第38章:アニー、暗殺者。
屋敷に平穏が訪れていた時間は――
わずか三時間。
それでも、この館にとっては奇跡的な記録だった。
広いリビングでは、バッキーがソファに深く腰掛けながら本を読んでいた。
珍しく静かな時間だった。
ページをめくる音だけが、やけに心地よく響いている。
リリスはその少し離れた場所で、大量の毛布に埋もれながら完全に眠りきっていた。
もはや人類なのか布団なのか分からない。
ヴェルザリアはキッチンで料理に挑戦していた。
「今日はちゃんと成功する気がするわ!」
そう宣言した直後、
ボンッ!!
小規模な爆発音と共に黒煙が上がった。
「……あっ。」
失敗だった。
いつも通りである。
エリスは窓際に座り、自分の腕を黙々と縫っていた。
血が少し床に落ちる。
だが本人はまるで気にしていない。
完全に日常だった。
廊下では、スズメが静かに掃除を続けていた。
無駄のない動き。
正確すぎる箒さばき。
その後ろを、ルジアが壁に寄りかかるようにしながら静かについていく。
護衛というより監視に近い。
いつもの光景だった。
屋敷は比較的平和だった。
少なくとも――その瞬間までは。
カラン――
金属音。
屋根の上から響いた、乾いた音。
その瞬間。
スズメの動きが止まる。
ルジアも目を細めた。
空気が変わる。
冷たい。
鋭い。
肌を裂くような殺気。
明確な“死”の気配。
バッキーが異変に気づいた時には、もう遅かった。
「……あ、やば――」
次の瞬間。
シュィィィン!!
窓ガラスを突き破り、一振りの短剣が飛来した。
一直線。
寸分の狂いもない軌道。
それはスズメとルジアの間を通過し、背後の壁へ深々と突き刺さる。
静寂。
誰も動かない。
短剣の柄には、一枚の紙が結び付けられていた。
エリスが無言で近づき、それを読む。
「……『怪物メイドに死を』。」
一拍置いて、
「……綺麗な字。」
「字を評価するな!!」
バッキーの叫び声が屋敷に響いた。
その直後。
天井の上から、少女の声が落ちてくる。
「……あなたが、中村スズメ。」
静かな声だった。
だが、その声音には感情がほとんど存在しない。
次の瞬間。
黒い影が屋根から舞い降りる。
音もなく。
風のように。
短い黒髪。
血を思わせる赤い瞳。
軽装の戦闘服。
全身の至る場所に隠された無数の刃。
着地音すら存在しなかった。
まるで影。
まるで死神。
少女はゆっくり顔を上げる。
「私の名はアニー。」
わずかな間。
そして静かに続けた。
「EXランク暗殺者。」
空気が凍りつく。
キッチンからヴェルザリアがフライパン片手に顔を出した。
「……またスズメ狙いの変な女?」
バッキーは額を押さえた。
「……もう恒例行事になってない?」
アニーは他の誰にも目を向けない。
ただ一直線にスズメだけを見つめていた。
冷徹な視線。
獲物を見る目。
「依頼を受けた。」
「大陸で最も危険なメイドを排除する。」
ルジアが即座に剣へ手をかける。
――それが失敗だった。
ドォン!!
衝撃。
視界からアニーが消える。
次の瞬間には、彼女はルジアの背後に立っていた。
短剣が首筋へ添えられている。
速すぎた。
誰も反応できない。
「邪魔しないで。」
静かな声。
だが、その一言だけで殺意が伝わる。
バッキーの顔色が真っ青になる。
リリスもようやく目を覚ました。
「……な、なに今の。」
ヴェルザリアは逆に感心していた。
「へぇ……かなり速いわね。」
エリスは首を傾げる。
「……血の匂いが濃い。」
ルジアは首元の刃を気にする様子もなく、むしろ笑った。
危険な笑みだった。
「……面白い。」
その一方で。
スズメだけが変わらず冷静だった。
彼女の瞳が、静かにアニーを分析する。
プロの暗殺者。
高速戦闘型。
致死攻撃特化。
そして結論。
「……床が汚れます。」
沈黙。
アニーが初めて表情を崩した。
「……は?」
「室内戦闘は清掃効率を著しく低下させます。」
真顔だった。
完全に真面目だった。
バッキーはその場に崩れ落ちる。
「暗殺を掃除の問題に変換するなよ……」
アニーはゆっくり距離を取った。
だが、その瞳には明確な困惑が浮かんでいる。
「……あなた、怖くないの?」
スズメは少しだけ考える。
脅威度を計測。
戦闘能力を比較。
被害予測を算出。
そして結論。
「問題ありません。」
「……。」
「管理可能です。」
静寂。
アニーの眉がぴくりと動く。
初めて。
ほんの少しだけ感情が漏れた。
苛立ち。
「……なら、理解させてあげる。」
瞬間。
彼女が消えた。
無数の刃が空間を埋め尽くす。
一瞬で数十本。
死角から。
天井から。
床下から。
全てが致命傷を狙っていた。
リリスが目を見開く。
「うそでしょ……!」
常人なら反応すらできない。
だが。
スズメは――
ただ箒を動かした。
それだけ。
カカカカカカカッ!!
火花が散る。
全ての短剣が床へ叩き落とされた。
完全防御。
一切の無駄なし。
静寂。
アニーが固まる。
赤い瞳がわずかに揺れた。
「……ありえない。」
スズメは床に散らばった短剣を見る。
「金属ゴミが増えました。」
そして。
静かに一歩前へ出た。
爆発的な速度もない。
威圧感もない。
なのに。
気づけば。
スズメはアニーの目の前に立っていた。
アニーの反応は間に合わない。
完全に。
一瞬で。
箒の先端が、彼女の額へ軽く触れる。
それだけだった。
だが。
アニーの背筋を冷たい汗が流れる。
理解してしまった。
もしこのメイドが本気だったなら。
自分は今、確実に死んでいた。
スズメは小さく首を傾げる。
「降伏を推奨します。」
感情のない声。
怒りもない。
優越感もない。
ただ事実だけを述べている。
それが逆に恐ろしかった。
アニーの脚がわずかに震える。
ルジアはそれを見逃さなかった。
ヴェルザリアもニヤリと笑う。
バッキーは頭を抱え始める。
「……あー、終わった。」
リリスがゆっくり指を差した。
「……また落ちたね。」
エリスが静かに頷く。
「……スズメ被害者の会、また増える。」
「その呼び方やめろ!!」
アニーはしばらく無言だった。
やがて。
ゆっくりと武器を下ろす。
それでもなお、視線だけはスズメから外せない。
そして、小さな声で尋ねた。
「……あなた、本当に人間なの?」
スズメは即答した。
「はい。」
短い沈黙。
そして。
「メイドです。」
その瞬間。
バッキーは床に倒れた。
ヴェルザリアは腹を抱えて笑い始める。
ルジアは深くため息をつき。
そして――
伝説のEXランク暗殺者アニーは、
人生で初めて。
本気でどう反応すればいいのか分からなくなっていた。
つづく。
くそっ…やっと創作意欲が戻ってきたから、書けるぞ…




