだぜ。おまえなんかにはやらねぇぞ。とっとと帰りな」
すると、要は雄一に殴りかかろうとした。
「違う。桜子さんはおまえのものなんかじゃない」
こんな激しい顔の要を見たのは初めてだ。このまま喧嘩になってしまうと桜子は涙目になる。
要にこのように激しい一面があったなんて意外だ。掴みかかろうとする要の前に割って入ると襟ぐりを掴む。桜子は絶叫していた。
「やめてーーー。血の繋がった兄なのよ」
つい、習性で咄嗟に柔道の技をかけていた。自らの背中を床に着けて足で要を持ち上げる。うぉりゃーーーーーー。桜子の切れ味抜群の巴投げが炸裂している。
パタンッ。
幸い、投げ出された先には湿っぽい布団が敷かれていたので、要はさほど痛みを感じていない。
仰向けの要は、あざやかな投げ技に対して口角を上げている。
雄一が兄だと知った要はクスクスと笑いだしていた。そんな要に対して桜子は告白していく。
桜子は要の顔を覗き込み涙をこぼしていた。
「要様、実は、わたしは罪深い女なのでございます。実は、初めて会った夜、わたしは海老を盗もうとして潜ったのでございます。そして、他にも色々と隠していた事がございます」
人力車の車夫をしていた事。ロシア人の館で柔道の試合をした事。
色々と隠していた事が明かされていく。
とはいうものの、ほとんどのことは要も既に知っている。
強い桜子も不器用な桜子も、何もかもひっくるめて魅力的だ。
雄一との特訓もこの為だったのだ。
柔道の試合で頑張ってくれた事を耳にした要の胸はジンと痺れ、目頭が熱くなった。
(やはり、桜子さんは最高の女性だ)
すべて話し終えると、要は桜子を包み込むようにして抱きしめた。
「あなたは誰よりも素敵な人です。あなたと出会えて本当に良かったと思っています」
桜子はビックリ箱のような人だ。
「お願いです。今後はもう隠し事はしないで下さい。もちろん、オレも話すようにします」
熱心に見つめながら、結婚して下さいと正式に申し込む。そんな要の手をぎゅっと両手で握りしめながら言う。
「もう、わたしはあなたのものですわ」
桜子は頬を染めながらそう答えると、雄一がそっと扉を閉じて出て行った。
(うちの妹をよろしく頼むぜ)
真夏だが、山からの風が心地いい。桜子と要は、手と手を繋ぎながら自分達の家へと帰っていく。
雄一の家の前には一台の人力車。よく見ると、なんと、そこにいたのは虎次郎だった。
「おうおう、お嬢さん、旦那様に内緒で里帰りなんてするもんじゃねぇぞ。それにしても、おたくの旦那様は色男だねぇ」
のどかな農道を進む人力車に二人で乗り込んでいた。
タッタッタッ。虎次郎は軽快に走り続けていく。
車を曳く虎次郎が知らぬ間に、互いに顔を寄せ合って口づけしていく。
何度も何度も。
互いの熱情を確かめ合うかのようにキスを重ねている。
タッタッタッ。
タッタッタッ。
田園風景は続く。街道がまっすぐに伸びている。
☆
それからどうなったかというと。
温泉施設での事件に関して要が警察に被害届を出した。
向こうは、桜子に蹴られて失神したと主張したものの、誰も、桜子がそんな事をしたとは信じていない。
取り調べの際に、桜子が言ったからだ。
『あらあら、おまわりさん。わたしが、そのような恐ろしい真似が出来ると思いますか?』
『……』
回し蹴り。
そんなものやる訳ねぇよな。
おまわりさん達は互いに見つめ合う。
清楚な美しさで男達を騙すなど桜子にとっては朝飯前。
『わたしは恐ろしくて、ただ、泣いておりましたの。そしたら、あの男は、わたしを殴ろうとして勝手に転びましたのよ』
おまわりさん達は桜子の嘘にコロッと騙された。
何しろ、池田竜馬はアルコール依存症だと証言する者もいる。血の繋がった叔母も、甥は酒を飲むと正気を失うと証言している。
おまわりさん達は、その後、留置している竜馬を取調室で締め上げた。
『おまえ、くだらない嘘をつくな』
『嘘じゃない。あの女が鬼のような勢いで蹴ったんだよ。西園寺桜子は暴力をふるった。あの女も留置しろ』
『おまえ、本当に馬鹿だな。医者にみてもらえ』
竜馬の実家の親達が乗り込み、董子に示談金を支払う事で決着したのだが、以後、竜馬は酒のせいで幻覚を見るようになったのだと噂されるようになった。
元々、芸者衆から嫌われていたこともあり、ますます、肩身が狭くなり、今は上海留学という名目で国外に追い払われている。
ということで董子は桜子と共に洋館で暮らすようになっていた。
董子は、あの事件のおかげで、すっかり桜子に心酔している。
『お姉様なんかにあーげない』
それが口癖だったというのに、今では、桜子の好物の桜餅を何度も作るようになった。
秋になると雄一がカフェーの女給の翠と夫婦になった。マタギの女房として村で楽しく暮らしているようだ。
それから、また季節は巡り、桜の花がチラチラと舞い落ちて目黒川を彩っている。
管理人をしていた洋館に元の家主が戻ってきた。
桜子達は、新たに借りた家に引っ越していった。
高台にあるこじんまりとした日本家屋だ。
桜子が、伊集院要と結婚したのは十九歳の夏の終わりのことだった。継母の環が、桜子との結婚の後押しをしてくれたのである。
董子も一緒に洋館で暮らしていたのだが、桜子が結婚した数か月後、董子は晴れやかな顔で結納を済ませた。
お相手は、お見合いで出会った遠藤秀作。
優しい顔立ちの真面目なサラリーマンである。祝言の後、遠藤董子として下町の小さな借家で暮らしている。
竜馬の事は心の傷となっており、一時は結婚なんて二度と考えたくないと言っていた董子だったが、今はすっかり立ち直っている。
董子は嫁に行く前、桜子の前でこう言った。
「何もかもお姉様のおかげです。この御恩は忘れません」
甘ったれて夢見がちだった董子の面影はない。あの事件の後、董子は孤児院のお手伝いをしていたのである。厨房で孤児の食事を作る仕事を無償で行っている。
董子は親のいない寂しさと心細さが誰よりも分かる。董子の煮物は美味しくて評判が良かった。子供達も董子に懐いている。
可愛い子供の姿を見ているうちに董子の気持ちも癒されたという。
『お姉様、あたしは、上っ面を見るだけの浅はかな小娘でした。だけど、お姉様のおかげで目が覚めました。お姉様の大切な孤児院をあたしも支えます』
そんな董子も、ついに嫁ぐのかと思うと桜子の心にも迫るものがあった。
『良い子は柔道をいたしましょう』
桜子は孤児院で働く傍ら、孤児院の一角で柔道教室を開いている。
孤児達をいじめていた悪ガキたちも礼節を重んじるようになり、孤児達がどこかでいじめられていると助けに入るようになっている。
桜子には他にも大切な教え子がいる。
『師匠、よろしくお願いします』
力士の松子の声はいつも大きい。松子は双子の男の子を出産している。産後間もなく柔道を習いたいと桜子に言ってきた。
松子は巨体でもっさりとしているように見えるが、体幹はしっかりしている。柔道の選手として鍛えた結果、今では寝技の弁天様という異名でもてはやされている。
松子にのしかかられたら最後。
単に、体重の力で抑えているのではない。きちんと技を外されないように固めている。こうなると、どんな選手も降参するしかない。
おかげで、松子は連勝しているようだ。
『師匠も試合に出てはどうですか?』
しかし、桜子はどこか寂し気に微笑みながら断っている。ナターシャを超える猛者はもういないからだ。もちろん、巨漢の松子も桜子の宿敵にはなれそうにない。桜子は生徒達に教えて大好きな柔道を世間に広める事が使命だと思っている。
桜子との試合の半年後、ナターシャはオーストラリア人の新聞記者と結婚してオーストラリアに移住している。今頃、遥かなる大地で幸せに暮らしている事だろう。本人はアメリカに行くつもりだったようだが、愛しい男と出会って行き先が変更されたとショーンから聞いている。
もう二度とナターシャには会えないかもしれないが、彼女は桜子の最高のライバルだ。
(さようなら、ナターシャ)
忘れがたい青春の日々を噛みしめずにはいられない。
☆
美しきナターシャは、子育ての傍ら、オーストラリアで羊や牛の世話に明け暮れていた。
時折、ナターシャは夕暮れ、少しセンチメンタルになる事がある。
実は、ナターシャは試合の前から桜子のことは知っていたのだ。
というのも、孤児達を連れて遠足をしている姿を見た事があるからだ。
美しきナターシャが父親と二人で日本に来たのはナターシャが五歳の春だった。樺太から北海道に移動して、そこから帝都へと流れ着いたのである。インテリの父はフランス語と英語が堪能で片言の日本語が話せた。しかし、ナターシャは日本語がまるで分からなかった。知り合いも友達もいない。
金髪に蒼い目のナターシャは奇異な目で見られる事が多かった。
そんなナターシャが九歳の時、人さらいに連れ去られそうになる。
しかし、泣き叫ぶナターシャを救い出してくれた人がいた。
人さらいの腕をねじ伏せて襟を掴むと、そのまま豪快に腰に乗せるようにして投げた男がいた。
それが柔道の技だと知ったのは翌日の事だった。
連れ去られそうになったのを救ってくれたお礼をしたかった。父が作ったピロシキを持って、一人で彼の自宅へと向かった。
その男の名前は三船三四郎。子供達に英語を教える傍ら柔道も指導してた。
以後、練習を、毎日のように見学するようになる。そんなある日、三船はナターシャに、君も柔道をやってみないかと誘った。
あまり、日本語は得意ではないけれど、柔道で同じ年頃の女の子や男の子と組むうちに、次第に打ち解けていった。
ナターシャにとって柔道は生きる希望になった。いつも独りぼっちだったのに、柔道をしている間、相手は真剣に向き合ってくれる。身体の動きを通して互いのことがよく分かるようになった。
日本語も少しは話せるようになるとナターシャは前より生きるのが楽になった。
自分がいじめられていると柔道の仲間が助けてくれるようになって嬉しかった。
三船はナターシャに丁寧に指導してくれた。学校に行っていないナターシャが小学校に行けるようにしてくれた。ナターシャはめきめきと柔道と日本語が上達した。そのおかげで、ナターシャは、道場の帰り道、悪い男にかどわかされそうになっても、ちゃんと自分で身を守る事が出来た。
ナターシャにとって三船先生は憧れの人。
初恋の三船先生は結婚したのでナターシャの淡い恋心はしゃぼん玉のように壊れているけれど、それでも、今でも三船先生の事は尊敬している。
オーストラリアに移ってからは柔道を人前でやっていない。
ちょっぴり、寂しく感じることもある。
しかし、羊の毛狩りの際に羊を抑え込むのが上手いと姑に褒められて嬉しかった。
羊も、ナターシャに逆らっても無駄だという事が本能で分かるようだ。
ナターシャは日本を旅立つ前に、匿名で孤児院に寄付をしている。
イワノフからもらった汚い金なのだが、桜子達は子供達の為に正しく使ってくれると信じている。
ちゃんと言葉を交わしたことはないけれど、桜子に対しては赤い糸のようなものを感じている。
また会いたい。
『わたしたち、親友になれたでしょうね……』
ナターシャはそう思うのだ。
ちなみに、伊集院ゆき恵は、ヴィクトリアの秘書として日本各地を旅行してガイドブックを作り上げていた。ゆき恵は女性誌専門の出版社を立ち上げたいと言っている。その前に、ヴィクトリアの祖母の家にホームステイしてイギリスを旅行する予定になっている。
余談になるけれど、こんな事があった。
要が桜子と結婚した翌月。
ゆき恵の母親の環は不思議な光景を見ている。それは、要の母親の命日の日だった。
後妻の努めとしてお墓に花を供えに行ったところ先客がいたのだ。その後ろ姿を見て、てっきり要だと思っていたというのに、振り返ると、その人は要ではなかった。
もっと年上の中年の男だった。しかし、驚いたことに、顔立ちが要に酷似していた。
『あの、どちら様でしょう』
環が尋ねると、その人は低い声で答えた。
『昔の友人です』
その時、環の身体に電流のようなものが走った。
こんなにも顔が要と似ているなんておかしい。
まるで生き写しだ。何より、その声が酷似している。
(ま、まさか……)
確か、要の母親には好きだった男がいたと聞いている。まさか、その男が要の本当の父親なのではないかという疑問が浮かんだ。思えば、万次郎と要は互いに反発してばかりだった。
(どっちもハンサムだと、顔が似ていないのよね。万次郎は大酒飲みなのに、要さんはお酒が苦手だわ)
しかし、今更、それを確かめてどうなるというのだろう。
環にとっては、要が誰の子でも構わない。
桜子との結婚に腹を立てた万次郎は要を勘当しており、いっさいの関わりを断っている。
万次郎の遺産のすべては勝彦が受け継ぐことになっている。
そんなことを思い返していると、要に似た上品な男は環に会釈してから去っていった。
環は言いたかった。
『あなたの愛した女性の息子は、結婚して幸せに暮らしていますよ』
環は、積極的に孤児院の子供を従業員として受け入れるようにしている。
女の子は美容院や化粧品店。
男の子はカフェーやバーの店員。
ゆき恵が言うように、みんな良い子達で助かっている。
それで、悪役令嬢の絹代はというと、お見合い相手の財閥の男と結婚している。セレブな暮らしに磨きがかかっている。
意外なことだが、その不細工な男は優しかった。
絹代は、要のような薄情な男と結婚しなくて良かったと満足している。
『あのような毒婦と結婚したことを後悔しているでしょうよ。オーッホホ。オーッホホ』
生憎だが、要は後悔などしていない。なぜなら、桜子は唯一無二の素晴らしい女性なのだ。
要の太陽だ。いつも明るくて颯爽と生きるハイカラさんだ。
『要様、腕立て伏せを一緒にいたしましょう』
筋肉トレーニングとやらを一緒にするようになってからは、要の腹筋が割れるようになった。
『要様、体つきが変わりましたわね』
桜子は、その腹筋に頬をうずめて満足そうにしている。要は、今まで以上にいい男になっている。要は気配りのできる優しい男だった。
『桜子さん、夕立になりそうなので洗濯ものを入れておきましたよ』
誰もいない時などは、そんなことまでしてくれる。要は、本当にいい男なのだ。
海辺の旅館に泊まった際には、とれたてのエビを食べるようにと勧めてくれる。自分は海老アレルギーなのに妻の為に海老せんべいを買って帰ることもある。
この人と出会えて良かった。
だからこそ、桜子も彼に尽くしたい。
和食の調理には自信のない桜子だが洗濯は上手だ。やはり、桜子は今も要のトランクスを幸せそうに干している。
もちろん、桜子とお揃いだ。
要の会社の従業員を呼んだ時などは、バーべーキューという方式で皆に料理を振舞ってくれる。
『これ、兄が捕まえた猪の肉でございます。こっちはウサギの肉。それで、こっちは鹿肉ですわよ。わたし、焼き肉のたれを作りましたの。これをつけて召し上がって下さいまし』
取引先のアメリカ人などは、桜子のバーベキューの持て成しが気に入り、毎回、大喜びしている。
その会社の規模はこれからも大きくなるだろう。
というのも、ジェイコブの息子とビジネスパートナーになったからだ。
「要様、今日は、ハイカラなお弁当を作りましたの」
市販の食パンに茹でた卵にマヨネーズを絡めた卵サンドとやらを作ってくれる事がある。
要は、それが大好きだ。
そんな桜子の為に、桜子の大好きな羊羹を持って帰ると、いつも嬉しそうに頬を緩ませる。
「要様、おいしゅうございます」
桜子の笑顔とパワーは健在だ。皆を明るく照らす。
その会社は業績を伸ばしている。いわゆる大戦景気の波に乗って収益が増えており、会社の建物ももっと大きなものへと移行する予定なのだ。実は、先週、桜子が産婦人科に行ったところ、こう言われた。
『おめでとうございます。懐妊しておられますよ』
愛する要との愛の結晶がお腹の中にあると分かった桜子の胸が弾んだ。そのことを打ち明けると、要は心から喜んでくれた。
益々、桜子に対して優しくなっている。
いつものように桜子が玄関で出迎えていく。
現在、桜子は二十歳。立派な大人の女として愛する人と健やかに暮らしている。
「おかえりなさいまし。旦那様」
いそいそと、要の上着をハンガーにかける桜子。この世界は光に満ちている。桜子はこんなにも幸せだ。
おわり




