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第37章:屋敷にいる全員が眠い

 屋敷は静まり返っていた。


 普段なら、朝の時点で誰かの怒鳴り声が響き、どこかで爆発音が起き、ヴェルザリアが妙な実験を始め、バッキーが巻き込まれて絶叫している時間帯だ。


 なのに今日は違った。


 不気味なくらい静かだった。


 廊下を吹き抜ける風の音だけが、やけに大きく聞こえる。


 誰も騒がない。


 誰も走らない。


 誰も暴れない。


 ただ――


 眠い。


 とにかく、全員眠かった。


 最初に目を覚ましたのはバッキーだった。


 ……いや、正確には「目だけ開いた」が正しい。


 身体の半分以上がまだベッドに埋まりたがっていた。


「……無理だろこれ……」


 掠れた声で呟きながら、彼は重たい身体を無理やり起こす。


 髪はぼさぼさ。


 目は半開き。


 足取りは完全にゾンビだった。


 壁に手をつきながら廊下へ出ると――


 そこに、スズメが立っていた。


 ……いや。


 違う。


 よく見たらリリスだった。


 彼女は空っぽのカップを持ったまま、廊下の真ん中で立った状態で眠っていた。


「……お前、いつからそこにいるんだ?」


「……わからない……」


 リリスは目を閉じたまま答える。


 声に感情がない。


 完全に魂が省エネモードに入っていた。


 しばらく沈黙。


 二人とも、「考える」という行為を放棄した。


 朝の脳には重すぎる。


 そのままふらふらとキッチンへ向かう。


 すると――


 ヴェルザリアがパン袋を抱きしめながら寝ていた。


 まるで大事なぬいぐるみみたいに、小麦の袋をぎゅっと抱えている。


「なんでパン……?」


 バッキーが小声で呟く。


 返事はない。


 当然だ。


 寝ているから。


 その近くでは、エリスが窓際に立っていた。


 背筋は真っ直ぐ。


 視線も固定。


 ぱっと見では完全に起きているように見える。


 だが――


 寝ていた。


 目を開けたまま。


「怖っ……」


 バッキーが一歩後ずさる。


 エリスは微動だにしない。


 窓から差し込む朝日が、逆にホラー感を強めていた。


 さらに奥では、レディ•アルシエルが優雅に紅茶を飲んでいた。


 いつも通り気品に満ちている。


 ……ように見えた。


 だがよく見ると、動きが妙に遅い。


 しかも読んでいる本が上下逆だった。


 誰も指摘しなかった。


 いや、できなかった。


 眠すぎて。


 そんな空気の中――


 静かに扉が開いた。


 全員の視線がそちらへ向く。


 スズメだった。


 いつものメイド服。


 いつもの無表情。


 いつもの完璧な立ち姿。


 ……だが。


 動きが遅い。


 異常なくらい遅い。


 一歩。


 ……間。


 また一歩。


 ……間。


 バッキーの目が見開かれる。


「……いや待て」


 リリスもゆっくり顔を向けた。


「……スズメが眠そう」


 空気が凍った。


 歴史的事件だった。


 次の瞬間――


「ありえないいいいい!!」


 ヴェルザリアが飛び起きた。


 パン袋が宙を舞う。


 エリスが静かに近づいてくる。


「最強メイド、機能低下を確認」


「そういう言い方やめてください」


 スズメは真顔で返した。


 しかし声に覇気がない。


 明らかにエネルギー不足だった。


 彼女はトレイを持ったままテーブルへ向かい、紅茶を置こうとして――


 テーブルの端、ありえない場所にカップを置いた。


 沈黙。


 完全なる沈黙。


 バッキーの肩が震える。


「……ミスした……」


 リリスが胸を押さえた。


「世界の終わりかもしれない……」


 ヴェルザリアはどこから出したのか分からない札を掲げる。


【睡魔黙示録】


「やかましい」


 バッキーが即ツッコミを入れた。


 その時だった。


 廊下の向こうから、ルジアが現れる。


 髪は少し乱れている。


 姿勢も微妙に緩い。


 いつもの完璧な剣士の姿ではない。


 それだけでレアだった。


 彼女は静かにスズメの前へ立つ。


 数秒じっと見つめたあと、落ち着いた声で尋ねた。


「……何時間寝た?」


 スズメは考える。


 ものすごくゆっくり。


 CPU使用率が低すぎる。


「……二時間」


 空気が止まった。


 バッキーが本気で青ざめる。


「死ぬぞあいつ」


「いや、もっと酷い」


 リリスが真顔で返す。


 ルジアは小さくため息をついた。


 それから――


 とても優しく、スズメの肩に手を置く。


「今日は休みなさい」


「……不可能です」


「可能」


「埃が積もります」


「私が掃除する」


 即答だった。


 一同、沈黙。


 ヴェルザリアが腹を抱えて笑い始める。


「アハハハハハ!! ルジアが家庭力を覚えてる!!」


「進化イベントだな……」


 バッキーも呆然と呟く。


 エリスは冷静に観察していた。


「高度な夫婦的コミュニケーションを確認」


「違います」


 ルジアが即否定。


 だが耳が赤い。


 スズメはまだ抵抗していた。


「問題ありません。まだ稼働可能――」


 その瞬間。


 ふらっ。


「――え」


 スズメの身体が揺れた。


 世界が止まる。


 スズメが。


 あのスズメが。


 躓いた。


 床へ倒れかけた彼女を、ルジアが反射的に抱き止める。


 バッキーは壁に手をついた。


「……マジで起きてるのかこれ」


 リリスは精神的ダメージを受けていた。


 ヴェルザリアは涙を流して笑っている。


 エリスはもはや奇跡を観測する学者の顔だった。


 スズメ本人だけが冷静だった。


「……平衡感覚、低下」


 数秒考える。


 そして結論を出した。


「……眠いです」


「今さら!?」


 バッキーが叫ぶ。


 スズメがついに睡魔を認めた瞬間だった。


 ルジアは小さく微笑む。


 普段ほとんど見せない、柔らかな笑み。


「ほら、行くぞ」


 そう言って――


 彼女はスズメを横抱きにした。


 いわゆる、お姫様抱っこ。


 屋敷の時間が止まった。


 完全停止。


 バッキーはその場に崩れ落ちる。


 リリスの目が今日初めて完全に開いた。


 ヴェルザリアは発狂した。


「きゃあああああああああああ!!!!!」


 エリスは猛烈な勢いで脳内メモを開始。


「極めて重要」


「何がだよ!!」


 バッキーのツッコミももう弱い。


 スズメは抵抗しなかった。


 もう眠気が限界だった。


 彼女はルジアの腕の中でぼんやりと見上げる。


「……重いですか」


 ルジアは一瞬で真っ赤になった。


「な、なっ……!? ち、違――」


 だがスズメは静かに首を横へ振る。


「……違います」


 小さな間。


 それから彼女は眠そうな声で呟いた。


「……落ち着きます」


 沈黙。


 ルジアの思考が完全停止した。


 湯気が出そうなほど顔が赤い。


 バッキーは天井を見上げる。


「……終わったな」


 リリスも頷く。


「精神的に剣士が倒された」


 ヴェルザリアはすでに結婚式の招待状デザインを描き始めていた。


 エリスは「祝儀」という単語を脳内メモに追加。


 そして、その朝。


 戦いは起きなかった。


 怪物も現れなかった。


 国も滅びなかった。


 ただ――


 屋敷中の全員が、


 限界まで眠かっただけだった。


 でもきっと、


 そんな平和な朝こそが、


 今までで一番珍しい奇跡だったのかもしれない。


あああああ…眠いよ、すごく眠い!!

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