第三話
いきなり、こんな形で寡婦となった美智子は頭を抱えていた。
愛人の自宅で夫の富三郎が死んでしまったと聞いた瞬間、全身が凍った。ただ、死んでいたのではない。愛人と服毒自殺していたのだ。とんだ醜聞だ。
(借金が返せないからって死ななくてもいいでしょうに)
プライドが高い富三郎は、これまで、そんな素振りを見せることなく暮らしていたのである。
投資に失敗して、どうにもならなくなっていたなんて……。美智子は知る由もなかった。
美智子の嫁資はもちろん、自宅も村の土地も、すべて、没収された。投資の穴埋めをしようとして、富三郎は伊集院という高利貸しに大金を借りていたようだ。
今すぐ、この家から出て行ってもらうと言われた美智子に対して、泣きながら、董子が訴えた。
「お母様、あたし、今すぐお嫁に行くわ。お姉様のお相手の池田竜馬様との縁談を繋いで下さいな」
もうじき、董子は十六歳になる。少し早いけれども嫁いでもおかしくない年齢である。
仲人によると、池田家は竜馬を結婚させたいと焦っているようだ。
「どうか、うちの董子を娶っていただけないでしょうか」
長女の桜子はお気に召さないかもしれないが、妹の董子がどうかと言うと、竜馬の叔母は承諾した。
「甥と見合いをして甥が気に入ったのなら、それでもいいでしょう」
竜馬は若い娘が好きだ。しかも、馬鹿っぽい娘には目がない。自分好みのお人形を欲する竜馬にとって、董子は理想的とも言える相手だった。竜馬は呉服屋の息子なのに着物は好きではない。帝大には替え玉による受験を行い入学している。実に安っぽいハンサムである。
早速、見合いをした。洒落たカフェーで飲んだジュースは美味しかった。田舎者の董子は、すっかりメロメロになっていた。
竜馬も、董子との散歩の間、ずっと匂やかな微笑みを絶やさなかった。
董子がベンチに座る際にはハンカチを貸してくれる。
董子が愛読している少女雑誌の挿絵の王子様のようだ。董子は安っぽいハンサムに対してときめいた。だから、見合いを済ませた後、すぐに、竜馬は董子と婚約している。
董子が花嫁修業の為に設立された女学校を卒業した後、竜馬と結婚することになっている。
それまでは、富三郎が服毒自殺をした小さな家に身を寄せることになった。
ここは、富三郎の名義ではなく、富三郎の親友の名義になっていたので没収をまぬがれたのである。
美智子は実家から援助を受けながら、娘の董子が嫁に行くまでの間、ここで暮らすしかなかった。
女中の吉村と美智子と董子と桜子、この四人が住むには狭い。美智子は、これからどうすべきか、暗い面差しでじっとりと悩んでいた。
桜子は、幸い、誰もが目を瞠るような美人だ。
吉原に売り飛ばせばいいのではないかと考えたのだが、一応、董子の姉という事になっているのだから、女郎にするのは、ちとマズイ。
どうやったら、対面を保ちながら、桜子を高く売り飛ばせるのだろう。すると、そこに、借金の催促をしに伊集院家の下働きの男がやってきた。田畑や屋敷を売っても、まだ、少し借金は残っているという。だが、利息を払う事もままならない。
美智子は、意を決して伊集院家に向かうと伊集院万次郎に直談判した。
「わたしどもの長女を借金の形としてお使いください。ただし、女郎や妾にしてはいけません。どなたか後妻として迎えてやっていただけませんか。相手は誰でもいいのです。老人や異人で美しい娘を娶りたい者がおりましたら、どこにでも嫁がせます」
その代わり、借金をチャラにして欲しいと願い出た。写真を見せたところ、伊集院万次郎は目を瞠った。上品で儚げだ。桜子は、かつて愛した妻によく似ている。万次郎の嗜好に沿ったタイプである。
「それなら、こうしよう。わしの愛人になるというのなら、借金などなかった事にしてやってもいいが、さて、どうする?」
「……」
妾は困る。しかし、美智子は困窮しており精神的にも疲弊していた。どうせ、夫の富三郎が愛人と心中した事は村人はもちろん、今住んでいる街のみんなが知っている。今更、体裁がどうのこうのなんて言えない。黙っていると、万次郎が身を乗り出した。
「愛人では不満かね? お宅の董子さんの学費も出してやろう。それならどうかね」
願ってもない申し出である。
それに、桜子は強姦されたという悪い噂によって価値が下がっている。
あんな娘、今のうちに処分した方がいいだろう。
「伊集院様が、うちの桜子を可愛がってくださるというのなら、お譲りいたします。その代わり、愛人だという事は内密にしたまま囲って下さいませ」
「もちろんだとも」
万次郎の妻の環は嫉妬深くて怒ると般若のようになる。銭ゲバで冷血な万次郎も環の存在には一目置いている。環の父親は裏社会を牛耳るやくざな男だ。土地を買う際に住人に立ち退きを迫ったり、借金を返さない奴を折檻するのは、環の父方の男達がやってきた。
とにかく、妻の環は気性が荒い。
これまでの歴代の万次郎の不倫相手の女は、環の指示によって遠い地に追いやられている。
長い間、妾を囲っていなかったが、桜子の美貌にクラクラと眩暈を覚えた万次郎は桜子を我が物にしたいと思ったのだ。
その夜、桜子は美智子に告げられた。
「桜子さん。朗報ですよ。あなたのお相手が決まりましたよ。来週からは、ここを出て、その方と暮らすことになりました」
「その方はどなたですか」
「実業家の伊集院様です。とても背が高くてハンサムな方ですよ。たっぷりと、お手当もいただけるそうですよ。あなたは贅沢に暮らせます」
その言葉に嘘はない。
大金持ちの万次郎の愛人として、のんびりと暮らせることは保証されている。
しかも、万次郎は、なかなかの男前だ。見ようによっては大沢たかおに似ている。
(かつては、帝都でも有名な色男として花街の芸者をときめかせていた)
何なら、美智子が愛人になりたいぐらいだ。
「明日、ぜひ、料亭で会いたいと仰せなのです」
桜子を欲しているのは息子ではなくて父の万次郎なのだが、桜子は、それを聞いて頬を染めていた。やはり、この世界で自分と要は結ばれる運命なのだわとウキウキしていたのである。
そして、その翌日の夜、美しい着物を纏った桜子は、日本庭園が美しい料亭の一室へと向かった。
美智子が去った後、万次郎が現れたのだが、桜子はポカンとしていた。
なぜ、ここに、見知らぬ五十路のおっさんが来るのだろう。さぁ、料理を食べなさいと言われたので残さず食べた。酒を勧められたので少し飲んだ。
この人は誰だろう。
「あの、要様は、いつ来られるのですか?」
「息子のことを、なぜ、聞くのだね?」
息子? という事は、この人が父親なのだ。
お義父様に呼び出された理由は分からないが、もしかしたら、未来の嫁を見定めるために呼びつけたのかもしれない。
そう思い、愛想よく接しようと努力したのだが、どうも、万次郎の様子がおかしい。桜子を見つめる眼差しが濁っている。しかも、鼻息が荒い。
いつのまにか、万次郎は桜子の隣に座り、その手は桜子の着物の襟の隙間へと伸びていたのだ。
「な、何をなさるのですか」
「いいじゃないか。わしは、おまえの旦那様になるんだよ」
「おやめ下さい」
「分かっていないようだな。わしに逆らうと、おまえの母が困ることになるのだぞ。おまえは、借金の形として売られたのだ。いいから、おとなしくしなさい」
そのまま、押し倒して桜子を我が物にするつもりのようだが、そうはいかない。
「ふぐっ」
桜子の肘鉄が万次郎の鼻にぶち当たる。桜子の腹筋と背筋を舐めてもらっては困る。腕立て伏せは二分で百五十回のペースでやれるスタミナの持ち主だ。
山の木にぶら下がり、何度も懸垂をして鍛えあげた肉体は鋼の如し。
華奢なように見えるだろうが、前世のアスリートだった時と、ほぼ、変わらない筋力を身に着けている。
(てめぇ、あたしにキスしようなんて百万年、早いんだよ)
覆いかぶさろうともくろむ万次郎の肩を、猛然と押し返していた。
それでも、万次郎は興奮したように桜子の着物の裾をまくりあげて行為に及ぼうとしている。
許さん、このセクハラ親父め。
前世では、固技の攻防が苦手だとコーチに言われていた。
『詩、七十八キロ級の寝技の女王の曽我と練習しろ』
同じ自衛隊の先輩の曽我の固技は神レベルである。
あの当時の曽我は七十八キロ級のオリンピックの金メダリストだった。そんな偉大な曽我を相手に何度も練習を重ねてきた。
ナターシャに敗れてからは全ての技の精度をあげてきた。この身体は、今も、それを覚えている。
ついでに言うと、柔道界から去った後、趣味でボクシングや空手など色々と習ってきた。
こんな男、いつでも殺せる。桜子の顔は、いつのまにか現役時代の凄みと輝きを取り戻していた。
獣よりも獣に近い気迫に万次郎は酔いも吹っ飛びそうになる。
「おのれ、こしゃくな」
しかし、実は、万次郎は幼少期から柔道を習っており、寝技には自身があった。
こんな女など組み伏せられると思い、再び、果敢に抑え込んだのだが、桜子は柔かな関節を生かして猛然とすり抜けて立ち上がる。
女にコケにされた万次郎は目を血走らせたまま、桜子に覆いかぶさろうとする。しかし、その時、桜子は釣込み腰で投げたのだ。ズコン。
電光石火とはこの事だ。ヤワラという漫画でしかお目にかかれないような見事な一本であった。
大きな体格の万次郎は、床の間の角に頭をぶつけて失神している。
「あら、どうしまよう」
まさか、死んでないでしょうね。桜子が、ヒヤヒヤしていると、階下にいた中居が駆けつけてきた。
「どうなさったんですか」
ギクッ。桜子は、この場をどう取り繕うべきなのか悩んだ。
私が投げ飛ばしたとは口が裂けても言えない。ベテランの仲居はいいように誤解していた。
「お医者様を呼びましょう。伊集院様が倒れられたのですね」
先月、この料亭で心臓発作を起こした人物がいたものだから、万次郎も脳溢血か何かだと思っている。
「女将さん、大変でございます。伊集院様がご病気です」
すると、後から、料亭の女将が要と共にやってきたのだ。たまたま、この日、要も、この料亭で取引先の会社の重役相手に接待していたのである。
父親が倒れたと聞いて、一階のお座敷から駆けつけたのだが……。
何と、そこにいたのは実の父親と、乱れた髪のまま呆然と佇む可憐な桜子だったものだから、要は、おおいに驚いた。
桜子は、突然、現れた要にビクッとしたように驚き、乱れ髪を整えながら俯いている。
勘のいい要は気付いていた。父は、おそらく、ここで桜子に不埒な真似をしようとしたに違いない。以前も、ここで万次郎は料亭の女中に手を出そうとして、料亭の女将の顰蹙を買っている。
昔と同じように口説けば女は自分になびくと妄信しているところがある。
万次郎にセクハラされて泣いた女は数知れず。結局、金の力で女将と女中を黙らせたのだが、父の女癖の悪さにはうんざりさせられる。
要は、怯えたようにこちらを見つめる桜子に尋ねた。
「君は、大丈夫なのか?」
「はい……。わ、わたしは平気でございます」
綺麗な目に涙を溜めて申し訳なさそうにしながら震えているものだから、要の胸はズキリと刺すように痛んだ。
まだ子供だった頃に、山で男に襲われた恐怖が蘇ったのかもしれないと要は危惧していた。なぜ、桜子ばかりが、こんなふうに酷い目に遭い続けるのだろうか。
インテリの要は、トーマス・ハーディの小説、『ダーバービル家のテス』という洋書を読んだばかりである。主人公のテスという薄幸の美女と桜子を重ね合わせていた。
テスは奉公先で金持ちの放蕩息子に手籠めにされて妊娠する。そこから悲しい転落の人生を送ることになる。
(桜子さんが気の毒だ)
虐げられる女性への憐憫の情。そして、獣のような父の振る舞いに嫌悪感を抱いていたのである。
だが、この時、桜子は違う意味で心臓を締め付けるような恐怖に駆られていた。
まずい。とてもまずい。要様の父親を投げ飛ばしたなんてことを知られてしまったら、きっと嫌われてしまう。セクハラに対処する為だったとはいえ、未来の夫の実父を失神させたのだ。どう謝ればいいのか分からない。
ガクガク、ブルブル。
ちょうど、その料亭に内科医がいたので万次郎を診察したところ、脳震盪だと言われたのだ。女将さん達が氷嚢を頭に置いて介抱していると万次郎が目覚めた。
「要、おまえは、こんなところで何をやっている?」
「お父さん、それは、こちらの台詞です。こちらのお嬢さんに、どのような要件があってここに呼ばれたのですか? このことを環さんに報告しますよ」
鬼より怖い後妻の名を出すと万次郎はうろたえた。
「いや、待て。これには訳がある。この娘の母親にこの娘を頼まれたのだ。この娘は西園寺桜子というのだが、父親を亡くして借金も抱えておるのだよ」
万次郎は、その時、要の背後にいる桜子と目が合った。
気のせいだろうか。凄まじい殺気を感じる。
『てめぇ、あたしに二度と手を出すなよ。殺すからな』
まるで、そんなふうに脅されているかのような感覚に陥り、万次郎の背筋がゾッとなった。
そう言えば、なぜ、自分は失神したのだろう。酔って桜子を押し倒したところまでは覚えているのだが、そこから先の記憶が定かではない。
一瞬、桜子の背後から死んだ前妻の霊魂が抜け出したような気がした。
さすが、極東の悪魔。転生しても桜子の眼光は衰えていない。
訳が分からないけれど、この娘と関わってはいけないような気がする。だから、万次郎は言ったのだ。
「わ、わしも、親切心で、この娘に嫁ぎ先を見つけてやろとしたのだよ。ははは。そうだな。要、おまえも、もういい歳だ。この娘と結婚したらどうだ?」
いつものように断ると思っていたのである。
しかし、息子の要は厳かに頷いた。
「分かりました。責任をとって結婚します」
「はぁ?」
万次郎は耳を疑った。
いや、息子よ、やめておけ。この娘はどこか普通ではないぞ。
柔道家として、それなりの実力を身に着けている万次郎は本能で分かるのだ。桜子は、かなりヤバイ。宮本武蔵レベルのヤバさだと肌で感じ取っていた。
しかし、要は、壊れやすいガラス細工でも扱うように桜子の方を振り返っている。
「桜子さん、今夜、ここで何があったのかはお察しします」
ビクッ。桜子は青ざめた。
もしや、バレたのかーーーーーー。
「あなたの名節を穢すような振る舞いをした父をお許しください。父は酔うと見境いがつかなくなるのです。怖かったでしょう」
「あっ……」
まだバレてないらしい。ホッと胸を撫でおろす桜子に対して要が深く頭を下げている。
「オレと結婚してください」
「えっ」
いきなり、こんなふうに申し込まれるとは思ってもみなかった。
きゃーーー☆ もちろん、大歓迎です。だって、あなたに嫁ぐ為に転生したんだもーーん。
いや、それは、桜子が勝手に妄信しているだけなのだが……。
いつのまにか、二人は所帯を持つという方向へと進んでいる。
万次郎は呆然としていたけれども、これまで女っ気のなかった息子が結婚するというので反対する気にはなれなかった。
「そ、そうか。それならば、この娘の母君に挨拶しに行かねばならぬな」
この娘は死んだ前妻に似ている。
だから、自分の目には幽鬼のように見えるのだろう。
『てめぇ、あたしに二度と手を出すなよ。今度触ったら殺すからな』
そんなふうに訴えていると感じたのは、前妻に対する罪悪感と後悔がこびりついているからに違いない。しかし、息子の要には天女に見えるらしい。
「すみません。桜子さん、あなたの意思を聞いていませんでしたね」
桜子はポッと頬を染めた。そんなの、聞かなくてもいいんですぅーーー。桜子は浮かれていた。
キャッホー。うほほーい。絶叫したかったがガツガツしてはいけない。
恥ずかし気に俯いたまま、ポツンと呟いた。
「あなたに嫁ぎます」
悦びのあまり、声が震えてしまう。要の目には、桜子が感情を押し殺しているように見えている。実際、嬉しい気持ちを必死になって押し殺しているのである。
許されるのなら、ヤッホーと叫びたい。サンバのリズムで踊りたいが、大正時代の淑女はサンバなど踊らない。
(我慢するのよ。桜子。はしたない振る舞いをしちゃいけないわ……)
この日、急転直下の勢いで要との結婚が決まった。
料亭からの帰り道、要は桜子を家まで送り届けてくれたのだが、この時、桜子は不安な面持ちで尋ねていた。
「あの……。わたしが、あの夜、なぜ、海にいたのか御存知なのですか?」
わたしが密漁をした事を御存知なのでしょうかと遠回しに聞いたつもりであった。
しかし、要は勘違いしていた。自分の穢れた過去を知っているかどうか不安で怯えているように見える。要は、桜子に対して負担をかけまいとして言った。
「誰にでも言いたくない過去はあるものです。オレは気にしません」
桜子の暗い過去は封印すべきものなのだと要は思っている。
「ですが、わたしは自分を恥ずかしく思っております」
「桜子さん、もう忘れましょう」
「でも……」
セクハラ親父を成敗したのは正当防衛だったとしても、伊勢海老を盗んだ事は大きな過ちだ。
ああ、無情。レ・ミゼラブル。銀の燭台を盗んだジャンバルジャンの気持ちが痛いほどに分かる。
桜子は、改心して、世のため人のために頑張ろうと思うのだ。
「……わたし、生まれ変わりたい。こんな自分を娶っていただけるなんて……。わたしでいいのでしょうか」
それに対して、要は凛とした眼差しで言う。
「オレは、親戚中から結婚するように言われて辟易していたところなのです。あなたを借金の形として娶るつもりはありません。オレの家で自由に暮らしてください。本物の夫婦にならなくてもいいのです。お互いが平和に暮らすための偽装結婚です」
「えっ……」
偽装結婚。女性向けの漫画でよく見かけるワードに胸がキュンと痺れる。
「オレは、あなたに指一本、触れるつもりはありませんから安心してください」
それは、男に凌辱された過去を持つ桜子への優しさだった。
いや、別に誰からも凌辱されていないのだが、要の脳内ではそういう事になっている。
桜子は、要の台詞を良いように解釈していた。だから、噛みしめるように呟いた、
「あなたのお気遣いに感謝いたします」
身体目当ての結婚じゃないって言いたいんだよね。そうだよね。これこそが純愛なんだわぁ~
色々と勘違いを重ねながらも、二人はお互いを思い合っている事に間違いない。
後日、伊集院要が美智子の元へと挨拶に来た瞬間、美智子は愕然としていた。
(な、なんで父親じゃなくて息子が来るのよ)
そして、董子もレースのハンカチを握りしめて地団駄を踏んだ。
(うっそー。なんで、お姉様の相手が竜馬様よりも美男子なのよーーー。それに、竜馬様よりも垢ぬけているわ)
規格外の男前の要にお茶を運んだ吉村は心の中で念仏を唱えていた。
(この坊ちゃんは物好きだね。あんたが、これから娶る女は、とんでもない化け物なんだよ。夜中に食い殺されないように気を付けなさいよ)
ちなみに、学生時代から、いい男として知られていた伊集院要の結婚を知った芸者達は残念がっている。
新橋のお座敷は大臣や財閥の偉い人でないと入れやしないが、神楽坂は大学生も気軽に遊べる。
要は学友や叔父と共に何度か芸者遊びをしていたのである。
売れっ子芸者の乙羽が言った。
「あたしゃ、こないだ、お座敷で婚約者を見たよ。そりゃもう綺麗な娘さんだったよ」
桜子は夢二の絵から抜け出たような美人なので、皆も、ある意味、納得していたのだ。
深夜、桜子はトレーニングに励む。日課の自衛隊体操。そして、自衛隊式の顎をつける腕立て伏せ。
「百五十二回……」
またもや記録更新だ。二分間で百五十回というスピードで腕立て伏せを出来る人間は令和の陸上自衛隊でも数は限られている。
桜子は、猛然と腕立て伏せをした後、汗を拭きながら、これからの事を考えていた。
憧れの要様と暮らせるのは嬉しいが、しかし、そうなると、こうやって筋トレをする事もままならない。
都会に来てからというもの、ランニングの量が激減している。ここは帝都だ。深夜でも誰かが起きている。
(まぁ、いいわ。筋トレよりも大正時代の花嫁ライフを満喫しなくちゃ!)
こうして、いよいよ、桜子と要の摩訶不思議な新婚生活が始まるのだ。




