第15話 : 地獄移籍
熱かった。
彼らが最初に感じたのは、それだった。
ただ暑い、という程度ではない。
肺に入り込む空気そのものが焼けつき、肌にまとわりつく熱気が、まるで生き物のように全身を締めつけてくる。
立っているだけで汗が噴き出し、呼吸をするたび喉が焼ける。
バッキーは転移した瞬間、その場に膝をついた。
「っ、あっつ!? なにこれ、死ぬ!!」
地面に手をついた瞬間、じゅうっと音が鳴る。
黒い岩盤は鉄板のように熱せられていた。
リリスも額を押さえ、深く息を吐く。
「……これは流石に異常ね……」
彼女ほど魔力耐性の高い悪魔ですら顔をしかめるほどの環境だった。
レディ・アーシェルだけは優雅な姿勢を崩していない。
だが、その細い眉が僅かに寄っている。
つまり彼女にとっても不快、ということだ。
そんな中、唯一まったく動じていない存在がいた。
スズメ。
彼女は静かに周囲を見渡していた。
赤黒い空。
地平線まで続く黒曜石の山脈。
溶岩のように輝く河川。
遠くには巨大な城塞。
さらに上空では、翼を持つ異形の怪物たちが不気味な影を落としながら飛び交っている。
そして
どこからともなく響いてくる無数の悲鳴。
絶叫。
怒号。
怨嗟。
まさに地獄そのものだった。
スズメの瞳が静かに細まる。
環境評価開始。
空気汚染:深刻。
呪力濃度:危険域。
衛生状態:最低。
総合判定
「著しく劣悪です」
その一言で、空気が止まった。
直後。
ふわり、と優雅に降り立つ影。
長いクリムゾンの髪を揺らしながら、ヴェルザリアが両腕を大きく広げる
「ようこそ! 紅蓮魔界へ!」
彼女は得意げに胸を張った。
「ふふん! どう!? すごいでしょう!?」
後ろでは巨大火山が噴火していた。
遠くの塔が爆発した。
何かが悲鳴を上げながら空を飛んでいった。
まさに混沌。
だが。
「……不衛生ですね」
スズメは即答した。
沈黙。
ヴェルザリアの笑顔が固まる。
「…………はい?」
スズメは地面へ視線を向ける。
積もった灰。
乾燥した血痕。
腐敗した魔物の残骸。
さらには大気中へ漏れ続ける瘴気。
彼女の脳内で分析結果が次々と表示される。
清掃不足。
管理不足。
維持機能崩壊。
「メンテナンスが圧倒的に不足しています」
「えぇぇぇぇぇっ!?」
ヴェルザリアが絶叫した。
リリスは顔を覆う。
「……地獄に衛生指導入れたわ、この子……」
バッキーは周囲を見回しながら震えていた。
「ていうかなんで壁に目玉ついてんの!?」
「あ、あれは装飾よ!」
「趣味悪っ!!」
その瞬間。
ズン――ッ!!
地面が揺れた。
巨大な影が、黒煙の中から姿を現す。
無数の腕。
裂けた顎。
山のような巨体。
真紅の瞳。
巨大悪魔だった。
「ああああ、何これ?!?!!!!!」
咆哮だけで空気が震える。
バッキーは即座に剣を抜いた。
「敵襲!!」
だがヴェルザリアは片手をひらひら振る。
「あー、大丈夫よ」
「へ?」
「ただの社員だから」
「社員!?」
その社員は理性が足りなかった。
巨大な腕を振り上げ、そのままスズメたちへ突進してくる。
地響き。
爆炎。
狂気。
スズメは静かに観察した。
攻撃性:極大。
環境被害:発生中。
危険性:排除推奨。
結論
「修正が必要です」
彼女は静かに箒を握る。
その瞬間、ヴェルザリアの顔色が変わった。
「あ」
嫌な予感。
「ちょ、待っ」
遅かった。
スズメが一歩前へ出る。
静かに。
淡々と。
「『破壊黒断絶』」
世界が止まった。
次の瞬間。
巨大悪魔の肉体が、
音もなく、
数十もの断面へ分割された。
切断面は鏡のように滑らか。
肉片は地面に落ちる前に黒い粒子となり、完全消滅する。
静寂。
風の音すら消えた。
リリスが目を閉じる。
「……でしょうね」
バッキーはゆっくり剣を納めた。
「俺、いらなかったな……」
レディ・アーシェルは優雅に扇子を開く。
心のメモ。
『スズメを怒らせない』
重要事項として記録された。
一方。
ヴェルザリアは硬直していた。
五秒。
六秒。
七秒。
新記録だった。
そして。
「ぎゃあああああああああああっ!!」
彼女は頭を抱えて絶叫した。
「第三階層統括管理者ぁぁぁぁ!!」
沈黙。
スズメは少し考える。
不適切処理。
誤廃棄。
可能性あり。
「……申し訳ありません」
ぺこり。
完璧なお辞儀。
「いや謝り方が丁寧すぎるのよ!!」
ヴェルザリアはその場をぐるぐる歩き回る。
「やばい、絶対怒られる……始末書……報告書……会議……」
顔が青ざめていく。
「……地獄の書類仕事、嫌いなのに……」
その時だった。
彼女の動きが止まる。
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
ヴェルザリアがスズメを見る。
じーっ、と。
長い沈黙。
嫌な予感を覚えたリリスが、一歩後ろへ下がった。
「あ、これダメな流れだわ」
ヴェルザリアの瞳が輝く。
「……待って」
がしっ!!
彼女はスズメの肩を掴んだ。
「私のところで働いて!!」
沈黙。
バッキーが瞬きを繰り返す。
レディ・アーシェルは既に疲れた顔をしていた。
スズメは冷静に分析する。
雇用提案。
労働環境改善可能性。
大規模清掃実施余地あり。
結論――
「業務内容を確認したいです」
「検討してるぅぅぅ!?」
バッキーが叫ぶ。
ヴェルザリアは必死に周囲を指差した。
「見てよこの有様!」
遠くで爆発。
悪魔同士の乱闘。
炎上する塔。
崩れる建物。
泣きながら逃げる小悪魔。
完全に世紀末だった。
「地獄、もうめちゃくちゃなの!!」
「……同意します」
スズメは即答した。
「だからお願い!! 助けて!!」
そしてヴェルザリアは両手を広げ、高らかに宣言する。
「我が専属メイドになってください!!」
再び沈黙。
リリスがゆっくりレディ・アーシェルを見る。
「……私たち、地獄に取られかけてない?」
アーシェルはどこから出したのか紅茶を飲んでいた。
地獄でも優雅さは崩れない。
「……そのようですね」
スズメは考える。
三秒。
四秒。
五秒。
そして。
「……期間限定であれば承諾します」
静寂。
次の瞬間。
ヴェルザリアの目から涙が溢れた。
「やったぁぁぁぁぁ!!」
彼女は勢いよく空を指差す。
「今日から始まるわよ!!」
背後で火山が噴火した。
巨大な爆炎が天を焦がす。
「史上最大の――地獄大清掃がぁぁぁぁ!!」
スズメは静かにその光景を見上げた。
新任務確認。
作業規模
極大。
だが問題ない。
なぜなら。
この瞬間。
地獄そのものが
一人の最強メイドによって、
徹底的にメンテナンスされようとしていたのだから。
続く。
「氷の城壁」は本当に良いアニメになってきています。「反対な君と僕」と同じ作者なので、楽しんでいます。




