第七話
桜子は猛然と夜道を走り、内科医を探した。ドンドンと医院の戸を叩いた後、医師を連れ帰ってきた。診察後、医師は言った。
「命には別条ないが、こんなふうに何度も食べていると、そのうち、本当に命を落とすかもしれないので気を付けなさい」
今夜は、眩暈と蕁麻疹で済んでいるが、アナフラキシーショックによって死ぬこともある。
医師が帰った後、桜子は蕁麻疹を出したまま寝込んでいる要の枕元でシクシクと泣いていた。
「申し訳ありません。わたしが愚かでした」
たいして料理が得意な訳でもないのに、好かれたくて恰好つけてしまった事を悔んでいた。
そう言えば、前世において中学生の頃にも似たような失敗をしている。お手製のバレンタインのチョコレート菓子を作ったのはいいけれど、砂糖と塩を間違えるという痛恨のミスをやらかしている。塩辛いチョコレートのケーキを食べた祖父は、その夜、血圧が一気に上がって眩暈を起こしていたっけ。
『詩……。泣くな。わしは、おまえが作ったもんなら何でも美味いぞ』
おじぃちゃんの優しさに号泣した事を昨日の事のように覚えている。
「わたしは、不器用な女なのでございます。良かれと思ってやった事が裏目に出てしまうのでございます。情けなくて仕方ありません。要様にもしもの事があれば切腹いたします」
ヒックヒックと要を想い泣いていると、キヨが背中をさすった。
「桜子様のせいではありません。わたしどもが、海老についてお話していなかったのがいけなかったのでございます」
キヨはカレーというものを食べたことがない。
桜子が作ったものを生まれて初めて食したのだが、奇天烈な食べ物だと思いながら咀嚼していたのである。
それに、桜子が台所にいる間、その日は、キヨが風呂を焚いていたので、桜子が海老を使った事に気付かなかったのだ。要にしても、ライスカレーを食べ慣れていたけれど、そこに海老が入っていた事は一度もなかった。毎回、レストランでは牛肉入りのカレーを食していたのである。
今回の事は事故なのだ。
海老のせいで失神していた要は、深夜、ふと目覚めていた。
畳の部屋に絨毯を敷いてベッドや長椅子をしつらえた部屋である。桜子は捨てられた子犬のように絨毯の上で丸まって眠っている。頬には涙の痕が残っている。
気に病まなくてもいいのに……。この人は、こんなにも健気で繊細だ。
看病してくれたのだろう。その寝顔を見つめていると要の胸がツンと痛くなる。
要は眠っている桜子を抱きかかえると自分のベッドに寝かせた。そして、自分は絨毯の上に横になった。仰向けで眠る桜子は美しかった。まるで、眠れる森の美女という童話の挿絵の女の子のようだ。キスをすれば悪い魔法が解ける。けれども、自分は王子様ではない。
常に、桜子は罪の意識に悩んでいるように見える。
山での忌まわしい過去が桜子を蝕んでいるようだ。
どうすれば、桜子の心を開放してあげられるのだろう。
生真面目に悩む要だったが、要は完全に思い違いをしている。桜子がやらかしたのはロブスター(伊勢海老)の密漁である。
その時、桜子は要への罪悪感から恐ろしい夢を見ていた。宇宙人が作った兵器であるロボットの攻撃によって街を踏み荒らされてしまうという夢だ。地球連合軍は高い知性を持つ宇宙人との交渉の末、地球人と宇宙人の代表による柔道の試合で勝敗を決めることになった。自衛官として、桜子は宇宙人と道場で戦うという無茶苦茶な夢だ。漫画、ダンダダンのパクリのような斬新な映像が次々と流れた。
外では海老顔のロボットが暴れ、人々が逃げ惑っている。そんな中、二本指の埴輪のような外見の謎の宇宙人との死闘の末に負けてしまう。その瞬間、桜子は号泣する。
『悔しい』
自分が負けたら日本は宇宙人のものになる。食べられてしまう。ああ、無情。桜子は、自分のせいでこんな事になった事を悔いて身震いしながら叫ぶのだ。
『こんなの夢だと言ってーーーーーーーーーー』
高ぶる感情と共に桜子は目覚めていた。
「どうしたんですか。桜子さん」
明け方、奇声を発して身体を起こした桜子の額はぐっしょりと汗で濡れている。
はぁはぁ。桜子は自衛官としても柔道家としても任務を果たせなかった自分が許せない。夢の余韻を抱えたまま口走る。
「わたしは取り返しのつかないことをしたのです。あいつらに蹂躙されました」
海老顔のロボットがスカイツリーをぶっ壊し、ディズニーシーを火の海にして、挙句の果てに武道館を粉砕した。
ああ、恐ろしや。闘ったけれど、柔道の技は通用しない。日本人は宇宙人の餌して食べられることが決定したのである。どうしよう。夢の残像が棟を締め付けていく。
「恐ろしくてたまりません」
寝ぼけているので、夢の話を口走っていたのだが、ふっと我に返る。
「良かった。あれは夢でしたのね」
「そうですよ。ここには怖いものなどいません」
要は、幼子に言い聞かせるようにして桜子を抱きしめている。
(えっ、要様……)
なぜ、要に抱きしめられているのだろう。よく分からないけれど、桜子は嬉しかった。要の暖かな胸に抱かれていると、この世界に転生してよかったと思える。色々とトンチンカンな夢に浸食されてしまい、今の状況がよく分からない桜子だったが、こんなふうに密室で要と二人きりでいる事が恥ずかしくなり、ブルブルと震えていた。
「すみません……」
要は、ハッと自らを恥じるように身を引いた。
「あなたが怖い夢に怯えているように見えたものだから……。差し出がましい事をしてしまいましたね」
「いいえ。とんでもございません。要様が支えて下さって助かりましたわ。要様は、わたしの太陽でございます」
それなのに、要を気絶させるような真似をしてしまった自分が許せない。
「昨夜は申し訳ありませんでした」
「桜子さんは悪くないよ。言わなかったオレが悪いんだ。我ながら、こんな体質で情けない」
桜子はベッドから降りながら宣言する。
「いいえ。そんなことはありません。要様は素敵でございます。わたし、今後、一生、海老は食べないと誓いますわ」
大好物なのだが、海老アレルギーの要と暮らすからには海老とはお別れしよう。それが、桜子なりの愛の形だ。
「それでは、要様、おやすみなさいまし」
桜子は一階の私室に戻ったけれども、心はフアフアと夢見心地だった。
「なんてお優しい要様……」
益々、要への愛が加速していく。
桜子は、この日も、ジェイコブの送迎を行った。夕刻も、二人は移動しながら会話を楽しんだ。
「ジェイコブ様は温泉には行かれないのですか」
「人前で裸になるのはどうも苦手でな」
桜子の感覚では、どうも、英国人は裸を見せるのが好きではないようだ。しかし、イタリア人は違う。古代ローマから続くテルマエ文化の記憶のせいなのか、ラテン系のノリなのかは分からないが、温泉施設に向かうイタリア人を何度も乗せてきた。
「家族風呂といって、高級な旅館にはプライベートな温泉風呂もございますわよ」
そんなことを話していると、背後から、泥棒という声が響いた。叫んだのはイギリス公使館の二等書記官のピートという若者である。彼の大きな鞄が奪われたようである。
返してくれーと絶叫している。
鞄を盗んだ男は日本人のようだが、やけに目付きが鋭かった。実は、この男は陸軍の特殊部隊の男なのだ。
日本のあちこちを歩き回るピートをスパイと判断している。だから、ピートが大切に持ち歩いている鞄を街中で奪ったのだが、そのような事情を知らない桜子は動き出していた。
ひったくりを捕まえようと人力車を止めると、道路を渡り、その男の前に立ちはだかった。男の襟と袖を掴み、足をはらい、地面に伏せさせようとしたのだが、これに対して男は素早く反応している。
袖を掴ませなかった。そこからは激しい組み手争いになった。どうも、目の前にいる強面の日本人の男も柔道を習っているらしい。
体格は桜子よりも一回り大きい。それに何より、その眼光が鋭い。人を何人も殺してきた男の目をしている。
日露戦争の時、樺太でスパイ活動をしてきただけあって接近戦に強い。
桜子は、久しぶりの柔道の試合、いや、真剣勝負に身を投じていたのである。しかし、その男は柔道の試合をしに来たのではない。ピートの鞄にあるものを奪うのが目的だ。しつこく絡みつく桜子を牽制しながら、桜子の背後にある鞄を気にしていると、ピーっという警察官の笛の音が鳴った。
警察官に取り調べを受けるのは御免だとばかりに、軍人の男は走り去る。すると、遅れてやってきたビートが涙目になり鞄を抱きしめた。
「良かった。ここには、研究資料と標本が入っていたのですよ」
ピートはスパイではなくて、ただの昆虫オタクの弱々しい青年だった。
「青酸カリも入ってるから、盗まれたら大変な事になるところでした」
青酸カリは蝶の標本作りに使うらしい。
ピートが書記になったのは、公費で渡航できるから……。
アジアの珍しい昆虫をコレクションしたかったからである。
休日、誰も行かないような山奥に一人で向かうピートにとって、鞄の中身はお金では買えない宝物だ。
「本当に、ありがとう。君は、勇敢な人ですね」
ピートがそう告げると、桜子は微笑み返した。
「取り戻せて何よりですわ。今後、大切なものは持ち歩かない方がいいですわ」
それだけ言って、数メートル後ろに残していたジェイコブの元に戻ると、ジェイコブが言った。
「おまえさん、相当な達人のようだね。先刻の男と互角にやり合っていたね。見上げたものだな」
「いえ、柔道は大和撫子のたしなみでございます。護身術として習ったのですわ」
いや、おまえさんのレベルはそんなものではないだろう。
ジェイコブは瞳を細めていた。
ジェイコブは桜子の本当の実力に、この時、気付いていたのである。
そして、もう一人。
桜子によって任務を邪魔された陸軍の大熊中尉は顔をしかめていた。何なのだ。先刻の小僧は……。
(なぜ、このオレが袖を掴むことさえ阻まれてしまったのだ?)
それは、桜子が金メダリストだから……。
「思わぬところで邪魔が入ってしまったな。何者なんだ、あの車夫は……」
百戦錬磨の陸軍中尉の彼は、今は、国内での治安に目を光らせている。
右手の親指は塹壕で被爆した事が原因で焼けただれて不格好に曲がっている。この指さえ万全なら、あんな小僧に負けやしないのに。
日露戦争によって日本は注目を浴びている。現在、日本は列強諸国に狙われている。
異国人の交信私信の開封閲覧は日常茶飯事なのだ。日本に潜伏している工作員の存在を見逃してはならないとばかりに、中尉は張り切っていたのである。
何を隠そう、好々爺のジェイコブにも裏の顔がある。ジェイコブは少し前までは英国の諜報機関のエージェントとして実際に働いてきた。
といっても日本を崩壊させるのが目的ではない。ジェイコブは、ロシアが北海道へと南下してくる事を警戒していたのである。
日露戦争で日本を勝たせるべきだと考えており、親友に日本の公債を買うようにと忠言している。
対外諜報部、つまりはMI5の本部に情報を届けてきた。
今は、諜報活動とは一線を画しているけれど、先刻の日本人が二等書記官を怪しんでいる事は分かった。実は、いきなり自分に近づいていた桜子の事も最初は怪しいとジェイコブは警戒していたのである。しかし、桜子はジェイコブから何か聞き出したりしない。
仮に探られても、今のジェイコブはもう引退しているので痛くも痒くもないけれど、どうしても確かめたかった。
だから、その翌日、桜子を自分が暮らす洒落た洋館に招いた。
「大使館の書記官のピートという青年が、君に礼を言いたいと言うので、これを預かったのだよ」
ピートが持ってきたのは故郷のスコットランドから持参したウイスキーだった。
「あら、それはご丁寧に……」
「ここまで来てもらったのは他でもない。わしも、日頃、おまえさんに世話になっておるので、とっておきのワインを御馳走したくて呼んだのだ。お昼ご飯を一緒にどうかね」
そう言われた桜子は、ローストビーフやプディングといったものをいただいた。だが、極上のワインを飲んだところで意識が途絶えていた。スパイがよく使う自白剤が混ぜられていたのだ。ジェイコブは朦朧としている桜子に尋ねていく。
「おまえさんは何か隠しているね。何者なんだ?」
「わたしは別世界から転生しました。わたしが生きていたのは二十一世紀の日本でございます。わたしは柔道の選手でした。そして、自衛官でした」
桜子の突拍子もない自白にジェイコブは度肝を抜かれる。
「嘘を言ってはいけない。未来から来たのかね」
「いいえ。違います。ですが、わたしにとっては、ここは過去の世界のようなものです。もうすぐ、第一次世界大戦が起きます。欧州に大混乱が生じます。その大戦のきっかけはオーストリア皇太子夫妻が暗殺された事がきっかけでございます……。六月の末に撃たれます」
一応、自衛官なので近代の戦争史に関しては頭にばっちり入っている。
「なぁ、もしも、この暗殺事件がきっかけで世界大戦か起きたとしよう。イギリスはどうなるのだ」
「連合国が勝ちます」
高校の世界の授業ではそう書いてあった。
「イギリス、フランス、ロシア、日本を中心とした連合国とドイツオーストリアハンガリーを基軸とした同盟国が戦うのですが、途中まで様子見をして中立を保ってきたアメリカも連合軍に加わります。そこから、戦況は変わります」
ヨーロッパは大きな渦に巻き込まれていく。
「ちなみに、ロシアは最初は大戦に参加してましたが、革命のせいで、それどころではなくなりました。ロシアのニコライ二世の一家は処刑されます」
まるで歴史の講義のように、詳細に第一次世界大戦やロシアの二月革命や第二次世界大戦について語ってみせた。
「その後、更に恐ろしい第二次世界大戦が起きます。1939年、九月にドイツがポーランドに侵攻します。そこから世界は血みどろの戦いになります。ナチスがユダヤ人を大量虐殺します。杉原千畝という人がリトアニアでユダヤ人のためにビザを発行します」
夢物語や妄想にしては、細部が、やけにリアルだ。
ちなみに、桜子が言う第一次世界大戦は後に名付けられた名称で、大正時代は欧州大戦と呼ばれるのだが……。まぁ、それはいいとして。
ナチスによる虐殺という言葉にジェイコブは前のめりになる。
この娘は預言者なのか……。そう言えば、千里眼とやらが日本にはいると聞いたことがある。
桜子の言葉には熱がこもっている。
「あなたの知り合いもヒトラーによって殺されるかもしれません。しかし、イギリスにいるユダヤ人はおおむね安全です。ですが、ロンドンも大空襲を受けます。スコットランドに行けば空襲で死ぬような事もございません」
ジェイコブは第二次大戦よりも第一次大戦の方が気にかかる。なぜなら、それが起こるのは今年だからだ。今日は五月の末。
オーストリアの皇太子が撃たれる六月の末まで一ヶ月ある。
桜子は千里眼の持ち主なのか、それとも、妄想を抱いているのか、もう少し見極める必要があるだろう。
「おまえさんは金に困っているそうだが、旦那さんは何者なんだね」
「要様は商社を立ち上げたみたいでございます。わたしとは、まだ結婚しておりません。わたしは婚約者という立場で居候しております。わたしの母は結婚せずにわたしを産みました。ですから、わたしは、散々、家族に虐められてきました。しかし、わたしは要様と一緒に暮らせるようになって幸せでございます。だーって、好きなんだもーーーーーん。でへへ」
へらへらと笑ったかと思うと、言葉遣いが令和に戻っていた。
「あんなイケメンと恋愛できるなんて超、ヤバイっス」
桜子のキャラの変化にジェイコブはたじろぐ。
「要様は弱々しい女性が好きみたいなの。だーかーらー、あたし、強いってバレるのが怖いんだぁ。強い女って可愛くないよね。ああ、切ないな。本当の自分を見せたら、きっと嫌われちゃう。だって、あたし、猪を投げ飛ばせるんだもん。だけど、ロシアのナターシャは倒せなかったの。悔しいよ」
聞けば聞くほど、桜子という人間への謎は深まっていく。
ジェイコブは更に尋ねた。
「なぜ、英国人のジェイコブという老人の送り迎えをしているのかね。彼に近付いた目的は何だね」
「たまたま知り合ったんだよ。運転手がいなくて困ってるから名乗り出たんだよ。柔道を愛してくれてるのが分かるの。知的でスマートな人だから一緒にいると楽しいよ。あの人の娘がタイタニック号に乗って生き残った話は最高に面白かったわ。話し上手だし、頭がいいし、紳士的な人だと思うよ。あの人、人種差別とかしないの。それって、すごいよね。今日、ひったくり犯がいたじゃん。物騒だから、あたしが、ジェイコブさんを守ってあげるわ」
ジェイコブは悪い気はしなかった。
酔っぱらったように語る桜子の言葉に嘘はない。
「おまえさんの人生の目標は何だね」
「要様と結婚するのが、あたしの目標だよ。だけど、あたしってさぁ前世の時から女子力が低いの。おっぱいも小さいの。ああ、情けない。でも、こんなあたしだけど、ぜーったい水虫にはならない体質なの。これってすごいよね~ 自慢してもいいよね~ あっ、人生の目標、もう一つあるな。いつか、ロシアのナターシャに試合で勝ちたい。うん。それが目標だな」
色々と赤裸々な告白を聞いたジェイコブは頭を抱えた。
どんなスパイも嘘はつけない自白剤によって、桜子という人間が、より一層、分からなくなってきた。
「おまえさん、もっと暗い秘密があるのではないか」
「うん。伊勢海老を密漁して食べたの。悪いことしたと思ってる」
「……海老」
まぁいいだろう。
ジェイコブや英国に悪意はなさそうだ。
預言者を気取る人間は英国にもいる。そして、たまに本当に未来を予言する占い師もいる。この世は不思議なことで満ちている。
☆
その数時間後、桜子は机に突っ伏して眠っている自分に気付いた。
目の前にはジェイコブがいる。
「すみません。わたくし酔って眠ってしまったのですね。御迷惑をおかけしてすみません」
イギリス大使館勤務のピートにもらった高価なウイスキーは自宅に持ち帰ることなく、質屋に持ち込むことにした。
ちょっとした金額になったので、このお金で要と外食をしたいという気持ちが芽生えていた。
海老アレルギー騒動のお詫びもしたい。
この日、要は午後七時頃に帰宅した。食後、桜子は尋ねた。
「要様、何か食べたいものはありますか? わたし、要様へのお詫びに外食を奢りたいのでございます」
これには要が目を大きく瞠った。
女性が男の人に奢るという感覚を持っていたからだ。男子たるもの女子に金を払ってもらってはいけないと思うのだが、気負うことなく桜子は言った。
「どういうメニューがお好みなのてしょう?」
「桜子さんこそ、好物は何なの?」
「わたしはお肉が大好きでございます。特にカツレツが好きでございます」
「いいね。オレも食べたいな。明日、食べに行こうか。土曜だし、デートをしよう」
サラッと言われて桜子の目がハート型になる。そして、桜子の白い頬が桜色に染まった。
デ、デ、デート。
嬉しくて、その夜は眠れなかった。
デートの当日。要と共に銀座を歩いた。これが俗に言う銀ブラなのだ。
おや、なんだ。『オペラ頬紅』という商品の広告の気球が目に入った。
(この時代から、こういう広告があるんだな)
桜子は化粧をしないけれど、カフェーの時給や女優さん達は白粉の他に頬紅をはたいている。
口紅は、それこそ江戸時代からあるみたいだが、指につけて、ちょちょいと描く事が多い。
リップスティックは村で見た記憶がない。しかし、外国にはあるはずだ。
どうも、要はハイカラなものを輸入して国内で売っているらしい。
桜子は前から気になっていたことを聞いていた。
「要様の会社の名前の由来は何ですの? とてもハイカラですわね」
アイ商事というネーミングである。愛を込めているという意味なのかと思っていると、こう答えた、
「伊集院と石川でイニシャルがIだからだよ。石川という親友と二人で立ち上げたものなんだ。これから日本人が舶来品をもっと使うようになると見越して作った会社だ。革靴や帽子や洋傘やテニスラケットなど、国産されていないものを輸入して販売している」
「女性が使うものは売っていないのですか?」
「もちろん、舶来の口紅や化粧水など仕入れているよ。だけど、洋装を好む女性はまだまだ少ない。銀座や横浜だとハイカラな人も多いようだね。桜子さんは洋装に興味はありますか?」
「もちろん、ございますわ。わたし、舶来の乳バンドとズロースが欲しいのです」
乳バンド。つまり、ブラジャー。
乳バンドという単語をポンと口に出す桜子の大胆さに要は、えっと固まりそうになる。
いや、しかし、乳バンドは乳バンドだ。他の隠語などある訳もなく……。
もちろん、桜子としてはブラジャーと言いたかったが、大正時代の男子に通じそうにないので乳バンドと言ったのだ。
ズロースはかぼちゃパンツのことだ。
着物の下につけている腰巻だけだと股がスースーして、どうも落ち着かない。
許されるのなら、男物のトランクスを履きたい。ここでは猿股という、あれが欲しい。
桜子は素直な気持ちで問いかけていた。
「要様は洋装する際に猿股をお掃きにならないのですね。やはり、ふんどしの方か心地良いものなのですか?」
「えっ?」
華やかな目抜き通りでデートしている二人の会話としてこれは相応しいものなのか……。
なんで、ふんどしについて語っているのだろう。
というか、桜子は、なぜか熱弁している。
「わたし、アメリカ製の生理用品が欲しいのです。それがあれば、もっと快適に過ごせますわ。要様、全国の女性を代表して申しあげます。日本の女性の月経をより良いものへと変えて下さいませ」
「あっ……。うん」
男の要には分からない領域の話である。
人生において一度たりとも月経の話などした事がない。いや、しかし、大切な意見として取り入れねばならない。
「分かりました。サンプルとなるものを試しに輸入してみましょう」
桜子の率直さに面食らいながらも、真摯に呟く。
「あっ、猿股に関してお答えしていませんでしたね。まだ履いたことがありませんが、ふんどしの方が慣れているので楽なのです」
「そうでございますか。和洋折衷なのでございますね」
「……」
ふと、要は思った。少し前に、アメリカ人が、洋装をしておきながら下駄ばきの日本人を見て苦笑している人を見た事がある。もしかしたら、洋装にふんどしは滑稽なのかもしれない。
要は決意した。
「デパートで猿股を買います」
自らが洋装を極めずに人様に売る訳にはいかない。
二人はデパートに向かった。要が男物のアメリカ製の猿股を購入した後、デパートの食堂で昼食をいただこうと移動していた時、女性の鞄売り場で何やら揉めている様子が目に入った。
貧し気な風貌の男の中国人が何か言っている。店員は首を振り続けている。
いわゆる華工と呼ばれる港湾労働者の男が、一枚の紙を手にしたまま店員に訴えている。
『手袋』
その紙には、そう書かれていた。お金ならあるぞとばかりに財布の中身を見せている。
店員は困り果てていた。外国人には売らないとか、そういう差別的な雰囲気でもなさそうだ。店員は顔をしかめている。
「この季節、手袋はありません。すみません、お客様……。在庫もございません」
傍から見ていた要はボソッと呟いた。
「彼は、どう見ても出稼ぎに来た中国人だな。もしかして、軍手を欲しがっているのかな。それなら、女性売り場で尋ねても無駄なのだが……。参ったな、中国語は話せないし、どうしたらいいのかな」
買う。買うと片言の日本語を連呼する中国人に対して首を振る若い女性の店員。
中国人はお金を見せている。それを見た桜子はスッと進み出て店員に告げた。
「手袋というのは手提げ袋のことですわ」
「ほ、本当ですか」
「はい、中国語ではそういう意味になりますのよ。ついでに言うと、手紙はお便所の紙の事ですわ。同じ漢字でも意味が違う言葉はたくさんあって面白いですわね」
中国で試合を何度もやっているので、たまたま知っていたのだった。
桜子のアドバイスのおかげで、無事に手頃な値段の女性向きの手提げ袋を買えた中国人は桜子に頭を下げてから立ち去った。
要は不思議そうに言う。
「桜子さんは博識なのですね」
確か、小学校しか行っていない筈なのだが……。
桜子は涼しい顔で言う。
「わたし、読書が趣味なので知っているのですわ。ちなみに、愛人は中国では妻や夫のことを言うのですよ」
「それでは、桜子さんはオレの愛人ですと中国人に紹介する訳ですか。ややこしいですね。なるほど……」
桜子といると、何か別の世界の扉が開くような感覚に陥るのはなぜだろう。
それは、桜子が転生者だから……。
いや、それだけではない。
唯一無二の才能を持っているのだ。
とにかく天真爛漫で率直だ。そんな桜子の個性的なキャラクターにぐいぐいと引き込まれていく。
一緒に、食堂で洋食を食べながらも、桜子は生き生きとした表情で言う。
「カツレツ、おいしゅうございます」
「桜子さんは何でも美味しそうに食べますね」
「はい。わたしは食いしん坊なのでございます」
食事代は桜子が支払うと言い張った。
「海老のお詫びがしたいのです」
要は、その気持ちを汲み取り奢ってもらうことにする。
「確か、桜子さんは羊羹がお好きだとか。あとで、オレが買いますね」
「嬉しいです。よろしくお願いします。桜子は日本一の果報者でございます」
「大げさだなぁ」
そう言いながら、要は桜子のことをずっと見つめていたのだが、その時、暗い眼差しで二人を見ている者がいた。桜子の美しい顔を睨みつけているのは大富豪の娘の絹代である。
デパートで行われたファッションショーを見た帰りに、二人のデート現場を目にしてしまい、目を吊り上げていた。
(何なの。なぜ、要様は、あんな娘をあんなふうに見つめるのよ。許せないわ。キーッ。忌々しい)
絹代は湿った悪意を滾らせていたのだった。




