第一話
「どうして、今まで忘れていたのだろう。あたしは、愛する要様の妻になる為に、この世に生まれてきたのだわ」
転生した桜子は、愛する人と結ばれることを願って生きている。
☆
『おまえは西園寺家の恥』
これまで、ずっと、桜子は祖母や継母によって虐待されてきた。
『ほんと、忌々しいわね』
おそらく、美智子は更年期障害であろう。最近、顔から汗がだらだらと流れており、ヒステリーが止まらない。この日、特に美智子の機嫌が悪かった。その原因はこれだ。
桜子の父の旧友が余計な事を言ったのだ。
『桜子お嬢様は相変わらず清楚で上品ですな。村一番の美人だと聞いておりますよ。いい縁談話があるのですが、いかがでしょうか』
その時、美智子の狐のような細い目が引き攣った。
(村で最も美しいのは、わたくしの娘の董子でしょう?)
桜子は、竹久夢二の描く女性に似ている。ほっそりとして、憂いに満ちた大きな瞳が悲しげで、思わず、守ってあげたくなるような風貌である。小学校の教育しか受けさせてもらえなかった。ずっと不幸だった。
年配の客人が帰った後、美智子から激しい折檻を受けた。定規で背中を打たれた。
『おまえは死んだ母親と同じよ。男をたぶらかすことに長けているのね』
美智子は桜子の本棚や引き出しを引っくり返すと、ある物を手に取った。桜子は絶望したように手を伸ばして懇願する。
『お、お願いです。それは、母の形見です』
育ての親である美智子は、この日、桜子が大切に使い続けてきた母の形見の品である木櫛を見つけ、それを竈にくべた。生前、実母のハナが宝箱に入れて大切にしていたものである。
それなのに美智子は言い放つ。
『フン、こんな手製の櫛に価値なんてないわ。その櫛は、おそらく、あなたの母を孕ませたいやらしい男が贈ったものですよ。おおっ、汚らわしい』
この櫛の縁にハナという文字が彫られている。丁寧に作られた櫛に触れると父と母の絆が感じられる。おそらく、二人は深く愛し合っていたに違いない。しかし、もう櫛は灰になってしまっている。
『桜子さん、罰として今夜の食事は抜きにします』
また、食事をするなと言われてしまったけれども、もう、このような体罰にも慣れている。
辛いのは、本を買う機会を遮られていることだった。
物語の世界に逃避する事も許されないなんて……。
家族からも見放されて、こんなふうに細々と生きていても辛いだけ。もう耐えられない。
あまりの辛さに耐えかねて、柿の木で首を吊ろうとするが、柿の木が折れやすいことを知らなかった。
ベキッ。幹が折れた。ドンッ。背中から落ちた弾みでドンッと後頭部を木の根に打ち付けてしまった。意識が混濁するが、すぐさま、淡い光の珠が閃光に変わるかのような不思議な既視感に包まれていく。
『一本』
審判の声。昔、何度も聞いた声だ。
人々の歓声。ハァハァと弾む自分と対戦相手の息。ああ、何もかもが胸に迫る。
前世は、63キロ級の世界ナンバーワンの柔道選手で自衛官だった。
詩川向日葵。通称、詩。
詩は、中学二年の時に、国内の大会で優勝して以来、ずっと日本一の地位を守り続けてきた天才だ。二十歳の時、オリンピックに出場するのだが、決勝戦の相手であるロシアのナターシャ(ナターシャは愛称で、フルネームはナタリア・トルスタヤ)との戦いに延長戦の末に敗れて号泣している。
二十一世紀の柔道史に残る死闘とファンの間で囁かれるほどに凄まじい戦いだった。
柔道界のシャラポワと謳われる美しきナターシャは四歳年上で技術も精神力も神レベルである。
常に、詩の壁となって立ちはだかってきたナターシャ。彼女は金メダルを手にすると、さっさと引退してしまった。国家からガッポリと報奨金をもらったので、ナターシャは戦う理由を失ったようである。
ナターシャが引退した後の詩は、63キロ級のクラスにおいて無敵を誇ってきた。とにかく、試合中の顔が凄まじくて、対戦相手はションベンを漏らしそうになる。
『相変わらず、眼光が鋭いですね』
実況中継をする各国のアナウンサーが『モンスター』『アジアのアサシン』『極東の悪魔』『畳の上の死神』と好きな名前で呼ぶ。
『さすが、詩選手ですね~ 彼女は投げ技のイメージが強いのですが、最近は、苦手だった寝技にも磨きをかけているとの事ですよ』
皆の期待通り、柔の道を精進してきた詩は、自衛隊の体育学校に所属しながら二十四歳の夏に念願の金メダルを得ることが出来たのである。
しかし、二か月後に引退している。
夕方、嵐の中、道でうずくまる野良猫を抱きかかえようとしていたのだが、その時、直進してきた軽トラックと激突してしまい、骨折したのが原因だ。
あの時、子猫は雷に怯えて動けなくなっていたようだ。
『わしは何ということをしてしまったんじゃ。詩選手に怪我をさせてしまった』
運転手の老人はいい人だったので、怪我のせいで競技人生を終えた事をマスコミには秘密にした。そうやって、ひっそりとアスリート人生を終えた詩は陸上自衛隊の需品整備工場で働きながら、被服の補給や、地震などの被災者の支援(自衛隊による炊き出しや、お風呂の用意)に明け暮れたのだが、二十七歳の冬、事件が起きる。
訓練中、精神的に病んでいた新米自衛官が上官を撃った。そいつは、周囲の者も道連れにして撃とうとしたのである。
それを咄嗟に止めようとして被弾してしまう。
(本当は、ナターシャと戦って金メダルを取りたかったよ……)
心残りはそれだけだ。
かつて、野獣と呼ばれていた松本選手を心の底から尊敬しているので、『モンスター』と呼ばれる自分を誇らしく思って生きてきた。
(銃弾に倒れるなんて、化け物だとか野獣と呼ばれた、あたしにお似合いのラストなのかもしれないわね……)
毎年、詩の命日の日には、お墓には、詩の大好きな羊羹が山積みになっているのだが、そんなことを知る由もない。
桜子は自衛隊体育学校の建物や、中学や高校時代の部室のムッとするような臭いを思い返しながら身体を起こしていく。
「ふう、うっかり死ぬところだった」
首吊りをしようなんて、我ながら、どうかしている。タンコブ程度で済んで良かった。
どうやら、ここは大正時代の農村のようだ。
地主のお嬢様だというのに、育ての母の美智子は桜子を離れにある小汚い使用人部屋に住まわせている。湯たんぽや火鉢といったものもないので冬は極寒。室内にいても吐く息が白い。
季節は秋。もうすぐ寒い冬がやってくる。桜子は渋柿を見上げながら首をひねる。
今の自分は西園寺桜子。十五歳。
妹は、西園寺董子。十二歳。父の富三郎は、二年前から本妻と別居をしており、愛人の芸者の麻乃と暮らしている。家には滅多に帰ってこない。
桜子の母のハナは十七歳の時、結婚もせずに桜子を産んでいる。相手が誰なのか、決して口を割らなかった。しかも、出産した三日後に産褥熱で亡くなった。富三郎は、姪の桜子を自分の子として育てることにしたのだ。
「……あらら」
それにしても、このキャラクター設定をどこで見たのだろう。
『詩ちゃん。これ、虐められてやせ細ったお嬢様の玉の輿物語なんだよ。和風シンデレラなの。色んな障害を乗り越えて旦那様との絆を深めていくの。簡単なプロットは出来たんだ。とりあえず、キャラ設定を見てよ』
いつだったか、誰かが、そう言っていた。思い出せ。誰がそう言ったんだっけ。
(こ、これは、小説家志望の同級生の岡田真理ちゃんが書いた乙女チックな小説の世界だよ)
真理ちゃんはイラストを描くのも得意だった。
『これが、伊集院要様だよ。それで、こっちが、桜子のライバル女子の弓削絹代でさぁ、父親が大富豪なの。日本の軍艦なんかも作ってるから、とにかく大金持ちなの。高慢ちきな嫌な女なんだよ。桜子を殺そうとするの』
へーえ、そうなんだと言いながら、要様のイケメンのイラストに身震いしたのを覚えている。
サラサラとした黒髪。どこか憂いを帯びた切れ長の瞳。和装も洋装も素敵でカッコいい。とにかく、顔が凛として美しい。こういう人と恋をしてみたいと、あの時、マジで思ったものである。
キュン。甘酸っぱい期待に鼓動が高鳴っていく。
今の自分は、広瀬すずにも負けない美貌を持っている。よし、頑張るぞ。この顔があれば、何とかなりそうだ。
(あたしは、こんなところでメソメソしてる場合じゃないのよ)
桜子は、この日から不屈の精神で食べ物を確保していくようになる。
深夜、屋敷を抜け出して村の農作物を盗んだり、山に住む謎めいたマタギ(猟師)の親子のもとに向かい、猪を食べさせてもらった。
元々、マタギの息子の山田雄一(二十歳)は屋敷に猪の肉を持ってきたり、薪を売りに来たりしており、桜子とは仲がいい。
雄一の父親の名前は山田太郎。暴れん坊将軍の吉宗にソックリで、かなりの男前である。妻を亡くして以来、一人で息子を育てている。雄一はというと、変態仮面でお馴染みの鈴木亮平にそっくりだ。このタイプは柔道界や自衛隊にもいる。だからこそ雄一には親近感が沸くし、一緒にいると安心する。雄一は、いつも、人懐っこい笑顔を見せてくれる。
桜子が猟を手伝いたいと言うと教えてくれた。何しろ、桜子は、元、自衛官なので雄一がビビるくらい狙撃が上手い!
いや、銃がなくても、桜子は猛然と突進してきた猪の懐に入り込み、首の毛をひっつかんで華麗な投げ技を決めている。切り株に頭を叩きつけられた猪は失神している。
雄一は、まさか桜子が猪をぶん投げたとは知らず、慌てて駆け寄ってきた。
『怖かっただろう。おまえ、怪我はないか』と、桜子を気遣っている。
桜子は、平気だよと答えながら遠い目で思い返していく。
『ロシアのナターシャのしつこさとスピードに比べたら、猪なんて可愛いもんだわ。まるで子犬よ。ナターシャは熊並のパワーだったわ』
とまぁ、こんな感じで桜子は肉を喰らい、本来の明るさを取り戻していく。しかし、コソコソと野山に出かけているうちに、女中の吉村妙に気付かれてしまうのだ。桜子の隣室で妙が暮らしている。雄一からもらった猪の干し肉や干シカ肉の燻製の臭いが、部屋に充満しているのだから、バレない方がおかしい。
強い者にはへりくだり、弱い者をいびるという典型的な嫌なおばさんキャラの吉村は、奥様に言いつけてやると言い出した。
けれども、桜子は逆に吉村を脅迫していく。
『おだまり、妙。お味噌やお米や油を買ったお金をごまかしているでしょう! この村に住むあなたの兄の家に米や味噌を横流ししていることをバラすわよ! 解雇されたくなかったら、あたしに御飯をよこしなさい!』
言葉で脅すだけではなく、桜子は、吉村のしわがれた首を柔道の技で締めて窒息寸前の状態にして恐怖に陥れてみせる。
『このこと、誰かに言ったら、あんたのことを絞め殺すからね。あんたを山に捨ててやる。バレやしないわよ。んふふふふ』
桜子は、実際に、自衛隊のサバイバル訓練で鹿を捌いたことがあるのでリアリティがこもっていた。
前世で『極東の悪魔』と呼ばれるほどのオーラを放つ桜子の眼力は強い。恐怖を感じた吉村は、以後、桜子には逆らえなくなるのだが、桜子は、継母と妹の前では弱々しいフリを続けている。
(だってさぁ、苛められている可哀想なヒロインでなくちゃ、ダーリンに愛されないもーん☆)
小説の設定では十八歳になると要と出会うことになっている。日々、桜子は不幸な生い立ちをエンジョイしていた。
冬、継母に冷たい井戸水をぶっかけられて震えながらも、心の中では、『ああ、自衛隊の雪山の訓練を思い出すわぁ~』と呑気に呟いていたりする。
前世の自衛隊とアスリートの生活に比べたなら、美智子や董子の意地悪など、どうってことはない。
けれども、一応、設定に従って、『お、お母様……。お許し下さい』と演技する。
(早く、要様に嫁ぎたいわぁ……。んふふ)
傍目には、お嬢様がずぶ濡れになり顔を押えて嗚咽しているように見えるかもしれないが、実は、乙女チックな妄想に浸って悶絶しているのだ。
桜子は薄幸ヒロインとしての濃度を高めれば、ロマンスが盛り上がると信じて生きている。しかし、妹の菫子の意地悪ぶりが何だか物足りない。
菫子は綺麗な着物を買ってもらうと嫌味ったらしく自慢してくるが、ちっとも羨ましくない。
サテン生地のリボンなんていらない。そんなものより、ダイソーの結束バンドが欲しい。あれがあれば、鹿の脚を縛れるのにというような事を考えている。
美智子と董子は浪費家だ。またしても新しい着物を買った。しかし、桜子は思うのだ。モンペが欲しい。董子は、ミキモトの真珠をお誕生日に買ってもらったと自慢してきたが、桜子にとっては、真珠よりも金メダル。
『お姉様、これ、西陣織なのよ~』
桜子の腰に巻くべきなのは西陣織の奢侈な帯ではない。柔道着の黒帯だ。
『あーら、お姉様ったら、ほころんだ着物を着てらっしゃるのね』
プププッと笑うけれども、桜子の前世は陸上自衛隊。ツギあてされた迷彩服を着るのが当たり前。入川一曹は、ゴリラみたいなおっさんだったが、需品科のプライドにかけて丁寧に迷彩服のほころびを直し続けていたのだ。自衛隊での日々を、昨日の事のように覚えている。
そんな桜子にしてみれば、着物のほつれを直して着ることは何ら恥じることではない。むしろ、物を大切にしている事が誇らしい。
ちなみに、前世で、成人式の時、着物を着なさいと言ってきた母親と喧嘩したこともあった。結局、成人式には母に押し切られて振袖を着たのだが、その後、メルカリで売っている。
『ああーーー、ズボンが履きたいわ。ショートカットにしたいわぁ』
そんなことを思いながら、筋トレに励む桜子は日に日に逞しさを増していくけれども、腹筋が割れていることは誰にも知られてはいけない。
桜子は十八歳になろうとしていた。そんなある日、桜子に見合いの話が舞い込む。おや、これは変だ。池田竜馬という男と見合いをしろと言われた途端に、わなわなと震えた。
(ど、どういうこと。こいつは、確か、要様にライバル心を燃やしているザコキャラだわ)
どんな汚い手を使ってでも、こいつとの見合い話を無かった事にしなければならない。
マタギの息子の雄一に相談すると、彼は、あっけらかんと言った。
『オレと付き合っているから生娘じゃないって池田のボンボンに信じ込ませたらいいんじゃないのか?』
よし、それだ。一芝居打とうと決意する。




