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第五話

 旅立つ前に、鴎外は従妹の絹代に忠告しておいた。


「桜子さんの顔に硫酸をかけたりナイフでズタズタにしてはいけないよ。そんな事をしたら、ますます、要は桜子さんから離れられなくなるからね。子供の頃の要は、火傷した近所の女の子をいじめから守っていたよ。そして、女中として迎えた。好きなのかと思っていたんだが、そうでもなかったようだ。要は、その娘の嫁ぎ先を紹介していたからね」


 絹代はピリピリしたように睨み返す。


「わたくしが硫酸をかけるような女に見えまして?」


 見えるよ。


 鴎外は心の中で呟く。


僕からのアドバイスをあげよう。桜子さんに素敵な紳士を紹介してあげなさい。そうやって桜子さんが、その男と幸せになれるのなら、あいつは桜子さんを送り出すだろうよ。あいつは、多分、桜子さんと己の母を重ねているんだ」


「あら、御親切にありがとう」


 絹代は従兄に言われて作戦を変更する事にした。桜子を痛めつけると、ますます要の関心を引いてしまうだなんて、それは困るのだ。


(忌々しい事にヤクザは役には立たなかったわ)


 そいつは牢屋に入ったようである。


 五月の末。桜子は許嫁として近隣の人達からも認識されるようになり、穏やかな暮らしている。しかし、キヨは、このところ顔色が悪い。桜子が要と暮らすようになって十間が経過しているのだが、キヨの様子がおかしかった。何か心配事があるように見える。


「息子よ。どうか、母を許しておくれ」


 そんな事を言いながら時計を握りしめる。キヨは人目をはばかるようにして街中を歩いていた。たまたま、安い品を求めて遠くの市場まで買い物にきた桜子は、キヨが質屋に入るところを見てしまった。


(どうしたのかしら)


 キヨは少ないながらも要からお給金をもらっている。食費も家賃もいらない。それなのに、息子の形見の品とも言える腕時計を質入れしようとしていたのである。キヨが望む金額ではないのか落ち込みながらも質屋から出てきた。桜子はたまらなくなって問いかけると、キヨは、渋々、答えたのだった。


「来月の家賃が払えそうにもありません」


 今、住んでいる家は万次郎の不動産。今までは、タダで住まわせていたけれども、桜子と結婚するからには、家賃を払ってもらわなければならないと万次郎はキヨに告げたらしい。


「旦那様は、どうやら、桜子様よりも絹代様と結婚して欲しいようなのでございます。それで、旦那様は、あからさまに圧力をかけてきたのです。桜子様と暮らしたのなら家賃を払うように坊ちゃまに伝言するように言われました。ですが、わたしは言えません。今の坊ちゃまには家賃を払う余裕もありませんので、わたしが立て換えようと思ったのでございます」


 弓削絹代。彼女は大金持ちの令嬢で海運業界のボス的な存在の父に溺愛されている。


 桜子と結婚するよりも、絹代と結婚する方が何かと得だ。条件のいい相手を親が勧めるというのは桜子も分からなくはない。


「あたしのような女と婚約したせいで、要様を窮地に陥れて申し訳ございません」


 だからといって要と別れる気など一ミリもない。


 よし、こうなったら、自分で何とかしよう。


「キヨさん、わたしは外に出て働きますわ。電話交換手やタイプライターなど女性の仕事はありますわよ。昼間は、どうせ暇ですもの。頑張りますわ」


「あら、そうですか。それならば、わたしも内職をいたしますね」


 家賃は、令和の日本円に換算すると十二万ほどである。


 ちょうど、主婦のパートで稼げる範囲内だ。


 二人で頑張れば手が届きそうな気がする。


 桜子は、仕事を探そうとしてミルクホールに入った。そこでは新聞と雑誌が無料で読める。椅子もテーブルも簡素で、何となく中学校の前によくある駄菓子屋やタコ焼き屋さんの雰囲気を思い出す。


 バターの付いたパンとココア。


 久しぶりにハイカラなものを口に入れながら、しげしげと新聞の広告欄を眺めたのだが、どうも思わしくない。


 事務の仕事の募集はなかった。


 おや、少女雑誌の編集者の募集要項があるじゃないか。興味をそそられるけれど、あいにく、桜子は文系の人間ではない。桜子の得意分野は体育。

 

 いっそのこと漁師さんになろうか。


 いや、女が漁師だなんて……。それは、向こうが断るに違いない。


 ミルクホールには若い女給がいた。桜子は仕事を求めて口入れ屋、つまり、職業斡旋所に向かうと、『カフェーの女中至急』という文字が目に入った。やはり、この時代でも飲食業は人手不足のようだ。


 女性の仕事の募集のほとんどが女中。しかし、料理屋や酒場の女中というのは困る。


 絵のモデル……。いやいや、絶対にダメだ。


 要や、要の家族に働いている事を知られてはいけない。


 天秤棒を担いで地道に金魚やお惣菜を売るべきなのだろうか。ほっかむりをして出歩けば、桜子だとバレないかもしれない。何としても要との愛の巣を守ってみせる。


 そんな事を思いながら、人通りの多い道路を一人で歩いていた。この先には外国人が暮らす居留地がある。そのせいなのか、アメリカ製の四輪自動車が、時々、通り過ぎていく。


 人力車。大八車。リヤカー。自転車。歩行者。馬車。あらゆるものが行き交っている。


 田舎にはないお洒落な店のショーウィンドウに何気なく目を向けていると、突然、桜子の後方から悲鳴と馬の嘶きと車のクラクションが聞こえてきた。


 一頭の大きな馬が暴れていた。馬に乗っていたのは帝国軍人のようだ。馬から振り落とされて地面に倒れている。


 百メートルほど後方から、軍馬が暴走してきた。荷車や新聞スタンドやら、通行人を次々と着き飛ばすようにして走ってくる。人間も馬から逃れようとこっちに押し寄せてきた。


「うえーーーーん。お母ちゃーーーん」


 この騒ぎに驚いて泣き出す子供がいた。母親は商売道具の手押し車を脇道に避難させるのに必死だ。転んでうずくまる五歳の坊やの事には気付いていない。その母親の背には赤子が背負っている。赤子も、この異様な空気に呑まれたのか火が付いたように泣いている。


 ドワァーと土煙が舞い上がり、馬が子供に近付いている。


 このままでは、あの坊やが馬に蹴られてしまう。


 桜子は道の真ん中に取り残された坊やを連れ出そうとして、ダッシュで駆けつける。しかし、暴れ馬はすぐそこまで迫っていた。


 桜子はしゃがみこむと、坊やを抱きかかえて歩道にポイと放り投げた。


 そして、通せんぼでもするかのように馬の前で仁王立ちになる。


 ひひーん。


 邪魔だ。そこをどけ。そう言いたげに突進する馬の鼻息は荒い。前足で蹴るつもりのようだ。いかにも硬そうな蹄鉄が桜子の顔面に迫ろうとしている。


 その時、馬と桜子の目が合った。


 桜子は目で脅す。


「そこの愚かな馬に告ぐ。どきなさい』


 こうなったら、馬の鬣をひっ掴んでぶん投げるしかない。



 桜子は本気だった。一瞬の勝負に挑むアスリートとしてのアドレナリンが全開であった。馬の身体にビクッと全身が痺れるような怖気が走る。


「な、なんだ、この殺気は。目の前に獣がいるぞ。おいら、この女に殺されるぞ』


 さすが馬である。目の前にいるメスの人間が野獣だと嗅覚で分かる。


 草食動物は獣のニオイに弱いのだ。


『ご、ごめんなさい。ひひーん。おいら、いい子になりまーす』


 荒くれていた牡馬は、高々と上げていた前足をひっこめると、回れ右をして退散する。


 助けて下さいと言いに、騎手である陸軍の将校の元に戻っている。


「お嬢さん、大丈夫ですか」


 ロイド眼鏡が似合う書生さんらしき人が桜子を労わる様に手を引いてくれた。


 おおっ、美しい女性が馬に蹴られなくて良かったと、通行人たちはホッとしている。


 馬は生き延びた。判断を間違っていたなら、投げ飛ばされて首をへし折られて死んでいたであろう。


 危機管理能力があったおかげで桜子に殺処分されなくて済んだのである。


「真守、ごめんよ」


 泣いている五歳の坊やは真守というらしい。マモル君か……。


 月刊マモル。


 ふと、桜子は、自衛官が愛読している雑誌を思い出していた。


 母親は、桜子が、とっさに愛一郎を助けてくれたと知って泣きながら頭を下げている。


「お嬢様、ありがとうございます。なんとお礼を言って良いのやら」


 どうも、馬が急に暴れ出したのは、その先にある店の新装開店の洋品店のオーナーのアメリカ人の男が飾っていた風船が割れたことが原因のようだ。


 それにしても、ひどい有様である。馬に後ろから追突されて転んだ人力種の車夫は肋骨を撃ったまま呻いている。


 それと、もう一人、交差点のところで馬にぶつかるまいとして、ハンドルをきったはずみで電柱に激突した車があった。ダウントンアビーというドラマで伯爵家の方達が乗るような豪華な車である。


 桜子はそっと近付いた。


「大丈夫ですか」


 手袋をはめた車の運転手がハンドルで頭を強打して気絶している。


「困ったもんだよ、わしは車を運転できぬ」


 後部座席の扉を開けて話しかけてきたのは茶色い髪で鷲鼻の外国人だった。英語圏の人のようだ。


「わしは、これから急ぎの面談があってのう、商工会議所まで行かねばならぬ。その近くには医院もあるので運転手の手当もしてやれるのだが……。といっても、お嬢さんは、わしが何を言ってるのか分からないだろうね」


「いいえ。分かりますわ」


 桜子は高校生の頃から、何度も海外の大会に出ている。それに、一応、高校と大学時代に外国語学科で学んでいるので、ごく普通の会話なら話せる。


 シックなスーツに身を包む初老の英国人の名は、ビル・ジェイコブ。英国籍のユダヤ人。


 石油の投資や金融業で財を築いた実業家。現在は、稼業を息子に任せ、今は、会長という立場で甥の会社の東京支店に勤めながら、古美術品を集めているという。


 神戸の新開地近くの異人館に日本贔屓の甥夫婦が暮らしているのだが、ジェイコブは帝都の居留地に暮らしているとのことだった。


「お嬢さん、車の運転の出来る人を探してくれないだろうか」


「わたし、運転が出来ますわよ」


 前世でも運転はしてきた。オートマはもちろん、ミッションの古い車もハーレーダビットソンも乗りこなせる。


「もしよければ、こちらの車夫の方も乗せていただけないでしょうか。骨折しておられるようなのです」


「早く助けねばならないね。さぁ、乗りなさい」


 そんな汚い日本人など乗せるなと言われるかと思ったけれど、ジェイコブは好々爺であった。


 桜子の個人的な感覚だが、アメリカ人よりも英国人の方が日本人に対して礼儀正しくて親切な気がする。


 桜子は、車夫の虎次郎を助手席に乗せた。気絶している運転手も、ジェイコブと二人で後部座席に乗せて車を出発させたのだ。


 病院で車夫の虎次郎(三十九歳、独身)は全治三か月と診断された。肋骨の骨折ら加えて指も折っており、人力車を動かせるようなコンディションではない。


 虎次郎は死ぬほど落ち込んでいた。


「チクショー。おいら、家賃も払えやしねぇ。この先、どうすりゃいいんだよ」


 まったくもって、気の毒な話である。ついでに言うと、ジェイコブの運転手は、なんと、性病にかかっていることが発覚した。


 用を終えて医院に来たジェイコブは激怒した。梅毒の男に運転など任せておけないとクビにしたのだ。


 ジェイコブは言った。


「それにしても困ったのう。あの運転手は英語が堪能で助かっておったのだが……。わたしは、本当は人力車に乗りたいと思うのだが、生憎、人力車の車夫はわしの言葉を理解してくれぬからのう。それに、法外な料金を請求する輩がいるのだよ」


 桜子は、その時、晴れやかに挙手していた。



「あの、わたしが車夫になりますよ」


「お嬢さん、あんたが、わしを乗せて走るというのかね」


「恥ずかしながら、わたしは暮らしに困窮しております。働きたいのです。しかし、夫となる方には知られたくはありません」


「それなら、お嬢さん、わしの車を運転したらどうかね。先刻の運転を見る限り、バックで駐車するテクニックも相当なものだったぞ」


 そうなのだ。車の運転をする方が体力的には楽かもしれない。しかし、桜子は身体を鍛えたい。動き回りたい。車夫ならば、そこいらへんを駆けまわることが許される。


 つまり、念願の昼間のランニングが可能となる。


 英語など、まるで分からない虎次郎に向かって桜子は言った。


「虎次郎さん。あなたの人力車を、あなたが休業している間、貸して下さらないかしら。もちろん、タダとは言いません」


「おい、人力車ってのは誰でも使える訳じゃねぇんだぞ。おまえ、何を言いやがる」


「ですが、虎次郎さんは困窮なさっているのでしょう。わたしの弟も困窮しておりますの。今すぐ働かねばならないのです」


 桜子には弟などいないが、双子の弟が働くという事にしておいた。


 免許を持っていない人間が人力車の車夫になるなんて許されないことである。しかし、車夫仲間の中には権利を貸している奴もいる。


 本人は昼間に働いて、そいつが深夜に働くという仕組みでズルする仲間はいるが、そいつらは捕まっていない。


「そうだな。バレなきゃいいか」


 虎次郎は苦虫を噛むような顔で即決していた。


「その代わり、毎日、人力車はおいらの家まで借りにきて、毎日、きっちり返すんだぞ」


「もちろんでございます。弟が働くのは、平日の朝の八時半から日没まででございます」


 つまり、要が留守の間に働くのだ。


 虎次郎と話をつけると、日本語が分からないジェイコブに向けて桜子は微笑んだ。


「ジェイコブ様、わたしは自動車の運転は出来ますが、しかるべき場所で免許を取得しておりません。事故を起こした際に問題になるかもしれません。ですが、御安心下さいませ。明日から、わたしが、責任を持って、あなた様を人力車でお迎えにあがります」


 ちなみに、桜子が曳くのは一人乗りの人力車である。そこから、桜子の車夫としての怒涛のバイト生活が始まった。


 医者や政治家には、お抱えの車夫がいる。やはり、顔なじみの身元や人柄のちゃんとした物の車に乗りたいと人は思うものである。まずは、朝はジェイコブのお迎えから始まった。


「おはようございます」


 完璧なまでの男装だ。法被と股引姿が似合っており、実に凛々しかった。


 頭には菅笠をかぶっている。


 桜子の素性はサッパリ分からないが、面白い娘だと最初から思っていた。


 英国人の目から見ても清楚で美しい桜子と話すと心が和む。


 たまたま、前世の桜子に英語を教えてくれた人がスコットランド人だったこともあり、ちょっぴり訛っていたのだ。それも、ジェイコブには微笑ましく映った。


 ジェイコブは美術品の他にも、日本の書道と柔道にも、おおいに興味がある。


 何気なく柔道について話したところ、桜子は驚くほど柔道に詳しかった。


 桜子は正直に言った。


「わたしも柔道を子供の頃から習っておりますのよ」


「おおっ、そうかね」


 前世では金メダリスト、つまり、世界で一番の猛者だったなんて……。ジェイコブは知る由もない。


 日本で暮らす外国人、特に欧米人では秘密のボクシング大会や空手などで賭けをする者もいる。


「神聖な柔道の試合さえも賭けの対象にする輩がいて実に嘆かわしいのだよ」


 ジェイコブのように日本に長居している外国人は大勢いる。


 イギリス、アメリカ、フランス、ロシア、ドイツ、イタリア。


 その中でもイギリス人の技師や商人が特に多いようだ。


 彼らの中には柔道を日本人から習っている者もいる。


「もう少し若ければ柔道を習っていただろうね。我々の国のボクシングと違って柔道には何とも言えない品格を感じるのだよ」


 心から柔道を愛してくれているジェイコブに対して桜子は教えてあげた。


「試合に勝っても日本人の選手は露骨にガッツポーズをして喜んだりしないのでございます。それが、相手への礼儀なのでございます」


 そんな事を話してジェイコブを会社のある建物まで送り届けた後、桜子は大使館の辺りや駅の周辺をうろうろする。


 ターゲットを異人さんに絞ることにしよう。世界一周の船旅の行程で日本を訪れる外国人は年々増えている。太平洋郵便船会社の寄港地である横浜から帝都まで鉄道で半時間。


 浅草などを案内しながらガイドの役目も果たすと喜ばれた。


『わたしは英語が話せます。観光地をガイドします』


 文言と料金をちゃんと書いた紙を人力車に貼り付けたのが功を奏した。


 日本に滞在するフランス人やドイツ人も英語を話せる。どこかにちょこっと向かうのに人力車は便利だ。桜子の人力車は日本に長くいる異人が芸者とデートをするのにも、よく使われる。


 桜子は、ぼったくらない。


 逆に桜子は彼らが買い物をする前に、お団子やら料理屋の値段を教えてあげているし、万が一、ぼったくられそうになれば、こう言うように教えている。


『タカイ、タカイ』


『オカネナイ』


 桜子も、かつてローマで、剣闘士のコスプレしたイタリア人にぼったくられて悲しい思いをした事がある。


 おもてなし。


 ここは異世界だが、それでも日本はいいところだと思ってもらいたい。


 令和の観光地のタクシー運転手もそうだが、美味しい甘味処やお食事処に連れて行くようにと頼まれると、ほいほいと桜子は案内してみせる。


 何度もお気に入りの甘味処に偉人達を案内していくうちに、甘味処の女将さんが、桜子に賄いの昼食として握り飯をくれるようになった。


 しかも、異人達は通常の人力車の料金にプラスとしてチップというものを払ってくれる。


 異人さんにしてみれば、桜子は中学生の男の子のように見えるらしい。桜子は顔バレしないように顔にうっすら泥を塗っていたりする。こんな貧し気な日本の少年が健気に車を曳く姿に涙する英国人の上品な婦人もいた。


 人権保護に熱心な英国の御婦人からしてみれば、人力車というのは虐待のように見えるようである。


 しかし、こう見えて桜子は好きで人力車を曳いている。身体が人力車を欲していると言ってもいい。お金儲けとトレーニングの両方をこなせて幸せだ。一日の儲けの三割は虎次郎に渡すようにしている。


「おい、なんでこんなに稼げるんだよ。おまえの双子の弟は、まさか異人相手に春を売ってんじゃねぇだろうな」



 実は、虎次郎もうっすらと気付いている。人力車を使っているのは、桜子自身なのだと……。


 女でもやれない事はないが、こんなに儲けるなんておかしい。


 すると、桜子は涼しい顔で言った。


「わたしの弟は英語が堪能ですの。異人専用の車夫として人気が出ましたの。虎次郎さんも、怪我が治ったなら、ジェイコブ様の送迎をなさって下さいね」


「何を言いやがる。おいらはエゲレスの言葉なんて分かんねぇよ」


「行き先を地図で示してもらえばよろしいのですわ。あなた、地図は読めるでしょう」


 なるほど。そういう手があったのか。


 桜子は虎次郎とジェイコブの為に、簡単な英語の単語帳を作ろうかと思っている。


 ここで待て。〇〇時に来い。自宅に帰りたい。


 よく使う英語の隣に日本語を併記しておけば双方が分かり易くていいだろう。


 桜子の人力車によるバイトは順調だった。


 一方、キヨは、せっせと裁縫の内職に励んでいた。


 土日は、桜子も人力車のバイトを休んでいるが、今週は働くことにした。


 神戸の港で何かトラブルがあったとかで要が神戸に向かい留守にしているからだ。


(さぁーて、働くぞ)

 

 大使館の異人たちを乗せてデーパートや公園へと送迎した。その帰り、桜子は着物姿で路地を歩いていた時、道端で倒れている物売りの女性を見かけた。その隣で五歳の男の子が泣いている。よく顔を見てみると、こないだ馬から助けた真守君ではないか。


真守の母親は高熱を出して倒れている。赤ん坊は近所の人に預けてアイスキャンデーを売り歩いた帰り、ここで精魂が尽き果てたようだ。


 桜子は医院に真守の母親を連れて行った。真守の母親の文乃は咳き込みながら訴えた。医者代は持っていない。明日も、契約通りにアイスキャンデーを売らなければ仕事を仲介してくれた人に違約金を払わなくてはならなくなる。だから、無理してでも働こうとしていたのである。


 今日はフラフラしながらも何とか売り切ったが、どう見ても明日は無理だ。


 桜子は名乗りをあげた。


「文乃さん、わたしが代わりにアイスキャンデーを売りますわ」

 


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