第二話
十八歳になったら、池田竜馬と見合いしなければならない。しかし、それは嫌だ。
マタギの雄一が竜馬について調べてくれた。
『京都の老舗の呉服問屋の末っ子だとさ。帝大を卒業した後、銀座の呉服店で働いているらしいぜ。一見すると華やかで人当たりが良いが、裏の顔がひどい。京都にいた頃から酒癖が悪くて地元の舞妓や芸妓に暴力をふるってきたので、地元では結婚できないと思い、親は息子を東京に出したのさ。とにかく、誰でもいいから家柄のいい女と結婚させようと竜馬の母や叔母達は考えているようだ』
そんな曰くつきの男だからこそ、桜子にお鉢が回ってきたらしい。
雄一が言う。
『オレの馴染みの芸者の音丸も、奴に殴られて入院したんだとさ。だが、多額の見舞金をもらって示談になったそうだ。あんな奴と絶対に結婚するなよ』
『分かってるよ。お兄ちゃん』
雄一は、桜子に、自分の事をお兄ちゃんと呼ばせている。一方、桜子もお嬢様ではなく桜子と呼んでもらっている。
雄一は、桜子が可愛がっていた子猫をグワシッと爪で捕まえて飛び去ろうとしたトンビを銃で狙い撃ちして殺している。ひゅーと落ちてきた子猫を、スーパーダッシュした桜子がキャッチしていた。百発百中。そういう人をスナイパーと呼ぶ。
そんな二人の関係を、吉村は、恋人同士だと思い込んでいるが、奥様の美智子に告げ口する気力は失せている。
吉村の旦那は、ロシアの青い目のスナイパーとやらに脳天を撃たれて旅順で死んだので、自分がいつ雄一の的にされてもおかしくないと本気でビビっている。それなのに、桜子から、いきなり、こんな事を言われて青褪めた。
「あたしはふしだらな娘なのだと悪い噂を流しなさい。相手は雄一よ」
「なんですって。お嬢様と猟師の雄一が男女の関係にあると村人に言えって事ですか」
「ええ、そうよ」
「お嬢様、自分が何を言っておられるのか分かっているのですか」
自ら悪評をバラまくなど……。女中の吉村には理解不能である。
「そのような事を言ったなら、すぐに噂になりますよ。あたしには無理でございます。あたしが言ったとバレたら、奥様や旦那様に叱られて解雇されちまいます」
「あら、それなら、あなたの兄夫婦にだけ話せばいいわ。ここだけの話よって言いなさい」
桜子の有無を言わせぬ迫力に吉村はハイと言うしかなかった。吉村は竈の前で飯を炊きながら考える。
(恐ろしや。恐ろしや~。子供のころはおとなしかったんだよ。それなのにさぁ、ある日を境に別人になっちまったんだよ。きっと、桜子様には狐が憑いているに違いないよ。お祓いしてもらおうかしら)
命は惜しいので、一応、兄夫婦にはボソッと言ってある。
『桜子様と雄一は、どうやら、男女の関係のようだね』
お見合いの話を持ってきた女はこの村の出身。そのうち、この醜聞が伝わる事を願いながら、桜子は今日も今日とて鍛錬に励み続ける。
継母の美智子と妹の董子は、この三日間、美智子の叔母の葬儀の為に、実家のある熱海に行く。
鬼の居ぬ間に洗濯。いや、継母達が居ない間に浜辺でトレーニングをしようと思い立った。
大正時代の不便なところは、身体を鍛えたくてもジムやプールがない事だ。車夫や郵便配達でもない人間が走っていると目立つ。しかも、楚々とした美少女が理由もなく走り回っているとなれば、もはや、ホラーである。
あの娘はおかしいと言われて、どこぞの病院に閉じ込められるのは困る。そんな事をしたら、要様に会えなくなってしまう。それは避けなければならない。
確か、要様とは見合いによって出会うはずである。それまでに料理と裁縫を覚えたいものである。しかし、気付くと筋トレに励んでいる。もはや、前世の業としか言いようがない。筋トレやランニングをしていないと、どうも調子が悪い。
ここは自宅からも近い浜辺だ。地元の漁師も、この時間帯は家にいる。よし、この湾内の砂浜を思いっきり駆けて足腰を鍛錬しようと思っていたのだが、その時、運命の輪が回りだしていた。
☆
頼りない月の光を浴びながら、イケメンの伊集院要が浜の近くの雑木林で悲しげに泣いている。切なさに胸が震えていた。村の外れの海が見える丘の上に結核患者の為の療養所がある。ずっと、要の幼馴染で親友の石川徳治が療養していたのだ。
『もう、僕は長くない。要、おまえとの約束を守れなくてごめんな』
先月、見舞に行った際、石川徳治はまだ生きていた。しかし、三日前、ついに亡くなったのである。
(高校生の頃から一緒に会社を立ち上げようと夢を語ってきたのに……)
徳治は共同経営者として名を連ねている。しかし、いざ会社を始めた二年前、徳治は血を吐いて倒れてしまった。
家族の意向により石川徳治の葬儀は療養所の近くの村でひっそりと行われた。要は、徳治が好きだった海の音を聞こうと思い立ち、海へと続く小道を進んだ。そこには先客がいた。ランニングを終えた桜子である。
時刻は午後七時。海風は強い。そんな時刻に若い娘が来ること事態、不思議で仕方ないというのに、なぜか、桜子は、突然着物を脱ぎだしている。見てはいけないと顔を逸らした要だったが、何をしているのか気になって仕方なかった。
桜子は肌襦袢一枚になると、海に向かって猛然と進み出した。入水自殺をしていると勘違いした要は松林を走り、慌てて海へと進んでいくけれども、もう桜子の姿はどこにもない。
まさか、沈んでしまったのか……。ある意味、それは正解だった。
☆
桜子は素潜りをして海の底へと向かっていたのである。トレーニングの合間に密漁をしていたのだった。どうしても伊勢海老を食べたかった。雄一や雄一の父の太郎の分も持って帰りたい。前にも伊勢海老をゲットしている。手にした小さなナイフでグサッと突き刺すという乱暴なやり方で仕留めてきたのだ。
今回も、海底へと沈んで漁をしていたのだが、なぜか妙な水音がする。
振り返ると、イケメンが水中で溺れていた。こりゃ、大変だとばかりに、桜子は、溺れているイケメンを引き上げて何とか浜辺まで引き上げる。
そして、その整った顔をじっと見つめた途端に、心臓が一気に跳ね上がった。これは、憧れの要様なんじゃないかしら。
彼が目を瞑っているので確信は持てないが、どうもそんな気がする。
背広を着たまま海に入るなんて、なんて無茶な事をするのかと首をかしげる。
(この人、入水自殺でもするつもりだったのかしら)
いやいや、それは、あんたでしょうと要に意識があれば言い返していただろう。
要の鼻先に手を添えるが、息をしていないような気がする。
とにかく、溺れて気絶しているイケメンを救うのが先決だ。自衛隊で習った人工呼吸と心臓マッサージを懸命に行った。
グッグッ。胸を圧迫して心臓を蘇生させようとする。
「死なないでください」
決死の救命行為が実ったのか、要は意識を取り戻した。ぶはっと水を嘔吐してくれて良かったのだが、この時、桜子はハッと我に返った。何やら、髪がヌメヌメする。
(やだ。あたしったら、頭にワカメを乗っけてる?)
いや、問題はそこじゃない。桜子のおっぱいが丸見えになっている。白い肌襦袢に海水が染み渡り裸体がスケスケというアダルトな状況だ。エロくて、こりゃダメだ。
(うえーん。やばいじゃん。恥ずかしくて死にそうだわ)
前世ではキスもした事のない生粋の乙女の桜子にとって、この状況は死ぬほどに恥ずかしいことである。まずは、着物を羽織らねばと思い、バタバタと着こんでいると、要が薄目を開けながら問いかけてきた。
「君は、なぜ、海に入ったんだ……」
桜子は着物の襟を慌ただしく整えながら泣き出しそうな顔で言う。
「い、言えません」
密漁していたなんて口が裂けても言えない。
ごめんなさい。どうしても、伊勢海老の丸焼きを食べたかったのです。
「あなたこそ、なぜ、海に?」
「君が溺れたと思ったから……」
桜子はハッとなった。自分のせいでこの人は溺れたのだ。
月明かりを浴びたまま震えている桜子に対して、もどかしげに要は尋ねている。
「君の名は……」
桜子は答えようとして言葉を呑み込んだ。くしゃみが出そうになったからだ。
すると、たまたま、そこに人が現れた。
「おーい、どうしたのかね」
散歩に出たきり帰ってこない要を心配して見に来た宿の主人の声がする。要は東京から何度も来る上客である。
一方、桜子は慌てふためいた。自分は西園寺家の令嬢だ。こんな場面を人に見られてはいけない。
クシュン。出来るだけ上品にクシャミをした後、逃げるようにして告げる。
「今夜の事は誰にも言わないでくださいませ」
言いながら、大急ぎで立ち去った。漁師さんを敵に回したくない一心だった。
(あの方は、大丈夫だよね?)
桜子が松林から振り返ると、要は宿の主人に介抱されていた。あとは、彼に任せておこう。
桜子は夜道を駆け抜けていく。
無事に自宅に戻った桜子は憧れの要との初対面に浮かれることもなかった。その夜は眠れなかった。自分はどうかしていたと深く反省する。
(自衛官が密漁なんて……。ああ、どうしよう。上官が知ったら悲しむわ。海上自衛官の人達が絶望するわ)
というか、桜子の場合、金メダリストが密漁したことになる。
異世界に防犯カメラがなくて良かった。前世だとヤフーニュースになって、大炎上は避けられない。
(あたしったら、いつの間にか、卑しい人間になってしまったみたいね)
村のスイカを盗むのとは訳が違う。村の畑は桜子の父のものなので盗んでも問題はないが、海に関してはそうはいかない。
(泥棒していたと知られたら、要様に嫌われてしまうかもしれない……)
オー・マイ、ガッ。桜子的には最悪の出会いだった。
☆
その時、要は桜子が遠くへと駆けていく後ろ姿をぼんやりと思い返していた。
着物の裾をまくりあげて走り去っていく……。まるで、赤い腰巻が金魚の鰭のように見える。
あの娘は、アンデルセンの童話の人魚姫なのかもしれない。いやいや、そんな事を思うなんてどうかしている。
寒い海で溺れたせいで頭のどこかが壊れてしまったのかもしれない。品のいい唇を歪めて苦笑する。
「伊集院さん、まさか、亡くなった親友のあとを追って死ぬつもりで海に来たのかね」
宿の主人は要に肩を貸してくれた。宿に向かいながらも、宿の主人は不安そうにしている。親友の徳治が亡くなって落ち込んでいる事を知っている。もしやと思って来てみたら、この有様なので心配しているようだ。
「いや。そうじゃない。入水自殺しようとした女性を助けようとしたんだ」
宿に戻り、湯に浸かって体温を取り戻した要は、意識朦朧の状態で仰ぎ見た美しい娘の面差しを思い返していた。
まるで竹久夢二の絵から抜け出たような美少女だった。
あの娘は泣きながら、こちらを見つめていた。その眼差しはとても真剣で、まるで、自分の事をずっと前から知っているかのようだった。
あの時、彼女は接吻していたような気がする。
人工呼吸という措置がある事を要は知らない……。女性が接吻してくる訳がない。しかし、あの夜、確かに彼女の吐息を感じたのだ。
その翌朝、宿の朝食がやけに豪華だった。
なぜか、大きなイチゴが出されているではないか。
「御主人、ずいぶんと大きなイチゴですね」
「今朝、なぜか、勝手口の前にこれがあってね、お客人に食べさせてくださいとメモが残ってたんですよ。村の人がたまに、こうやって農作物を分けてくれるんですよ」
ちなみに、これは、桜子がお詫びの印に置いたものだった。
大粒のイチゴに頬を緩めながらも、宿の主人が要を元気づけようとして出した蒸しエビに対しては眉を潜めている。
「すまない。海老は苦手なんだ。食べると、蕁麻疹が出る体質なんだ。申し訳ない」
「おやおや、それはいけねぇ。それじゃ、アジの開きと交換しますね」
そんな会話の後、この村に竹久夢二の絵から抜け出たような美人はいるのかと問うと、宿の主人は快活に答えた。
「へぇ、西園寺家の姉妹は別嬪だってんで有名ですよ。しかしね、姉の方は、どうも、お手付きのようなんですよ」
「婚約しているのか?」
「いえいえ、そうじゃなくてね」
そこで、初老の宿の主人が声を潜める。
「山道で見知らぬ男の慰み者になったみたいなんですよ。気の毒としか言いようがありませんな」
噂が伝言ゲーム的に広がっていくうちに、いつのまにか、桜子は強姦されたという事になっているのだ。宿の主人は痛ましそうに言う。
「着物の裾と足袋には血のあとが生々しく残っていたそうで……。その時は、お嬢様が転んで怪我でもしたのかと思ったそうだが、今、思うと、やられちまった後だったんだな」
あれは、桜子が十五歳の冬。
夕刻、泥だらけで山から下りてきた桜子の顔は尋常ではなかった。アスリートとしての筋トレが不十分であったが故に山の斜面で転んで難儀したのだ。
その血は擦りむいた血なのだが、そんなことは、畑ですれ違った村のじいさんが知る由もない。
「お嬢さんも激しく抵抗したようだぞ。あの日、複数の男の笑い声と悲痛な悲鳴が響いたそうだ」
複数の笑い男。それは雄一親子のものだ。朗らかな談笑の声である。
悲痛な悲鳴。それは、首を切られた猪の声だったりする。
ブヒィーーーー。
「こんな噂が広まったからには尼寺にでも行くしかないでしょうな。人の口には戸は立てられねぇ。池田の坊ちゃんとの見合い話も、きっとオジャンになりますぜ」
それを聞いた要は眉間に力を入れる。いつの間にか、爪が食い込む勢いで拳を握りしめていた。要は、そういう経緯があったのかと腑に落ちた。
隠しておきたかった秘密が広まり、耐えられなくなって死を選ぼうとしたようである。
(あの時、たまたま、オレが先に溺れたので、あの娘はオレを救ってくれたのか……)
満月の夜、偶然の出会いによって、とんでもない誤解が生じていたのである。
その時、要は亡くなった自分の母親の事を思い返していた。
母には好きな男がいた。しかし、高利貸しをしていた要の父が、母に横恋慕したのだ。実家の借金を返すために好きでもない男と結婚した母は、投資に失敗して没落していた伯爵家の長女だった。
母は、要が五歳の時に自害している。父との暮らしが辛かったらしい。母の侍女だった女が、あとで教えてくれた。
『お嬢様の元婚約者の男性が、他のおなごと結婚したと知った日に自害されたのでございます』
母の死後、しばらくすると父の万次郎は後妻を迎えた。後妻の環は女の子と男の子を産んだ。現在十八歳の妹のゆき恵と十五歳の勝彦である。
幸い、弟と妹は強欲な父親に似ずに育ってくれた。
穏やかな気質の乳母のセツのおかげである。
要の父は高利貸しを続けながら、最近は、不動産を買いまくっている。帝都の一等地には父が管理するホテルがいくつかある。そこは、異人の船長や商人が泊まる事が多い。そういうホテルなので花街やラシャメン(洋妾)のいる館とも近い。
二十五歳になろうとしているのに、まだ所帯を持とうとしない要に対して、要の叔父は、おせっかいを焼いて花街へと連れ出そうとするが、女郎とかかわるのはまっぴらなので、のらりくらりとかわしてきた。
今のところ経営は苦しいが、親友と二人で立ち上げた貿易会社を何としても守りたい。
父の事業を継ぐつもりはなかった。それは、弟の勝彦が継げばいい。そんな事をつらつらと思い返しながらも、どうしても、桜子の事が気になって仕方のない要は、宿の主人に西園寺家の屋敷までの道を聞いていたのである。
☆
桜子は美智子によって叱り飛ばされていた。
「桜子さん、あなた、どういうつもりなの。あの噂は本当なのかって、仲人さんに聞かれたのですよ」
桜子は上目でオドオドしたように言う。
「噂とは何でしょう」
「あ、あなたが、どこぞの山賊達に操を奪われたという下劣な噂ですよ。そんな事が知れ渡ったなら、うちの董子ちゃんのお見合いの話も来なくなるのですよ」
「お、お母様、信じて下さい。私は決してそのような目に遭っていません」
桜子は、ヨヨヨッと泣き崩れながら迫真の演技を続けていく。
「だけど、先方は、それを理由に断ってきたのですよ。まったく、どうして、そんな噂が広がるのかサッパリ分かりませんよ」
美智子も、桜子が、そのような惨劇に遭ったとは思っていない。きっと、池田側が、断る口実を作るために噂を流したのだろう。
「私が至らぬばかりに申し訳ございません」
桜子は、渡り廊下のところで土下座をしながら、美智子に許しを乞うたのだが、内心、悦びに溢れていた。
(これで、池田との結婚という不幸なフラグから逃れられたわ)
池田のような奴に嫁ぐなんて愚の骨頂だと思っていたのだが、董子が甘ったれた声で言った。
「お母様、お姉様がダメなら、あたしじゃどうかしら。竜馬様は、歌舞伎役者のような美丈夫だわ。竜馬様の母上は華族令嬢だし、お父上は祇園の名士だそうよ」
見合い写真の竜馬に董子は一目惚れしたようだ。馬鹿な董子に言ってやらねばならない。
桜子は、美智子が出かけた後、董子を庭の柿の木の下に呼び出した。
「お姉様、話って何なの」
「池田竜馬さんと結婚してはいけません」
あいつは、とんでもない暴力男である。
「あーら、お姉様ったら、竜馬様に未練があるようね。だけど、竜馬様は、あたしのものなのよ。お姉様なんかにあーげない。あたし、知ってるのよ。お姉様は、卑しい出自なのよ。お姉様に竜馬様はもったいないわ」
愉悦の笑みをこぼす董子に対して、桜子はすがりつく。
「聞いてちょうだい。あの男はいけません。絶対に結婚してはなりません」
「何を言ってるのよ。お姉様が、あたしに言える立場じゃないわよ。お姉様より、あたしの方が魅力的だわ」
心の中では分かっている。桜子の方が美人だ。
董子は、母譲りの涼しい目が嫌いだ。こぼれるような大きな瞳の桜子の事が妬ましくてたまらない。今までどんな自慢をしても悔しがらない桜子にムカついていたけれど、竜馬のことだけは桜子も執着しているのだと思うと胸が躍る。
「あたし、絶対に竜馬様の妻になるわよ。あたしの王子様なんだもの」
「彼だけは、おやめなさい」
つい、桜子は董子を平手打ちしていたのである。
「何するのよ」
打たれ弱い董子は涙目になっている。
仕方あるまい。こうなったら、吉村妙の時のように首を絞めて説得してやろうかと思っていたのだが、配達員が屋敷の玄関に飛び込んできた。
その後、すぐに吉村妙が、悲鳴のような声をあげながら桜子と董子を呼んだ。
「桜子様、董子様、どこですかーー」
董子が呆れた様に吉村に尋ねる。
「どうしたのよ。妙」
「た、大変でございます。電報が届きました。旦那様が亡くなったそうでございます」
西園寺家の当主である西園寺富三郎の死に、桜子も硬直したように立ち竦む。
あまり交流はなかったが、一応、あれでも伯父なのだ。
「お、お父様が死ぬなんて……」
泣き虫の董子は地面にへたりこむようにして泣き出している。桜子は、そんな董子の背中をさするようにして家の中へと戻っていく。その様子を、要は垣根の向こうからじっと見つめていた。たまたま聞いてしまった要は目を眇めている。
☆
(池田竜馬……)
帝大にいた頃、あいつの噂をチラリと耳にした事がある。カフェーの女給を妊娠させておきながら、あっさり捨てたという。
(桜子さんは、もしかして、池田のことが好きだったのだろうか)
池田との見合いが破談になった事も自殺未遂の要因なのだろうか。
(いや、あの口ぶりは慕っているというよりも嫌悪しているように見える。奴の悪い噂を聞いているのかもしれない)
とにかく、桜子が母と妹に虐げられている事は分かった。
しかし、先刻の凛とした顔を見る限り、もう自殺をする心配はなさそうである。
(それにしても、御当主が亡くなったのか……。大変だな)
桜子のことを案じながらも、要は、そっと西園寺家をあとにしたのだった。




